その3 フードの男
日付けが変わるぎりぎりに部屋へ戻った。
スキーに行くための荷物は車のトランクに積んだまま。
部屋へ戻って真っ先に暖房のスイッチをONにする。
「まさか戻ってくるとはな」
彼女をアパートまで送って、その足でスキー場へという選択もできた。
ただ、そうしなかったのは
「.... 」
部屋を明るくすれば、自然と手にしたニット帽に視線が向かう。
「ったく面倒かけやがって」
熱いシャワーを浴びている間に、部屋は温まっていた。
ふぅ----と長い息を吐き、冷蔵庫のビールを取り出す。
カシャ
「はぁ---」
さんざんな一日だった。
ここへ戻ってからというもの、口から出るのは愚痴かため息だけ。
こんな俺じゃないのに、と。そう思ったのも今日は何度目か。
頭の中で今日一日をふり返りつつ、ボックスの二番目から小さな日記を引っ張り出す。
『10年日記』
分厚いソレは、釜山を離れる時、母親がくれたものだ。
----大人になったらね、きっと青春時代のことが懐かしく思える日が来るわよ。
そう言った母の表情は忘れないだろう。
「っていうか、そろそろ19歳って息子に『大人になった時』はないだろ」
あれからもう8年経った。
せっかくの贈り物だ、と。毎日一行だけでもと思って書き続けてきたものの。
ペラペラとめくった手が止まる。
厚い日記の後半部分。日記の数枚が破り捨てられているのだ。
この日記の存在を知っているのは、ヨンファ自身と母親だけだ。母親が息子に渡した日記を盗み読んで、しかもわざわざ破り捨てるとは思い難い。
となれば、ヨンファ自身が破って捨てたことになるのだが。さっぱりそんな記憶がないのだ。
「俺ってそんなに女々しいのか?」
破られたページのすぐ前には、元彼女のレナとの日々が綴られていた。
レナとの別れは結構な打撃だったから、その腹いせに破り捨てたのかもしれない。
まったく記憶にないことが不思議だったけれど。
小さく頭を左右に振って、
いつものように立ち上がったまま鉛筆でサラサラと文字を連ねる。
『2016年2月16日』
『スキーに行こうと思ったけれど、変なヒッチハイカーの女を拾ってしまい、結局は家に戻ってきた』
『南怡島の湖は冷たく暗い色をしていた』
「.....あの子」
ふと頭の中に、ソアンという名の女の顔が浮かんだ。
知らない男の車に乗って来ただけでも危ない女なのに、その上、行先はと尋ねれば海か山と答えるあたりがますます危ない。
「マジで、あっちの車に乗ってたら今頃やばいだろ」
後方の車には、確かに複数の男が乗っていた。あんな車に乗り込めば無事でいられるわけがない。
希望通り、海か山には連れて行ってもらえるだろうが、帰ってこれるかどうかは。
「そう思えば、俺は紳士だぞ」
パタン
日記帳を閉じて再びボックスの中へと押し込んだ。
「......」
無造作に置かれたニット帽。
白い帽子のてっぺんに小さく丸いボンボンがついている。
助手席の下に落ちていたのだ。
「明日、行ってみるか」
昼間は駅前のカフェでバイトしているとか言ってなかったか。
「バリスタ修行?まぁ、コーヒーなら味がわからないわけでもないしな」
それに、
今日、あの子に対して結構ひどいことを口走った気もする。
-----だって、あなたが落ち込んでる、から。
「だからって、凍った湖に寝っ転がる、はないだろ」
ただ、不思議と嫌な気はしなかった。
「.... 」
ふんわりとした甘い香りがするそのニット帽を手にして、気がつけばヨンファの口元は笑っていた。
「あ、いた」
駅前のカフェ。
そこにいた彼女は、
黒いバリスタエプロンの紐を腰でギュッと結んで、肩につくかつかないかぐらいの黒いボブの髪も後ろで小さく束ねられていた。
手にした帽子。
「あ、あいつ」
気がつけば、ぎゅっと強く握りしめていた。
ただでさえ小さな顔をしている彼女。
髪を束ねたソアンの顔は、ますます小さく見える。
昨夜は暗かったからか、よくわからなかったが、ここからじっくり見ればなかなか可愛い顔をしている。
丸い瞳とぽってりした唇。少しだけ低い鼻が印象的だ。
そんな彼女の背後からひょいっと姿を現したのは、
「昨夜の警察?」
いや、どっちかといえば、不審者。
その顔は、黒いフードを被った例の男にそっくりだった。
「あいつ、だよな」
今、屈託のない笑顔を見せた先にいるのは、その黒いフードの男だ。
「ソアン?」
別に、
ただ、昨夜はヒッチハイクをしていたあの子を拾っただけで。
別に、
ただ、車の助手席の下のシートに帽子が落ちていただけで。
「ソアン」
ただ、それだけなのに。
ヨンファは胸の痛みを覚えて、小さく、しかし深い息を吐いた。
それはまるで、レナと別れたあの日のような。
口の中にじわっと滲む血の味がした。