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エウトピア   作者: 十ノ青日
序章
13/39

Ⅳ・行為、試験、その内容→Ⅱ

 その日は……よく眠れなかった。あの勉強会から帰ってきた後、何を食べて、どんなふうにベッドに入り込んだのかもよく覚えていない。ただ、目ばかり冴えていた。頭は呆けたように、意識は上の空で、ぐるぐると渦巻いている。

 例えば爆弾。右曲がりの回路が人々を腐らせる。

 例えば台風。左へ吹く風が国を削り取る。

 例えば夜。夜明けは必要ではない。眠りがあるこそが全てがうまく走る。

 鳥が一羽、羽ばたいた。その指先が僕の身体を剥ぎ取った。

 警察は暴徒と同じ意味。違いは理知的かどうかだけ。

 歌わない歌姫に意味はない。声が枯れたのなら、お前はもう用無しだ。暴徒だってお前を解放するだろう。

 事前に慈善は偽善だと言え。その奇縁に気炎を上げろ。酒宴の主演は自分だと。

 物語は始まっている。君が僕なら、もう終わっている。

 準備は終わっている。君が僕なら、もう始まっている。

 緩慢だが、決して見えないもの。さよならの替わりに必要なもの。

 取り留めのない思考は、いつまでもいつまでも回っていた。本当は、我慢して我慢して、今にも弾けそうだった。

 いつの間にか、右手が身体の中心に伸びていた。掛け布団に隠れて、右手を下着の中に入れ、皮をむき、掌で包み込むように撫で摩る。始めはゆっくりと、徐々に激しく、強く。音を立てないように加減するのには気を使った。


「フゥッ……ンン……」


 噛み殺した吐息。呼吸が荒くなるのを感じる。

 昂ぶる。高まる。

 あと少し、あと少しだ。


「起きてる?」


 不意に、夜の自室に声が響く。僕は、慌てて手を止めた。


「アキ」


 つまらない思考の末、意味もないことを続けていた僕を引き戻したのは、リコだった。


「…………なに?」


 一つ呼吸をはさんで、息を整える。


「あの、さ。アキはさ」

「うん」

「どうしたいの?」


 まさか、聞こえていたのか? 見られていたのか? 察されていたのか?

 …………どうしたいのかって? 理解していて、それを訊くのは、つまり。

 ならばもう、我慢も必要ないだろう。

 不安で不安で仕方なくって。

 夜明けのことを考えると、どうせ眠れやしないのだから。

 僕は、ベッドから出た。棚を挟んで頭の向かい側にある、リコのベッドに向かう。


「なに? どうしたの、アキ……」


 どうせ暗闇で何も見えやしない。


「ちょっと、アキ!?」


 蒲団を剥いで、リコに覆いかぶさる。シャンプーの甘ったるい匂いがした。身体が熱い。暖かい。僕はリコにのしかかり、背中に手を回す。


「リコ……」


 身体をまさぐった。まだよく理解できていないのか、思考が追い付いていないのか、やけにリコの反応は鈍い。


「ちょっ、アキっ! やめ、やめてって!」

「リコ……!」


 いやいやをするように身体をくねらせる。僕はリコの胸元に顔を埋めた。


「やめてってば!」


 リコは両腕を突っ張って、僕の身体を突き飛ばした。一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 リコが望んだことではないのか、これは。


「何なの? こんなの……アキらしくないよ!」

「…………ごめん」


 僕はそう謝って、リコをゆっくりと抱き寄せた。


「ごめん……」

「アキ、駄目だよ……」

「うん」


 今度は、リコの抵抗は弱々しくて。


「こういうのは、誰か、本当に好きな人とじゃないと」

「うん」


 ……それ以上は言わせなかった。リコの唇は、僕のそれで塞がった。

 そして僕は犯した。リコと、罪と、それからきっと、過ちを。

 見たこともない景色に出会う。

 さようなら、イロイロなこと。




 目を覚ますと、隣にリコはいなかった。

 体力を使い果たした僕は、事が済んですぐに眠ってしまったから、その後でリコがどうしたのかはわからない。身投げしているとは思わないけど。どうせ、さしたる影響など無いんだ。

 僕は取り敢えず歯を磨きにいく。洗面所で、違和感に顔をしかめながら鏡を覗いた。……ひどい顔をしている。

 リコ、リコ。僕は君を……傷付けた。

 間違いだとは思わないし、そう思うのは間違いだ。だから、謝ることはしない。

 その傷は僕が埋めるから。


「アキ」


 背中に、泣き出しそうな声。


「どうして……」


 そこで、僕はリコの唇を塞ぐ。今度は、右手の人差し指で。


「アキ……?」

「何も言わないで。お願いだから、何も……」


 リコは小さく頷いた。

 僕は小さく嗚咽した。

 それから朝食を摂りに行ったが、二人とも食欲はなかった。リコは定食のサラダをつつき、僕は味噌汁を時折口にするくらいで、箸は一向に進まない。

 それでも、なにか食べなければ。なんといっても、今日は試験の日なのだから。どんな無理難題が出されるかわからない。体力はつけておかなくては。

 そう思うのだが……目の前にあるアジの開きを見ても、それが食品であるという認識ができなかった。リコもそうなのだろうか。行儀のいいリコには珍しく、頬杖をついて窓の外を眺めていた。


 チャイムが響く。もう朝会の時間が近い。食堂にはほとんど人の姿がなかった。僕らはそれにも頓着せず、冷めきった朝食を前に固まっている。 

 言葉は、ない。互いに、一言も。

 僕は何を言えばいい? 思考はまた、無意味な軌道をとる。

 僕はわからないって言った。わからないってなんだ? そう言われた。

 ぶぶうごう、ぶぶうごう……四ツ脚の蝿が飛んでいる。残りの二つは羽になる。

 身につけるのは安物のほうがいい。高い物に囲まれていると、物の値段がわからない。

 目撃例しかないって? それはつまり、存在していないのと同義だ。

 他人の財布だもの。からっぽでさえなきゃなんだっていいさ。例えば中身が借りた金でも。

 全長十一メートルの人魚が横たわる。まったく、誰がクックロビンを殺したのか。

 夜明けが希望と誰が決めた? 夜を望む者もいるのに。

 ……そう、僕らが立ち向かうのは、夜明けそのものだ。

 卜部さんに聞いた話では、今日の十時にここを出発するという。それから十一時半に面会し、共に昼食。試験そのものが、いつ始まっていつ終わるのかはわからないそうだ。それは人によって様々らしい。

 …………。

 どこまで鵜呑みにしていいやら、だ。


「リコ」


 数瞬遅れて、箸をくわえたまま固まっていたリコが、がたがたとこちらを向いた。


「ん、んぅ?」


 唸るような、妙な返事だった。


「ああ、その……これからのことなんだけど」


 リコは目を見張らせてふんふんと頷く。きっと、昨夜のことが後を引いているのだろう。


「なに、その返事? ……まあいいや。これからなんだけどさ、その……全部僕に任せてほしいんだ」


 これは、僕のエゴだ。

 全てを僕に任せるということは、僕だけじゃなく、リコの命運も、僕の挙動が握っているということ。

 もちろん、失敗するつもりもないのだけれど。

 じっとリコを見詰めようとする。その前に、コクリと、リコは頷いた。


「え……?」


 まさか、こうもあっさりと了承されるとは思っていなかった僕は、予想外の即答に戸惑う。


「い、いいの?」


 リコはまた頷いた。

 どういうこと、なのだろうか。

 自分の明暗どころか命運を分ける、大事な大事な試験だ。その一大事に、自分の介入する余地を無くすような約束を、何故受け入れる?

 リコの意図が、まるでわからない。

 リコの顔を見てしばらく待ったが、リコは顔をそらしたきり、何も言わなかった。

 ともあれ、リコの了承は得たのだ。これからの全てを、僕のやりたいようにできる。

 それが正しいのかは別として。

 それからはまた、お互い言葉もなく。誰もいなくなった食堂に、僕らの沈黙だけが響いた。




 どれくらい経っただろう。少なくとも、味噌汁から湯気が消えるくらいにはここにいたはずだ。

 目の前の料理は少しも減っていなかった。


「ああ、ここにいたか」


 長い沈黙を破ったのは、卜部さんだった。

 ふと気が付くと、すでに九時半を回っていた。迎えに来てくれたのだろうか。どうやら会長は一緒にいないようだが。


「そろそろ校門へ向かってくれ。迎えが来る」


 卜部さんは事務的にそう告げた。


「ああ、はい」


 僕は立ち上がり、食器の乗ったトレイを、食べ残しごと回収口に運ぶ。リコも黙って続いた。トレイをコンベアに乗せてスイッチを押す。ガタンと音がして、トレイは運ばれて行った。


「行こう、リコ」


 僕らは食堂の出口に向かった。


「あ、なあ」


 卜部さんが、僕を呼び止める。振り返って彼を見ると、出しかけた手を途中で止めたような体勢だった。


「お前……そう、アキ、だ。ミズキさんがそう呼んでいた」

「僕?」


 そういえば、卜部さんに名前を呼ばれたのは、これが初めてかもしれない。

 発言らしい発言は、今まで無かった。

 卜部さんは、僕を手招きして呼び寄せる。近付くと小さな声で、耳打ちするように言った。


「何て言うか、その」


 いったん離れて溜め息一つ。それから、すっと息を吸った。


「そう、ミズキさんには気をつけろ」

「会長に?」


 それは言われなくても当然のことだが。


「ああ……いや、そうだ。俺には何もできないから。お前らはミズキさんに気に入られている。理由は知らんが。ミズキさんは気に入った相手に優しく、厳しい」

「まあ、忠告は有り難いんだけどね……会長より、閣下の情報が欲しいかな、今は。会ったことあるんだろう?」

「そうか。まあ、何回かあるな、会ったこと。そこまでじっくりと話したことはないが」

「それでもいいからさ、教えてよ。閣下はどんな人なの? 写真や動画はもちろん見たことがあるし、その功績や思想は有名だけどさ。実際の閣下の像はわからない」

「閣下の像、か……」


 卜部さんは腕を組んで思案顔を見せた。


「あの方なら……そうだな、歳老いたミズキさんだと思っておけば間違いないだろうな」


 ……………………。

 会長が二人……。

 想像するだに薄ら寒かった。


「そんなに似てるの?」

「まあ血が繋がっているから顔も似ているんだが、そういうことじゃない。なんというか、雰囲気……そう、纏う空気が似ている。あの二人の会話は、そう、まるでパートナーのようだ。俺よりも、余程」

「へぇ……」


 そう言う卜部さんは、少し悔しそうだった。


「ミズキさんのお気に入りである君ならば、多分、閣下にも気に入られるだろう。だから、あまり心配するな。君達ならクリアできる」

「……ありがとう」


 笑って礼をすると、卜部さんは照れたようにそっぽを向いた。


「……つまらない話をしたな。もう時間だ」

「いや、助かったよ」

「じゃあ、なんというか……そう、頑張れよな。迎えは正門に、十時ジャストだ。遅れるなよ」


 踵を返す。その背中に、僕は声をかけた。


「ねえ!」

「ん?」

「なんで僕に助言を?」


 卜部さんは寂しそうに苦笑して、言った。


「お前達じゃなく、そう、俺がミズキさんのパートナーだからだ」
















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