Ⅰ・幾島ミズキによる勉強会→Ⅰ
「システムの施政から、我が国の貞操観念は、大きく変わった。十五歳未満の女性の処女率は、実に九十九パーセントを記録している。一パーセントは、犯罪……つまり強姦またはそれを含む虐待の被害者と、それがもたらすものを知ってなお抑制の効かなかった愚者達だ。児童同士による行為もないではないが……これは誤差の範囲内だろう」
教室は静まり返っている。ざわざわと騒ぐ者すらいない。九人の聴衆は皆息を飲んで、壇上にいる会長の声に耳を傾けていた。彼女には、それだけの華がある。
長い黒髪、切れ長の目。どこか冷たいようで、悪戯な笑み。
「それと、男性の童貞率……これは処理施設での体験を除くが、十五歳未満では九十九,六パーセントだ。〇,二パーセントは抑制の効かなかった愚か者で、残りは強姦の被害者だ。おや、意外かな? 女にもいるのだ。性犯罪者は。犯罪として立証しづらいだけでね」
これには少しだけざわめき漏れた。隣に座るリコが、ちらりとこちらを伺う。それもすぐに収まった。
「逆に、二十歳を越えた女性の経験率は九十九パーセントにのぼる。男性もほぼ同率だ。残りの一パーセント……とはいえ、実際はもっと少ないんだが……彼ら彼女らは、病気であるか、障害があるか……なんらかの理由で行為を行えない者だけだ。時期までに成果の現れなかった者が合宿に行くのは国民の義務なのだから、当たり前といえば当たり前だが。まあ、中には緊張のあまり上手くいかなくて、それ以降もそれがトラウマになり、まるで駄目、といった輩も含まれるそうだが」
壇上の会長が笑う。誰一人、追従も追笑もしなかった。
「さて諸君、我が国の現状は理解してくれたと思う。ここに集まった人間には言わずもがなだがね。一応形式までに。……それで、君達はそれについてどう思う?」
聴衆であるところの僕らは、一斉に顔を見合わせた。リコにも理解ができていないようだ。
誰かが小声で相談しあっているのがわかる。誰だろう。僕らではない。
「閣下……ようするに、私のひいじいさんだけど、彼がまだ一学生だった頃のことは知っているかな? 性に奔放で、外国からまるで売春婦のような女ばかりだと言われた時代のことを」
調べる機会と機械があればわかることだが、現代の若者にはあまり知られていないことだ。
「当時は、これが一般的というわけではないが、出会ったその日に関係を持つ者達もいたらしい。あくまでそういう者達もいた、という話だ。全員がそうだという訳ではないことを忘れないよう」
知らなかった連中が目を丸くする。僕はそれを知っていたが、隣には知らなかった連中の一人がいた。
「勿論、褒められた話ではない。事実、堕胎……授かった子供を殺すことが頻繁にあったし、性行為により感染する病気……エイズや各種の性感染症の拡大源になっていた」
堕胎の話に、皆一様に眉をしかめる。現在では、強姦の被害者か、事前に障害が発覚した場合か、母体に悪影響があると解った場合にしか、まず行われないことだ。
悪い言い方をすれば、間引き、子殺し。そんなものが、決して珍しくない社会だった。
自分の子を殺す社会はもう長くないと、そう言ったのは誰だったろう。
「無論、マイナスの面ばかりでもない。そこには圧倒的な自由があった。自分の好きに相手を選ぶことができる。しかし、一部の人間に選択は偏ったし、相手を自由に選ぶことができる代わりに、相手を選ばない自由というものも発生した。望んでも選ばれない者達もいた。結果、どうなったか」
それは誰もが知っていた。システムについて学ぶ際に教わることだった。
「そう、極端な少子高齢化が進んだ。三人の若者で、一人の老人を支える世の中だ。国が豊かになって医療が発展し、平均寿命が延びたことも要因だが、子供を作らないという選択をする者が増えたのが主因だ。これには、当時は養育制度が整っていなかったということもある。子供を育てるのは、親にかかる負担が大きかったからね」
誰もが知っていることを言うだけなのに、全員が集中していた。壇上の彼女の声を一言一句聞き逃すまいと、耳を傾けている。
「だいたい、この小さな国土の国に対して、人口が多すぎたんだ。一番多い時で一億五千万人。主食はなんとかなっても、それ以外のほとんどを輸入に頼りきっている国なんて異常だ。まあ、この国に限ったことではないのだけれど」
人口密度という点で、この国は確かに異常だった。
「先の戦争。どのくらいの死者が出たかは知っているね? およそ千三百万人。正確には、戦死者だけで千三百二万四千六百三十四人。それでも、地球全体から見れば雀の涙でしかないが」
異常だ。
会長はそう言った。
「一人の男の先導……いいや、煽動。そんなもので命を投げ出すことは奇妙なことだ。第二次世界大戦時における天皇に対する意識とは違う。あれは血筋と、日本という国自体に対する敬意だからね。発端にしても、欧米が余計なことをしたのが悪い。でも、革命戦争は違う。あんなもの、ただのクーデターだ」
当事者の曾孫である人物が、それを否定している。それは少なからず衝撃的なことだった。
「ともかく、それでこの国がどうなったのか。まず、政治のトップがそっくり入れ替わった。人口が減った。国民の意識が変わった」
それはある種の洗脳だった。
会長はそう言って僕らを見た。
「そうして、閣下はシステムを施行した。最初からこれが目的だったのではないかってくらいに、実にスムーズな移行だった。出産と育児。システムはそれを是正した。いや、よりシステマティックに作り替えたというべきか。確かに出生率は上がった。性感染症も減った。人口比率も正常化した。安定もするだろう。国家としては、文句のない是正だ」
人差し指を立てる。全員の目がその指先に集まった。
「だけどな」
その指先を、僕ら聴衆に向ける。はっとして目を見張った。指先はそれから、彼女自身の耳に移る。
口調をがらりと変えて言ったその言葉は、呑まれるほどに強力だった。後に続く言葉を、誰もが固唾を飲んで待っていた。
「この糞忌ま忌ましいシステム……これは、家畜につける商標タグか、鳥を閉じ込める篭だ。私たちは半永久的な繁栄と引き換えに、恋に恋い焦がれる自由を失った」
言葉を切る。指はわずかに動いて、見ようによっては、こめかみに指鉄砲を押し当てているかのようだった。全員の目を見るように、ぐるりと室内を見渡し、一言ずつ区切りながら、言葉を紡いでいく。
「それでいいのか? 顔も知らない奴らに、自分の全てを決められても。自分のこと、何も知らない奴らに分析されて、今日の夕飯かなんかみたいに、好き勝手未来が決められるんだ」
舞台俳優のような大きな動作で両手を振り回す。それは、見る者の目を惹き付ける、華のある動作だった。
「考えてみてほしい。システムってもののことを。いいものか、悪いものか。そしてどう思ったか。私に教えてくれ。それでいいというなら、それでもいい。悪いと思うのなら、何が悪いのかも。私はそれが知りたい。私は、合宿まであと半年しかない。これが考えるには最後の機会だ」
一度見渡すと、彼女は広げていた手を下ろした。
「さて、私の話はこれで終わりだ。君達もよく話し合って欲しい。今日のところはこれで終わりにするけれど、次回からは君達にも参加してもらう。では、今日はお開きだ。また次回」
仰々しい仕種で一礼する。それから、あくまでゆっくりと壇上を辞した。
参加者はざわざわと、話し合いながら部屋を出て行く。
リコの隣を歩きながら、僕は思案に耽っていた。
「やっぱりおかしいんだよ、こんなの」
勉強会の第一回が終わって部屋に戻るなり、リコはそう言った。
「会長が言ってたのはそういうことだよね?」
口調こそいつも通りだが、かなり熱くなっているようだ。この二年で、だいぶリコのことは理解した。だからこそわかる、見えない感情の起伏。
「ちょっと違うな。会長は考えろって言ってたんだよ。で、リコが考えた結果がソレってだけでしょ?」
「じゃあアキはどうなの? システムに賛成? 反対?」
「僕? う~ん……どうかな……」
明言は避けたいのだけど……そうもいかないんだよね。
「人間には自由があるんだよ。それは好きなものを見て、好きなものを聞いて、好きなものを食べて、好きなものを楽しんで……好きな人に好きだって言うことだよ。システムはその自由を壊しちゃってる。だから良くないものなんだよ」
リコはそう言ってベッドに腰掛け、バンバンと枕を叩いた。僕は苦笑して向かいに座り、返答する。
「一概に言えない部分もあるんだけどね」
「どういうこと?」
「まずシステムっていうのは、機能的に優れたものである。これはわかるよね。実際この国はシステムの施政以降、目覚ましい発展を遂げている」
人口比率の正常化と、育児の負担が無くなったことにより、この国は産業が発展した。正確には、効率化と余暇的な技術形態に二分化し、それは成功を収めた。
「うん」
素直に頷く。リコは少し感情で物を言いがちだけど、理屈に合うことはきちんと理解してくれる。それができないやつが多過ぎるのが目下の悩みではある。
「つまり、この国を国という総体として見れば、システムは素晴らしいものである、ってこと」
「じゃあアキは賛成派ってこと?」
リコは腕を組んで唇を尖らせた。僕が自分と反対意見なことが気に食わないようだ。頭ごなしの否定はリコの反発を買う。「まぁ最後まで聞いて」と宥めた。
かつてのこの国は、金に余裕のある富裕層と、十分な教育を受けさせる余裕のない貧困層だけが子供を産み、生活はできても十分な子育てをする余裕のない中流階級が、徐々に消えていった。残ったのは十分な教育を受けた上流階級と、不十分な教育しかされていない貧困層だ。収入の差は格差社会を生んだ。
やがて、上流を支える下流という構図が出来上がった。数多かった中流は、次々と姿を消していた。
今からすればとんでもない話だ。そんなことではいつか破綻してしまうのでは、と思う。
事実、昔は実際に少子高齢化が進んでいたのだ。
そんな折のことだ。閣下による統一が行われ、システムが導入されたのは。
やがて人々はある程度平均化され、人口こそ最盛期よりも減ったものの、土地面積に対して適切な人数が生まれてくるようになった。少子高齢化していた社会がバランスよく作り変えられ、各世代が適切な人数になったのは、システム導入から二世代目のことである。
システムは悪化していくこの国の状況を、劇的に変える効果があったことは事実だ。
「次に、人類としての僕達を見てみよう。システムというのは憲法で保証されていた『基本的人権』というものを侵害している。まぁ今はほとんど形骸化した憲法だから、問題ないと言えば問題ないんだけど」
「うん」
「なにが問題なのか。それは、人間としての競争が無くなったことだ。人間……特に僕達は、外圧に晒され、自由競争の下に発展してきた民族だから、完璧な統率の下で生きることで切磋琢磨をやめてしまうと、そこで進歩が止まってしまう」
「つまり……今の状況は、進歩する足を止めてしまっている、ってこと?」
「そうだね、昔は種を残す事も競争だったし、最低限優秀でなければ種は残せなかったから」
実際に収入の問題で、出産や育児が可能ではない者がいた。彼らは中流階級と呼ばれる、この国で最も数の多かった階級だ。育児環境の変化、経済状況の悪化により、子供を産まないことを選択する者が大勢いた。
システム導入と同時に、育児環境も一新された。これにより、収入の少ない世帯でも、子供を産むことが可能になった。もとい、産むことを義務付けられた。
それと同時に我々は、切磋琢磨することを忘れてしまった。危険を犯さなくても、努力をしなくても、子孫を残すことが可能になったからだ。
個々人の基本的な能力は、確かに上がっただろう。だけど。
乾きの無い人間に、何かを作ることはできないのだ。
「僕らの停滞は、この国だけじゃなく、人類全体の損失だ。僕達って今日の人類には欠かせない物を数多く作った、結構すごい民族なんだよ」
リコはふんふんと頷いた。
「つまりまとめると、一長一短だね。見方によっても変わるし、いい面もあれば、悪い面もある。一概に賛成とも反対とも言えないって言うのが僕の意見だよ」
「……それだけ?」
「ああ」
「なんか、思ってた理由と違う」
「そう?」
僕はとぼける。
それは……意図的に外したのだから当然だ。
「そうじゃないよ……何て言うか、機能の話じゃない。なんていうのかな……そう、こんなのは嫌だっていう感情論、かな」
リコは胸に手をやり、少し俯く。
「なるほどね……」
予想していた通りの答えだった。
そう、それでこそリコだ。
だからこそ僕は、感情で物が言えないんだ。
「それじゃあ次に、この国を構成する要素である、僕達に焦点を当てる。国民としての個人だね」
「うん」
「システムがあることで幸せになるのは、国家はもちろん、僕達個々人でもある。システムによって生まれ持った能力的な要素による経済的、技術的な発展は、僕らの生活を豊かにできる。ねえリコ、世界中で衣食住に困らない人間が、一体どれくらいいると思う?」
「わかんないよ」
リコは拗ねたような顔をした。そろそろ混乱してきたのだろう。そのために中身の薄いことを長々と言ったのだ。
「実は僕もよく知らない。でも、そんなにたくさんはいないよ。そして自分達の婚姻制度に疑問を持つのなんて、衣食住が足りているからできることなんだ。食うにもギリギリの生活をしている人達は、そもそもそんな疑問を持たないよ」
「そうなの?」
「そうなの。さて、それで結論だけれど、生活に余裕がある僕達としては、リコの考えは非常に正しい。僕らは自由を制限された生活をしていると言っていいからね。でも、そもそもその疑問は、制限がある生活をしているからこそ持つことのできるものだってこともわかるよね」
今の生活を維持しているものがシステムではないと、誰も言い切れはしないのだから。
変えたいのなら代案を出せとは、確か閣下が言った言葉だった。
「……むぅ~、やっぱりアキ、システム賛成派なんじゃないの?」
「そうじゃないよ。ただどっちがいいかって話なだけ。不自由な自由か、自由な不自由か、僕らには好きな方を選ぶ権利がある。システムが嫌なら、この国を出ればいい」
実際にそれができるやつはそういないのだけれど。
「それで、この国から逃げ出す程に、リコは僕が嫌なのかい?」
リコがなんと答えたのかは、もう忘れてしまった。もしかしたら答えなかったのかもしれないし、聞こえていなかったのかもしれない。
恋に恋焦がれる自由……。そのフレーズが、妙に頭に残っていた。
第一回から一夜明けて、三限目の機械工学の授業中のこと。教員は黒板に配線図を書き、僕はそれを書き写していて、リコは寝ていた。「文系だから」が口癖のようになっているリコである。
一晩中起きていたし、今日ばかりは仕方が無いかもしれない。僕はリコの分もノートをとる使命があるので眠れない。
配線を眺めて、いつかそこを走るはずの電流に思いを馳せる。迷路みたいなあんな中を、よくもまぁ迷わずに進めるものだ、と感心してみた。僕ならきっと、どこかではみ出してしまうだろう。電気になっても役に立たない僕である。
不意に、機械工学の教員である四十過ぎの男が、ふと思い出したというように呟いた。
「そうそう、このクラスから、幾島ミズキ勉強会の参加者が出たって?」
あの時その場にいた連中が、僕らを見る。その視線を追ったのか、教員も僕らを見た。電流の冒険に思いを馳せていた僕も我に返る。リコは寝ていませんよと言わんばかりに目を開いた。
「なるほど、君達か」
「はい……」
何故それを知っているのだろう。いや、知っていたとして、何故それを殊更に言うのだろう。
教員は呟くように続けた。ため息のような口調だった。
「いいよなあ。もし選ばれたら、俺のこともよろしくな」
「選ばれたら……? 俺のこと……?」
何のことだろう……。疑問が顔に表れていたのか、教員はなにか気付いたような顔を見せ、付け加えた。
「ん、お前知らないのか? 幾島は、時々何人かの学生を選んで、総督閣下に紹介するんだ。つまり人生の勝ち組レーンに乗るってことだな、うん」
それは……どういうことだろう。
会長のお気に召した学生が、閣下とお目通りが叶う、ということ?
「いいよなあ。将来安泰だ。皆も幾島会長に目をつけられるくらいになれよなぁ」
教員は黒板に向き直り、板書を再開した。詳しいことを話すつもりはないようだ。
ほんの雑談のつもりだったのだろう。話はそれきりでおしまいだった。
「詳しくは俺も知らないんだけどな、学園を出たきり誰も帰ってこないんだ。まさか海外かなにかに売られたんじゃないかと噂していたものだが」
放課後。
僕は教員室を訪れていた。
四十過ぎのこの教員は、茶をすすりながら話をしてくれた。
「だがある日、そうやっていなくなったやつの一人がニュースになったんだ」
「え……?」
いやな予感が駆け巡る。まさか、死体で見付かった……とか。
不安が顔に出たのを見たか、教員は手を振った。
「違う違う、そいつはなあ、知らないか? 十八歳の若さで、国会図書館の館長に就任した」
「あっ……」
聞いたことがあった。確か、ほんの数年前のことだったはずだ。
「ああ。それだけじゃないぞ。調べてみると、北陸芸術村の設立者だとか、新設された宇宙ステーション技術者だとか、スフィアドームの建設実験の総指揮者だとか、どこかの研究所の所長だとか、フィロソフィア・センターの一員とか、学園からいなくなった連中は、様々な分野で活躍していることがわかったんだな、これが」
……それはつまり。
「まあ、勉強会に参加した全員が学園から出ていくわけではないし、出ていってそれっきりのやつもいるんだが」
教員はタバコに火を点けた。煙をふっと吐いて、灰皿代わりの缶に灰を落とす。僕は手で煙を払う。タバコなんて、今では吸う人は少ない。殊更禁煙としなくてもそもそも吸う人間がいないので、今では禁煙の場所のほうが少ない。
煙たいが、匂い自体は嫌いじゃない。
「どっちにしても、チャンスには違いない。まあ、もし選ばれたら俺のこともよろしくな。……ところで、お前パートナーは?」
僕は一礼して教員室を出た。