静夜の旅人
静かな夜だった。
日本の都内近郊に佇む、比較的新しい瀟洒な家の寝室で男は静かに決意を固めていた。
コンプレックスでもある、男の整った容姿は、この国の人間とは少しだけ違っていた。
鴉の濡れ羽のような、艶のある青を帯びた黒髪に、抜けたように白い肌。
明るい所で目を凝らさねば分からないかもしれなかったが、瞳は深い紺色だ。
茶色がかった黒い髪と瞳、象牙色の肌。
揃いも揃って似たような色彩を持つこの島国の住民たちの中で、男は紛れもなく余所者であった。
近いけれど、何より遠い。
無論、そんな心無い事を面と向かって言ってくる者はいない。
何しろ、こんな異物が混じっているにも関わらず、男の異端さに気付く人間は妻以外に存在しなかったのだから。
この国の住民は時に排他的だが、基本的には温和で他人に優しい、平和を愛するお人好しだ。
そんな彼らが、男はたまらなく羨ましかった。
男に、同種と呼べる人間などいなかったからかもしれない。
人と群れるのは苦手な癖に、一人を寂しがる。
我ながら面倒な人間だと、男は小さくため息を吐いた。
いつもならば、寝間着に身を包んで心地好い寝具に潜り込んでいる時間だったが、決意を固めた男に眠気など訪れる訳がなかった。
黒いジーンズとシャツ、一際年期の入った擦り切れた生成り色のマント。
誰が見ても旅装束に見えるだろうそれらに着替えたのは随分前だというのに、離れ難いと煮え切れずにいる己に呆れるばかりだ。
男が腰掛けるベッドには、彼が唯一愛した妻と生まれたばかりの息子が眠っている。
いつまでも見ていたい、穏やかな寝顔。
男と揃いの息子の柔らかな黒髪を撫で、男はそっと目を閉じた。
この世界に飛ばされ、十年。
帰還することを諦め、なんとはなしに働き始めて九年。
新しい世界で生きていくつもりだった。
初めて愛しいと感じた女性と、家族になっていくのだと。
少しの寂しさと、申し訳なさを感じながらも安堵していた。
あの世界はどうなったのだろう。
問題は誰かが解決してくれたのだろうか。
この地に辿り着いた頃は家族を持つなんて考えもしなかった。
がむしゃらに、帰路を模索していた。
そのくらい、彼は彼がいた世界を好いていたのだ。
いや、あれは好きだった訳ではなかったのだろう。
単に、執着していただけ。
それは仕方のないことだ。
あの世界にしか、彼の存在意義はなかったのだから。
それを思い出して、そうだ、と男は息を吐く。
あの世界あっての己だった。
だから、帰らないことを選択する、そんな自由はないのだろう。
男の脳裏を艶やかな濃紺の髪が舞う。
表情の抜け落ちたような聡明な面立ちを思い出す。
あまりにも鮮烈な記憶。
男はぐっと拳を握りしめた。
知っている。
貴方にとって、俺はただの物でしかなかった。
「分かってる、……分かってるんだ」
道は開けた。
考えもしなかったものの先に、道は用意されていた。
帰る道が出来てしまった以上、男にここに残るという選択肢は与えられていない。
しなくてはならない事があった。
―――例え、そんな事をあの世界に住む誰もが望んでいなかったとしても。
彼は眠る妻と、まだ幼すぎる息子に謝罪する。
自分勝手な夫で、父で、本当にすまなかった、と。
ここに残る選択肢は与えられていない。
残るという選択を、男はどうしたってすることが出来ない。
男は切なく笑った。
どうして、俺は普通に生まれる事が出来なかったんだろう。
彼女と出会って、何万と繰り返した疑問。
その度彼女は彼に自信をくれた。
だからこそ。
無価値なまま生き長らえるなんて望んでいない。
俺は、俺の役目を果たす。
男は再び妻に目を向けた。
するりと、唇から言葉が溢れる。
「君に逢えて、俺は本当に幸せだった」
男の表情は、声は愛情に満ちていた。
泣きそうに笑いながら男は眠る妻の額に口づけを落とす。
強い、女性だった。
人らしい感情、優しい記憶、愛しい家族。
その総てを君がくれた。
俺は、この思い出だけで生きていける。
ただただ申し訳なく思う。
待っていなくていい。
君は君の幸せを見つけて欲しい。
そんな願いも、自分勝手なものだと分かっていたけれど。
そして彼は、眠る息子の手を握りーーー
この世界から消えた。
眠る妻の眦から、一滴の涙が溢れた事に彼が気付くことはなかった。