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狐と八十一の嘘  作者: はんどろん
三章 神隠し
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 まるで何か悪い夢を見ているようだった。

 天愛は背筋を立ち上る怖気と必死に戦いながら店内を見渡した。そうして、強烈な違和感に眉を顰める。いつもと変わらない店内のはずなのに、置いてある商品や天愛の見知った物でも置き場所が違ったりと、とにかく何かと違うのだ。

 店の真ん中にある木の柱を見て、天愛はぎょっとした。いつか客に買われたという蛙の能面がそこには吊るされていたのだ。

それに、他にも買われていくのを天愛自身見たことのある物がいくつか置かれていた。

「どうして……」

 思わず口の中で小さく呟く。つい先ほどまでいた店内がそんな急に変わる訳がない。八十彦もいくらなんでもこんな手の込んだ悪ふざけはしないだろう。蛙の能面を見て、天愛は泣き出しそうになった。空耳だと思いたい鈴の音は響いている。夢なら覚めてほしいと願うが、店独特のにおいや手に触れた壁の質感は本物だ。

 ずらりと並んだ古物の向こうにある硝子戸から差し込む明かりを見て、天愛はようやく少し安心できた。夜渡蓮の様子は普段にもまして異様だが、外に出てしまえばいいのだ。幸い外はまだ明るい。

 さっと土間を見渡してみたが靴は見つからなかったが、この際靴は後でもいいと思い、天愛はタイツのまま下に下りた。ともかくこの異様な状態から一刻も早く抜け出したかった。けれど、それも叶わなかった。商品の間を通り抜け硝子戸の前に着いた時、その前には赤い着物を着た小さな子供が立っていたのだ。天愛は驚きで身体を大きく震わせ、立ち止まった。少女のすぐ後ろの硝子越しに明るい景色が見えるのに、天愛は恐ろしさで動けなくなってしまう。今まで少女は、天愛の目に時たま映る程度だったのだ。けれど今は天愛の行く先を邪魔する様に、すぐ目の前に立っている。それなのにやはり顔だけが靄がかかったように薄ぼんやりとしていて見えない。まるでのっぺらぼうの様だ。

 少女は口を開いた。それが分かったのは、薄ぼんやりとした顔の下の方に黒い影が出来たからだ。ゆっくりとその口は動く。声は聞こえない。恐ろしいのに天愛は目を離すことも出来ずに、言葉を成すように動く少女の口に釘付けになった。

『き』『つ』『ね』『さ』『ん』

 少女の口はそう言っているとしか天愛には思えなかった。

「きつね、さん」

 殆ど無意識に少女の言葉を呟く。口に乗せるとその言葉は妙に舌に馴染んだ。

 赤い着物に少女の言葉。

 天愛は目を見開き後ずさった。先ほどとは違う恐怖が足から立ち上がってくる。遠い祭りの日、赤い着物を着てその言葉を口にしたのは天愛だ。遠くから響く祭り雛子を背に、ジャングルジムの上で狐の少年が笑った。

 どんっと背中がぶつかったが、天愛は振り向くこともできなかった。遠い日に記憶が引き戻される。目の前の少女の姿が、子供の頃の自分の姿と重なって見える。もしかすると、その少女の顔は子供の頃の天愛のものなのではないだろうか。

「落ち着いて。彼女はそう性質が悪いものではありませんよ」

 肩に触れた体温と共に、頭の上から静かな声が降ってきた。最近ではすっかり聞き慣れたその声に、天愛は昔の記憶から引き戻された。

 きっと振り返らない方がいい。今狐の面を見てしまえば、再び古い記憶に呑まれそうな気がした。けれどその存在に安心したのも確かで、天愛は肩に置かれた手を拒むこともしなかった。

 ぎゅっと目を閉じて少女の存在を視界から追い出す。

「彼女は、この店の主人なのです」

「え……」

 天愛が目を開いた時には、少女の姿はなかった。まるで幻でも見ていたようだった。つい先ほどのことなのに、目の前に少女が立って何かを口にしていた姿が嘘だったように思える。

 暫く呆然と前を見ていた天愛はゆっくりと振り返った。藍染の着物に思っていた通りの狐面が目に入る。しかし同時に目に映った髪色は、八十彦の漆黒ではなかった。橙の照明に薄く透けるその色は黄金色だ。それは、東雲を思い出させるものだった。静かだがよく響く声は八十彦のものそのもので、髪の色は東雲のものと酷似している。

 天愛は言葉を発することもできずに目の前の人物を眺めた。そもそも東雲の髪色が地毛だとも思っていなかった天愛は、東雲と同じ髪色にそれほど驚きはしなかった。同じ様に染めれば同じ様な色になる。彼女を驚かせたのは頭の天辺から足までを含めたその姿だった。背格好やその声は八十彦そのものなのに、それを否定する髪色は強い違和感を引き出す。けれど、その違和感よりも大きな感情が天愛の中で蠢いていた。目の前に立つ彼の姿を昔、見たことがあったのだ。その時、天愛は彼を『きつねさん』と呼んだのではなかっただろうか。

「ちひろくん……」

 遠い夏祭りの日、内緒だよ、と言って狐面を顔から外した少年の名前を天愛は思い出すと同時に呟いていた。静かな店内でその呟きは狐面の男にも聞こえたのだろう。ちひろ? と首を傾げた。そのことで天愛は彼が本人でないことに気付き、視線を落とした。そうだ、もう天愛が『きつねさん』と呼んだ少年はいないのだ。

「私は誰か知り合いの方と似ていますか? 自分で言うのもなんですが、私の様な奇体な格好をした男はそうそういないと思いますが」

「……あの、ここの店主は狐面を被っている人なんじゃないんですか?」

 訊きたいことはたくさんあったが、八十彦たちのことは何故か訊けなかった。

 彼は、八十彦の親戚なのかもしれない。けれどなぜかそれは否定されてしまう様な気がしたのだ。

「狐面を被った本当の店主は先ほどの小さな娘ですよ。わたしたちはあくまでも仮の店主です」

「仮の?」

「ええ。狐面は仮の店主の証。おかしいでしょうが、この狐面をつけることは大切なことなのです」

 一瞬、天愛の中で細かな糸が繋がかけ、けれどすぐに解けた。

 今がチャンスなのかもしれない。八十彦がつける狐面の秘密をこの青年ならば、話してくれるのではないだろうか。

「ところで、あなたはどうしてあんなところにいたんですか」

「え? あんなところ?」

「この裏の竹林です。まるで気が抜けた様にぼんやりと立たれてたんですが、私が声をかけても反応もなく ……失礼ですが肩を揺すって呼ぶと気を失われたんですよ。覚えてないですか?」

 身に覚えのないことに驚いて天愛が首を振ると、青年は小首を傾げた。当たり前のことだが、その様子だけでは青年がどの様な表情をしているのか想像もつかない。それ以前に天愛は青年の顔も知らないのだ。

「あの、さっき仮の店主って……」

「ああ、こんなところで立ち話もなんですから、大広間の方へどうぞ」

 のんびりとした青年の言葉に、天愛はただ頷き返すことしかできなかった。

 通された広間は、いつも八十彦がいるはずの場所だった。たくさん積み重ねられた古書の山に、大きな座卓。時代劇にでも出てきそうな木の肘掛け。そのどれもが天愛にとっても見慣れたもので、けれどどこかが違う。

 青年は先ほど、あの赤い着物の少女こそがこの夜渡蓮の店主で、狐面は仮の店主の証だと言った。では、狐面をつけた青年はこの夜渡蓮の仮の店主だということになる。代々受け継がれてきたという狐面の店主。それが青年だということは、ここに八十彦がいないのは当たり前のことなのかもしれない。

 天愛は薄々気付きかけていた。今度は、自分が夜渡蓮に客として招かれたのだと。到底信じられることではないが、そうすれば合点はいく。

 二人が座卓の前に着くのと同時に、廊下から「失礼します」と若い女性の声が聞こえた。間もなく静かに開けられた障子の向こうから、着物を着込んだ若い娘が姿を現した。まだ幼さを残した愛らしい顔立ちをしているが、薄っすらと紅を引いたその顔は落ち着いた大人の表情をしている。

「お茶をお持ちしました。目を覚まされたんですね」

「ああ、小春さん。ありがとう。ちょうどさっき目覚められたみたいだよ」

「よかった。四壱さんが娘さんを抱きかかえて来られた時には、度肝を抜かれましたのよ」

「え、あの……すみません」

 朗らかに微笑みながら言う娘に、天愛は頭を下げた。

「いえいえ、そんな謝らなくても。けど、私もお話しに混ぜていただいてもいいですか?」

 座卓にお茶を並べた小春という娘は、小首を傾げた。訊いたものの、座卓の上にはきちんと三人分の湯のみが用意されている。元から話しに混ざるつもりだったのだろう。天愛が狐面の男に伺うように目を向けると、小春と同じ様に小首を傾げられた。天愛がよければいいということなのだろう。

「あの、私は大丈夫です。えっと……」

「ああ、申し遅れてすみません。私、木下小春と申します。そこの店主の世話をさせて頂いてます」

「あ、私、椿天愛といいます」

「あれ、私は自己紹介しましたっけ?」

 どうやら狐面をつけた男は随分とマイペースな人らしい。声は八十彦と同じでも、のんびりと間の抜けた様子で言われれば、八十彦とは性格が似つかないことが伺えた。

「まあ、だからもてないんですよ。四壱(よひと)さん」

 随分な言い方だったが、青年は気分を害した様子もなく「そうだねえ」と言った。どうやらこの狐の店主は人もいいらしい。そんな二人の様子は雇い主と雇われ人には見えず、仲の良い姉弟の様に見えた。

「失礼しました。私は夜渡蓮の店主、綾織四壱です」

 青年の苗字は、やはり八十彦と同じもので、天愛は今更驚きもしなかった。もしかすると親戚なのかもしれない。八十彦が仕組んだ大掛かりな嫌がらせなのかもしれない。けれど、そんな天愛の希望を篭めた勘繰りは当たることはなかった。

 四壱の横に置かれた新聞に、殆ど無意識に目を向けると、そこには見慣れない写真や文字が記されていた。そして、その日付に天愛はぎょっとして思わず目を逸らした。新聞には、大正十二年八月二一日と記されていたのだ。見なかったことにした方が懸命に違いない。さもないと僅かながらに残っている冷静さを失くしてしまいそうだ。

 天愛が嫌な汗を流していると、小春が陽気な声でお茶を勧めた。

「それにしても、どうして椿さんはあんな所にいたの?」

 小春の直球な質問に天愛はどう答えていいか分からず、視線を彷徨わせた。ただでさえ混乱しているのに、目の前にいる人たちに怪しまれているかもしれないと思うと余計に頭が働かなくなる。まず、どうして自分が此処にいるのかさえ分からないのだ。夜渡蓮にいたのは分かる。いつもどおりアルバイトに来て炊事場でお茶の用意をしていると、狐を見たのだ。その狐を無意識に追いかけてしまった。

「狐を追いかけてたんです」

 正直に口にしてしまうと、その場の空気がしんっとしたものになった。先ほどまえ朗らかな笑みが浮かべられていた小春の顔も、ぽかんとしたものになる。おかしなことを言っていると十分に分かっている天愛は、居た堪れない気持ちになって俯いた。

「狐が、竹林に?」

 天愛にとって気まずい沈黙を破ったのは、静かな声だった。その声には少しの驚きが混ざっている。

 天愛は小さく頷いた。

「信じてもらえないかもしれないですけど、私、ここでアルバイトをしているんです」

「あるばいと?」

「え、あ、働かせてもらってるんです」

「はあ。ということは、お客さんではないということですね」

 四壱は天愛の言葉に疑うでも質問を投げかけるのでもなく暢気な声で言った。希少なお客がやってくる夜渡蓮の店主なのだ。珍妙な客人には慣れているのだろう。

「お茶の用意をしてる時、足を動物の体が撫でる感触がしたんです。それで後ろを見たら、狐がいたんです。それを追いかけて……竹林に行ったら、気付けばお布団で寝てました」

「狐が……お嬢さん、あなたの雇い主の名前は?」

「え? 綾織八十彦さんですが……」

「その店主はまだ狐の面をつけていますか?」

「はい。つけてますが」

 この店で働いていてその雇い主がこの店の店主であることは自然なことであるが、同時に店主である四壱の口から「店主」と言う言葉を聞くのは違和感のあることだった。彼はなんの疑いも持たずに天愛の言葉を信じたのだろうか。

 天愛の答えの後に、狐面の下で大きな溜め息が漏れるのが聞こえた。同時にがっくりと落とされた肩と頭は、表情こそ見えないが彼の落胆の気持ちを大きく表していた。

「八十、か。ということは、私の代では見つからないということだ。それどころか、私が生きている間には見つからないということか」

 何が、と訊きたかったが、青年の落胆ぶりに声を掛けることもできずに天愛は呆然とその姿を眺めた。本当に八十彦とは随分と違った性格をしている様だ。八十彦が落ち込む姿など、天愛には想像もつかない。

「私たちは、狐を長い時間をかけて捜していました。それがあの女主人の願いだからです」

 青年の言葉は、天愛にとっては唐突な内容だった。え、と思わず声を漏らすと、四壱は顔を上げた。狐面のくり貫かれた瞳から、静かな色を湛えた目が見えた。それは八十彦とも、東雲とも似ている。

「狐って、私が追いかけた狐ですか?」

「恐らく、そうでしょう。こんな近くにいたなんて……それとも、あなたが連れてきたのか」

「あの、言われていることがよく分からないんですが……どうして狐を捜しているんですか?」

「あなたの主人はこの店の秘密を話していないのですか?」

「時間が、交差するとだけ」

 天愛がぽつりと言うと、小春はまあ、と呆れた様子で呟いた。

「八番目の店主は随分と意地悪な方なのね」

「小春さん」

 静かな声で咎める様に娘の名前を呼んだ四壱は、狐面の位置を正す様に少し持ち上げた。

「その店主にも何か考えがあるのかもしれない。椿さん、私たちの間では幾つかの決まり事があります。一つは、先の話しを自分から聞かないこと。自然と耳に入ってしまったことは仕方がないということです。もう一つは、この夜渡蓮の秘密を外には漏らさないこと。けれど私たちにも協力者が必要です。此処の秘密を知る人は親族以外にもほんの少しではありますがいます。狐を捜すというのはこの店の店主の仕事であり、親族と協力者たちも知るところであります」

「はあ」

「だからあなたが知らないというのは不公平だ」

「四壱さん、あなた先ほど考えがあるのかもしれないと言ったばかりじゃないですか」

「まあ、少しくらいはいいでしょう。もしかすると最後の狐の店主になるかもしれない八十彦へのささやかな嫌がらせです」

 その言葉に天愛は目を円くさせた。嫌がらせとは、一体どういうことだろうか。それほど重要な話しであるのなら話してくれなくとも結構なのだが、好奇心が秘密を露見しようとする四壱を止める言葉を出させなかった。今止めてしまえば、目の前の青年はあっさりと話すことを止めてしまうかもしれない。そうなれば天愛はこの先、もうその秘密を知りえることはないのかもしれないのだ。

 呆れたように溜め息を漏らす小春の姿が目の端に映ったが、天愛は四壱から目を離せずにいた。

 ボーンボーンと、振り子時計の鈍い音が鳴り響く。部屋に差し込む斜陽は橙色を増していた。

「狐というのは、元々ある少年の通り名でした。黄金色の髪をした少年のことを皆狐と呼んでいたのです」

 秘密とは言っても、そう大層なことではない。ありふれた恋愛小説のような話しですよ、と狐面の青年は言った。







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