12
そこは、広い病室だった。
木造の医院は戦火を免れ、古い歴史を持っていた。その為か人が歩く度に板張りの床はギイギイと軋んだ。
部屋の窓際にぽつんと置かれたベッドの上には、一人の若い女性が寝転ぶことなく座っていた。ベッドのすぐ横に並べられた小さな揺り篭には、産まれて間もない赤ん坊がまだ見えているかも分からない瞳をきょろきょろと動かしている。娘はそんな赤ん坊に構うことなく、じっと窓の外を眺めていた。長く艶やかな黒髪と白い肌は、昼間の陽光を受けて光りを反射していた。
何の変哲もない静かな時間。天愛にはそう見えた。娘の顔を見るまでは。
狐面。
白い面に赤い唇のそれは、静かな風景を嘲笑うかのように笑みのかたちを作っていた。
「椿さん」
静かな声に呼ばれ、天愛ははっと目を開けた。途端、目に入ってきた白い面に体を強張らせた。
見る見る青ざめて行く顔を、八十彦は呆れた様子で見て、狐面の下でため息を吐いた。
「まあ、気持ちは分からないでもないけどね。でも、気を緩めすぎじゃないかな」
流石に言い返すこともできず、寧ろ申し訳ない気持ちになり、天愛は消え入りそうな声で「ごめんなさい」と謝った。
いつもの喋り相手である東雲も染野もいず、一人で店番をしていた天愛は、眠気に勝てず机の上に突っ伏してしまったのだ。外では静かな雨音が続いていて、店内はいつも以上に薄ぐらい。客はやはり誰もやってくる気配がなかった。それに、店にいるだろうと思われた八十彦が、天愛がやってくると同時に奥へ引っ込んだことに拍子抜けしたのもある。なにはともかく、仕事中に寝てしまったことにかわりはなく、天愛は心の中で自分を叱咤した。「ところで椿さん。今日も向阪さんが来られると思うんだけどね。来られたら奥にお通しして」
向阪さんとは、常連客で今日の心配事の原因の一人だった。厳しそうな老齢の女性で、少し偏屈なのだが、東雲のことはいたく気に入っているらしい。毎週やってきては、東雲と話しをして帰っていく。けれど、天愛のことは眼中にないらしい。いつも天愛は二人が話している横で少し気まずい気分で黙っているしかない。
天愛は、老眼鏡を駆けた厳しい顔を思い出してきゅっと唇を引き締めると、頷いた。その様子に満足したのか、八十彦は奥へ続く暖簾を手の甲で上げた。
「あ、それから」
天愛が、もう去るかと思い力を抜いたところで八十彦は振り返った。
「今日はもう一人来られるからね」
「え」
「じゃあ頼んだよ」
天愛の言葉を待たずに八十彦は奥へと引っ込んでしまった。そのことにほっとした天愛は、もう一度彼に声を掛けてやってくる客がどんな客なのかを聞くことよりも、知らないまま彼をそっとしておく方を選んだ。触らぬ神に祟りなし、だ。八十彦の場合は自分からやってくるか天愛を呼び寄せるが、わざわざ自分から八十彦に話しかけることは避けたかった。以前八十彦の狐面の下の素顔を見てやると息巻いてみせたことがあったが、今ではすっかり弱気になってしまっている。八十彦の顔に興味がないわけではなく寧ろ今でも強い好奇心はあるが、どうすれば見ることができるかなんて想像もつかない。
今までもう何度になるか分からないほど思ったことだが、どうして八十彦はあの狐面をつけているのだろうかと、天愛は小首を傾げた。代々続いてきた狐面の店主。
先ほど見た夢の中で、ベッドに座っていた娘も狐面をつけていたことを思い出して、天愛は一人苦笑した。嫌悪するあまり、夢にまで出てきたのか。
そんな風に天愛が一人物思いに浸っている時、カラカラと引き戸が開かれた。
向坂さんだ。
そう思った天愛は、背筋を伸ばして数秒置いてから振り返った。途端、強い耳鳴りと水の中に入った時の様な鼓膜への圧迫感を感じて思わずぐっと目を閉じる。
「お邪魔しますよ」
穏やかな声が聞こえて、天愛はそっと目を開けた。見ると、いつの間にか閉じられた硝子戸の前で、先日もやってきた青年が佇んでいた。てっきり向坂さんだと思い込んでいた天愛は、青年の唐突な登場に目を円くして固まってしまった。
「……黒葛原さん」
なんとか掠れた声で言うと、今度は青年の方が目を円くした。
「こんにちは。今日はお嬢さんお一人なのですか?」
「いえ、奥に店主がいます」
寺島少年の時は、彼にも変化が見られたのだが、黒葛原には天愛の感じた耳鳴りはなかったのだろうか。耳鳴りの去ったあとでも耳に違和感の残る天愛は彼を見ながらそんなことを思った。つい先日やってきた時も、彼は特に違和感を感じた様子もなかったのだ。東雲も感じないようだったが、もしかすると人によって様々なのかもしれない。
「店主が? それは珍しい。会わせて頂いても宜しいですか?」
「珍しいですか? あ、どうぞ」
天愛が手のひらで奥への道を示すと、なぜか黒葛原は苦笑した。
「ありがとうございます。……では、遠慮なく上がらせて頂きますよ」
そう言って、洗練された動作で礼をとる。その様子を見た天愛は、ふいに日埜のことを思い出した。率のない動きや、柔らかな言葉遣いがあの老人に似ている気がして、顔を綻ばせる。この青年に湧いていた妙な親近感の様な感情は、おそらくそれが原因だろう。青年のことを思い出す度に湧いた感情の原因が分かってほっとする。
それを見ていたのであろう黒葛原は釣られたように微笑んで、けれど不思議そうに首を傾げた。
「なにか、楽しいことでも?」
そんなことを聞かれると思わなかった天愛は、靴を脱いで上に上がった黒葛原をぎょっとして見上げた。優しげに細められた目と合い、つい目を逸らして視線を彷徨わせる。急激に顔に熱が昇るのを感じながら、言葉を探す。
けれど天愛が言葉を見つけ出す前に、黒葛原は後ろを振り返った。
「ああ。お久しぶりです、狐の店主」
その声に天愛も顔を上げると、いつ間にかやってきていた八十彦が暖簾をくぐっているところだった。
狐面の下で、ふと笑う様な吐息の音がした。
「俺は、初めてお会いしますよ。黒葛原さん」
黒葛原は目を円くしたあと、恥ずかしそうに微笑んだ。いや、最近よく分からなくなるんですよ、いけないな。そんなことを一人呟く。事情を全く知らない天愛は、そんな会話をする二人を凝視した。黒葛原は、希少な客人の一人ではなかったのだろうか。それらの客人は、取引が終了すると同時に同時代の夜渡蓮に来れなくなるという。けれど、それは来なくなるだけなのかもしれないとも東雲が先日言っていたことも思い出す。確かに、もう来なくなってしまった人のその後のことなど、夜渡蓮の店員には分からないのだ。どこまでも受身、と言うのは可笑しいかもしれないが、夜渡蓮の人間には自らその人たちに再び会うことは叶わない。
青年二人は、呆然と見る天愛を残して二、三言葉を交わした。短い会話の内容は、天愛には分からないことばかりだった。黒葛原は、八十彦のことを狐とは呼ばすに丁寧にも狐の店主、と呼んだ。けれど、やはり名前では呼ばないのだ。
「椿さん。じゃあ、ちょっと奥にいるから何かあったら呼んで」
八十彦は言い黒葛原が会釈すると二人とも暖簾の奥へと行ってしまった。
呆然としたまま立ち尽くしていた天愛は、はっとしてまた視線を彷徨わせた。そういえば、今日は染野がいないのだ。お茶を出すのは天愛の役割だろう。それに気付くと気が重くなった。やはり、東雲か染野がいないと少しつらい。黒葛原は嫌いではなく寧ろ好感を抱いているのだが、八十彦と客人がいる居間にお茶を運ぶ作業は気まずく、苦手なのだ。それに、なにかあったら呼んで、と言っていたくらいなのだから、もしかするとそれまでは立ち入らない方がいいのかもしれない。染野ならそんな時、すぐにお茶をお持ちしますね、と言って確かめるのに、そんなところにまで気が回らなかった。
はあ、と一つ溜め息を吐いて、靴に指をかける。八十彦が客にお茶を淹れるなんて到底考えられない。彼は意外と怠惰な性格の持ち主なのだ。
靴を脱いで土間を上がると同時に縁側の方から鈴の音が聞こえてきたが、天愛はそれに構わずに炊事場の戸を引いた。最近ではそれには構わずに無視をした方がいいことに気が付いたのだ。ただ怯えていた時と比べれば大きな進歩とも言えるが、それはただの慣れだった。無視をして気付かないふりをしていれば、それはその内に消えているのだ。
染野がいつも来客用に使っている茶器を出して薬缶で湯を沸かす。不便なことに、此処にはポットという便利なものはない。辛うじてラジオや電話はあるが、クーラーもパソコンもないのだ。テレビも一応一台だけあるらしいが、一番奥の部屋に置いてあるというそれを天愛は目にしたことがない。恐らく埃でも被っているのだろう。八十彦がテレビを見ている姿など、天愛には想像もできなかった。
リンっと、また鈴の音が聞こえきた。その音に天愛は薬缶に視線をやったままで目を大きくした。先程よりも近くで聞こえたそれは、明らかに近づいてきているのだ。天愛は久しぶりに悪寒を感じた。振り向くことはできないが、最後に聞いた音の場所は、恐らく炊事場の入り口付近だ。なんとなく、正体の分からないそれに見られている様な気がした。
リンっと、三度目の音がすぐ後ろで聞こえた。天愛は肩を震わす。助けを呼ぼうかと思ったが、生憎おそろしさで声を出すことはできなかった。
ふと足元を何かが通る気配がして、タイツの上から何かが天愛の脹脛を撫でた。
「え……」
なんとなく感じたことのある感触に、天愛は足元に視線を落とす。猫が体を擦り付けてきた時の感触に少し似ていたのだ。
黄金色が光の残像のように消えていくのが見えて、目を見開く。いつもの少女とは違う。人でもない。また鈴の音が鳴り、それは戸の向こうに現れた。黄金色の狐だ。それは、大きな尻尾を揺らし黒く円らな瞳で天愛を捉えていた。
「……うそ」
小さな声で天愛が呟くと同時に、狐はさっと身を翻してその場を去ってしまった。天愛は追いかけなければいけない、と自分でもよく分からない衝動に押されて、その後を追った。正体の分からない焦りに捕らわれる。今その狐を捕まえないと、もう二度と会えないと何故か強く思い、それに疑問を感じる暇もなかった。
狐の姿は不安定なものだった。はっきり見えたのは炊事場でだけで、そのあとは黄金色の残像を時折見えるのみだった。天愛はそれをはや歩きで追いかける。屋敷の中は広いが、縁側で殆ど繋がっている。狐はその縁側をとことこと歩いているようだった。けれどそれも、途中までで狐は完璧に姿を消してしまった。天愛は焦燥感を覚えその姿を探した。縁側に面した居間の方からは、八十彦と黒葛原の会話する声が微かに聞こえてきたが、もうそれも気にすることはなかった。
再び鈴の音が鳴り、天愛が顔を上げると、裏にある竹林がその目に映った。縁側からはその風景がよく見渡せる。昼間でも闇を孕んだような薄暗いその竹林の前に、黄金色の姿が小さな煙のように浮かんで見えた。天愛を待っているかのように、じっとその場で尻尾を揺らしている。
天愛は誘われるように、靴も履かずに縁側を降りた。狐がまたその身を翻す。竹林の中へ呑みこまれていくその姿を追って、天愛は走った。