01
きつねさん、きつねさん
私はこれからは顔を隠す為ではなく、あなたを想ってこのお面を被るのです
*
ちりんっと一瞬、軽やかな鈴の音が聞こえた気がした。
天愛は音がした方を見たが、門奥に掛けられている風鈴の音だろうということはなんとなく分かっていた。天愛のいる場所からではその様子は見えないが、先日訪れた時にもその音を聞いている。
天愛は苦々しい思いで面を上げ、目前に広がる古めかしい屋敷を陰鬱な表情で眺めた。
今は昼間で、天気も快晴。
それなのに、その屋敷は背後にある薄暗い竹林のせいか、どんよりと重い印象を与える。
ここに来るのは、二度目だ。
天愛は先日の自分の不用意な発言を悔んだ。
ことの起こりは三日前だった。
腰を悪くした祖母の見舞い帰りにこの道を通った時、少女は今と同じ様に耳に入った鈴の音で、この屋敷に目を向けた。門の横に連なる塀は、長い。大きな屋敷なのに、この鈴の音がなければ目もくれなかっただろう。それ位、その屋敷はひっそりと佇んでいたのだ。
門の所に目をやってみるとどうやらこの屋敷は古物商を営んでいるらしく、これもまた古めかしい木の看板が取り付けられていて、黒い墨で『骨董品・夜渡蓮』と書かれていた。
天愛は気がつくと、まるで引き寄せられる様に門の中へと足を踏み入れていた。いつもなら、こんな入ったら出にくくなるような店に自分から進んで入ることはない。その時はどうしてか、そのことに少しの違和感も感じることはなかった。古い硝子ばりの引き戸をゆっくりと開けると、古い木のにおいや本のにおいのような、独特なにおいが流れた。
「――いらっしゃい」
戸を開けた直後に奥から若い男の声がして、天愛は肩を奮わせた。
急に声を掛けられたことにも驚いたが、何より男の人はどうにも苦手なのだ。
「今日は二人目のお客さんだ。ゆっくり見て行って下さいね……て、珍しいなあ」
声の主は天愛の様子に気付いてか気付かずか、気安い声色で喋り続けたが天愛の姿を見て少し驚いた様に、また声の調子を変えた。
「女子高生かあ。しかも藤浮高校の制服じゃん」
どこか嬉しそうな声に、天愛は古い水屋の上に置かれたランプに向けて固まっていた視線を、そろりと男の方へと向けた。
歳の頃は天愛と同じか少し上位だろうか。金に近い、明るい髪色に、すらりとした細身の体に纏うのは、ダウンベストに色落ちした腰履きのデニム。道でよく歩いているような、いかにも「今時」な人だ。
余りにもこの古めかしい骨董品屋の雰囲気に不釣合いなその男の見た目と喋り方に、天愛はつい呆然と青年を眺めた。
「あの、ここのお店の人ですか?」
天愛がそう聞くと、男はきょとんとした様子で天愛を見た。
「うん。だからいらっしゃいって言ったんだけどな」
そう言いながら男は可笑しそうにくすくすと笑った。笑うと少し幼く見える男の顔に天愛は見入りながらも、自分の失言に気付いたのか、顔を赤くさせた。
「……そう、ですよね」
「まあ、よく似合わないって言われるから。ところで、何か探し物でも?」
「いえ、気が付いたら中に……」
「へ?」
男がまたきょとんとした様子で聞くものだから、天愛は気まずくて視線を落とした。
今日の自分はどうかしている。普段なら入らないような店に入ったり、訳のわからないことを出会ったばかりのお店の店員に言ったり。
本当に、どうかしている。
そもそも骨董品にも、興味を惹かれたことなんて今まで一度もないのだ。店内の様子を見ると、いかにも骨董品というような高い物ばかりを置いてある様子はなく、昔の一般家庭で使われていたものなどが殆どを占めているのだろう。皮製のトランクやランプ、大小さまざまの硝子瓶。それでもそれらはもう時代に過ぎ去られてしまった物たちで、どこか色あせているように天愛の目には映った。普段見慣れない光景は何かしらの強い雰囲気を持って見えはしたが、興味がなければ少し汚いガラクタの山だ。天愛にはとても、その中に自分の欲しい物があるとは思えなかった。
「あの、探し物とかじゃなくて、たまたま通りかかったんで……」
「たまたま、ねえ」
「……へ?」
男の呟きをよく聞き取れずに、思わず先程の男と同じ調子で聞き返してしまう。
「いやいや、なんでもないよ。つか、うちはひやかしでも全然オッケーだから! 滅多に人来ないから店番しててもつまんないんだよね」
「そうなんですか……」
天愛の消え入りそうな声と重なって、けたたましい電話のベルの音が鳴り響いた。古い、黒電話の音のようだ。天愛も小さな頃に祖母の家でよくその音を聞いたし、ダイヤルを回す震動が心地よくて、電話を掛けるふりをして遊んだことがあった。
「あ! やべ。多分八十彦さんからの電話だ……。君、ほんとゆっくり見てってね!」
男はそう言うと慌ててスニーカーを脱ぎながら、奥の居間へと小走りで行ってしまった。
天愛としては、男がいない方が落ち着けるので、少しほっとすると改めて店内を見渡した。本当はこの間に店を出てしまってもよかったけれど、一度顔を合わせてしまった以上、黙って去るのは男に悪い気がしたのだ。それにどうせなら見物してみるのもいい。天愛にとってガラクタの山には違いないけれど、もしかすると少しは面白いものがあるかもしれない。とにかく此処には物が多いのだ。
店内には祖母の家の蔵で見たことがある様な物がたくさんあったが、中には天愛が見たこともないような物品が所狭しと、整理はされているが乱雑に置かれているように見えた。
古いランプや、振り子時計、鳥かご、革の大きなトランクに回転椅子、重々しい薬棚があるかと思えば西洋風の硝子の戸棚もある。
天愛は、黒に金や赤で薔薇や蝶の描かれている中国棚の上に置かれた、何やら用途の掴めない物をふと、手にとってみた。
長細い円柱の箱のような物から、じょうろのような筒が一本と、そこから先に三つ穴の開いた筒、箱の真ん中にも細い筒があって、その横には小さなピンセットのような物がささっている。筒が立っている反対側には蓋があって、かぱっと開けてみたが中は円柱の空洞になっていて、何に使うものなのかさっぱり見当もつかない。
使われていた当時は金色だったのであろうそれは、今では古く、黒ずんでいてよく見えないが鳥や梅の花の模様が繊細に彫られていた。
「それは水煙草だよ」
「っ!」
急に近場で声がしたので、真剣に手の中の物に見入っていた天愛は驚いて飛び上がりそうになった。危うく手に持っていた商品を落としそうになってしまって、冷や汗をかく。
「ごめん、驚かしたみたいだね。電話終わって戻ってきてみたら、君がそれに真剣になってたから声かけられなかったんだ」
男は申し訳なさそうにいいながらも、天愛の様子が面白かったのかまたくすくすと笑っていた。天愛は恥ずかしくてまた顔を少し赤らめたが、それさえも男には面白かったようだ。
天愛をじっと見ながらも、それ以上の笑いを堪えているようだった。
「……あの、水煙草って?」
「ああ、煙草の煙を一回水に通して浮上してきた煙を吸うんだって。俺も吸ったことはないけど、水がニコチンを少しとってくれるからいいみたいだよ」
「へぇ……煙草吸ってる人、みんなこれにしたらいいのに……」
天愛は単純に思ったことをしみじみと呟いた。
それも男の耳に届いたのか、男はまたくすりと笑う。
「おもしろいでしょ。俺も此処きてからそんなん知ったんだ」
「アルバイトなんですか?」
「うん。ここの主人とうちの親が知り合いで紹介してもらったんだ」
「へえ」
「あ、そうだ、君今バイトとかしてる?」
「してませんけど……」
「じゃあ、ここでアルバイトしてみない?」
「……は?」
天愛は急な申し出に目を見張らせた。本当に唐突過ぎて冗談なのかどうかも見極められずに唖然としてしまう。まだ店内もろくに見ていないし、男とも少し話しをしただけだし、人不足で困っているようにも見えない。
「楽だよ、ここ。時給いいし。することって言ったら、店番と商品店内の掃除、あと配達と年に二回の出店位かなぁ。配達とかは俺が殆どするし、君は大体店番電話番と、掃除だけでいいと思うよ」
「はぁ……いや、でも、なんで急に……アルバイト募集してるんですか?」
天愛は言いながらもつい店内を見渡してしまった。悪いがとても繁盛しているようには見えない。
アルバイトの経験もなく人見知りしてしまう天愛にとっては好条件だったけれど、そもそもアルバイトのこの男に天愛を雇うと決めることができるのだろうか。
「うん。してる。てか、したみたいだよ。たったさっき」
「……さっき? あの、時給って?」
天愛は男の言っていることをよく理解できずに小首を傾げたが、好奇心で聞いてみた。働く上ではとても大切なことだ。
男は天愛の質問に待ってましたとばかりに微笑んだ。
「千円」
男の言葉に天愛は揺らいだ。というよりも、ここでバイトしたいとつい思いはじめてしまう。
此処は先程男が言っていたように、昼過ぎだというのに客は天愛で二人目で、普段から客足は少なそうだ。それに、高校生の天愛にとって千円という時給は良すぎるという位良い。
大きく揺らいだ天愛に気付いているのか、もう一押しとばかりに男は言葉を続けた。
「今日はいないけど、普段は居間の方に優しいお手伝いのおばあさんがいて、おやつとかお茶とかよく出してくれるし、昼とか夜とかにいるとご飯とかも出してくれるんだ。なんでもそのおばあちゃん、昔は京都の方でお店とかやってたみたいでおばんざいとか、作るものめっちゃおいしくて。あ、あとここの主人とアルバイトが俺一人ね。慣れればすんごい気楽だと思うよ? お客さんも常連さんが多いから気兼ねないし。優しいお年寄りが多い」
「そうなんですか……。あ、さっき言ってた出店って?」
「あぁ、此処の近くの九勝寺って所で三ヶ月に一回、骨董市みたいなのしてるんだけど、それに年二回出てるんだ。それは俺も行くから大丈夫だよ。文化祭の出し物みたいな感じ」
それは、なんだか楽しそうだと天愛は思った。接客は嫌だと思う天愛も文化祭での出店は何故か大好きだ。それに、食い意地がはっているかもしれないが、先程のおばあさんの料理やお茶にも少しばかり心惹かれるものがあった。
ここまで来るのに電車に乗らないといけないが、幸い通ってる高校の近くだし、どうしても遅くなりそうな時は近くの祖母の家に泊まらせてもらえばいい。
「あの」
「ん?」
「バイト、したいです」
「まじで? やった!」
男が本当に嬉しそうにするものだから、天愛は不思議に思う。男がそこまで喜ぶ原因が何なのか全く分からなかった。
「じゃあ、早速だけど三日後にまたここに来てくれる? 履歴書持って。一応、主人に面接してもらわないと。あ、面接つっても殆ど顔合わせみたいなもんだから緊張しないでね」
「はい」
「あ。あと、君お茶煎れれる?」
「はい。一応は?」
思い出したように聞いてきた男の言葉に天愛は首を傾げた。
流石にお茶くらい淹れることはできる。それにいつも食後にお茶を淹れるのは、天愛の役目だ。普通程度には美味しく淹れられるだろう。
けれど、それがなにか関係あるのだろうか。常連客にはお茶を出すことにしているのだろうか。お茶を出さなければいけないお客さんのなかに、お茶にうるさい人がいるとか。
「うーん。うちの狐さまはお茶が大好きでねえ」
男はそういいながらも、不思議そうな顔をしている天愛の顔を見て苦笑した。
それが、三日前。
そして、嫌な噂を聞いたのが一日前のこと。
――夜渡蓮の店主はかなりの偏屈で変わり者。
学校の友達の綾香が夜渡蓮のことを知っていたことには驚いたが、綾香は此処の近所に住んでるし、この近所では有名な話しらしい。
その偏屈な店主が営む骨董店でアルバイトを始めると言ったら、猛烈に反対された。恐らく余り良い噂はないのだろう。
ただでさえ人見知りをする自分が、そんな人と付き合っていけるだろうか。なにしろ、その人は普段はさばさばとして余り立ち入ってこない綾香が、猛烈に反対する程の人物なのだ。
天愛はあの軽軽しい雰囲気のアルバイトの男を思いだした。あの人なら間に入ってくれそうだと、勝手に思い込むことにする。 そうしないと、これからの「面接」に行かなければならない足が、益々重いものになってしまう。黙って行かずにおこうかとも考えたが、流石に駄目だと思いそれは止めておいた。本当に無理そうなら、一言自分の口から伝えればいいのだ。
天愛は必死で三日前に出会ったばかりの男を思い出しながら、涼やかな鈴の音の鳴る夜渡蓮の門をくぐった。