13
暖かな季節が過ぎていく。
新しくやってくる季節は、今年も厳しいものとなるだろう。冬篭りのために、村人たちはその準備に追われていた。できる限りの食物を貯め込み、保存食を準備しておく。
その村は他近隣の村よりは随分と恵まれ、裕福だったがそれでも寒い冬の間になにが起こるか分からない。大切な水が干上がってしまう恐れのある夏も怖いが、食料の不足する冬も恐ろしい。
けれど、なによりも恐ろしいのは、その時続いていた『神隠し』だった。
都会の方では、もう電気も通っていると言われるのに、この村の住民たちにとっては遠い都会の出来事よりも、随分と昔から続く営みや古来からの言い伝えの方が近しいものだった。夕刻、日の暮れかかった頃に、小さな子供が忽然と姿を消すことがその頃続いていたのだ。
始まりは、薬屋の娘がいなくなってしまったところからだった。
村の外れに住む婆の家に薬を届ける為に出かけたっきり、帰らなかったのだ。それから、それは堰を切ったように続いた。次に姿を消したのは、まだ十にもならない少年だった。夕刻、他の子供達と隠れ鬼をしている時隠れたっきり見つからなかった。
そんなことが続いた為、大人たちは警戒した。村中、それを神隠しだと信じて疑わず、夕暮れ刻のかくれんぼや鬼ごっこを禁じ、出来るだけ家の中にいるようにと子供達に言いつけた。
我が子を失くすことがないようにと、夕刻から夜に掛けての時間帯は、子を持つ大人たちが順番で村中やその近隣を見回るようにもしていたが、それでも子供たちがいなくなることを止められなかった。
「なにしてるんだ? なんだい、それ。地方史……?」
急に掛けられた声に、東雲晃はけして大げさではないため息を吐いて本を閉じた。論文の為に必要な本を借りに図書館に寄ったのだが、つい目にした本を手にとって読み込んでしまったのだ。その為に、会いたくもない人物に見つかってしまった。
「こんにちは、おじさん。物凄く久しぶりですね」
わざとらしく言って見上げると、黒いスーツを着込んだ男は微笑んだ。さらっと嫌味を言うようになったなあ、と大して気に障った様子もなく言う。まだ若々しくその姿は下手をすれば二十代にも見えるが、彼は一児の父だ。それも、子供はもう成人している。
「今まで何処にいたんです? 神隠しにでもあったのかと思ってましたよ」
「君、若いのに古い言葉を使うね。あと、敬語も覚えたんだね。たしか、もう大学生だったかな?」
ちらりと東雲が持っていた本に目をやったあと、関心したように男は言った。ちらちらと、周囲の目が向けられていることに気付いた東雲は、小さくため息を吐いた。会話のせいで目を向けられている訳ではないことは分かっている。自分も目立たない方ではないと思うが、この男は特に目立つのだ。
「話しがあるのなら、付き合います。夜渡蓮に行きますか?」
「いや、近所のカフェにでも行こう。珈琲の美味しい店を知ってるんだ」
ある筋の者が乗っていそうな黒い車に乗って着いたのは、雰囲気の良い、小洒落たカフェだった。天井が高く、広々とした店内には、若い客が多い。先ほどよりも強い視線を感じながら東雲と男は一番奥のソファ席に着いた。
男の方は上機嫌の様で、始終にこにこと微笑んでいる。薄茶色の髪は遺伝だが、子供には引き継がれなかった様だ。彼の息子は、見事とも言える黒髪だから。
東雲は、彼がこんな場所にいることに強い違和感を感じていた。
「で、今まで何処にいたんです?」
店員が持ってきたレモン水を一口飲んでから、東雲は訊いた。
「急にいなくなってすまなかったとは思っているよ。仕事で海外に行ってたんだ。急なことだったんでね、彼には何も聞いていないかい?」
「なにも。遠くに行った、とだけ」
「ふうん。ところで、どうだい? 最近は。なんでも、若い女の子が店で働く様になったそうじゃないか」
東雲は、もう一口冷たい水を咽に流し込んだ。水の中で浮かんだレモンの薄切りが、氷に押されて縦に浮く。グラスに付いていた水が手首に伝った。
男が言っているのは、天愛のことだ。一体誰からその話しを聞いたのだろか。東雲は、今度は彼が帰ってきた理由を知りたくなった。彼が帰ってきた理由は、他でもなく夜渡蓮にあるのだろうが、それは一体なんなのか。まさか、天愛がアルバイトとしてやってきたことと関係があるのだろうか。
東雲は目を細めて男を見た。薄茶色の髪に、穏やかで整った容姿。その顔は随分と昔に見た青年の顔と似ている。そして、それは血の繋がりのある東雲とも似ていた。兄弟と間違えられる可能性があるが、彼と東雲とでは、親子ほどの歳の差がある。
「特に、変わりはないですよ。相変わらず時々希少なお客はやってくるし、八十彦さんは狐面を着けたままだ」
「そうか。彼は、狐としての仕事は上手くこなしているのかな?」
「おじさん、俺ばっかりに聞くんじゃなくて、本人に訊けばいいんじゃないかな?」
以前と同じ口調で言った東雲に対して、男は肩を竦めてみせた。
「本人に聞くよりも、君に聞く方が分かりやすいんだよ」
東雲は言い返す代わりに、大きな溜め息を吐いた。久しぶりに面倒臭い人を相手にして、早くその場を去りたくなる。
「それにしても、君、今日は夜渡蓮は休みかい?」
「夕方から用事があるんだ。おじさんこそ仕事は休み? 八十彦さんは知ってるの?」
「長い休暇を貰ってね。彼はそのことを知らない。まあ、近々会いに行くよ。あの屋敷の真の主である彼女は、それを嫌うのだけどね」
そう言って、男は肩を竦めてみせた。その時ちょうど店員が運んできた珈琲をため息と共に飲み込んだ東雲は、男が持っていた大きなトランクを目にした。先日夜渡蓮にやってきた不思議な男の客が持っていた物とそれはよく似ていた。
「そういえば、この前黒葛原さんっていうお客が来たんだけど……おじさん知ってる? 希少なお客ってのは間違いないと思うんだけど、他のお客とは雰囲気が全く違ってて」
東雲が言うと、男は目を細めた。細められたその目は、狐面の穴から覗く目とよく似ている。
「彼は、女主人の古くからの知り合いだよ。渡りの人間だ。夜渡蓮を創業する時、深く関わった人物でね」
「へえ、あの人が? なんとなくそうなんじゃないかなーとは思ったけど。狐のことも知ってたみたいだし」
「彼が狐のはなしを?」
意外そうな男の様子は、珍しいものだった。いつも人を食った態度でいる彼は、へらへらとした笑みを絶やさず本心を余り表に出さないのだ。狐の話しは男にとって余程意外だったのだろう。東雲はまじまじと男の顔を眺めた。
黒葛原が言ったのは、天愛のことだった。彼女には狐と縁がある、と。
「意外そうだね」
東雲が言うと、男はいつもの笑みを取り戻す。
「少なくとも、彼は僕の代で狐のはなしをしたことは一度もない。いいかい、彼がその狐のことを言うのは、狐が傍にいる時だけだ。一体どんなことを言ってたんだい?」
「さっき言ってた、新しい子に言ったんだよ。狐と縁があるって。それだけ」
その言葉で、男の笑みはますます深いものになった。
彼が天愛のことを聞いてこないのは、おそらくもう大体のことを知っているからなのだろう。名前も、彼女がどんな容姿をしているのかも。夜渡蓮の常連客に聞いたのか、調べたのかは分からないけれど、過去彼女が夜渡蓮に間接的に関わっていたことも知っていてのこの反応だろう。東雲はうんざりとしながら男の言葉を待った。手の内で転がされているような感覚は、あまり好きではない。
「毎年、近くの稲荷神社で祭りがあるだろう。もう十年くらい前になるかな。彼がその祭りの日に亡くなったのは」
カランとレモン水の氷が動いた。なんの突拍子もない男の言葉は、東雲に嫌悪感を感じさせるものだった。夏祭りに良い思い出はない。小さい頃は毎年楽しみにしていたその祭りは、その翌年から全く面白みのないものになってしまった。
「ちょうどその祭りには僕も行っていたんだ。祭り雛子のなか、彼が小さな女の子と一緒に楽しそうにいるのを見かけたよ。赤い浴衣を着たその女の子があまりにも女主人と似ていたからよく覚えてる。事故のあとに知ったんだけどね、彼女の名前は確かツバキさんだったかな」
東雲が顔を顰めて男を見ると、男は優しげな笑みで言った。
「本当に、縁とはおそろしいものだね」
男と別れたあと、東雲は悪い空気を吐き出すかの様に大きな溜め息を吐いた。次にいつ会うことになるのかは分からないが、できるだけ長い期間会いたくないと願う。
初めて出会ったのは、東雲が中学生の頃だった。その時彼はまだ現役の狐として夜渡蓮にいたのだ。初めてみたその姿にまだ少年の域を出ない東雲は不気味さを感じたものだが、まさか狐面の下にあの様な笑顔を隠しているとは当時思いもしなかった。その本性を知ったのは、次に夜渡蓮を訪れた時のことだった。彼は、子供の悪戯の様な嫌がらせで東雲をからかい遊んだのだ。
夜渡蓮と狐の話しは、親戚内では知る人ぞ知る話しだった。その歴史は実はそんなに長くもない。大正時代に創められた骨董店、夜渡蓮は戦火を免れ今でも当時のままの屋敷で開かれている。狐を探す為に創められた店。かつて少女だった女主人は、狐を見つけ出すことができなかった。けれどその執念とも言える思いは、子から子へと伝えられ、今も続いているのだ。彼らは狐を探す為だけに代々その面を被ってきた。狐に見つけてもらえる様に。代が代わっても、その面さえ被れば、きっと狐はいつか見つけてくれると信じて。
東雲からすればそれは馬鹿げた話しでしかなかった。いくら待っても、その待ち人は来ないだろう。例え来たとしても、もうどちらも生きてはいない。それでも彼らは狐を探す。さもなくば長い呪いは解けないのだとでもいう風に。
「馬鹿げた話しだと思わない?」
「それに付き合う君も随分風変わりだと思いますが」
老人は静かに言う。東雲は朗らかに笑うと老人の乗った車椅子を押した。
街路樹から落ちる木漏れ日が心地よい。もう日も傾きかけているが、気持ちの良い天気だ。
「そういえば、この前お爺さんと同じ名前の人が夜渡蓮に来たんだけど……覚えてる?」
それはおかしな質問だったが、老人は懐かしそうに目を細めるとゆっくりと頷いた。
「覚えています。まるで昨日のことの様にね」
「言わないんだから人が悪いよなあ。俺、その人が来たって聞いた時びっくりしたもん」
「先のことは言うものではないですからね。椿さんはお元気ですか」
懐かしそうな目をしたまま、かつては青年であった老人は訊いた。
黒葛原。それが老人の持つ苗字だ。天愛に狐に縁があると言った張本人。彼女もまさかその青年が年老い、此処にいるとは思わないだろう。希少な客である筈の彼が、夜渡蓮と深く関わってきた人物であるということも。
俄かには信じ難い出来事があり、人物がいるということを知ったのは、東雲も夜渡蓮へ行ってからだった。
渡りと呼ばれる彼は、いくつもの時代を渡る術を持っていたという。その秘密を東雲は知らないが、おそらく先天的な何かなのだろう。
夜渡蓮の客が違う時の戸を開け始めたのは、女主人が亡くなってからのことだったというが、彼女は生前から彼に、夜渡蓮がある条件を満たした時に客人が違う時の戸を開けるように仕掛けて欲しいと依頼していたらしい。その条件とは、その時の気候や風などによるらしいが、黒葛原はそこまでは言わなかったし、言われても東雲は到底理解できるとは思わなかった。ただ、東雲にはなんとなくその時が分かるのだ。希少な客が訪れる時。虫の知らせの様になんとなく勘付く。黒葛原とは遠い血縁にあたるせいかもしれない。
「今日はさ、昔の話しが訊きたくて、会いにきたんだ」
東雲が言うと、老人はいいですよ、と短く答えた。