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怪奇図書館 魔女狩りの書

作者: 契


「リリアナ・スージーに栄光あれ! 帝国主義を許すな! リリアナ・スージー万歳!」

 古ぼけたブラウン管テレビから、鳴り止まない怒号と歓声が流れてくる。かれこれ、五時間以上は似たような映像が生中継で流れ続けていた。

 ただ、それを無言で眺め続ける。

 そんな無為な時間を、一人の女性がチェスの台を模した木製テーブルに手をつき、年代物の柏木かしのきのチェアに腰掛けながら過ごしていた。

 手の中で硝子の陶器の中に並々と注がれていた冷え切った紅茶は、既に枯れた湖のように乾いた跡を底に残しながら尽きていた。

 書斎に飾られているだけと化した時針の狂った時計が、何故か秒針だけ正しく動きながら、コク、コク、と時の流れを等間隔に告げてゆく。しかし、女性は微動だにせず、ただ、じっと映像の先にある世界を食い入るように覗き見ていた。

 すると、騒然としていたテレビの中の現場に変化が起きる。

 怒号が掻き消されるほどに大きな歓声が沸き上がり、一人の見目麗しい美女が姿を現したのだ。

 美女を彩る舞台は、大きな塔を彷彿とさせるビルが立ち並んだビジネス街の、だだっ広い交差点のど真ん中。普段は一般車両が滂沱に行き交っているであろう交差点は、今は交通規制で車が一台も行き来していなかった。代わりに小さな子供から老人まで、老若男女問わず様々な人種の人間の波が交差点に溢れ返り、美女に向かって押し寄せようとしていた。一般市民を近付かせまいとする治安維持団体達によって何とかバリケードが築かれているという様相だが、いつまで保つだろうか。

「リリアナ・スージーだ!」「本物の聖女様を拝める日が来ようとは!」「ああ……リリアナ様。どうかひもじい私達に希望の未来を」「お助け下さい……お助け下さい……お助け下さい……」

 テレビ越しに漏れ聞こえる雑多な声は、卓にじっと座り続ける女性の耳にも届いていた。

「皆さん、落ち着いてください。私はこの国を――いいえ、この世界を是正する為にこの場に立つことを決意しました」

 芝居がかった台詞が、リリアナと呼ばれた美女の口から紡がれる。しかし、彼女の放つ雰囲気は台詞と矛盾しており、心根から想いを口にしているかのような錯覚か、はたまた現実を民衆に植え付けていく。それはテレビ越しに生中継を眺める女性も例外ではなく、無表情な顔に微かな緊張が浮き上がる。

 おお、と更なる歓声が鳴り響く中、リリアナは妖艶な唇を動かし続け、まるで演劇役者のように右手を天に翳した。その手には一冊の、何ら豪華な装丁もされていない赤茶けた本が握られていた。

「私は、私の本によってこの世界を変えます。誰にも支配されず、個人が個人を尊重し合える新たな社会作りに貢献したいのです」

 リリアナがゆっくりと交差点に歩を進める度、警察官達が無理矢理道を作り、さざ波が引いていくように民衆達が退いてゆく。その光景はまるで一種のマジックのようであった。

「主役は貴方達です。ここが全てを変える分岐点なのです」

 指し示された民衆達が、わっと悦びと興奮と激情の唸り声を上げる。

遂に臨界点を突破した人々の勢いがバリケードを押し退け、リリアナの元に殺到せんとする。それでも抑え込もうとする警察官達の壁を、一人の男がすり抜けた。

「さあ、平等主義の皮を被った冒涜の悪魔達を我々の手で倒しま」

 遂には両手を掲げ、演説を始めたリリアナの声が突然に途切れた。今まで騒然としていた現場の空気が一変し、誰一人として口を開けない空白の時間が僅かに訪れる。

 今まで美しい音色のような声を発していたリリアナの口から真っ赤な鮮血が漏れ出で、その目前には一人のみすぼらしい男が立っていた。

「お、お前達は騙されている。こいつは……魔女だ。魔女なんだ! こいつの言葉を、し、信用しちゃ、いけないんだ!」

 両手に握り締めた真っ赤な刃物と、後ずさるリリアナを交互に見やる男が震えた声を発し、それが引き金となって軋んだ歯車が再び動き出した。

 悲鳴と怒号が飛び交い、混乱と共にバリケードが崩壊し、民衆達が男やリリアナに寄って募り始め、逆に逃げ惑う人々によって混迷の地獄が蓋を開けようとしていた。

 そんな光景を、女性はぎゅっと拳を握りしめながら、現場を映すカメラマンが誰かに押し倒され、映像が切り替わるまで見届け続けた。

 そして最期に、ほんの一瞬だけごった返す民衆の中で映ったリリアナの顔は――。


「なんですか……これは?」

 チェスの台をモチーフにした骨董品の類と思しきテーブルに、朱色の着物を着こなす秀麗な白い肌をした女性が一つしかない目を細め、二つの口からはテーブルを挟んだ反対側に座す、純白のシルクハットを被った小太りな紳士に疑問符を投げかける。

「ふふふ、これはですね。イタリアに観光に行った時に買ったのですよ」

「はぁ……」

 この“空間”の主であるマスターの紳士に対し、溜め息交じりに朱色の着物をきた助手は返事を返す。今か今かとゲームが始まるのを待ち望みにしているかのようにテーブルの上に綺麗に陳列されたチェスの駒達。それを半ば呆れ気味に眺めながら、両手でポットを手に取り、熱々の紅茶をいつ買ったとも知れぬ豪奢な柄のティーカップに注いでゆく。

「金銭は無限ですが、置く場所には限界があるのですから、無暗やたらに嗜好品を買うのは止めてくださいと前から言っていましたよね?」

 助手の淹れた紅茶がマスターに差し出され、茶葉の芳香が、ふわっと室内に立ち込めた。

 ささやかながらも彼らにとっては悠久に等しい、いつも通りの退屈でも平凡でもない透明な時間が、時針が狂い、反時計回りに針の動く奇妙なモノクロ時計によって刻まれる。

 その人の感覚では味わえない、ひとときをひとしきり堪能しながら、まだ熱いそれには手を付けずに、マスターは苦い笑みを浮かべた。

「いやはや……相変わらず貴女は手厳しい」

「当たり前のことを述べているだけです」

「ふむ……」

 顎に手を乗せ、真剣に考え込みながら、やがてマスターは子供のように、あっと無邪気な声を上げて黒曜石の双眸を誇らしげに光らせた。

「あの手の文化的財産は、ただ値札が張られたまま寝かせてあるだけでは価値が見出されず風化してゆく一方です。なれば私のような輩が収集し、長きを経て愛好してこそ、魂を込めて嗜好品を作る職人達にとっても、本望ではないでしょうか」

「そう言いつつ、居間と客間と寝室、執務室に書斎等々に雑多に物を積み込んで、挙句の果てに置けなくなった家具を幾つ物置部屋にしまったか、覚えていらっしゃいますか?」

「うっ……」

 助手の鋭い一つ目に睨まれれば、泰然自若としているマスターでも腰が僅かに浮いてしまう。

「そ、それはですね。ほら、物置部屋のスペースだってまだまだ残っているじゃないですか」

「誰がそれを片付けているかご存知ですか?」

 マスターの言い訳を微動だにせず一蹴した助手は、暫くしてから溜め息と共に不満を吐露する。

「人手が増えれば楽になるのですけどね。特にこの図書館は、一人で掃除するには広過ぎます」

「そろそろ人手も増やしたいと思ってはいるんですがねぇ」

 立ち昇る紅茶の湯気をぼんやりと見上げながら、半ば本気、半ば冗談といった風にマスターが言葉を返す。助手も本心から言った訳ではなく、この怪異に包まれた空間では現実的な雇用形態を築けないことを理解していた。ここを生き場所として選んでから暫く経つものの、未だにこんな冗談を交わせる程度の人間らしさが自分にも残っていることに、助手は微かに驚きを覚える。いずれは、冗談を交わすことも、驚くという感情も忘れてしまうのだろうか。しかしそれを寂しいと思えるような感情は、とうの昔に捨ててしまった気がする。

 一時の他愛のない会話が終わり、二人の間に静寂が訪れた。

「お客さんも来ないですし、テレビでもつけましょうか」

「……チャンネルはどれにしますか?」

「適当にお願いします」

 マスターに要求された通りに、助手はテーブルの真ん中に置いてある、古びて赤錆の乗ったリモコンを手に取り、これまた古風で風情があるものの、テーブルとミスマッチな柄のブラウン管テレビの電源を入れた。

 このテレビ一式もマスターが趣味で取り揃えた品だ。古びた年代モノという訳ではなく、日本の昭和の時代をモチーフにスプレーで赤錆のような柄を着色し、わざと汚い風に見せている珍品なのだと、マスターが愛おしげに語っていたのを助手は思い出したが、飽きるほど聞かされた細かな拘りは然程覚えていない。

 マスターが言うには、このテレビから醸し出される風情が絶妙らしいのだが、チェス盤を模したテーブルを筆頭に、周りに乱雑に並んでいる家具や骨董品の類を眺めていると、マスターが如何に統一性の無い嗜好をしているかが、美的感性にそこまで自信のない助手でも見て取れる。

 気に入ったものは何がなんでも必ず蒐集する子供のような貪欲さが彼にはあり、またそれを全て叶えるだけの人ならざる時間と財力、そして膨大な知識を有している為、助手の気苦労は常に絶えないのだ。

 時間差で点灯したテレビに目を向けると、丁度、生中継のニュース番組が映し出されているところだった。人が雑多に行き交うイラクの繁華街の中、カメラマンの撮影越しに、白人女性のリポーターの実況する姿が目に留まる。

「今日も、ここテヘランはご覧の状況です。“灰の教典”を手に持つ人々が抗議活動を行っています」

 実況と共にカメラが民衆に回される。すると、装丁が赤茶けている一冊の本を総出で手にしている人々の姿が、テレビの前に座す二人の目に留まった。

「我々は自由を手にする! 我々は個を愛する! 我々は誰一人として排斥しない! 我々は――」

 口々に唱和する民衆の声と共に、再びカメラがリポーターの元に視点を戻す。リポーターの片手にも、いつの間にやら同じ装丁の本が握られていた。ズームアップで本が前面に押し出され、灰色の文字で書かれている『Ashes Holy Bible』という英字のタイトルが、仄かな太陽に照らされて光った。

「こちらがリリアナ・スージー著作の“灰の教典”です。全部で七項目に亘る新たな人道を説いた本書は、各国で新たなる聖書と呼ばれるほどの人気を誇り、政治経済にも多大な波紋を生んでいます。それではニューヨークのリポーターのダンさん。続きをお願いします」

 映像が切り替わり、今度はニューヨークの煌びやかな街並みが映し出され、短髪の黒人男性がマイクを握る。

「はい、変わりました。ダンです。こちらニューヨークでも、リリアナ先生の支持率は高く、既に灰の教典の信奉者達の活動は熱狂の渦と化しています」

 にこやかに笑う黒人リポーターの金歯が光を反射する。

 その背後では、テヘランに居た民衆達と同じ装丁の本を持ったニューヨークの人々が旗を掲げ、拡声器越しに何かを叫んでいる姿が映し出された。

「これも三日後に迫った、リリアナ先生の公開演説による影響でしょう」

 その後、再びカメラが映す画面が一転し、北京やパリ、東京といった各国の首都で似たような光景が流れる。

 マスターは心底愉しそうに、くっくと笑いながら紅茶を一口啜った。

「リリアナ・スージー女史の著作、灰の教典は私も拝読しましたが、彼女はとても興味深い見地の持ち主でした。七つからなる新たな人道を紐解いてゆく詩集ですが、なるほど、彼女に魅了された民衆が新たなる聖書と崇めるのも納得の出来です」

 テレビを横目に立ち上がり、マスターは雑多なジャンルとサイズの本が、所狭しと不安定に詰め込まれた本棚から、一冊の赤茶けた装丁のものを取り出す。表面には『ashes holy Bible』の文字。それは紛うことなき灰の教典であった。

 丁度、片手で握れるぐらいの手頃なサイズの本がテーブルに置かれる。まだ新品同然に埃を被っていないにも関わらず、何故か灰の教典からは長い時を過ごしたかのような年季が、重みとなってずっしりと感じられた。

「最近の報道番組は、どのチャンネルでも彼女の話題で持ち切りですね」

 無感動な言葉を述べながら、助手が自分の湯呑茶碗に紅茶を注いでゆく。和柄の陶器は彼女の朱色の着物と合わさって独特な雰囲気を醸し出している。

「灰の教典が世に出回るようになってから僅か二年の歳月。現在に至っては政治、経済、文化、宗教に大きな影響を与え、国家間の人種の壁すら超えて人気を獲得しているベストセラーです」

 ぺらぺらとページを捲る音が、テレビのニュースリポーターの声に紛れ込む。

「既にその力は一人の作家という枠組みに捉われず、彼女を聖女と呼び崇拝する者も少なくないです。と同時に、米国を筆頭にリリアナ・スージーを危険視している国も増加傾向にあり、各国で主義主張の相反する者達による抗議活動が過激化の一途を辿っていますね。貴女はこの時勢をどう読み解きますか」

 マスターに問われ、助手は怪訝な表情で、テレビに流れる灰の教典の信奉者達の姿を一つ目で凝視する。


 ――カラン、カラン。


 玄関窓口の鈴の音が鳴り響き、来訪者が迷い込んできたことを図書館の住人達に報せる。久方ぶりの来客にマスターは喜色の笑みを浮かべ、助手は無言で立ち上がり、玄関へと向かう。

 扉を開けると、雨音が館内に漏れ込む。

 怪異は雨天と共に現れ、迷い込んだ者を優しく誘い入れるのだ。

 来訪者は女性だった。背丈にそぐわない大きく真っ黒な傘をさしていていたが、雨足が強かったのか、身に纏っているブランド物と思しきファーコートは濡れていた。外見はほっそりとした体型に寒気で赤みがかった白い肌、極め付けに長く背中まで伸ばされた金髪が特徴的で、朱色の着物を着こなす助手とは対極に位置する西洋の美徳を内包したような美女だった。

「入ってもいいですか?」

 サングラス越しに助手の顔に視点を合わせ、来訪者が一瞬だけ硬直する。二つの口に一つ目の怪異が目の前に立っていれば、殆どの者は同じ反応をするものだ。助手は既にこの反応にも慣れっこだった。しかし、次に彼女から放たれた言葉には流石に薄れつつある感情を氷解し、動揺せざるを得なかった。

「――中々、ユニークな見た目をしていますね。着物がとても綺麗で似合っているし、さしずめ和国に通ずるヤマトナデシコといったところかしら」

「えっ……」

 それが自分に向けられた褒め言葉であると気付くのに暫くの時間を要した。困惑する助手に再び、女性が話しかける。

「外、寒いから中に上がってもいいですか?」

「どうぞ」

 数瞬遅れて言葉を返しながら、助手は扉を支え、女性を館内へと迎え入れた。


 女性は客間に着くまで、まるで新しい玩具を見つけた子供のようにあらゆるものに興味を示した。おかげで些細な時間を浪費する羽目になったが、助手は懇切丁寧に彼女の好奇心旺盛な質問を一つ一つ解決してゆく。

 やがて居間兼客間として使っている部屋に到着し、助手はいつも通りにドアノブに手をかけ、扉を開いた。

 長い廊下を照らしきれない淡い照明とは打って変わって、光の行き届いた明るい客間が助手と一人の来訪者を照らし出し、等身大以上の影を廊下に作りだした。

「ようこそ、怪奇図書館へ」

 待ち構えていたマスターが、テーブル越しに淡い笑みを込めて会釈する。

「初めまして。やっぱり、ここが怪奇図書館なんですね」

 女性も笑顔で返し、確信をもった様子で図書館の名を呼んだ。

「ほう、ここをご存知でしたか。しかし貴女は今回が初のご訪問のはず。何処でその名を?」

 半ば驚いた様子のマスターに、きょとんとした顔で女性は首を傾げ、やがて答えを見出したのか顔を上げた。

「都市伝説やお伽噺の類に、迷い込んだ者に暗示を齎す不思議な図書館があると民間説話全集に載っていたわ」

「その手の類のお話を信じる人間は稀有なように見受けられますが、何とも自信満々でいらっしゃる。その源はいずこに?」

「うーん……私が今見舞われている怪奇現象と類似点が最も多いものを厳選した結果、怪奇図書館に辿り着いただけです。勿論、これが昔読んだ本の記憶から形成された只の夢だという可能性も否定出来ないですけど」

 女性の答えに満足したのか、マスターは一度大きく頷いた。

「そこで立っていても話すには些か遠い。こちらの椅子にどうぞ座ってください」

「ありがとうございます」

 女性がチェス盤を模したテーブルをマスターと挟み込む形で椅子に座る。すぐ横に助手も移動し、新たな陶器を用意して未だ熱の冷めぬ紅茶を注いでテーブルに置いた。

「さて、この場所の存在を朧に知っていても、それを認識出来るものは非常に珍しいです。代わりと言っては難ですが、今度はわたくしが貴女の名前を当ててご覧に見せましょう」

「……ええ、どうぞ」

 妖艶な微笑みと共に金髪が棚引き、甘い柑橘系の香水の香りが漂った。

「最近、世間では持ち切りの有名人、貴方はリリアナ・スージーその人です」

 マスターの言葉を聞き終わり、女性は軽く溜め息を吐いた。

「はぁ。これぐらいの変装じゃ変装とは呼べないわよね。そうです、私がリリアナです」

 サングラスを外し、長髪のカツラを脱いで女性が本来の姿を現した。

 短髪に刈り揃えられた金髪に、青いビー玉のような人工物めいた光沢を魅せる二つのまなこが露になる。

「そこまで分かっているのなら、どうして私がここに迷い込んでしまったのか。その原因も、えぇっと……」

 言葉を濁し、次のキーワードを探す女性――リリアナにマスターは紅茶を一口啜り、助け船を出した。

「私の名前は、マスターとでもお呼び下さい」

「それ、本当の名前なんですか?」

「いいえ。魔女に真名を明かすほど、私は愚かではありません」

 挑戦的な単語の選び方に、リリアナはほくそ笑む。

「それもそうね。ではマスターと呼ばせてもらいます。それで、私がここに迷い込んだ原因も既にお見通しだったりするのですか?」

 マスターが首を振る。

「いいえ、流石にそこまでは会談を進めぬ限り分かり得ません」

「では、ここは私とマスターさんが会談を設ける場である、と?」

「貴女が望むのであれば、そうなります。ここは人間社会とは隔絶された一種の密室です。誰も会話を害さず、そして他者に影響を与えることも無い。著名な作家が羽目を外すには丁度良い場であると謂えるでしょう」

「なるほど。なら、時間が許す限りは有意義にお話しましょう」

「喜んで」

 湯気漂う紅茶をリリアナも一口啜り、その顔が喜色に包まれる。

「美味しい。これ、いつも貴女が淹れているの?」

「ええ」

 助手に振り返って再び紅茶の味を確かめるかのように紅茶の水面に舌をつけたリリアナは、舌鼓を打った。

「紅茶の苦味をマイルドにする代わりに、多く混ぜると臭味になってしまうミルクの量は少量、砂糖の配分も完璧。良い奥さんをお持ちのようですね」

 マスターが苦笑と共に手を振って誤解を解く。

「彼女は私の妻ではありません。この図書館きっての唯一の秘書でございます」

「あら、そうだったんですか。でも、本当に美味しいです。喫茶店でも開いたら、きっと繁盛するわ」

 愛想の良い返しをするリリアナの表情には偽りの色は無く、やや天然がかった性格が彼女の素の姿であることを示していた。

「ははは、私が老衰したら彼女には喫茶店を開いてもらいましょうか」

「マスターに老いという概念は存在するのですか?」

 真面目な助手の返しに、マスターは天井を仰ぎ見た。

「あー……無いでしょうね」

 自分でもよく分かってないという様子の語調に、助手は胡散臭そうな目線を向ける。対してリリアナは面白そうに二人の会話をビー玉の(まなこ)で眺めていた。

「ふふ」

 微笑みを浮かべながら紅茶を啜る美女の姿に、助手は咳払いをした。

「続けてくださって結構ですよ? 見ていると楽しいので」

 邪心が欠片も籠もっていない、心から今の状況を楽しんでいる者の表情だった。

「……いえ、私の役目はマスターと御客人の身の回りのお世話をすること。どうぞ、貴女がこの場所に迷い込んだ意味をマスターと語らってください」

 単眼の助手に見据えられ、リリアナは困ったように唇に手を当てる。

「私がここに来た理由ですか。そうね、それはもう貴方達は理解しているはずです」

 霧雨だった雨天が豪雨になり、窓ガラスを叩く。にも関わらず、室内には今までとは異なる静けさが漂い始めていた。

 他愛のない、ささやかな時間に終わりを告げる豪雨だった。

「……怪奇図書館は何かを得て、代わりに何かを失う場所。そんな生きていれば当たり前なことを異化して魅せる怪奇の場。訪れる者の先には転機となる運命が待ち受けている」

 リリアナが作家らしい詩的な表現で怪奇図書館について語る。マスターは思わず、その内容に笑みを隠し切れなかった。

「ほほう、素晴らしい。常人なら、そのようなオカルト話は切って捨ててしまう。貴女の観察眼と知識には畏怖すら覚えます。そして、虚言家としての才能にも」

 今度はリリアナが驚く番だった。

 目を一瞬、見開き、しかし次の瞬間には怜悧で無機質な眼差しが、マスターの心を見透かすかのように顔を覗き込む。

「口から出まかせってバレました?」

「ええ、“ここ”は貴女達の世界の認識で言うなれば都市伝説の存在。そこまで精密な文献が残っていては、都市伝説足りえませんゆえ」

「そうです。ただ――」

 リリアナが初めて寂しげな表情を浮かべた。手元に置かれた紅茶はぬるくなり、湯気が立ち消えている。

「なんとなく、そんな風な場所だと感じたんですよね。運命的なものを……ふふ、これじゃ変人みたい」

「ですが、それは“ここ”に於いては普通へと逆転します。貴女は本当にこちら側に近い存在、流石は《魔女》と忌み嫌われるだけありますね」

 リリアナにとって、その呼び名を口にされるのは冷徹な一撃を受けたに等しい。だからこそ、魔女は挑戦的に笑う。

「そこまでご存知でしたか。ここは外側から干渉されないのに外側を視ることは出来るんですね。凄く便利。一生、住みたいぐらいには……」

 時代遅れなブラウン管テレビに、ちらとリリアナが目を向ける。

「テレビで報道されている通りです。私は世界の多くの先進国から大きな支持を得ています」

「ですが、それは支持とは異なる反発の影をも同時に生んだ」

 マスターの的確な返しにリリアナは頷く。

「ええ、多くの宗教団体が私を魔女と蔑み、私を崇める者達と論争を繰り広げ、挙句の果てに暴動すら起こしている」

 魔女の瞳には一抹の悲哀。自分の信ずる行為の齎した現実を心の底から嘆いていた。

 助手には、そうとしか見えなかった。

「しかし、それは貴女の望んだ結果……いや、更なる目的の為の過程にすぎないのではないですか?」

 だが、マスターはリリアナの深層を見抜いていた。

 雨が更に強まり、遂に雷鳴が木霊する。まるで道化と魔女の笑みを照らし、亀裂を走らせるかのような魔術めいた雷だった。

 それを契機としたかのように、リリアナの何処か朗らかでありながら人形めいた冷然さを孕んでいた表情に感情が生まれる。一日遅れの三日月のように歪んだ笑みを唇に浮かべながら、彼女はマスターと目線を合わせた。

「……どうして、そう思ったんですか?」

「私は貴女の灰の教典を軽くですが拝読しました。七つの大罪を基にした七つの思想を道徳として述べているようでありながら、そこには反社会的な内容や扇情的な表現が多く記されていた。それに無意識では済まされないぐらい巧妙な文法や詩のようなリズムすら交えて、魔女の呪言(じゅごん)のように人々を一方向へ誘導していたのです」

 マスターの言葉に投了したのか、或いは満足したのか、リリアナは軽く片手を振り上げて降参のポーズを取った。

「レディを執拗に魔女呼ばわりするなんて失礼な方ですね」

 少し拗ねたように、そう返す彼女にマスターは平然と返す。

「ええ、私はリリアナ・スージーという存在を魔女と認識しています故、それ以外の呼び名を知りません。それとも、世間のように聖女とお呼びした方が宜しいでしょうか?」

 リリアナの目が不快感から細められる。

「私にそんな子供騙しな言い換えが通用するとでも?」

 吐き捨てるような返しだった。

「これは失礼。では、話を戻しましょう。聖女でないのであれば、貴女は確信犯の魔女です。論争を巻き起こし、人々の暴動に発展するように仕向けた」

 淡々とマスターは続ける。

「本には書き手の意思が必ず宿ります。まるで鏡の世界を書くかのように。私には、灰の教典がまるで憎悪によって生み出されたようにしか思えないのです」

 小太りな図書館の主の深淵の瞳には一抹の愁いが浮かぶ。

「そう……私はこの世界を憎んでいる」

 自分に問いかけるように、リリアナは妖艶に微笑みながら、そう呟いて髪を翻した。

「少し、昔話をしましょうか。むかし、ある村に聖女と呼ばれ、大切に育てられてきた女の子が居ました。その女の子は代々、その村が聖女の血筋として崇める家系の子供でした。聖女は村人の希望の象徴であり、太陽神のような存在。豊作や健康への祈願をされ、それに応えるのが代々の聖女の役目だったのです」

 魔女の眼はマスターを超えて、遥か遠くに居る少女の姿を視ているようであった。

「ですが、そんな平凡な村は、ある日を境に邪龍(じゃりゅう)に呑み込まれた」

 隠しようのない憎悪の声が漏れ出でる。

 助手はその時初めて、リリアナを一人の人間として認識した。マスターに魔女と云わしめる程の存在であっても、誰かを憎悪し、感情を露にするのだ。憎悪は、どんな動物も抱かない人間だけが発露する概念。そして人ならざるものには理解し得ぬ領域のものでもあった。

「邪龍は作物を腐らせ、信仰を衰退させた。鍬しか武器を持たない村人達に邪龍を追い払う力なんて無かった……。邪龍に屈し、従うことを村の長は選んだけれど、聖女を信仰する残りの者達は抗い続けた。村は二分され、多くの血が流れ、戦えぬ者達は聖女に縋った。どうして争わなければいけないの? どうして作物が実らないの? どうして井戸の水が飲めなくなったの? どうして? どうして? どうして? どうして――聖女様は何もしてくれないの?」

 まるで演劇の役者のように熱の籠もった口調でリリアナは続ける。

「事実、聖女は何もしてあげられなかった。ただ邪龍に怯え、自分を責める村人に恐怖するしかなかった。そして……悲劇は数日後の聖女の死と共に終わりを告げた。どうして、あの子が死んだか分かりますか?」

 助手はリリアナの語り口に何か違和感を覚えた。だが、その違和は微かなもので、考え込むうちにも目前の二人の対談は過ぎてゆく。

 試すように差し向けられた視線に、マスターは暫し黙り込み、珍しく深く考える素振りを見せた。答えは出ている。しかしそれをどう言葉にするべきか、割れ物を扱うかのような繊細さで熟考していたのだ。

「……お伽噺の裏には、必ず原型となる現実があります」

 手を組んでマスターはリリアナと対峙する。

「舞台は先進国から離れた小村。邪龍は領土拡大の為に未開の地へと踏み込んだ先進国。ここまでの推論は合っていますか?」

 マスターの問いかけにリリアナは頷く。

「しかし、私は当事者ではなく常に傍観者でしかない。社会に隠蔽されたテレビの向こう側の世界の真実は、当事者にしか分かりません」

 それは怪奇図書館の力の限界――いや、役回りとしての宿命を如実に証明していた。

「故に私達は記録しましょう。語るのは語り部である貴女です」

 マスターに促され、リリアナの中にある語り部としての血潮が呼び起される。

「語っていただけますでしょうか。貴女が知っている真実を。ここに至るまでの経緯と、聖女から魔女に()った原因を」

 僅かな嘲笑を見せてから、リリアナは語り始めた。甘い砂糖菓子で脚色されたお伽噺の裏に隠された、泥臭いお伽噺を。

「世界人口の増加に伴い、ライフラインの供給は厳しくなった。各国で貧困の差は拡大し、事態を重く見た先進国の政府達は目先の欲に走った」

 部屋に憎悪の冷気が漂い始めるのを助手は感じ取った。怪奇図書館は負の感情を歓迎し、それを具現化させてしまう。

 真っ黒な画面を映していたブラウン管が明滅し、灰色の映像を呼び込む。

 電源は落とされているし、誰もリモコンに触れていないのに、人知れず映像を流すそのブラウン管には、リリアナの情念と記憶が反映されていた。

 一つの平凡そうな村が画面の中にあらわれる。簡素ながらも意匠の凝らされた民族着を着込んだ大人達が、焚き火を囲み、酒を飲み交わし、その周りでは子供が躍る。平和の象徴のような牧歌的な風景だった。

 しかし、和やかな画面内を照らす月には二つの蛇の(まなこ)。チロチロと覗く舌からは炎が灯っていた。

「村そのものに文化的価値は無かったし、地下に石油があるなんて偶然があるわけでもなかった。ただ、立地が良過ぎたの。周囲を山に囲まれ、川に恵まれ、一定の広域がある。それは人口密度が限界に達した彼らにとっては重要な立地だった」

 豊かな村の光景に蛇の舌が伸び、まるで煙草に火を灯すかのように、民家に点火される。

 悲鳴。絶叫。聞こえるはずもない過去の声が飛び交い、阿鼻叫喚が渦を巻く。

「社会的地位を築けていなかった村人達は、いとも容易く支配され、無許可で内密に建設されていた、発電を名目にしたゴミ処理プラントの存在が明るみに出た頃には全てが手遅れだった。それが不正な手続きによって行われた国家の侵略行為だとしても、外部の人間は誰も認知出来なかった。やがて、上流から流れてくる産業廃棄物の汚泥によって、作物が育たなくなった村は瓦解し、貧困と疫病による争いが始まった。後は自然消滅を待つだけ。国家は直接、手を汚さず、狂った村人達は自滅によって歴史から抹消された。そして――私だけが生き残った」

 テレビの画面が切り替わる。そこには、一人の赤茶けた布切れ一枚の少女が立っていた。幼き日のリリアナが、自分と同じ年頃の少女を胸に抱き、焼き払われた村の中で呆然と立っていたのだ。涙すら浮かべないその姿は、まるで、薄汚れたお人形さんのようだった。

「私はその時から、変わった。生き延びるために侵略者の目を逃れて故郷を去り、放浪する内に異民族街を見つけて、そこを隠れ蓑にして六年間を過ごした。最初は一日を養えるだけの仕事を覚えるために国際共通語を学び、文字書きも覚え、やがて私は世界の広さと、悲哀に満ちた様々な人種と文化の現実を思い知らされた。私は六年の月日を契機に異民族街の住民達に別れを告げ、もっと広い世界を識る為に国籍を偽装し、米国の都心部に潜り込んで下働きをしながら、学問にも着手した」

 あまりにも、壮絶な経歴だった。閉鎖された一つの世界で生きていたたった一人の少女が、ここまで必死に生きてきたのは美談を通り越して異常で狂気に満ちていた。

 そして、彼女が言葉で語らずとも、口から発せられる声無き怨嗟が、まるで神の気まぐれのように歴史から抹消された聖女を生き永らえさせたのだ。

「私は救いを求め、でも、そこには私の望む世界はなく、多くは灰のように色を失っていた」

 ブラウン管の中では、年月を経て成長したリリアナが、先の見えない荒野の中で立ち尽くしていた。彼女から見た世界の情景は、どこまでも浅くも深くも無い平坦な空虚に満ちているのだ。

「まるで世界全てを同じ色の絵具で塗りたくるように、同盟を結んだ先進国達はライフラインを推し広めながら、文化を統一していった。多くの国が所有していた自らの文化を捨てて豊かさを選んだ。大勢の人が救われ、代わりにその数だけ、あの村と同じ悲劇が起きている」

 悲哀に感化されて画面が切り替わる。

 視界が荒野から遠ざかり、空を突き抜け、宇宙まで飛躍し、真っ青な地球の全貌が見渡せるところで静止した。

 しかし、その地球は更に大きな環状にとぐろを巻かれていた。自らの尻尾を自らの口腔で呑み込んで、地球を覆う環となって佇む灰色の大蛇の片目が、画面越しにこちらを覗き込んでいた。

「ウロボロス……そう、私には世界がこんな風に見えていたのね」

 自分の心理を再確認するように、思わず呟かれたその名を助手も神話として知っていた。その環を模した姿から、循環性や永続性を意味する神話の中の大蛇であるとされている。

「この蛇には全知全能の完全性という意味もあるのを、ご存知かしら?」

 リリアナの問いかけに、マスターは首肯した。

「ええ。同時にキリスト教圏では物質世界の限界を示すとも」

「そう……。全知全能な理想郷を世界は総出で目指している。でも、それじゃあ不完全な人々はどうすればいいの? 乗客として見なされず、箱舟の外に追いやられた私達は、どうすればいい?」

 痛々しい問いかけだった。助手は思わず、自分の胸に手を当てた。切に世界に問いかけ、理由を求める彼女の姿は、人外として年季を重ねてしまった助手からすれば、とても若かった。でも、それを安易に否定することは出来ない。リリアナをリリアナ足らしめるものに対し、異界の住人である者には肯定も、否定もしてやれることは何一つとしてないのだ。

「私は世界に問いかけることにした。人として生きているのか、ただ生かされている家畜なのかを」

 マスターの手許にある灰の教典が、自らの存在を示唆するかのように、どっしりと佇んでいる。

「その為に書いたのが……これですか」

 表紙を撫で、問いかける。

「人間の繁栄は破壊の繰り返し。貴女のやろうとしていることは、石を投げられたから、投げ返しているに過ぎません」

 マスターは否定ではなく、ただ真実を告げていた。

「でも、その石を誰かが投げ返さないと、何も変えられない。私は世界を支配しようだなんて考えてはいないわ。ただ、きっかけを作りたかっただけ」

 まるで、自分の絵を見てもらって感想を待つ子供のような眼差しで、答えを待つリリアナにマスターは、どこまでも穏やかに告げた。

「異界の住人たる私から語れることは何もありません」

 その答えに、リリアナは酷く感嘆した様子だった。異界の住人であり、知識の宝庫である怪奇図書館の主たるマスターであれば、何かを教えてくれるのではないかと期待していたからだ。しかし、同時に内と外の必要以上の干渉を避けるその姿勢に感心もしていた。

「ですが、一つだけ疑問があります」

「なんですか?」

 全てを語り終えたリリアナは、来訪したばかりの時のような仮面を被った柔和な表情を浮かべる。

「貴女ほどの才覚なら、一人の作家ではなく、それこそもっと権力のある人材になれたはずです。政治家として世界を変えるようなことも可能だったはず」

 マスターには理解が出来なかった。それは純粋な疑問であり、長年生き続けてきた彼でも説き明かすことの出来ぬ謎だった。

「その理由は……いずれ分かります。明日にでも」

 そして、リリアナという女性は作家で在り続ける。読者を楽しませる姿勢を忘れず、結末は決してバラさない。異形の図書館の主であるマスターでさえ、彼女にとっては自分の結末を楽しんでもらうために必要な読者の一人なのだ。

「はぁ、でも、スッキリしました。こうやって誰かに心の奥底を明かすのって、私、初めて」

 すっかり冷めた紅茶を飲み干して、迷いなく立ち上がったリリアナは助手にお礼を言う。

「ありがとう。美味しかったわ」

「……どういたしまして」

「マスターさんも、ありがとう。これでもう、未練なく先に進める」

「こちらこそ、有意義な対談が出来てとても楽しかったです。わざわざ元来た道を戻るのは手間がかかります故、玄関は客間の扉に繋げております」

「ふふ、最後まで不思議な図書館ですね。お心遣い感謝するわ」

 お互いに軽い会釈を済ませ、リリアナはマスター達に背を向けて客間の扉へと向かってゆく。その足取りに一切の躊躇いは無く、力強くも透き通った足音が淡々と響き渡る。

「……」

 その背中に助手は手を伸ばそうとしていた。そんな自分が居ることに半ば動揺しながらも、伸ばそうとしたその手は、しかし内に潜む人外としての自我に引き戻される。

輝かしい生を送る人間は短く儚い命を辿る。その道筋に直接干渉することは出来ない。したいとも思わない――じゃあ、何故、自分は今、彼女に手を伸ばそうとしたのだろう? 引きとめようとしたのだろう? 分からなかった。分からない。分かりたくない。



パタン。



 渦巻く疑念に苛まれている内に、気付けばリリアナは怪奇図書館から姿を消していた。あまりにも、呆気ない音だけを残して。


 ――笑っていた。

 リリアナ・スージーは大演説の最期に、間違いなく笑っていた。その一瞬の笑みを見ながら、助手は彼女と出会ってからの短い時を一瞬で想起していた。

「何故?」

 分からない。彼女のことがまるで理解できない。当然だ。何故なら、助手は人ならざるもので、人間を理解することは出来ないのだから。でも、今抱いている「何故?」は、そういった意味の疑問ではない。もっと、別の、何か。

 何故、私は彼女に興味を抱いている? 何故、私は彼女を引き止めようとした? 何故、彼女の死を前にしてこんなにも脳が渦巻いているのだろう。このどうしようもなく不快で、落ち着かない気持ちは何だ。昔はその感情に名前があったことを覚えていたのに、今はもう思い出せない。

 ブラウン管テレビに映るリリアナの大演説の映像が切り替わり、手遅れな番組の休止案内が、場違いなお茶濁しののどかな音楽と共に流れる。

 その音楽が何故か嫌になって、助手は即座にテレビを消した。無味乾燥とした静寂が、昂ぶる気持ちを落ち着かせてくれた。

 テレビ越しでは男に刺されたリリアナが死んだかどうかは分からない。しかし、怪奇図書館に住まう助手は悟ってしまう。彼女は既に、この画面の先にある世界の只中で息絶えているだろうと。

 しかし、不可解な点があった。彼女は笑っていた。それに、彼女は信奉者だけではなく、反感も引き連れていた。こんな大演説の場であれば、もっと警備を厳重にすることだって可能だったはずだ。刃物を持った男の接近を許すような警備体制の中で何故、彼女は大演説を行ったのだろうか。

「……死のうとしていた?」

 そんな馬鹿な、と助手は熟考する。リリアナは灰の教典を広めることを世界への復讐と変革の手段として用いていた。ならば、彼女は生き続け、更なる影響力を獲得すべきではなかったのだろうか。

 怪奇図書館に来訪する者は必ず、その人生の大きな分かれ道に立たされる瀬戸際に直面しており、そして何かを得て帰ってゆく。その分かれ道で得たものが、リリアナにとっては死だったのだろうか?

「分からない……」

 助手は黒い渦を巻いているだけのブラウン管テレビの画面を一つ目で凝視する。それでも、答えは出てこない。

「彼女がここで得たのは、恐らく解放ですよ」

 いつの間にやら、マスターが助手の隣に立っていた。流れるようにそのまま、助手と向かい合う形でチェスを模したテーブルの椅子に座り、紅茶を催促してくる。

 気配も無く、いきなり現れるのはいつものことで、特にこれといったジェスチャーもなく紅茶を催促してくるのも、その時々で把握してしまえる程度には、助手もマスターとの付き合いに慣れてきていた。

「どうぞ」

 すぐさま客間と隣接している台所で熱々の紅茶を作り、マスターに差し出す。

「それで、解放とはなんなのですか?」

 怪奇図書館の主なら、この胸を焼く不快な渦の手がかりを教えてくれると期待していた。

「リリアナ・スージーは……魔女です。人間でありながら、私達に近しい怪異の存在です」

 それは、助手も薄々感じていたことだった。彼女の存在は人間のそれを超えていた。いや、今まさに超えかけていた? 助手の疑問に答えるように、マスターが続ける。

「ですが、リリアナは人でもあった。誰かに助けを求め、苦しみ、あえぎ、時に喜びを覚える人間です。だが、それは彼女の魔女としての生涯が許してくれなかった。だからこそ、彼女は怪異である私達に解放を求めたのです。人間として、誰かに自らの心中を明かすという、普通の人間であれば有り触れた行為を」

 だから、あんなにも無邪気で子どもじみた態度を取っていたのか。リリアナは仮面を被っていたのではなかった。あれもまたリリアナという一人の人間の一面であり、ただ今まで隠れていたに過ぎなかったのだ。些細な他愛のない会話でさえ、彼女は一生懸命に楽しんでいたのかもしれない。

「だから、彼女は既にここを訪れた時点で分岐点にすら立っていなかったのです。既に目的のための手段は実行の直前であった。怪奇図書館に訪れる客人の多くは、迷い人ですが、魔女にとってはなんとなく立ち寄ったぐらいの意識でここまで辿り付いたのでしょう」

「分岐点にすら立っていなかった……」

 助手は訝しんだ。やはり、分からない。その疑問が解消されない。

「リリアナ・スージーは何をしようとしていたのですか? 彼女は死ぬ間際、笑っていました。私にはどうして笑っていたのか、分かりません」

「それは……」

 マスターは自らの見解を述べようとして、ブラウン管テレビに目を向けた。

「そうですね。少し時間を早めましょう。これは三週間後のニュースです」

 テレビがひとりでに点灯し、ニュースが流れ始める。その月日は先程のリリアナの大演説から、現実世界の月日で三週間を経ていた。

『灰の教典はリリアナの死後もベストセラーとして君臨し、その勢いはむしろ以前に増して上昇しています』

 丁度、ニュースキャスターが灰の教典の累計売上数のグラフを指しながら解説しているところだった。

『ですが、三週間前の悲劇によって各地で暴動が発生し、今も各国の首都圏でデモ隊がプロパガンダを掲げています。この事態に灰の教典を禁書扱いとし、見つけ次第、処分するという政策が検討される国も相次いで――』

 それ以上は観なくても、事態は明白に理解できた。

「これは一体……」

 助手は驚愕した。死してなお、灰の教典はその影響力を衰えさせない。それどころか、更にその力を増している。まるで、リリアナの望んだ世界に向かっているかのように、一冊の本の魔力は世界を取り込もうとしていた。

「彼女は最初から、あの瞬間に死ぬつもりだったのですよ。世界が最も灰の教典に沸騰していた瞬間を見計らって」

 紅茶を軽く啜りながら、マスターも会話の空気が沸騰する瞬間を見計らう。

「作家にも、本にも、流行の限界というものがあります。時期や時代が過ぎれば、その影響力は変容しますし、廃れる日は必ずやってくる。ですが、リリアナは自らの死を呪いに変えて、廃れる時を止めてしまったんです」

「どういうことですか……?」

「ふぅむ。人は死生観に強い意識を持っています。特に宗教における死後の価値観の影響力は凄まじい。それをリリアナは利用したのです。彼女は自らが死ぬことで、死後変容を遂げ、謂わば魔女から神に近い存在になったのでしょう。最も自分が世間に注目されている時期を見計らい、死ぬことで永遠の存在となったリリアナは最早、個の作家として扱われるものではなく歴史に名を刻む、民衆の意識に住まう概念のようなものです。魔女狩りの犠牲となることで、魔女の魔力は人々の中に植え付けられる。それはリリアナの寿命より、遥かに長く語り継がれていくことでしょう。世間のキャッチコピーの『現代の聖書』という肩書きも、あながち間違ってないかもしれませんね」

 助手には難しいことはよく分からない。マスターの言っていることの半分も、きっと理解できていない。それでも、どうしてリリアナがあの時、笑っていたのか。その理由が分かった気がした。

「彼女は魔女として蔑まれるのではなく、人々の中に今も生きているということでしょうか。聖女として」

 聖女。その言葉を耳にしてマスターは渋い顔をする。

「貴女はどうやら、誤解をされているようですね」

「え……?」

 意味が分からず、目を細める。賢人のマスターは一体、何を見抜いたのだろうか。

「幾ら秘密裏な計画だったとしても。幾らその村の土地が貴重だったとしても。それだけの理由で人間が非人道的に動くでしょうか」

 マスターが灰の教典の背表紙を撫でて、立ち上がる。乱雑な本棚から年号分けされた新聞を抜き出し、テーブルに広げた。

「これは、ある特集で行われた原住民への取材番組です。その中の一つ。この村です」

 見出しでは、のどかな小村の写真が写されていた。しかし、その取材において小村は否定的に描かれていた。

『少女を監禁……? 儀式的風習か?』

 助手は一つ目で、その記事の内容を読んでゆき、やがて絶句した。

「これは……」

「聖女と魔女。この小村は古い因習に従って、二項対立の祀りを続けていたのです。聖女に選ばれた娘はこよなく愛し、善きものを分け与えてもらう。対して、魔女に選ばれた娘は虐げられ、邪なものを注ぎ込んで蓋をする器にする」

 ようやく、リリアナの語りに対しての違和感の正体に助手は気が付いた。リリアナは昔話で一度も、自分のことを聖女として語っていなかった。「あの子」について語っていたのだ。

 リリアナは村に居た時から既に、魔女だった。ただ、民に虐げられる為だけに生を受けた魔女。

「でも、それじゃ……彼女はどうしてあそこまで世界に憎悪を……」

 記事を見る限り、小村でのリリアナの扱いは良いものではなかった。いや、明かされているものはほんの極一部かもしれない。

「それは、物心ついた時から既にリリアナという一人の女性が魔女だったからですよ」

「……?」

 マスターが僅かに哀愁の表情を見せた。それが普段通りの見せかけの偽りか、心から感情の表れを示している真か。助手には推し量れない。

「私は生まれついてこの図書館の主です。ですから、この図書館の主という役割を担っていることに疑問を抱かない。何故なら、それが当たり前だから。もっと人間的に言うなら、例えば親がカトリックなら子も物心がつく頃には、カトリックとしての意識を持ちます。それを外から照らし合わせる比較対象が無ければ、カトリックであるということに何ら疑問も意味も抱きません」

 そこで一息ついて、ずずっと紅茶を啜る。

「つまり、リリアナにとっては民に虐げられる扱いを受ける自分という意識は当たり前のもので、それは本人にとっては決して悪いものではなかったのでしょう。特に情報社会から隔絶された小村ならば、猶更。ですが、先進国の情報社会はそうではなかった。外から見たこの小村の因習は異常で、常軌を逸していました。非人道的な領土の開発。その罪悪感を掻き消してしまえる程度には」

 部外者にとって、それはよかれと思ってすらいた行動なのかもしれない。

『平等主義の皮を被った冒涜の悪魔達』

 リリアナが最期に言っていたあの言葉。あれは、民衆を扇動する為だけの言葉ではなく、幼き日の彼女が体感した他者への恐怖そのものだったのだろうか。

 魔女として扱われる生を奪われるということは、彼女にとっての小さな世界そのものが崩壊することを意味している。行き場を失った魔女が憎悪に身をやつしたのも、必然だったのかもしれない。そして、外側から見た自分の村がどんな風に見られていたか。それを理解出来る程度には、彼女は無情にも知己に溢れていた。だからこそ、分岐点で立ち止まることすら出来ず、狂うしかなかったのかもしれない。

 ――かもしれない。

 この世から未練なく去った者に言葉は無く、その言葉を語る時は常に憶測になってしまう。だから、助手はこれ以上、考えるのをやめた。何故だか、詮索をし過ぎるのは彼女に失礼な気がしたのだ。

「リリアナの問いかけは、世界に届いているのでしょうか」

 素朴な疑問。ただ、暴動を扇動しただけならば、彼女の行動はより多くの犠牲を生み出す無意味に等しい。

「どうでしょうね。ただ、一つ言えることがあるとすれば……」

 名残惜しそうに最後の一口を啜りながら、マスターは寂しそうに告げた。

「誰しもがリリアナのようにはなれないということです。彼女の影響力は凄まじいものでしょう。しかし、それはやがて新たな宗派を生みます。そしてその宗派の中で何ら疑問を抱かず生きる者達が増えてゆく。同じ繰り返しです」

 リリアナは他人と同じ目線に立つという手段を知らずに育ってきた。それが最大の失態だったのだろうか。

「そのことに、どうしてあそこまで怪奇に浸かっていた者が気付けなかったのか。待てなかったのか。後、少しで彼女もまたこちら側へとこられたかもしれないのに」

 マスターは心底から残念がっているようだった。しかし、と助手は思う。

「人間だったから、待てなかったのではないでしょうか」

「はて?」

 珍しく、訊かれる側に立ち、助手は困惑する。言葉が見つからない。理由も、実はよく分からない。ただ、なんとなく、そう思ったのだ。

「何故かはわからないです。でも、彼女が失敗を犯したことを後悔しているのなら、未練として虚ろな世を彷徨っているはずです。ですが、リリアナという女性の気配はもう何処にもない。それは未練が無いからではないでしょうか」

 助手のあやふやな言葉に、マスターは暫し考え込み、やがて首を振った。

「私には人間の思考が理解できません。未練という感情も抱けない。だからこそ、貴女を助手として雇いました」

 こくり、と頷く助手に、マスターはいつもの人間じみた作り笑いを浮かべた。

「ですから、その感情を大切にしてください。いつか、貴女の存在が役立つ日がくるはずです」

 そう言い置いて、一言「ごちそうさまでした」と紅茶のカップを置いてから、マスターは客間を出て行ってしまった。また、何か得体の知れぬ調べ事でもしにいったか、浮浪者として外に散歩でもしに行く気になったのかもしれない。

「私の存在……」

 胸に手を置いて、助手はマスターに誘われた日を思い出す。その時も、先程と同じようなことを言われた覚えがある。自分にはマスターには理解できないことが理解できると。だが、全知の怪異に理解出来ないことが、助手に理解出来るとは俄には信じがたい。

『そうでもないかもしれないわよ。助手さん』

「えっ――」

 俯きかけていた頭を上げて、助手は紅茶のカップが放置されているテーブルを見た。すると、そのすぐ横に置かれっぱなしになっていた灰の教典のページがはらりと捲れて、一節の一文が視界に差し込む。そこには、こう書かれていた。

『貴方と出会えたこの日という生を私は忘れはしないだろう。貴方という生を私は祝福し、そして貴方と私の出逢いに感謝を綴る。たった、それだけ。それだけで人は人足り得るのだから』

 誰に充てたのかも不明で、題名すら書かれていないリリアナの灰の教典の一節。それだけで、確かに充分だと助手は一つ目を閉じた。

 憎悪の悪鬼でも、狂気の魔女でも、豊穣の聖女でもなく、そこには一人の女性の生き様が描かれていたのだから。それは決して悪いものではない。ようやく、胸中で疼いていた彼女への疑問の答えを教えてもらった気がした。

 リリアナ・スージー。思えば彼女に会ってすぐ、助手は強い興味を示していたのかもしれない。ここに訪れる者は大抵、助手の顔立ちを怖がらない。しかし、その顔をお世辞ではなく心の底から褒めるような人は初めてだった。距離を取らず、他愛のない会話で接してくれた相手も他に覚えがない。

 この彼女に対する感情に、具体的な答えを助手は見出せずにいた。しかし、それをもどかしいと思える自分がまだ残っていることに、何故か心地の良さを覚えている。そう、確か、こんな気持ちの時には、こういう言葉を送るべきだったような記憶の残滓がある。

「ありがとう」

 助手が穏やかに感謝の言葉を発すると、どこからともなく吹いてきた風が、灰の教典を安らかに閉じた――。


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