β世界-01
β世界と呼ばれた世界があった。
そのような世界群の起こりがいずこかであったかは今となっては調べるのも億劫な世界たち。
情報技術の発展が貧欲に先を目指したところにあったのは、人間の意識に直接訴えかける技術であった。
ヴァーチャル・リアリティの発展と発達は、人間の脳に直接訴えかける仮想現実を実現した。
Virtual Trip。
技術的な到達点であり、商業的な到達点でもある技術は、そうして世界を大混乱に貶めたが、利用者には関係のないことだった。
利用者にせよ提供者にせよ、その間に挟まる様々な人々にとっても初期投資はただ「金」にとどまらず、小さいものではなかったが、すべての人々にとって得られる利益は莫大なものとなった。
人々は満足し、そしてより大きな満足を得ようと足掻いた。
要求があれば供給があった。
利用料金は下がり、回線速度は上がり、サービスは増えた。
無論「文化」技術の進展はまず、いっかな性別、趣味、趣向の区別を別にしても「下」からであったが、勿論そうであるがゆえに、発展は急激で、発達は劇的であった。
そうして落ち着きが見えた先に現れた新たな段階が「Immersive Ammersive Augmented Reality World GAME’S」である。これはハードの技術進展の結果というより、ソフトやインターフェイスの進展が切り開いた地平の先、であった。
数値やAlgorithmで表現された超現実世界を、小手先のイメージでのみ拡張できるインターフェイスの発表はVTやVR技術の真の意味での本格的胎動であった。
キーボードやマウスなどで数値とロジックで形創られた世界は、VR技術の逆進により、イメージの投影のみで電子世界の構築を可能にした。VRWはVTして創ればよい。
曖昧な人間のイメージを確固たる物にするには様々な支援が必要であり、到底個人で提供できるものではなかった。だが、VRWの敷居が下がったのは確かであり、四畳半世界と罵られ、それ故にキャラクター性に走らざるを得なかった(それ故に誰もが眉をひそめつつも誰もが興味を惹かれざるを得なかった方向性へとひた走っていた)VRWは本当の意味でWorldを得た。
秩序ある暴力が吹き荒れる戦争世界が創られた。
古代に。
近世に。
近代に。
現代に。
未来に。
空想に。
無秩序な混沌が吹き荒れる無法世界が創られた。
古代に。
近世に。
近代に。
現代に。
未来に。
空想に。
誰もが眦を下げる暖かな幻想世界が創られた。
古代に。
近世に。
近代に。
現代に。
未来に。
空想に。
ありとあらゆるジャンルの世界が百花繚乱と花開いた。
無論、数珠の玉を求め集い巨悪を打つ様な世界や、大いなる力を持った指輪を火放つ山に打ち捨てるような戯作文芸世界も。
β世界と呼ばれた世界があった。
溢れ、乱れた世界群の片隅に始まったサービスは、ただ「β世界」といわれた。
文字通りいつまでたっても「ベータ版」のままである世界は、だが、普通?に課金サービスが行われ、 溢れんばかりにあるMMORPGのマイナーなサービスのひとつとして認識された。
しかしそこを訪れたプレイヤーたちはその世界観に魅了され、あるいは拒絶した。
あたかも現実に存在する世界であるかのごとく、様々な面倒ごとに縛られ、様々な文化に彩られた「β世界」はまさに「超現実」世界であった。
「世界」のしがらみから逃れ、一服の涼を求める人々を打ちのめす「現実」が存在する「β世界」はゲームとしても異質であった。
最低限ゲームとしての快適性を備え、それなりのゲーム性を持っていた「β世界」は電子上にある異世界にもかかわらず、ある種、現実の社会で祭りを楽しみ、明日の現実に帰るような、もうひとつの現実的な苦しみを空想世界で体験させるような世界であった。
それこそが「β世界」が「ベータ版」のままである理由であると、プレイヤーたちは考える。
単にゲームと枠をはめるのではなく、あるいはどこかの大学の心理研究。あるいは社会実験。あるいはどこかの国家による深遠な計画。様々に囁かれた。
しかしこの世界に魅了されたプレイヤーたちには関係がない。
彼らの判断基準はまず持って「楽しいかそうではないか」。
「楽しい」と感じたプレイヤーたちはそれなりの人数がこの「世界」に「根を下ろした」。
その中に、「佐藤・エルステン・瑠珈」という人物もいた。