第18話 「イチコロ」
僕は口を開けたまま、何も言えずにただ唖然としていた。
今、美菜ちゃんが思い出した記憶は、僕の頭の中へも流れ込んできた。
僕が今まで経験した、どの出来事よりも辛い記憶だった。
「ごめん。こんなに辛い思いをしてきたのに僕は…。」
僕は気が付くと顔も上げられずに美菜ちゃんへ謝っていた。
「い、いいよ。私だって今まで忘れてたんだし。」
美菜ちゃんは笑顔で首を大きく横に振りながら答えてくれた。
それからは二人共黙りこんでしまった。
美菜ちゃんはしばらくネックレスを見つめたまま、何かを思い詰めているかのような表情を浮かべていたけど、意を決したように僕の方へ顔を向けた。
「ねぇ、このネックレス…、もらってくれない?」
「えっ?僕でいいの?」
さっきも美菜ちゃんに言ったが、彼女が思い出した記憶は僕も見ている。
だからこのネックレスをプレゼントしてくれるというのがどういう意味なのかも当然わかっていた。
「うん!私には勇人君しかいないから…、嫌かな?」
「い、いいや!そんな事ないよ!そりゃ欲しいよ!く、ください!」
僕のいきなり食い込むような勢いで迫った事に美菜ちゃんは少し驚いていたけど、もらってくれると言ってくれて嬉しかったのか喜んで僕にそれを握っていた手を伸ばし、渡してくれた。
「じゃ、じゃあ、私が付けてあげるね…。」
「えっ…。」
美菜ちゃんの顔が近付いてきて、僕は心臓が驚くほど強く鼓動した。
首の後ろに手を回してネックレスを付けてくれた。
さっき抱きしめていた時とはまた違うドキドキ感があって、僕はもうどうすればいいのかわからずオロオロとしてきた。く
首がさっきよりも重くなり、ネックレスが無事に付けられた事がわかった。
でも、不思議だったのは美菜ちゃんは、首に手を回したままの姿勢で止まっていた事だった。
僕はどうしたのか心配になった。
ちゃんとネックレスが付いていなかったのか、それか付けたはいいが、あまりに似合わなくてやっぱり外そうか悩んでいるとか、それとも…と気になって仕方がなかったので、直接美菜ちゃんに聞こうとした。
すると、美菜ちゃんは僕の方へ、さっきよりも顔をぐいっと近付けてきた。
僕は何かされるという恐怖と不安にかられ体を硬直させながら立っていた。
その一瞬…瞬間に僕は何が起こったのかよくわからなかった。
僕は自分の顔に意識を集中させると、美菜ちゃんは僕の頰へ口を付けていた。
それが何を意味するのかよくわからなかったけど、でもはっきりと美菜ちゃんの気持ちが伝わってきた。
僕は何とも言えない気持ちになったまま、ある事を思い出した。
それはさっきの美菜ちゃんの記憶の中に見た真帆ちゃんさんとのやりとりだった。
そういえば、真帆ちゃんさんは美菜ちゃんに何かを耳打ちしていた。
内容までは聞こえなかったけど、きっとろくでもない事なのだろう。
しかし、今僕はそのろくでもない事という名の術中にハマっているのだろう。
僕はそこまで考えたけど、美菜ちゃんの唇の柔らかさが予想以上に僕の「何か」をことごとく破壊していったので、それ以上は何も考えれれずにいた。
ゆっくりと僕から顔を下に向けて離れていく美菜ちゃんが今、どんな表情をしているのだろう。
僕はそのまま美菜ちゃんの顔を見ようとしたけど、美菜ちゃんは手を自分の顔に当てて、慌てながら言った。
「あ…あんまりこっち見ないで。い…言われたから、真帆さんに言われたからしたの。ほ…本当なんだから。」
「う、う、うん。何かごめん。つい驚いちゃって…。」
「で、で、それで、その…、イチコロになった?」
「はへ?」
僕はあまりの突然で意味不明な質問につい変な声が出てしまった。
僕は『イチコロ』の意味を知らなかったので、素直に聞いてみた。
「イチコロって、何?」
「えっ…、真帆さんが言ってたんだけど、これをしたら男の子はイチコロだって…。」
言葉の意味はよくわからなかったけど、真帆ちゃんさんの事だから、大体何を言いたいのかはわかった。
「あ、あー!イチコロね。なったよ。もうイチコロどころかもう十コロくらいかな。」
僕はよくわからない事を言ってしまったと思う。
でも美菜ちゃんは、これで喜んでいるようだったので、これはこれでよかったのだと思う。
きっとこれを言った美菜ちゃん本人もこの言葉の意味をわかっていないのだろう。
その後もしばらくは色々なお話をする事が出来た。
もうすぐお別れなのに何とか悲しい別れにはしたくなかった。
美菜ちゃんもよく笑っている。
花びらは巻き終わったのか舞ってはいなかったけど、相変わらず小さい天狗のお面を付けた妖精は僕らの周りを飛び回っていて、まばゆい光を放っていた。
この光の中で笑う美菜ちゃんの笑っている顔は、本当に綺麗だと心から思えた。
僕達の周りを飛び回ってくれていた妖精達もしばらくすると上空へと向かい昇り始めた。
帰り際に手を振ってくれて、お別れの挨拶をした後、空の彼方へと消えていった。
そして、また静けさが戻った。
僕は何だか少し嫌な予感がした。
これで、もう、美菜ちゃんが行ってしまうのではないかと。
美菜ちゃんも顔を下に向けたまま、何も言わずに黙っていた。
「あ、あのさ、もしかしてもう時間が…。」
僕が美菜ちゃんに話しかけようとした、その時だった。
遠くの方で白く大きい光が空高く打ち登っていくのが見えた。
僕と美菜ちゃんは同時にその光の玉へ目を向けた。
光は遠くにいる僕達が見上げるくらいの高さまで上がると、光は一瞬、宙に止まった。
「な、何だろうね…あの光。」
僕がそう話しかけた瞬間、光は無数のちいさい玉に別れ、方々に散っていった。
その小さい光はあまりに沢山散っていくので空が一面白に染まっていく。
中心にある大きな光の玉からは次から次へと小さい光の玉が生まれ、放たれていく。
光は勢いよく飛び出していき、弧を描くように地面に向かって雨のように降り注いでいった。
中心の光に布のような物がぶら下がっているのが気になったけど、その美しく幻想的な空間に包まれた僕達はうっとりとその光を眺めていた。
中心の大きな光玉から小さい光が放たれるのと同時に中心の光の玉は萎むように小さくなっていき、やがて光に付いていた布のような物だけがバタバタと落下していった。
次に上がったのは黄色い玉。
今度もまた上空へと吸い込まれるように一直線に上がっていき、ある程度まで昇ると小さい光の玉を放出していく。
今度のは先ほどのよりも大きく、光の玉は僕達の頭上にまで届き、光の雨が降り注ぎ、周囲はまるで昼間のように明るく、僕は一瞬太陽に包まれたと錯覚をしてしまいそうになるほどに綺麗で心を奪われていった。
僕は、横にいる美菜ちゃんをちらと見やると、小さい声で「…綺麗。」と言ったきり、その光に夢中になっていた。
やっぱり、光が消えていくとその中心にあった布がパタパタと落ちていった。
黄色い光が消えると、次から次へと連続で沢山の色の玉が打ち上がっていった。
赤や青、緑やピンクの玉が上がると、僕達は歓声を上げた。
玉が打ち上がる度に落ちていく布にも拍手を送った。
ここからだとあの遠くにある布がどんな布なのかはわからないけど、あれはきっと光を放つ布なのだという事になり、僕らはあの布も欲しいね、とワクワクした気持ちで話していた。
ある程度の光玉が打ち上がると、急に辺りが静かになった。
僕達はもう終わってしまったのかと、続きを望むように遠くの空を見つめていた。
僕達は唖然としていた。
さっきまで上がっていた光玉は遠くからでも大きいと感じるくらい相当に大きかった。
しかし、今度打ち上がった玉はこれまでに打ち上がっていた玉の数倍はある。
これまでとは違い、一気に駆け上がるように上がっていった玉とは違い、今回の大玉はゆっくり堂々とした速度で上がっていく。
その大きい玉は黄金のように輝き、まるで太陽が登ってきたかのように眩しく、僕らは慣れるまで直視しないようにしていた。
大玉はぐんぐんと高度を上げていく。
先程の玉よりも更に高いのにあの大玉の方がまだ大きく見えているのはすごい驚きだった。
一目見ただけで、この玉が最後の一発である事を二人は察していた。
「…あの玉が消える頃には…。」
美菜ちゃんはそう言うと少し悲しそうな顔をした。
今の時間は凄く楽しい。
こんな体験は一生に一度体験出来るかどうかだろう。
こんな凄い光景を、自分の大好きな女の子と一緒に見る事が出来て、僕は本当に幸せだった。
でも、そんな幸せな時間はいつまでも続かないのだろう。
始まりがあれば終わりも来る。
僕はこの後、嫌でもそれを痛感するのだろう。
だけど、悲しいお別れはしたくない。
だから僕は最後くらい、笑ってお別れ出来ればいいかな、と思っていた。
でも、それはきっと無理そうだ。
だって、今この時点で既に涙が溢れてきているのだから。
夜空は、光玉の輝きでまだまだ明るくなっていった。
ここまでくると、昼間の明るさというより、宇宙の星の中にいるような、見た事もない神秘的な空間が広がっていた。
光は僕らの遥か後方まで飛んでいき、僕の前から、後ろからとあらゆる方向から光玉が堕ちてきた。
光は僕の体を透り抜けてゆくが、それは痛くも熱くもない。
なぜか僕の体の中を光が通り抜けていく時、心の中が温かくなっていくのを感じた。
堕ちた光は消えずに足元から膝下へと積もっていき、やがて僕の周り全てを光に包んでいくとその空間の中に色々な物が見えてきた。
金色に光る竜や鳳凰が飛び回る姿に僕達は感嘆の声を上げた。
恐竜からポセイドンまで幅広い動物、猛獣、怪物が現れては消えていく。
僕達は手を伸ばして光玉を捕まえようとしたり、飛んでくる光玉を体の中に通したりと、二人で楽しく遊んでいた。
だから急にそよそよと風が吹き始めていた事には全く気付かなかった。
二人の頭上にハート型の輪っかが降ってきた。
僕と美菜ちゃんは背伸びをして二人で手を伸ばして輪っかを掴んだ。
温かいが感触はない。
僕達は残念だね、という顔をしながら照れ笑いしていると、突然僕達の間を強い風が吹いた。
僕は嫌な予感がして咄嗟に美菜ちゃんの手を掴んだ。
風は強さを増して僕達の間をより強く引き裂こうとしていく。
僕は余計に美菜ちゃんの手を強く掴み
、必死で離れないようにした。
「大丈夫だから!絶対に手を離さないからね!」
美菜ちゃんは凄く心配そうな顔をしていた。
僕は何とか美菜ちゃんを安心させようと何度も何度も心配ないよ、と風の音に搔き消されないよう大声を上げた。
光の風は僕達に強くぶつかり始め、僕はもう手を掴んでいるのが辛くなってきた。
もう限界に近い。
それでも僕は手を握り、美菜ちゃんを励まし続けた。
美菜ちゃんも最初は強く僕の手を握ってくれていた。
でもそのうち強く握ってくれていたその手の力は弱くなっていった。
「だ、大丈夫だよ!大丈夫だから!ま、まだ離れないんだ…。」
僕は全力の上に全力を出し切り、これでもというくらいに全力で美菜ちゃんと離れないように頑張って手を握り続けた。
それでも美菜ちゃんの手は風に揺られゆっくりと落ちていく枯葉のようにゆっくりと僕から離れていった。
風は暴風のように強く吹き荒れて、とうとう僕と美菜ちゃんの繋がっていた手が離れていった。
僕は一瞬で絶望に呑み込まれていった。
絶望以外の感情など、微塵も残されてはいなかった。
もう二度と美菜ちゃんに会う事が出来ないとという絶望だけが僕の頭の中を物凄い速さと強さで駆け、暴れ回りそのうち思考までも支配していった。
「こ、これじゃあまだお別れ出来ないよ…だって、最後の挨拶だってまだ出来てないんだから。美菜ちゃん!美菜ちゃん!せめて、最後にお別れの言葉だけでも言わせてよ!美菜ちゃん、どこにいるの?美菜ちゃーん!」
僕は叫び続けた。
喉が枯れるまで叫び、その声が美菜ちゃんに届く事を強く願った。
でも、僕の声はまだ吹き止まない風に搔き消され、どこにも届かなかったし、美菜ちゃんの姿もどこにもなかった。
風がようやく収まってきた頃、とっくに心にと体力の限界を迎えていた僕は膝から地面に崩れ落ち、その場で泣き始めた。
「…お願いだよ…。美菜ちゃん…、このままじゃ…終われないよ…一言でいいから、一言で…。」
空に輝いていた金色の光も次第に薄らいでいき、夢のような空間は一瞬で現実の静かでつまらない日常に戻されるように思えた。
そして、美菜ちゃんにお別れも言えないまま別れていった事に対して酷く後悔し、生きながら地獄にいるのではないかとさえ、感じられた。
僕は疲れと悲しみ、苦しみが混ざり、意識が遠くになりかけていた。
もう、どうなってもいい。
美菜ちゃんがいないのなら…。
美菜ちゃんに会えないのなら…。
もう僕の人生に面白い事なんて、もう何一つなくなってしまった。
このまま僕も美菜ちゃんと同じように向こうの世界へ…。
「ありがとう…。」
僕は遠のく意識の中で誰かにそう言われたような気がした。
誰かはわからない。
でも、どこかで聞き覚えのある優しくて、穏やかで、明るくて…僕の大好きな声がした。
「勇人君、今まで本当にありがとう。私、勇人君に出会えて本当に嬉しかったよ。こんなに楽しかったって思えたのは初めて。本当に、本当に幸せで私は…こんなに幸せでいいのかなって思えるくらい幸せだったんだよ。
最後にお別れ、言えなかったけど、きっと…私、勇人君と…もう一度、どんな形でもまた会える気がするの。だから…また会ってお話してくれると嬉しいな。それじゃあ…行くね。」
僕は意識が無くなる瞬間、そんな事を言われているような気がしたけど、はっきりとは覚えていなかった。
ただ、その時はとても背中が温かくてとても心地よく、凄く安心していた気がするのだけは覚えていた。