銀の月
一番頑張ってるのに公爵涙目の回。
その日の夜。引っ越し作業も一通りーーと言っても屋敷の清掃だけなんだけどーーを終わらせて与えられた小さな部屋に辿りつく。かつて使用人が暮らしていた部屋でなんの飾り気もなく、壁紙さえ貼っていない部屋だった。もっといい部屋があるのに。と公爵は言ったけど掃除が面倒だし、本当はこっちのほうが落ち着くんだ。
ともかく、軋むベッドに崩れるようにして倒れると私は天井を仰いだ。
ーーそう言えば。リディが夜誰かよこすと言ってたけど(偵察に)。タレンかなぁ? まだ来てないけど。
忍び込む必要もないので表からだろうけど、と考えながら手元に持っていた懐中時計を覗き込むと十二時前を指している。
こないな。これ。
来ると言われれば何処か期待して待ってしまう。私は自分の悲しさに辟易しながら独りごちて身体を反対方向に傾けた。
ふと目に入るのは小さな窓。
その奥には夜空が広がり弓形になった月が淡く輝いていた。銀色の淡い輝きはまるでーー。
「ーーつ?」
私は幻覚を見ているんだろうか?
擦れる蝶番の音。カタンとガラスの音が微かに響いて窓の外、かすかに冷えた空気が部屋の中になだれ込んでくるようだった。
そのーー『光』ごと。
「よ!」
……。
どうやら、私はついに頭がおかしくなったみたい。そりゃ、頭がおかしくなったんで、目もおかしいよね。
しかも重症だわーーこれ。
しかも、目を擦っても消えてくれないってーー。本当にまずくない? 薬持ってないかな? サイ様。
思わず。身を軽く起こしたまま固まってしまった私に、彼ーー王子は軽く笑って私の頬をつねる。
「なんて顔してんだ?」
「……」
えっと。痛いんですが?
なんで? これは私の心が生み出した願望じゃないの?
ーー?
「ウェル?」
混乱したままダークグレーの双眸を覗き込むと嬉しそうに輝いている。まるでそこにあるように……。
そう思うとまるで沸騰するように頬が赤く染まる世を感じてしまって逃げようとするんだけど、頭ががっしり固定されていのはどういうことだろう?
ドクドクと心臓の音がうるさくて、聞こえないかとーー幻覚なのにーー心配で私は思わず顔をしかめてみせる。
幻覚でも、気付かれたくなどなかった。私が知ってしまった気持ち。それはとても、痛くて苦しい。けれど瑞々しくて温かい。
それを簡単に壊されたくなどなかった。
「……なんだよ? 来ては行けなかったのか?」
何とか手を引き剥すと私はベッドから離れて近くにおいてあった椅子に腰を掛けた。椅子と言っても粗末で古びた椅子。足はグラグラしていて今に壊れそうだった、けれど。
とにかく、頭はおかしくなってなかったらしい。本物だと独りごちてから息をついた。
「この屋敷には門があったはずだけど? 不法侵入ですからーーで。何かようですか?」
ベッドの上。取り残された青年は長い足を組んだ。白い頬がろうそくの明かりに照らされて温かな色合いを醸し出していた。
それにしても長い足は嫌味か何かですかね? ポンポンと隣を手のひらで叩いても座らないからね?
「……用がなきゃ来ちゃダメかよ? ひでぇなぁ。もう会えないっていうのに」
私は相手の笑顔を写すようにして微笑んでいた。
「もう、あなたに会うつもりもないわ。でも、リディのことはたのんだわ。あれでも、あんたのお陰でああなったんだから責任は取ってほしいわ」
まぁ、精神は自称『夫』のタレンがいるから大丈夫だとーー。
あれ?
私。タレンの陰謀で籍入ったままだよね? えっと。結婚してたらいろいろ面倒くさいんだっけ? 仕事や収入。家を借りるのにも……。
ち。
ーー明日書類もらって突きつけてやらないと……。
考えていると目の前に一枚の羊皮紙が差し出された。今は紙が普及しているんだけど少し昔は羊皮紙だったんだよね。今では冠婚葬祭や儀式。そんな大切なセレモニーにしか使わないんだけど……嵩張るし。その羊皮紙。私も目にする機会なんてあまりないんだけどそれには丁寧な文字で『離婚証明書』と書かれていた。
おお、なんてグットタイミング!
空気を読んだんですねーーって、そんな器用な真似ができるか! このアホ王子に!!
私は不信げにそれを持つと半眼で彼を見つめた。
「なに?」
一体何の裏がーー。
「別に、離婚ぐらいならすぐ出来るーー書類上はな。ただ離婚なんて王家は公式に認められないし、認めねぇんだ」
何の意地なのか。と自嘲気味に鼻を鳴らす。
私は改めて羊皮紙に目を通した。ああーーようやく私は気づいた。これはウェルとリディの証明書なのだと。
でも、だからって、なに?
「ええと、ーーこれを私にどうしろと?」
出してこいと? 殺すよ? マジで。どうせついでに離婚届貰ってくるけどさ。明日には行かないと。面倒だなぁ。もう。
「だから、今日は王家ではない俺として来た」
彼は肩を竦めてみせた。
「何を言っているか全くわかんないんですけど?」
ただの人と言いたいんだろうけど、王家は王家。切り離されるものではない気がする。だから離婚届なんてやっぱり意味ないし。
私は顔をしかめていた。
王子は呆れたようにしてため息一つ。
「ほんと、お前って鈍いよな? ーーサイが、お前を指名した意味すら分かってねえだろ? 」
「意味ーー」
そう言えばまともに聞けなかったような? なんだかんだで、なんかずらされた感? まぁ、やっぱり後ろめたさとかーー。え、告白? あれは冗談だし。
「知ってるの?」
ぼんやりと見ると不満そうに口をへの字に曲げた。なんか、イラッとする。
「知らねぇよ。知ってても言わねえし」
「なら言わないでよーー悪いけど疲れてるんですが?」
眠いし。帰れ! 私は羊皮紙を彼に押し当てて、入り口のドアを開いた。
動かないね。うん。私も動かないよ? 出てくまで。
「俺さ、ホント手放そうと思ったんだよなーー終わらせようと考えてさ。お前にもこの先の人生かあるから、あそこにとどまらせているわけにも行かねえし」
王子はゆったりとしたしぐさ出立ち上がると私の前に立って指を扉に掛けた。
フワリと薫る柔らかい匂い。肩が触れるか触れないかの距離に心臓が跳ね、ほとんど無意識に私は体を離していた。
逃げるように。
「リディも、解放を?」
「……何とかなるだろ? 俺は離婚を認めさせるつもりだしーーあいつには申し訳ないことをしたと思ってる」
「良かった」
本当。凝りの様に心の隅にあったものが溶けるような気がして私は胸をなでおろしていた。これで心配事はひとつ消えた。
ふっと見上げる顔が近いんですが?
落ち着かずに一歩下がると一歩近付くという始末。
ええと。
「じゃなくて問題はーーやっぱり俺が手放したくないと思ったことだ。俺はお前に対して何も伝えてないしーー」
「……」
何をだろう。その目があまりにも真っ直ぐで微かな色を含んでいる気がして私は目を外す事が出来なかった。
心をよぎるのは微かな期待。けれど、その倍以上にその期待を否定している私がいる。
ーーそんなのはダメだ。と。
滑るような細長い指。それが私の指に絡んだ。
「リア」
低い声に全身が軽く震えた。ダークグレーの瞳から私は相変わらず目を逸らせなかった。
「……『愛してる』」
ーーダメだ。違う。ダメ。
じわりと背中に汗がにじむ。歓喜なのか切なさなのか苦しいのか良く分からない。ただ、必死に混乱しだす頭を現実に引き止めていた。
私は口端を少しだけ上げる。バカバカしそうにウェルを見上げた。
「前にも言ったけどあり得ないーーあなたが、私を好きになる要素ってどこにあるの?」
美人でもない。胸もない。地味だし小さい。華やかさにもかけるしーー。バカにしないで欲しい。
沢山の愛人の一人になんてなりたくないーー。嫉妬にまみれて生きたくなんてないんだから!!!
「リアは俺を勝ち取る気なんてないのか?」
どんな自信だ!
それ!
私がーー王子をすきみたいに……。
……あれ?
……え?
バレてるの?
私が弾けるように顔を上げると影が落ちた。微かに見たのは勝ち誇った顔ーー。
「努力はする」
呟きは口元に消えていく。触れたのが唇だったのか心だったのか私には良く分からなかった。




