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エウトピア   作者: 十ノ青日
序章
39/39

蛇足。閣下過去回

「おれが死んだらあんたのせいだからな」と、お前は言ったな、あの時。

 なに、ちょっとした昔語りだ。つまらないと感じるのならそれでいい。今のお前が満たされているってことだからな。

 聞いてるか?

 なんだ、もうそろそろいくのか?

 ならもう、あんまり時間がないんだな。





 あの日、俺はベッドの上で毛布に包まって、ザチャーミンを読んでいた。『1984年』だ。その未来はもう過去で、過去のことを未来として読むのは、どこか皮肉だと思わないか? ……どうでもいいことか。

 それは俺がちょうど、百頁目を読んでいたときのことだった。俺の携帯電話が鳴った。そう、あの頃はまだ携帯電話だったな。着信音は昔好きだったコールドプレイだ。

 俺はディスプレイも見ずに通話ボタンを押し、小さな声で「もしもし」と言った。誰かが電話を掛けてくる事自体が珍しいのもあるし、辺りが静まり返っていて、あまりにうるさかったというのもある。とにかく無意識のことだった。


 「今から死ぬから」と、開口一番お前は言った。


 最初は、間違い電話かと思った。自殺を前に動転して、ボタンを押し間違えたのだと。

 自殺なんてそう珍しいことじゃないし、俺は死にたいと思ったことはないが、死にたくなるのは理解できる。なにしろ酷い世の中だった。豊かな国だったからこそな。

 そこで初めて携帯電話のディスプレイを見た。登録されていない。知らない番号だった。公衆電話らしい番号だ。


 「どなたですか?」と俺は訊いた。「間違えてはいませんか」と。この番号に掛けてくる人間は、ほとんど一人だけと決まっているのだから。

 「おれは今から死ぬ」と、お前は言った。「でも、あんたが止めるのなら、死ぬのを先延ばしにしてもいい」と。そこで初めて、お前が女だと気付いた。


 俺は質の悪い悪戯だと思った。「止めないから勝手に死んでくれ」と言って、通話を切ろうとした。そうしたら、お前は「おれが死んだら、あんたのせいだからな」と言った。

 「何故、俺のせいになるんだ」と俺は訊いた。

 お前は「あんたが止めれば、おれは死なない。でも、あんたが止めなければ、おれは死ぬ。ほら、あんたのせいだ」なんて、屁理屈にもならないことを宣った。

 俺は苛立って「ああ、わかったわかった。死ぬな。これでいいか?」と言って、今度こそ電話を切ろうとした。そうしたらお前は「そんなんじゃ、駄目だ」と言ったんだ。


 俺はよっぽど、赤い電源ボタンを押そうと思った。悪戯にしてはつまらないと。お前の声が涙かなにかで滲んでいなければ、迷わずそうしていただろう。

「死ぬな。生きていればいいこともある。今死ねば、明日あるはずだった良いことを逃すことになるかもしれない」と、俺は言った。その時の俺にできる精一杯だった。

「そんなんじゃ駄目だ」とお前は言った。「直接言わなきゃ駄目だ」と言ったんだ。


 俺は「もう付き合い切れない」と言った。お前は「え……」って、まるで俺が意外なことを言ったかのようにつぶやいたよな。

 それからお前は、矢継ぎ早にぶちまけたんだ。覚えているか? 俺は一字一句覚える。「そうかそれならそれもいい。でもおれが死ぬのはあんたの責任だ。思い出せ、事あるごとに。飯を食うとき歯を磨くとき眠りに落ちるその瞬間も、あんたは何をしてても忘れることは出来ないだろう。いいか、おれはこれから死ぬ。それはあんたのせいなんだからな。あんたが幸せなときも、あんたは心から楽しむことが出来ない。何故ならおれの死があんたに付き纏うからだ。意識して忘れることも出来ないだろう。いいか、ニュースの記事を見逃すな。おれの名前は」だ。ここで俺が遮ったんだ。


「ああっ、くそっ」なんて、俺は溜め息を吐いた。もう「何故だ?」と問う気力も沸かなかった。確かにお前の言った通り、俺には忘れることが出来ないだろう。自分の無駄な記憶力を恨む。嫌な気分が死ぬまで纏わり付くくらいなら、会ってやったほうがまだ得策かもしれないと、そう思った。


 俺は「今どこにいる」と、低い声を意識して訊いた。お前はその場所を答えた。電車はとっくに止まっていたが、バイクで行けなくもない距離だった。

「二時間待て。そこに行ってやる」と言い、俺は電話を切った。

 表に出る。夜中に出掛けるのは久しぶりだった。エコだか資源節約だかで夜間に灯下管制が敷かれてからは、あまり外に出ることはなくなっていた。

 夜、死んだように眠る街は、毛布に包まる俺によく似ていた。


 シートを外し、黒いバイクに跨がった。こいつを動かすのも、随分と久しぶりのことだった。

 俺は消音装置を起動し、エンジンに火を入れた。どうせ他に車なんかいない。ゆっくりと動き出す。

 すぐにスピードが乗った。辺りに車はほとんど見当たらないから、スピードは出し放題だった。

 目的地までの二時間近く、俺は一度も休まなかった。


 ブレーキを握った。指定の駅だった。こちらは西口。俺は辺りを見回した。しかし、どこにも人っ子一人いやしなかった。

 俺は携帯電話を見た。時間は指定した二時間よりも十分程早い。ここまでに着信はなかった。


 バイクを動かして東口へ行ったが、やはりそこには誰もいなかった。気分の悪い悪戯だ。俺はそう思って帰ろうとした。

 その時だ。コールドプレイが鳴った。

 ディスプレイを見れば、さっきとは違う公衆電話からだった。


「後ろ」


 そう言って、電話が切れた。俺は後ろを振り向いた。

 俺は、そこでお前に会ったんだ。

 お前は俺を睨むように立っていた。受話器を置いて、こちらに向かってきた。まず、その目に目がいった。月明かりの中、薄ぼんやりと見えるお前の目は、ぎらぎらとした怒りに満ちていて、俺は少し怖かったんだぞ、今だから言うけどな。


「何しに来た?」とお前は言った。

「お前が呼んだんだろう」と言うと、「見ず知らずの人間に呼ばれだからって来るのは、馬鹿かお人よしか、そうじゃなければ敵だ」と言った。

「用が無いなら帰る」と言おうとして、そこで気付いた。お前の短い髪はボサボサで、衣服は破れ、口の端から血が垂れていることに。

 それから、右手の鉄パイプにも。


「強姦か」


 お前は首を振った。肯定なのか、否定なのか、わからなかった。


「強姦なんかされてない。されるものか」


 お前は鉄パイプを構えた。俺も身構える。


「お前は強盗か」

「違う。そんな下衆な真似はしない」

「では、なんだ? 何故そんなものを構える?」

「お前が敵ならこれで殴る。お人よしならつけこむ。馬鹿なら利用する」


 お前の目は本気だった。本気でそうする覚悟があった。


「敵ではない」

「敵は皆そう言う」

「お人よしでもない」

「お人よしは皆そう言う」

「では、馬鹿か?」

「知るか」


 お前は不愉快そうに身体を揺すった。そのように見えた。

 ……違う。お前は、震えていたんだ。


「寒いのか」


 違うと知りつつも、俺は訊いた。


「……そうだ」


 少し間があって、お前は答えた。俺はお前に近付き、お前は鉄パイプを握り締めた。俺がジャケットを脱ぐと、お前は目を丸くした。俺はお前に着ていた服を掛けた。近くで見るお前の肩は、驚くほど小さかった。


「行く当てなどないんだろう」


 あれば、見ず知らずの人間に電話したりしないだろう。


「乗れ」


 バイクを指した。お前は何も言わずに従った。

 近くに開いている店はなくて、結局俺はお前を家まで連れていった。バイクのリアシートは寒かっただろうが、お前にジャケットを貸した俺はもっと寒かった。二時間の道程を過ぎて、俺は家にお前を入れた。


「好きに使え。風呂はそっち、布団はそこだ」


 俺はそれだけ言うと、いつものように布団に潜り込んだ。灯火管制のせいで、ろくに電気も点けられない。布団を被ってライトを点けた。


「おい」


 お前は俺を呼んだ。


「何も訊かないのか」

「訊いてほしいのか」

「いいや」

「好きに使え」


 もう一度そう言うと、お前はどこかへ行った。しばらくして、シャワーの音が聞こえた。俺はザチャーミンを読んでいた。


「おい、服がないぞ!」


 風呂場からお前は怒鳴った。俺はそこらにあった服を掴んで風呂場に向かった。

 脱衣所にはお前の服が乱雑に脱ぎ捨てられていた。そして、裸のお前が立っていた。

 擦り傷、切り傷、青痣に、緊縛痕、落書き。痩せた身体に走る幾多の傷痕、乱雑な刺青。隠すようなそぶりもなく、お前は身体を拭いていた。

 水滴が髪から身体から散らばり、床に散らばるお前の服を濡らしていた。

 服を渡すと、お前は何のてらいもなくそれを着た。それで、布団の部屋へ戻る俺についてきた。


「なんだ」

「何も訊かないのか」

「訊いてほしいのか」

「そうだ」


 俺は部屋まで戻ると、布団ではなく椅子に腰掛けた。お前は俺のいた布団に座り込んだ。


「何があった」

「おれは……」


 あまり思い出したくもないが、お前は戦争が起きてからのお前の境遇と、そこから逃げ出すまでのことを話した。


「あいつらから逃げ切った後も、それは終わらなかった。女の一人歩きと見れば、どいつもこいつもおれを襲おうとした。髪を切り、男のように振る舞っていてもだ」

「その妙な一人称も、男の振る舞いのつもりか」

「そうだ。それでも襲ってくるやつは、全力で撃退した。今日も一人、襲ってきた。おれはそいつの玉を三つ潰して逃げたが……おれはもう、疲れた」


 お前は小さな肩を抱いた。


「疲れたんだ」

「何故、俺を呼んだ」

「お前を選んだ訳じゃない。男なら誰だってよかった。そいつを殺しておれも死ぬつもりだった」

「俺を殺すのか」

「お前は、おれを襲わなかった。おれを犯そうとしたら殺すつもりだった」


 お前は小さなナイフを取り出した。


「あそこまでしたら、犯してくれといっているようなものだろう」

「あんな電話一本で来るようなやつはお人よしだ。おれはお前で最後の実験をした。お前がおれを犯せば、おれはお前を殺して死ぬ。そうじゃなければ、おれは信じてみる。そう決めていた。決めたからには、おれはお前を信じる」

「そうか」

「怒らないのか」

「怒る理由がない。迎えに行く面倒を掛けさせたこと以外は」

「おれはお前を殺そうとした」

「だが俺は生きている」


 俺は可哀相とも、哀れだとも思わなかった。

 このご時世、そんな話はいくらでも転がっているだろう。


「お前が俺を信じるのは勝手だし、行くあてがないのならここにいてもいい。どうせ俺の家じゃない。だが」


 俺はお前を押し退けて、頭から布団を被った。ライトを点け、ザチャーミンを開いた。


「俺に干渉はするな」

「うるさい」


 お前は言った。


「おれがこれだけ話したんだ。お前も何か話せ」

「はあ?」

「なんでもいい、お前のことを教えろ。そうだ、この家は誰の家だ? 何故ここに住んでいる?」


 お前はしつこかった。読書もできやしないくらいに。


「うるさい」

「話すまでは一晩でもうるさくしてやる」

「なら出ていけ」

「お前の家じゃないんだろう」


 俺は溜め息を吐いて本を閉じた。


「何が聞きたい」

「なんでもいい。お前のことを。まず、そうだな。名前だ。おれはお前の名前も知らない」

「俺もお前の名前を知らない」

「そうか、そういえばそうだったな」


 お前は俺の隣に来て、壁を背に座った。


「おれは野中奏音だ。お前は?」


「〇〇〇〇」


 どうしようもなく、俺はお前に自分の半生を語った。

 俺はとある良家の後継ぎが妾との間に作った子で、生まれてから戦争が起きるまでの間、学校にも行かずに、山奥で暮らしていた。だから、俺には戸籍がない。存在しない人間だ。

 父の顔も知らず、屋敷のような場所で、本ばかりを読んで過ごしていた。屋敷には書斎があるくらいで、あとは寝泊まりをする部屋と食事をとる部屋、炊事洗濯をする土間に、風呂場しかなかった。娯楽らしい娯楽といえば、せいぜい読書くらいのものだった。

 そこには女中が二人いたが、俺に関心を払うことはなかった。淡々と世話をこなすだけの、機械のような女。一度も会話をしたことがない。

 母は美しい人だったが、心を病んでいたから、いつも俺を人形か愛玩動物のように扱った。抱き寄せてずっと離さないかと思うと、興味もなくしたように投げ捨てる。狂ったように俺を叩く時もあれば、気が向けば俺の服を着せ替え、汚れてきたら湯で洗った。

 週に一度、家庭教師と名乗る男が現れ、俺に勉強を教えた。男は帰る前に、必ず俺の前で母を抱いた。母は涎を垂らし、獣のように哭いていた。俺は目を逸らすことを許されなかった。それを見る男の顔は歪んでいた。

 俺が七歳の時、家庭教師は来なくなった。俺はもう一通りのことは学んでいたし、子供に向けられていない本でも読めるくらいにはなっていた。

 だから、俺の上で腰を振る母が、異常だというのも理解していた。

 やがて母は、俺の子を身篭った。そのことは女中により父親にも知れただろう。それでも、父親が訪れることはなかった。

 母は子を産んだ。女の子だった。その時、母は呆気なく死んでしまった。理由はよくわからない。多分、感染症か妊娠中毒症だ。

 俺は女の子を妹として育てることにした。この時、俺は九歳だった。

 妹には名前を付けなかった。俺の世界にはもう妹しかいなかったし、妹の世界にも俺しかいなかった。お互いしかいないのだから、名前に意味など無かった。女中は名前さえ知らないし、会話を交わすこともないのだ。

 妹は少しずつ大きくなっていった。妹は俺を呼ぶ時、ねえ、と言ったし、俺は妹を呼ぶ時、なあ、と呼んだ。俺達の世界はそれだけだった。

 女中は家具と同じで、話し掛けても何も言わないし、決められた行動しかしない。

 俺は妹に文字を教えなかった。例え本の中だとしても、外のことは知らないほうがいい。そう思っていた。

 妹が三歳の時だ。戦争が起きたのは。

 いつの日からか、女中がどこかへ行ったきり、帰らなくなった。同時、食糧も届かなくなった。俺一人では、火を着けることもろくにできない。

 しばらくは備蓄や庭の果物を食べて暮らしていたが、やがてそれも底をついた。

 妹と一緒に布団を被り、なるべく動かないようにした。「ねえ、ねえ」と、妹は布、団の中で俺を呼んだ。

 砂糖や塩を水に溶いただけの食事が続く。酒は飲めなかったが、醤油や味醂と混ぜて飲んだ。味噌が唯一といっていい固形物だった。

「ねえ、ねえ」と、泣き叫ぶように俺を呼ぶ妹に、俺は食べ物のほとんどを与えた。それでも妹は日に日に衰弱していった。がりがりに痩せて、黄色いヘドを吐いた。俺は妹を抱えて、屋敷を出る覚悟を決めた。

 俺は朝早い時間に山を降りた。何もあてなど無かった。強いて言うなら父親だが……名前しか知らないのではどうしようもない。

 俺は妹を背負い、四時間程歩いた。そのうちに民家がちらほらと見えたが、そのどれもが留守だった。

 俺はさらに歩いた。足はもう棒のようで、背中の妹は腹が空いたと泣くし、まめが潰れて血が出ていた。やがて山は開き、道は舗装され、車の通る場所に出た。俺は自分の外見がどんな作用をするかはわかっていたから、それを最大限利用した。手を挙げて車を捕まえ、乗り込む。相手は何の警戒もせず、俺達を運んだ。

 初めて女中以外の他人と、家庭教師以外の男を見たのはその時だった。

 車を運転していたのは中年の男だった。俺はそいつをだまくらかして、その日の宿を確保した。

 両親が戦争に巻き込まれて云々と俺は語った。男は大いに同情していた。ほとんど読んだ本から設定を拝借したから、子供の作り話よりはよく出来ていただろう。

 屋敷で出されていたものとは雲泥の差だったが、男はかなり奮発した飯を出した。

 しかし、どこも俺達を養うほどの余裕があるわけじゃない。一晩泊まり、翌日はまた車を拾い、少しずつ移動していった。

 そうして、日々を誰かに寄生することで過ごしてきた。田舎の農村ではそれでよかった。

 ある日……俺達は老人をだまくらかし、家までついていった。その家には四十を過ぎた男がいて、俺は、そいつに犯された。妹は、それを見ていた。俺は寝こけたそいつの頸動脈を切り裂いて、その家を出た。

 たまにそういうことがあった。十軒に一軒ほどか。

 逃げるようにして、俺達はやがて市街に出た。

 空襲と暴動で焼けた町並み。都市部は空襲の対象になるというから、皆疎開したのだろう。昼間だというのに、歩く人は誰もいない。しかし、そこには確かに人間がいた。

 俺は、そこに住み着いた。

 あの時、妹がどうしたかは言わなかったな。はぐれたとか、適当なことを言ったんだっけ?

 売ったんだ。金持ちに。

 誤解するなよ、相手は見極めた。本物の変態というものは、須らく紳士的なんだよ。例えば妹の身体をどうにかしたとして……精神までは壊さない。理由は簡単だ。壊してしまったらつまらないから。壊すことを楽しむ連中もいたが……俺が売ったのはそういうやつじゃなかった。

 それは多分、俺と一緒にいるよりは、苦労も苦痛も少ないだろうと踏んだ。

 今なら、もう少しマシな道を用意できただろう。俺は世間を知らなかった。

 言い訳だよ。確かに、金は必要だった。その為にという目的もあった。

 別れ際の泣き顔は、今でも覚えている。でも、それだけだ。結局俺はもう一度会うまで妹の、娘の名前も知らなかった。

 俺はその金で、戦災孤児のネットワークを作った。ヤクザのような集団だった。ミナシゴネットワークと呼ばれるそれは、付近のガキを丸め込み、そこそこ大きな集団だった。俺が仕事を探し、請け負い、分配する。しばらくはそれでうまくいった。軌道に乗ってからは、仕事は向こうから舞い込むようになった。

 玖段には、ここで会ったんだ。

 俺は各地を転々として、決して顔を見せず、指示を出すだけのボスだった。俺は疎開で空になった民家を借りて過ごしてきた。

 それが、俺がここにいる理由だ。

 俺の境遇を話すと、お前は俯いていた。ありふれてはいないかもしれないが、不運のレベルでは、さほど高くはない。お前の境遇はありふれているが、俺の主観では、俺よりも不運だった。


「死ぬとか言ったのが、馬鹿みたいじゃないか」


 お前は言った。


「貞操とやらは、そんなに大切なものなのか」


 俺が訊くと、お前は何かを言おうとして言葉が出なかったように、その口を開いた。


「それはお前が……いや、なんでもない」

「そう、前提が違う。俺はお前の境遇を不運だと理解できるが、共感はできない。それは俺が貞操なんていう言葉とは無縁に暮らしていたからだ。同じように、お前も俺の不運に共感できないはずだ」


 それからお前はごまかすように、自分のことを語りだした。生まれた場所のこと、家族のこと、学校のこと、戦争が始まってからのこと、どうして家を出たのかまで。

 戦争中の口減らしなど、ごくありふれた話だ。

 それから、お前と様々なことを話したな。話の内容はごくつまらないものばかりだったが、あれはなぜだかすごく楽しかった。

 これ、覚えているか?「おれ、というのは止めたほうがいい」と言った時のこと。

「何故だ」とお前は訊いた。


「お前のキャラクターではない。無理をしているのが解るからだ」


 当時の俺の世界は、大半が物語だった。どうにも創作物に染められていた。

 俺が言うと、お前は反論した。


「あたしとでも言えばいいのか。それは無理だな。もう二度と、男に舐められるのはごめんだ。女の一人称は男に舐められる」

「では、僕、でどうだ。これならおれよりは無理がなく、男の一人称だろう」

「ふむ……僕……か」


 お前は確かめるようにつぶやき、「なるほどな」と言った。何がなるほどなのかは知らないが、お前はそれで一人称を改めたな。

 それからずっと、僕で統一した。俺は、それが何故だか嬉しかった。

 俺が飯を食いに行こうとすると、お前は普通に自分の分も要求した。


「死ぬんじゃなかったのか」


 俺が訊くと、お前は言った。


「おれが絶望だと思ったことなんて、小さいってわかったから。それに、お前が面白いからな」


 お前は結局、俺の二日分の食糧を一回の食事で食った。


「よく食うな」

「丸二日、何も食っていなかったからな」


 皮肉だと理解してもなお、お前に遠慮は芽生えなかったな。

 それから……お前は俺と暮らし始めた。単なる気まぐれに過ぎなかったお前の世話は、うっとおしくも楽しかった。それが劇的に変わったのもまた、お前が原因だったな。

 お前を託っていたヤクザが、どうやってかお前の居場所を嗅ぎ付けたことで、俺の指揮するミナシゴネットワークは、ヤクザと抗争する羽目になった。

 結果的にヤクザ連中も傘下に組み込むことになったが……あれはギリギリだった。お前のハッタリはあいつらを言いくるめたが、おかげで政府転覆を企むレジスタンスという、妙な肩書きがついてしまった。まぁ、そうでも言わなければ納得しなかっただろうけどな、あいつらも。

 そしてその目的は、武器弾薬が手に入ったせいで、少し現実味を帯びたな。

 ヤクザのネットワークとミナシゴネットワークで、どんどん人員ばかりが増えていった。父親を脅して、その援助が無ければ、それは成り立たなかっただろうが。

 十人が百人、百人が一万人。倍々どころじゃない。俺は資金運用と裏小細工がうまくて、お前は妙に人心掌握が得意だった。俺とお前は二人で一人。互いに信頼し、互いに成長した。

 そうして俺達は、いつしか自衛軍をも飲み込んだ。謀と陰謀のオンパレード。その中で生き抜く能力が俺とお前にあったのは、幸か不幸か。

 俺達は軍隊だった。信じられるか? 世間から隔離されていた俺が、誰からも望まれていなかった俺が、一国の軍隊を率いて敵と戦ったんだぞ。まるで子供の夢物語じゃないか。それも、いい年をした大人は目を向けないような代物だ。

 俺達は夢の中にいた。全部じゃなくても、ほとんどがうまくいっていた。

 そんな時だったな。お前が人質に取られたのは。

 行方不明だった妹が現れて俺を殺そうとしたり、成り行きで婚約させられそうになったり、敵軍の長とチェスで一騎打ちをしたこともあるが……あの時が一番堪えた。本当だぞ。

 お前を助けようとすれば、俺達は重要な戦略に支障をきたすことになる要求を飲まなければならなかった。

 あまり言いたくはないが……俺は泣いたんだぞ。要求を突っぱねたその夜に。

 お前の奪還作戦は……伊吹を中心とした若者連中が強行した。お前、あいつらに懐かれていたな。やたらと兵達に慕われていたのは、あれはなんでだろうな。麗しの女指揮官という肩書か? ……冗談だ。お前はそれだけの魅力があった。

 そんな伊吹ももういない。俺より七つも若かったのに。老松も、名塚も、井坂もアイシアも。みんな、どんどんいなくなっていく。俺だけが、未練たらしく生き残った。この国の行く末を見るという我が儘のために。

 奪還作戦は失敗だった。俺には、それが予測できていた。

 千三百の兵と、特殊部隊員一個小隊と、草月を二機、華風を六機、白波を六台。それだけを犠牲にしても、お前を無事に取り戻すことはできなかった。お前を確保したまではよかった。でもそれは罠だった。帰還途中に襲われ、お前を乗せた華風は海に墜ち、お前は何も言わなくなった。それは、あまりに大きな痛手だった。

 責めている訳じゃない。俺だって本当は伊吹が羨ましかった。司令塔の立場を捨ててお前を助けに行けたらと、何度も考えた。でも、お前はそれを望まないし、そうした俺を許さないだろう。

 お前のような目にあう奴を二度と作らない世界……言い訳に過ぎなかったそれの実現は、もう間近に迫っていたのだから。

 でも、俺は思うんだ。本当はお前も心のどこかで、俺が助けに来るのを待っていたんじゃないかって。司令の立場とか、理想郷の実現とか、全部かなぐり捨てて、ヒーローみたいにドアを蹴破って、快刀乱麻の活躍で、お前を抱えて逃げ出して……そんなことを期待していたんじゃないかって。

 俺は……後悔している。お前を助けなかったことを。伊吹を信用していなかった訳じゃない。でも、俺なら……もっとうまくやれたんじゃないかって。

 どれだけの犠牲を払っても、せめて、せめてお前だけは助けられたんじゃないかって。

 こんなこと言ったら、馬鹿かって言って殴るんだろうな、お前は。僕らには目的があるだろうって。

 なあ、お前の人生は、いいものだったか?

 俺は愛なんて信じない。少なくとも、永遠の愛などというものは。世間は俺が愛を信じないと思っているようだが、少し違う。俺は、愛とは一過性のものだと思っているんだ。問題は、それがどれだけ続くのかってことだけ。子供を作って育てている間にしか、それは必要のない感情なんだからな。

 だから、システムを作った。人は愛だけでは縛れないが、機構でならそれを押さえ込める。そうすれば、俺やお前のような境遇のガキも、二度と生まれることはないだろう。

 俺はきっと、お前を愛していた。お前もきっとそうだった。だが、お前が無事に生きていたら、それはきっと、いつかどこかで破綻していたと、そう思うよ。

 俺が未だにお前を愛しているのは……お前がこうして喋らないからなんじゃないかって。

 お前はいつまでも綺麗なままで……俺はこんなに年老いたのに。

 時間は平等だというが、お前はもう、とっくに時間から外れてしまったんだな。老化しないし、心臓も動いていた。でも、決して目を覚まさず、ゆるやかに死へと向かっていた。それって、生きてたって言えるのか。

 そして、刻限はもう、過ぎてしまったんだな。

 俺は九人の子供を作ったが……七人はとんだ愚図だ。ほかの一人は妹だな。もう一人は、俺とお前の子供だよ。

 前にも話したが……お前の細胞核、勝手に使わせてもらった。培養液でも作れたが、あいつは代理母に産ませたよ。ミズキって名前だ。俺達の子供は無事に育っている。ひどく頭のいい子でな。

 三歳の時、あいつに俺の記憶を移植した。元々その為に作ったようなものだ。確信はしていたが、ミズキの頭は無事だった。あいつは俺のコピーであるかのように振舞っているが、残念ながら俺には通じない。俺の記憶を持ったせいか妙にひねたところはあるが、お前に似てない可愛い子だ。

 あいつなら、俺が死んだ後もうまくやってくれるだろう。ミズキを支える環境は整えたし、あいつ自身も自覚を持って成長した。あいつもまた、自分の理想を目指すだろう。もう、俺は俺達の理想を追求しなくて済む。

 最後の試験受験者は、面白いやつだったよ。お前にそっくりなんだ。俺のコピーとして振舞うあいつの傍にいるには最適だろう。

 俺の用意した男には見向きもしなかったがな。メバルという男だ。あれでもきちんと吟味したんだが。知ってたか? あいつ、実はアイシアと伊坂の孫だ。もしかしたらそれを知っているのかもな、ミズキも。だから、殊更にメバルを嫌うのかもしれない。

 いや、それも怪しいものだがな。

 これで俺も、後顧の憂い無く逝ける。

 よっと……俺も年をとったな。こうして身体を寝かすだけでも少し堪える。

 昔話にも疲れた。過去を思い出すのは、存外体力を消耗するな。それが甘いものではないと、余計に。

 もう、逝ったのか?

 それならもう、時間は要らないんだな。

 テイリか? ここには入るなと……あぁ、お前か。まあちょうどいい。

 よお、俺。


「やあ、じいさん」


 何しに来た?


「政権、貰いにね。」


 今すぐか?


「なるべく早く、可及的速やかに。あずすーんあずぽっしぼー」


 そうか。まあ、少し待て。

 くっく……。

 見たか? あのふてぶてしい態度を。

 この俺をじいさんだと。

 血縁は親子、表向きは曾孫、頭の中身は同じ存在の俺を。全部別物だな。あの性格は、お前にも俺にも似ていない。第三者から見れば似ている所もあるのだろうが。

 若さというものもまた、その理由にあるのだろうな。

 …………。

 さて、もう行くとしよう。

 これも俺が作ったんだ。飲めばまず昏倒して意識が無くなり、それから……そんな説明はいらないか。

 理想郷の一つ……あの世とやらがどんな場所なのかは、さすがに知らないからな。楽しみだ。


「ミズキ」

「なに?」

「俺の理想郷、変えるのはいいが、壊すなよ」

「……ああ。任せとけ」


 頼もしい娘だ。これなら、後のことはお前に任せられる。

 ………。

 喉の通りは良い。味は、少し苦いか。

 ああ、しまった。

 理想郷には……善人しか行けないのを忘れていた。


「   」


 もう、声も出ない。


「さよなら、じいさん」


 ミズキが銃を構え、俺の横の壁に穴を開けた。

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