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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

SATAN 本当の悪魔

作者: 小林達也

神の名の下に殺し合う人間が見えるか?慈愛・真実・ 哀れみ、お前の説いた嘘が奴らの命をもてあそんでいる。おかげで俺 は退屈する暇もない。恐怖、憎しみ、絶望、その全てが俺の餌。 一人残らず死の暗闇に堕してやる、それが俺の愛なのだから。

―― ―― 悪魔

男の肉体が灰となり私は再び世界に這い出そうとしている。どれほどこの日を

待ちわびたことか。男は武器商人だった。多くの血と引き替えに巨万の富を築き、

その金で世界中の女を買った。毎日のようにベッドの上で思いつく限りの痴態を

晒す彼の性器には、大粒の黒ダイヤが埋め込まれていた。私はそのダイヤに長い

年月封印されていた。ある夜、男は女に自分を埋め、攻めたてていた。片手には

火のついた蝋燭、溶け落ちた蝋が乳房に滴り肌を赤く染めた。薄ら笑いを浮かべ

る男。あまりの激痛に女の内部は痙攣した――鍵は掛けられた。きつく締め上げ

られた男は呻き声を上げ、呆気なく心臓は止まった。手を放れた蝋燭はシーツに

転がり一気に燃え上がった。錯乱する女、繋がった二つの肉体は成す術もなく炎

に包まれていく。肉の焼ける臭いがする。息絶えた女の鍵はこわれ、男の身体は

床にどさりと落ちた。むき出しになった性器。すぐにダイヤも熱く熱せられ、

発火しはじめた。もうすぐだ――、私は悪魔として愚かな行いをした忌まわしい

あの日を思い出していた。


200年前、この世は血に淀み汚れていた。私の仕業ではない。人間が神の名の

下に殺し合っていたからだ。敵国の兵士たちは他民族を根絶やしにしようと、

洗礼を受けたばかりの子供の頭を叩き割り、女を玩具のように陵辱した。奪い取

った土地に母国の花を咲かせる独裁者。戦争は死への恐怖を薄れさせ愛国心へと

陶酔させる。私の快感は、恐怖に狂った人間が自ら断崖を飛び降りる一瞬の表情

を見る事だ。しかしただ死ねばいいというものではない、重要なのはどれほど悩

み苦しんで死を選ぶかなのだ。なのに人間どもときたらまったく・・・、奴らは

動くものならな何でも踏みつけ殺した。それはまさに殺人機械、品もくそあった

もんじゃない。何故こんなつまらない振る舞いをこうも好むのか?悪魔の私にさ

え奴らを理解できなかった。

たとえ平和な国であっても、それは一時の幻。貧しき者は苛立ち、互いのパンを

奪い合う。仕事にあぶれた父親は僅かな蓄えを安酒に代え、政治のせいにして

くだを巻く。そして亭主に愛想を尽かした女房が優しそうな男に愚痴をこぼし

見返りに身体を与える。身ごもった女は薄汚いトイレで赤ん坊を産み、教会の前

に捨てていく。

神、神、神‥‥、あの偽善者が現れてから、人間はいつの時も「神のご加護を」

と呟く。しかし「神の祝福」という気まぐれな善意を求め、祈りを捧げてはみる

が、もし隣人にその祝福が与えられようものなら、人間は妬み嫉妬し最後は無気

力になる 「なんて自分は不幸なのだ」と嘆き悲しむ。 。

私達悪魔には戦争より、この方がまだ見ていて愉快だった。無気力に支配された

人間は神を忘れる。そして何も信じられなくなり、悩み苦しみ、最後には自らの

命を絶とうと、断崖に近づいていく。地面の切れたその先に”楽園”があると心

を時めかせ、膝を震わせるでもなく彼らは足を踏み出す。何人そうやって逝った

ことだろう。悪魔の耳には世界中の嘆きが聞こえてくる。そんな私が気まぐれを

起こしてしまった。




私は神と同様に全ての人の一生を見ることが出来た。ある時、一人の女に興味を

もった。名はアリス、彼女はロバ使いの5番目の子供として生まれた。母親は彼

女を産んだ為に死んだ。酷い難産だった。

妻を愛していた父親は悲しみに暮れた。しかし5人の子供を抱えていては涙ばか

り流してもいられず働きに働いた。そして稼ぎの少ない父親の為、子供達はみん

な小さい頃から働かされた。村では別に珍しいことではない。父親はアリスが

三歳になると他の子供達にはさせなかったきつい仕事を彼女に課した。村の牛飼

の牛舎で朝から晩まで糞を荷車に乗せて捨てる仕事だ。少しでも休めば怠けたと

賃金を減らされ、それを受け取った父親は「何故これしかない」と、よく撓る鞭

でミミズ腫れになるまで彼女を打ちのめした。幼いアリスはいつも怯えていた。

泣くという行為も知らずに、何事もなくただ一日が平穏に終わればといつも思っ

ていた。しかし何故アリスだけがそんなふうに扱われたのか?一つは妻が死んだ

のは彼女のせいだという父逆恨み、もう一つは彼女の容姿があまりにも醜い為だ

った。一重瞼に大きな目、鼻はつぶれ口は曲がっていた。髪は赤くまとまりのな

い天然パーマ、肌はざらつき皮膚病のよう。兄弟の誰もがアリスを馬鹿にし父親

も彼女を抱くことはなかった。そんなアリスを村の誰もが、醜い蛙の子と呼んだ。

しかし彼女は心根の優しい心の強い子だった。確かに辛い毎日だったが、それで

も兄弟のいるテーブルの隅で一緒に食事の出来る事を喜び、たとえ仲間に入れて

もらえなくても、兄や姉の話を聞けるだけで嬉しかった。一人じゃない、そう思

うと、どんなに辛いことも耐えられた。




アリスが10歳になったある日。兄姉達と違って学校に行かせてもらえない彼女

は、いつもの通り牛の世話をしていた。正午少し前だった。彼女はジムという

黒牛と話をしていた。

「学校にいきたいな、みんなと遊びたいし、本も読みたいよ」

だらだらと涎を垂らすジム。

「兄さん達はライ麦ぱんにチーズとミルクを持っていったのよ」

アリスに与えられたのはジャムの瓶に入った余り物のスープだけ。

「楽しいでしょうね」

アリスはジムの背中をなでた。すると身体が熱いことに気づいた。そういえば

どことなく元気がない。何故かなと思いながらも、いつものようにジムの後ろ

に回り、糞を荷車に乗せようとした。すると水のような糞がジムの後ろ足にべ

っとりと付いていた。異様な臭いが鼻をついた。‥‥病気だ。アリスは主人の

家に飛び込んだ。

「ジムが大変、おじさん直ぐ来て、ジムが病気なの」

アリスの高い声は家の中に響き渡った。しかし返事はなかった。

「おじさん――」

アリスは何度も呼びながら、部屋のドアというドアを開けてまわった。奥の

寝室から主人の声がした。アリスはその部屋のドアを開けた。

「おじさん、大変!」

いつも小言を言う奥さんとは違う女がベッドで主人の男性器をくわえていた。

「何なの、この子。‥‥臭いわ、臭い」

女は手で胸を隠し、口の周りに唾液を光らせ喚きたてた。

果てる寸前だった男は突然のアリスの出現に、それが中断された事にひどく

怒った。

「馬鹿野郎、早く出て行け――、そんな汚い格好で入ってくるな!」

「でも、ジムが‥‥」

女は鼻をつまんで吐く真似をした。男はカップを投げつけた。それはアリス

の右目に当り、彼女はよろめき倒れた。男は音をたてドアを閉めた。部屋か

らは又あえぎ声の波。ドアの外では激痛にうずくまるアリスがいた。見る見

るうちに目は腫れ、開けることすら出来ない。タオルを水につけ、熱をもっ

た右目に当て、仕方なく牛小屋に戻った。ジムは糞の上に横たわっていた。

荒い息づかいと共に水の糞が吐き出され、大きな瞳が切ないと訴える。午後

になっても主人は現れなかった。ジムの息づかいは一層切なさを深めた。救

ってやれない無力さに胸を痛めるアリス。自然と涙があふれ、腫れた右目に

しみた。

「ジム、ジム‥‥」

ここでしか会えなかったけれど、彼女にとって唯一の友達だった。夕暮れが

近づくころジムは息を引き取った。他の牛たちもジムが死んだことが分かっ

たのだろう、牛舎に彼らの嘆きがこだました。アリスの涙も枯れ、冷たくな

ったジムの体にもたれ掛かり、打ちひしがれていた。

「ごめんね」

あたりが暗くなりかけ、遠くの山の稜線が空と見分けがつかなくなった頃、

主人は漸くやってきた。彼の手に持たれたカンテラがアリスとジムを照ら

し出す。

「おじさん、ジムが‥‥」

力無く話すアリス、そんな彼女に向かって主人は言った。

「おまえが悪いんだ、もっと早くに気づけば死なずに済んだろうに」

アリスは首を振った。

「おじさんに言いにいったよ」

「何のことだ」

「だって、女の人と‥‥」

主人は拳を振り上げた。

「でたらめを言うな、俺はずっと牧草を刈ってたんだ」

見たままをアリスは言ったのに、何故、主人が否定するのか訳が分から

なかった。

「あなた――」

奥さんの声が牛舎の入り口の方からした。

「いいか、でたらめをもう二度と言うな」

主人はアリスの口を鷲掴みにすると、唾のかかりそうなほど顔を近づけ

言い含めた。

「どうしたの、家には明かりもついてないし、こんなところで、何かあ

ったの」

こちらにやってきた奥さんの顔にカンテラを近づけ主人は言った。

「いや、アリスが牛の具合が悪くなった事を教えなかったのさ」

「で、牛は?」

「俺が来たときにはもう手遅れだった」

「アリス、そんなになるまでなぜほうっておいたの」

主人はアリスをにらみつけた。

「どうせ仕事を怠けて遊んでたんだろ、だから気づかなかったんじゃな

いのか」

これ見よがしに奥さんに言った。彼女は合理的な人間だった。平たく言

ってしまえばケチだった。

「じゃあアリスに弁償してもらうしかないわね、あなたの不注意なんだ

から」

牛小屋の掃除をさせられていただけのアリスに、夫婦は責任の全てを押

しつけようとしていた。アリスには弁償という言葉がなんのことか分か

らなかった。

「疫病神――」

父親はアリスを足蹴にして怒った。牛舎の主人にロバを買う金を借りて

いた父親。その返済も滞りがちなのに、その上、半年分の収入に等しい

高価な牛の弁償など不可能な話だった。しかし今それを渋ったなら、

借金を全て返せと言われるかもしれない。アリスに無性に腹が立った。

鞭がうなりをあげて彼女の皮膚に食い込んだ。右目を押さえ頭を抱えな

がら、アリスは床にうずくまった。兄弟達も

見て見ぬ振りをした。身体中にアザができた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、言うことを聞きます、

ごめんなさい」

アリスは思いつく限りのわびの言葉を並べた。そして心の中でおかあ

さんと一度も見たことのない母に助けを求め叫んだ。しかしその夜、

彼女の悲鳴は止むことはなかった。




それから一週間後、アリスは売春宿で客を取っていた。悪魔の立場か

らすれば、アリスの子供時代はなんと興味深い時間だったろう。常に

苦しみの中に身を浸し、恐れと苦痛が交互に押し寄せ、死ぬこともお

ぼつかない。内戦の地で地雷を踏み、一瞬にして死を押しつけられる

子供より、生きているという実感が沸いたのではないだろうか。

その後アリスは、売春宿で20年を過ごした。あまりに醜いその顔に、

宿の女主人はアリスの部屋に明かりをつけなかった。暗闇の中、彼女は

ずっと男の相手をし、風呂とトイレ以外は太陽の光を見ることはなか

った。次第に視力は弱まり、終いにはなにも見えなくなった。彼女は

兄弟たちと過ごした僅かの日々を思い浮かべ、空想の中で、子供の頃

見た花畑や、家の横にあった澄み切った小川で遊んだことを懐かしん

だ。客のいない僅かな時間と暗闇だけが彼女の安らぎだった。そして

母の名を呼びながらいつしか死を望むようになった。天に昇れば母に

会える、汗くさい男達の乱暴な包容でなく母の暖かい腕に抱きしめら

れたい。そう思う日々が次第に増えていった。しかしそんな真昼の夢

も奪い取られる日が来た。アリスは長年の無理がたたり体を壊した。

客を取れなくなった彼女を女主人は、僅かばかりの金とみすぼらしい

服を与え、寒空に放り出した。子供の時に連れてこられた町。まして

や目の見えないアリスにどこへ行けというのか。杖もない彼女は家の

壁づたいに歩いた。それをいやがった家主は道の真ん中に突き飛ばし

た。仕方なく膝をつき、犬のように道を這い当てもなく彷徨った。

どれほど時間が経った頃だろう、甘く香ばしい香りがアリスの鼻をく

すぐった。パンのような・・・しかし自分の知っているそれとは明ら

かに違う甘い香り。子供の時から、硬いライ麦パンしか口にしてこな

かった彼女にとって、不思議で魅惑的な心くすぐられる香りだった。

顔をその香りのする方へ向け、大きく息を吸い込んだ。するとその様子

を店内から見ていた主人が出してきた。

「乞食、じゃまだ、おまえに恵むものはない、早くどこかへ行け」

「お金なら・・・ここに」

アリスは売春宿の女主人からもらったお金を店主に差し出した。

女主人が渡したのは、彼女が客からもらう一回分の僅かな金でしか

なかった。

「これで買えるだけください、買えるだけ」

店主は土まみれのアリスの手から金を受け取った。店の周りには野次

馬の輪が出来ていた。

「野良猫がパンを買うところ、初めてみたよ」

「ほんと!」

嘲笑いが波となって辺りに伝染していった。他の客が店に入りたく

ても野次馬が邪魔で入れなくなっていた。それを見た店主はパンを

入れた袋をアリスの前に放り投げ舌打ちをした。

「三つでいいだろ、まったく、商売のいい迷惑だ。さあそれを持って、

早くどこかへいってくれ」

「あ、はい」

焼きたてなのただろうほのかに暖かい袋を胸に抱え、アリスはその

場から立ち去った。しばらくして彼女は町はずれの水車小屋に潜り

込んでいた。朽ちた板木の隙間から木枯らしが吹き込み、地面の埃

を舞い上がらせた。寒いなどという言葉では表せないほど空気は凍

てついていた。しかし彼女は幸せだった。袋に鼻をつけるととろけ

てしまいそうな甘い香り。そっと取り出し手のひらにのせ頬に当て

てみた。潰れてしまいそうなほど柔らかいパンだった。なにやら表

面にたっぷりと塗ってあった。アリスのような貧しい家庭ではジャム

など贅沢品だったから、彼女にはそれが何か分かるはずもなく、指先

についたジャムを舐めてみた。胸が震えた。そして誰にいうでもなく

「ありがとう」

と感謝した。そしてこれを食べたならもう死んでもいいと思った。

何の迷いもなく母親の元に登っていける。どれもこれもアリスにと

って言葉に出来ないほどの幸せだった。そのとき水車小屋の入り口

で女の子の声がした。

「おばちゃん」

幼い声だった。

「うん?」

不意の事にアリスは戸惑った。女の子はとことこと側に近寄ってきた。

「どうしたの?」

アリスは女の子の手を取った。腕はとても細かった。

「おばちゃん、美味しそうなパンの匂いがする」

アリスは切なくなった。子供の頃の自分と同じだった。女の子は黙

ってなにもいわなくなった 「これ、あげよう?」という言葉をじっ

と待っている。しかし今の彼女とって命と同じくらい大切な物だっ

た。水車の回る音が大きく聞こえた。続く沈黙に耐えきれず、アリ

スは聞いてしまった。

「これ好き?」

聞くだけ野暮な話だった。

「うん、昔、お母さんがお菓子みたいな甘いパンを焼いてくれた」

「昔って・・・お母さんいないの?」

「いなくなった、男の人と」

はじめから母親のいない私といたはずの母親に去られたこの子、どち

らが寂しいのだろう。そうと思ったとたんアリスは女の子がかわいそ

うになり言ってしまった。

「食べる?」

「いいの?」

女の子の声は花が咲いたように色づいて聞こえた。アリスは手に持っ

ていたパンを見えない目でじっと見つめ、そして差し出した。アリス

が手渡すよりも前に、女の子は奪い取った。

「ありがとう」

女の子は声を弾ませ、水車小屋を飛び出していった。まだ二つ残って

いる――、そう思わないといられなかった。

誰もいなくなった水車小屋で座り直し、袋を膝の上に置いて手を伸ば

した。よく香りを嗅ごうとするあまり、近づけすぎて鼻の頭にジャム

が付いた。冬の寒さなど少しも感じなかった。口の中に唾液が広がり、

見えない目にもパンが見えた気がした。アリスは両手でそれを持ち口

づけした。そして小さな口をもっと小さく開こうとしたその時

「おばちゃん」

またさっきの女の子の声がした。アリスはなにもいわなかった。石に

なろうとした。消えたかった。

「お兄ちゃんたちが、私のよこせって‥‥」

女の子は泣いていた。見えない目にもうっすらと三人の人影が映った。

怒りがこみ上げてきた。泣き声に腹が立った。こんな小さな幸せまで

も自分から奪い取ろうというのか?無神経なこの子達にアリスは声を

あらげそうになった。女の子はしゃっくりをしていた。泣いて抵抗し

たのだろう、アリスは自分が父親に責められていた昔を思い出した。

「‥‥はい」

アリスも泣き顔で笑い、仕方なく手に持っていたパンの袋を子供らに

差し出した。歓声が湧いた。

「おばちゃん、ありがとう、ありがとう」

アリスの首に抱きついて礼を言い、その手にした袋の中でパンの揺れ

る音がする (早くどこかへ行って、はやく)アリスは悲しくて仕方

なかった。子供たちはただただ無邪気に喜び、三人ははしゃぎながら

土手沿いの道を帰っていった。アリスは土床に倒れ込んだ。

「なんでなの‥‥」

そう言ったきり声を上げて泣いた。なんにもない、子供達を恨む気力

もない、もう考えたくない。鼻についたジャムの香りが切ないほど香

っている。しかしもう口に出来ない、残酷すぎる。すすり泣く声は吹

き込む風にかき消され次第に細くなっていった。このままこの身が消

えてなくなればいい、早く早く――。空腹と疲れと寒さに意識が遠の

いていく。ようやく楽になれると思った時、水車小屋のドアが開いた。

「おばちゃん、おばちゃん」

もう声も出なかった。青白い唇がかすかに動くだけ。

「あんたかね、大丈夫かい、しっかりしなさい」

老人のしわがれた声がし、暖かい腕がアリスを抱きしめた。

「すまんな、子供たちがわがままを言って」

アリスの姿を見て娼婦か乞食だと老人は察した。

「さあ、こんなところにいては死んでしまう、家にきなさい」

「私は‥‥」

アリスの冷え切った指先を老人はさすった。

「何にも心配せんでいい、どんな気持ちで子供らにパンをくれたかようわかる」

アリスは目に涙を浮かべた。

「わしにはできんかったかもしれん、さあ、遠慮せんでいいから」

老人の暖かい腕は小さなアリスの体を抱え上げた。

「つかまっておれ」

昨日まで、男の汗にまみれた腕で、背骨の折れるほど抱かれたことは

何度もあった。けれど、こんな風に包み込まれるように抱きしめられ

た事などなかった。なんと男の腕は逞しく、安心できる場所なんだろ

う。アリスは思いなが老人の胸に頬を寄せた。そして家につくと藁の

ベッドに寝かされた。子供たちは嬉しいのか家の中を走り回った。

「さあスープだよ」

老人はスプーンを彼女の口に運んだ。決して美味しいと言えるもので

はなかったが、それでも心にしみた。

「美味しい」

「おせじはいいよ」

老人は笑った。

「いく所はあるのか」

アリスは顔を伏せた。

「なら好きなだけいたらいい、ただしこんな家で良ければじゃがのう」

老人の傍らにいた女の子がアリスの手を取った。

「でも、見てのとおり目も見えないし、御迷惑では‥‥」

「無理にとは言わないさ、しかし体を壊している様子だから、せめて

暫くの間だけでも。気が咎めるなら子供達の面倒でも見ておくれ。そ

れならわしも助かるからのう」

「お母さんだ、私にもお母さんが出来た。あたしメイスよ」

女の子はアリスの頬にキスをした。

「どうせ貧乏な家じゃ、子供らの親もおらん。あんたも気兼ねせんで

ええ」

話を聞くと子供たちの母親は他に男を作り、家を飛び出し、父親は

母親を親取り返しに言ったまま帰ってこないらしい。残された子供

たちを祖父が引き取り育てているとのこと。しかし既に祖母も亡く

なり、年老いた老人には満足に世話ができないと嘆いていた。実際

動ける体力もないアリスは言葉に甘え、二日間だけのつもりで泊め

てもらうことにした。しかしそれが一週間になり、一月になり、気

づくと半年が経っていた。

アリスはせめてものたしになればと機織りをした。いつしか子供達

は心からアリスのことを母と慕い「ママ」と呼んでいた。かわいい

子供たちに囲まれて幸せだった。家族を持ったのだ。貧しさなど気

にならなかった。人の温もりの中で暮らせることが嬉しかった。

ある夜、アリスは老人に言った。

「こんな幸せを与えて頂いて‥‥、なにもお返しできません」

そういうと服を脱いだ。男が喜ぶ事といったらこれくらいしか思い

つかなかった。

「おまえは子供たちの母親になってくれた、ならば私の娘」

老人はアリスの足に絡まった寝間着を持ち、彼女の肩に掛けた。

「ボタンを閉めなさい、風邪を引くぞ」

老人はアリスを抱き寄せ、額にキスをした。

「もうこんなことを考えるな、ここはおまえは家なのだから」

アリスの髪をなでる老人のしわがれた手、今まで得られなかった愛を

取り戻すかのように彼女はそれに思いっきり甘えた。あくる日、アリ

スは小麦粉とジャムを買い、近所のお婆さんからあの柔らかなパンの

焼き方を習った。普段硬いライ麦パンしか食べていない子供たちは、

竈の前から動こうとはしない。香ばしい匂いが部屋中に広がり、しば

らくするとこんがりとパンが焼き上がった。アリスはたっぷりとジャ

ムを塗りテーブルに広げた。

「一人二つよ、さあ食べなさい、残りはおじいちゃんの分」

アリスは指ついたジャムを舐めた。10歳になって数を数えられるよ

うになっていたメイスは言った。

「お母さん、八つしかないわ」

「かまどが小さいからね、あとでお母さんの分は焼くからいいのよ」

子供たちはそれを聞くとようやく食べ始めた。

「あまーい、おいしい――」

何度も何度も繰り返す子供たち。子犬が無我夢中でミルクを飲むよう

でアリスは可笑しくなった。そんな彼らを感じながら白湯を飲む彼女。

しかし結局、自分のパンを焼く事はしなかった。この幸せはあの時

ジャムパンを食べなかったから。もし今、口をつけたらこの幸せが逃

げていきそうな気がしたからだった。彼女はそれからも何度となく

子供らの為にお菓子のような甘いパンを作ったが、それを口にするこ

とは決してなかった。




10年後、その幸せもほころび始めた。優しかった老人はこの世を

去り、翌年一番上の息子アルバートは兵役にとられ戦死した。そして

二年後、二番目の息子、ピエトロは兵役を拒否しレジスタンスとなっ

た。行方もわからまま、更に四年が過ぎた。ある日、軍から一通の

手紙が届いた 『貴女の息子は、国に謀略を犯した罪で収監し、今朝

処刑された。遺体を引き取りにくるなら、明後日までに地方総監司

令部 捕虜収容所までこられたし、さもなければ他の遺体と共に埋葬

する』娘のメイスが手紙を読んだ。アリスの嘆きがかまどの火を揺

らした。

「殺すなら私を殺せばいい、何故、あんな優しい子を」

50近くになっていたアリスは、売春で病んだ身体が悪化し、杖なし

では歩けなくなっていた。不自由な足をひきずり、メイスが引く荷車

の後を押した。快晴の朝だった。しかし目の見ないアリスの心には深

く立ち込めた黒雲から大粒の雨が降っていた。

収容所に着くと、地面に堆く積まれた何人かの遺体の中から、ピエト

ロはこれだと看守に指示された。しかしメイスは兄の元に近寄らな

かった。アリスは聞いた。

「どうしたの?」

メイスは答えなかった、答えられなかった。アリスは看守にせかされ

るままに、恐る恐るピエトロに近づき顔に触れた。指先に息子の苦し

みが伝わった。形容できぬほど酷い死相があった。恐らく拷問の果て

の死だったのだろう。声もあげられずアリスの喉は血を吐いた。なぜ

これほど人は残酷になれるのか。

帰りの長い一本道、麦が刈り取られ、丸裸の畑が広がる。小高い丘の

モミの木があった。私はその天辺に座り、遺体を乗せて帰る母と娘を

眺めていた。やっと手に入れた安らぎも、生爪をはがすように奪い取

られていく。畑に残った麦の穂が風に舞い、空に上っていった。




それから5年、メイスも30を過ぎていた。アリスは悩んでいた、メ

イスが嫁ごうとしないのだ。村の娘たちはとっくに結婚し、赤ん坊を

抱いていた。

「私はいいから、好きな人の所に行きなさい、たまに来てくれたらそれでいいのよ」

メイスは何も言わなかった。実はメイスは旅芸人のピエロに恋をして

いた。2年前この村に興行にやってきた小さなサーカスだった。その

時サーカスの手伝いをしたメイスは、いつも泣き顔のメイクをする心

優しいピエロに恋をした。興行の最終日二人は結ばれた。キスをしな

がらピエロはプロポーズした。メイスは飛び上がりそうなほどうれし

かった。しかし同時にそれは出来ないと思った。母を置いていけない。

村の男性と結婚するのとは話が違う。彼に連いていったら、いつ帰っ

てこられるか分からない。何故、こんな人を好きになったのだろうと

自分の恋心を恨んだ。

「ごめんなさい」

彼女はベッドから逃げるように帰った。残された彼の顔には、本物の

涙が伝っていた。あれから2年、ピエロからは毎週手紙が届いた。彼

女もそれを待っていた。彼の元に飛んでいきたいという気持ちばかり

がつのった。だからこそ返事は書けなかった。一文字でも書いてしま

えば、自分は母を捨ててしまうだろう。だからこそ嫁に行くようにと

言われても本当のことは言えなかった。優しい母、たぶん私が本当の

ことを言ったなら、喜んでいけと言うだろう。引き裂かれる思いに胸

が痛んだ。マクラの下に彼の手紙を忍ばせて毛布を噛んで泣いた。し

かし娘の変化に気づかぬ母親はいない。ある日メイスが町に用事で出

かけたときに郵便が届いた。

「毎週来るね、この人から。ラブレターかな」

なじみの郵便屋はぽつりといった。アリスはその手紙を受け取ると、

なにを思ったのか娘の机の中を探した。引き出しには何十通もの手紙

があった。たとえ字が読めなくてもその手紙の多さや手触りで愛が伝

わってきた。一枚便せんをとりだした。それはメイスが落とした涙の

跡なのか波打っていた。アリスは全てを察した。引き出しを元に戻し、

さっき届いた手紙も自宅のポストに入れ、何喰わぬ顔で娘の帰りを待

った。娘が帰ってきてポストの蓋を開ける音がした。

「ただいま」

声は弾んでいた、あの手紙はやはり彼からのものだったのだろう。

「ちょっと待っててね」

早く手紙を読みたいメイスは部屋に急いだ。暫く経つとドアが開き、

先ほどにも増して喜びを隠せないとでもいうほど元気な声がアリスに

話しかけた。

「お母さん、今日は私がパンを焼いてあげる」

「うれしいね、なにかいいことでもあったのかい?」

「う、ううん」

「そうかい」

「そうそう、お母さん、2年前にきたサーカスのことを覚えてる?」

「ああ覚えているよ」

「町で聞いたんだけど、又やってくるらしいの、また手伝っていい?」

「そうしなよ、向こうも当てにしているよ、きっと」

娘は頷いた。

「お母さんは座っていて、お母さんに負けない美味しいパンつくるか

ら。もう食べてくれるわよね」

この年になってもアリスは甘いパンを拒んでいた。

「頂こうかね、弱った歯には硬いパンは切ないからね」

アリスは硬いライ麦パンをスープに浸さないと食べらない程、歯茎は

痩せ、歯は抜け落ちていた。

「よかった」

夕暮れ時、ガラス窓の向こうで茜雲が流れていた。娘はわざわざアリス

のエプロンを付け、パンを作り始めた。30も過ぎたというのに、少女

のように鼻歌を歌い、生地を捏ねた。発酵を待つため、手を休める時間

が出来た。

「おかあさん」

「うん?」

「何であの時自分のパンをくれたの?」

「なんでだろうね、よくわからないよ、でもお前の泣き顔がまるで自分

が泣いているように思えて

ね」

「子供の時にも辛いことが?」

「”も”かい」

アリスは苦笑いをした。彼女は子供達に自分が売春宿にいた事は話して

いなかった。しかし小さい村のこと、盲目の女の素性は興味本位に語ら

れ、メイスはそれを知っていたのだ。

「聞きたいかい、今なら話してあげられるかもしれないよ」

「いい、聞いたら泣いてしまいそうだから」

「おまえは泣き虫だからね」

娘はアリスの手を取り、ひび割れの指をさすった。

「でも良かったよ、お前の器量が良くて、あたしはこの通りだろ」

「お母さんの顔はやさしいよ、とっても」

「おや、もう自分の顔も見られないけれど、あたしも女だから嬉しいよ」

子供の頃、醜くさゆえにいわれなく遠ざけられた過去。しかし今、アリス

の顔はメイスの言うとおり、穏やかな優しい表情をしていた。それは、

年を経た者に刻まれる年輪のような深い皺が彼女に見方していたからだっ

た。女は老いる事を嫌うが、老いてこそ見えてくるものもある。

「もう兄さん達もいない。もしあの時出会わなければ、私は独りなのね」

「普通のお母さんがよかっただろ、目が不自由な私には、お前に何をし

てやれたのかと後悔ばっかりだよ」

「学校から帰るといつも機を織る音がして、お母さんの背中があって」

「お前は私の膝に飛び乗って、一日の出来事を楽しそうに話していたね」

「嬉しかった」

「それだけさね」

「ううん、それでよかったの」

言葉を詰まらせる娘。

「もういいからパンをお焼き、ちゃんとかまどをみていないと。

真っ黒はごめんだよ」

アリスは照れ隠しに悪態をついた。暫くしてパンは焼きあがった。

手触りといい、香ばしい香りといい自分が作るよりずっと上手だった。

「これならいつお嫁に行っても大丈夫だね」

「またそんなことをいう、美味しいイチゴジャムを買っておいたの。

いっぱい塗ったから、さあ早く食べて」

娘は焼きたてのパンに真っ赤なジャムを滴るほど塗り、アリスの手に

持たせた。甘い香りが辺り一面に漂い、むせかえるようだ。

「有り難いね、なんだか胸がいっぱいで、食べられないよ」

「約束じゃない、お母さんが美味しそうに食べるところ見たいの」

「お前が寝た後ゆっくり頂くよ、いいだろ」

娘は何度となくアリスに勧めたが彼女は一向に手をつけようとはしな

い。仕舞いに娘は腹をたて部屋に閉じこもってしまった。

ドア越しに「ごめんね」アリスはそう言って娘にわびた。 




そして夜は更けた。月は雲に隠れ、外のバケツの表面に氷が張った。

アリスはストーブの前のゆり椅子に腰を下ろした。昔はおじいさんが

腰掛けていた椅子だった。もう娘は寝てしまったらしく、先ほどまで

ドアの隙間から漏れていたランプの明かりは消えていた。突然、アリ

スは白濁した目を見開き言い放った。

「悪魔よ、降りてきなよ」

私は耳を疑った。

「テーブルの上に、行儀悪く腰掛けているのは見えているのよ」

確かに私はテーブルに行儀悪く腰掛けていた。

「あなたが私を見ていたのは知っていたわ」

「お前は私が見えるのか?」

思わず聞き返してしまった。しかし私(悪魔)の姿が見えるのは神だ

けのはず。

「息子を連れて帰るときも、木の上から暢気に私達親子を眺めていた

でしょう」

「いつから見えていたんだ?」

「目が見えなくなってからよ」

私は立ち上がり、アリスの元に近寄った。彼女は私を見据えて声の

トーンを一段下げた。

「あなたと取引をしたいの」

アリスの丸まっていた背中が心なしか伸びた気がした。

「なにと取引しようというのだ」

私は部屋中を見回した。貧しいこの家になにがあるというのか不思議

だった。

「これよ」

彼女は立ち上がり、暖炉の上の白い皿に載せられた、ジャムのたっぷ

り塗られたパンをつきだした。

「こんな物とか?」

彼女の手が震えた。

「すべて見ていた貴方がこんな物というの?」

確かにアリスにとって娘の作ったパンがどれほど価値ある物か私は知っ

ていた。

「で、これとなにを?」

「私を殺して」

「お前を殺す?」

「そう、眠るように、決して自殺に見えぬように」

「何故だ?」

「もういいからよ」

アリスの親心だった。娘の心に誰かがいる 『何故その人の元に嫁がない』

と聞いても娘は訳を話さないだろう。たぶん自分を心配しての事。楽にし

てあげたかった。私はもう充分生きた。しかしだからといって自殺したの

では娘に重荷を背負わせてしまう。彼女は誰も傷つけずに静かに、この世

を去りたいというのだ。

「悪いが、それはできない」

甘い香りに心は揺れたが、私は断った。

「悪魔は人を苦しめて命を奪うんでしょ」

「それは間違いだ。恐怖と苦悩を与えるが殺すことはしない、断崖に立っ

た人間の背中を押すのは自然の風さ」

「だらしがないのね、悪魔ともあろう者が私のような老婆も殺せないなん

て」

私は挑発された。

「やっぱり貴方になんかもったいないは、愚かな悪魔にこのパンの美味し

さはわからないでしょう。いえ家族も持たないあなたは一生口に出来ない

わね」

アリスが哀れになった。彼女はかつて誰にもこんな罵声を浴びせたことは

ない。精一杯の訴えなのだ。殺して――と。

「ほしくないの?」

身を乗り出し、私に詰め寄る彼女。

「殺してやってもいいが、そんなパンだけじゃなあ」

「不服?」

「だから言っただろ、悪魔は人を殺さない。タブーなんだ、何が起こるか

分からない。そんなリスクを犯すのにパン一つじゃ」

「他に何がほしいというの」

「お前には、願いがもう一つのあるだろ?」

「何が言いたいの」

アリスは自分の心を見透かされまいと必死に平静を装おうとした。しかし

それが返って私を愉快にさせた。皺だらけの顔をいくら固めても白く曇っ

た瞳が動揺にぶるぶると震えていた。

「そんなことをしても無駄だ、じゃあ言ってやろうか、おまえが死んでも

恋しい母親には会えなくてもいいなら受けてやるよ」

彼女の最後の願い、それはアリスを産んで直ぐに亡くなった母親に天国で

抱きしめてもらう事だった。子供の時からずっとそうだった。父親に鞭で

叩かれている時に呟いたのは母の名前、売春宿で辛い生活を癒してくれた

のも母への憧れ、彼女にとって顔も知らぬ母の柔らかな胸はどうしてもた

どり着きたい場所だった。私はそれを100も承知で言った。

「どうしても?」

「嫌なら別にいいんだ、無理強いはしないさ、その代わりこの取引もパア

だがな」

私は彼女の耳元で吐息が掛かるようにして言ってやった。それを彼女は聞

きながら手に持っていたパンを握りしめた。パンは指でその形を変えられ

赤いジャムがはみ出していた。

「わかったは」

「本当にいいのか?」

私は耳を疑った。

「聞き返さないで」

面倒な事に関わりたくないと、アリスを思い止めさせる為に言った言葉だ

った。しかし彼女は躊躇いもせず真っ直ぐ訴えてきた。私は悩んだ。もし

この女の望み通りにしたなら、私はどうなるのだろう。自分という邪悪な

存在にとって、これは悪か善か。どちらにしても、悪魔としてのタブーを

犯すことには間違いなかった。しかしアリスは私の足にしがみついて離れ

ようとしない。全てを投げ出した彼女の目が私に拒否する事を許さなかった。

「わかった、そのパンを俺が食ってやろう」

「いいの?」私は彼女に負けた。

「ありがとう」

アリスが笑った。初めて言われた言葉だった。不似合いな言葉だ。不愉快

でもある。しかし私はその言葉を甘んじて受け入れた。

「もう一つお願い」

「なんだ」

「それを食べるのは私が死んでからにして。耐えられないから」

満月の夜だった。私はアリスをベッドに横たえ、胸を開いた。原型をとど

めないほど崩れ、垂れ下がった乳房に手を当てた。

「いいんだな」

「こんな幸せな夜はないわ。これであの子は幸せになれる、嬉しくて仕方

ないの、生きてきて良かった」

彼女は私の腕をつかみ、別れの挨拶をした。私は彼女の心臓の鼓動を静か

に止めた。夜の静寂、月の光に輝く葉先の夜露も落ちた。彼女は逝った。

安らかな顔で眠るように。指先にはジャムをつけたまま。




さあいよいよこの世に復活する時が来た。あの時砕いた魂が事もあろうに

私に襲いかかり、黒いダイヤとなって閉じこめられ、早200年。もうあ

んな愚かなことは二度としない。これから乱れきった世界に飛び出し、

人々を恐怖に突き落としてやる。自分の産んだ子供を殺し、金を手に入れ

る母親。訳もなく人を傷つけ、法という不確定な規則によってのうのうと

生き延びる少年たち。快楽のために無責任に交尾を繰り返し、堕胎する女

たち。虐待、裏切り、無責任。この世には苦しめがいのある人間たちがの

さばっている。さあ火よ燃えろ、ダイヤよ燃えろ、俺にはいま力がみなぎ

っている。

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