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Galatea  作者: 藤原建武
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Sect.3 鉄人


 篠原真由子は組織犯罪対策課特殊調査部に配属されて二年がすぎた。この「特殊」という部分が重要である。悪く言えば雑用、主な仕事内容は過去の調査資料の収集とデータベース化だった。そして、あるかないかも分からない組織の、その正体を調査するのだ。

 それでも真由子は職務に忠実で優秀だった。また、すらりと背も高く美人気質なのだが、男勝りな性格が災いして男をよせつけない。ただ本人は気にしていないようで、合コンもお見合いもせず、独身道を突き進んでいた。上司の遠座明弘だけが唯一おそれをしらない。

 その真由子に、新たに後輩ができることになった。こってりしぼってやろうとほくそ笑むが、明弘に詳細を聞かされ唖然とした。

 近年、危険物取り扱い班に、繊細な作業が可能なロボットが導入されたり、立てこもりなどの危険な事件に、暴動鎮圧用のロボットが導入されたが、自分たちの部署にそれがくるとは思わなかった。しかもそれが、いわゆる人工知能とやらで、自ら考えて動くらしく、真由子がその教育担当となることになった。

 真由子はいったい何の話をしているのか理解できず、悪質なジョークだと明弘をなじると、彼は憐れむように微笑しただけだった。

 机に向かい、書類を整理していると、

「失礼します」

 背の高く、凛々しい顔立ちの青年が入ってきた。警察の制服に、赤い腕章をつけていた。明弘のところへ行くので、彼に用があるのかと思っていると、

「篠原!」

 それに顔を向けると、手招きしている。何事かと思って向かうと、彼は青年をさして、

「こいつが例の、お前の後輩だ。よろしく頼んだぜ」

「はい?」

 きっと今までのは悪質なジョークだったのだ。頼もしげな後輩に悪い気はしなかった。

 明弘は笑いをこらえているようで、顔を引きつらせながら、

「ところで、君の名前は?」

「角丸タケシです」

「ああそうか。よろしくタケシくん」

 そこでタケシはきちっと踵をあわせ、敬礼する。その仰々しいしぐさに、真由子も笑いをこらえる。

「じゃあまずは、そうだな。篠原、タケシくんを資料室に案内してやってくれ」

「はい」

 それにタケシは真由子を向いて、

「よろしくお願いします!」

 低く澄んだ声で、耳に心地よかった。真由子はほがらかに笑う。


 真由子はタケシを捜査資料室に連れて行く。

 組織犯罪対策課といえば聞こえはいいが、特殊調査部は、過去の捜査資料の整理など、ようは雑用である。日がな一日暇なので、部長の明弘は巡回という名の散歩に出かけたりしていた。

「ここの資料を、パソコンにおこしたり、整理するのが主な仕事」

 棚にある書類や、山積みの書類を指して言う。

「はい」

 タケシはそれだけのことにも、きちっと返事した。

 真由子はこれで説明は終わったと、少しこの後輩との距離を縮めようと思った。

「ねぇ、なんで警察になったの?」

「はい。私は国民の生活を守るためにつくられました」

 それを聞いて真由子はぞっとした。

「部長と一緒に私をだまそうなんて、ゆるさないわよ? どう見たって人間じゃない」

「人に不快感を与えないよう、なるべく人間に近い容姿につくられました。合衆国の先行機では、人間とかけはなれた容姿に不快感を与えたので、日本ではこちらの容姿が採用されました」

「え? えぇ?」

 表情一つ変えずすらすらと述べるのに、頭が混乱してきた。

「じゃあ、ロボットなんだ?」

「はい。よろしくお願いします」

「へぇ……」

「篠原刑事には職務および対人関係について教わり、失礼のないようにと、栗谷所長に命じられています。これからお世話になります」

「ああ、どうも……」

 きっと頭が弱いのだろうと、深く考えないことにした。むしろ、まともな人間になれるよう教育する必要を感じた。

 とりあえず今は話をあわせてあげよう。

「ところでロボットなら、勉強とかできるの? なんか与えられたことしかできないイメージなんだけど」

「つまり入力された以上のことが、出来るかということですね?」

「う、うん」

「私は、近年開発に成功した『学習装置』の実用化を目指した試験機です。この装置は、メモリーに記録された情報を再構成し、行動様式にフィードバックすることができます。つまり学習し、それを反映することができるのです」

「へぇ、ふ~ん……」

「従来のものは、入力された以上のパフォーマンスが期待できませんでした。応用に欠けたのです。そこで私を設計した栗谷所長は、学習装置を実装したのです」

「そ、そうなんだぁ」

 タケシの顔を見ていると、彼が瞬きするのに気づいた。

(やっぱり人間なんだ。言わないでおこう。きっと誤魔化される……)

 「まばたきはワイパーです」とか言われかねない。いろいろと聞き返したいこともあったが、深く詮索すれば同じ結果になるだろう。

 ここで話題を変えようと、

「対人関係って、人と接するのに自信がないの?」

 不思議そうに、タケシがこちらを見るが、すぐに顔を戻す。

「基本的なマナーや、シチュエーションは想定してありますが、人の感情の機微は難しく、些細なことで関係を壊しかねません。組織で行動する場合、協調が第一です。もしも私の態度が不快にさせたのなら謝罪します」

 急に頭を下げるので、真由子は困惑する。

「べつに不快に思ったりしてないよ! おもしろいなぁって思ってるぐらいだし」

「ありがとうございます。もしも至らない点がありましたら、ご指摘ください」

 実直で素直な青年なんだなと思った。

「とりあえず仕事と対人関係が重要なんだね」

「はい。その他にも教えていただけるのなら感謝します。また、他にも疑問の点がございましたら、何なりとお申しつけください」

 そこで悪戯心が芽生える。少しからかってやろうと、

「ふ~ん。じゃあ、感情はあるの?」

「いいえ。感情を表現する機能は実装されていません」

「どうして?」

「職務を遂行する上で不要だと判断したのです」

「でも対人関係には必要だよ? 対人関係だって、仕事をする上で重要なわけだし。たとえば、この人は私を好きなんだなとか、何をしたら相手が喜んでくれるかなとか。感情がないと分からないよ」

「なるほど。所長に報告し、次から実装するよう申請します」

 うまく逃げられたような気がして、悔しくなった。

「じゃあ、人を好きになったりしないの?」

「いいえ」

 内心「おお!」と思った。それこそが感情なのだと教えてあげたかった。

 しかしタケシは、

「私は国民を守るのが使命であり、国民の一人一人を大切に思っています」

「そうじゃなくて、女性を好きになったりとか」

「はい。女性の国民も勿論」

「……」

 だんだん、本当に機械と話している気がしてきた。

「その好きじゃなくて、この人と一緒にいたいとか」

「はい。それでしたら」

 今度こそと真由子は息をのむ。

「私は篠原刑事と一緒にいたいです」

 まさかの告白に驚く。本棚に倒れこみそうになった。

「えっ? わ、わ、私は……」

「私はまだ経験が浅いので、篠原刑事に教わることが多くあります。そのためにも、少しでも長く一緒にいたいです」

「そ、そう……」

 少しがっかりしたような、複雑な気持ちだった。


 角丸タケシは優秀で、真由子が一日かけて終わらす仕事を、一時間で終わらせた。捜査資料をデータベース化する、タイピングの速度は尋常でなく、絶え間なくキーボードの音が鳴っていた。誰よりも仕事が遅く、一日中ぼうっとしている明弘はたまらなくなり、タケシをお茶くみに左遷した。タケシ本人はまったく気にした様子もなかった。

「ちゃんと捜査資料読んでるの?」

 お湯を注いでいるタケシのそばに寄り、手伝う。手際がよく、すでに十数人分が用意されていた。タケシはしれっとした顔で、

「はい。およそ一秒で一ページ記憶でき、誤字脱字を修正するのにロスがあります。あとは打ち込むだけですが、とうの機械がそれを反映するのにロスがあるので、仕事量に多少ですが支障をきたします」

「そう……」

「念のためですが、よければ確認していただきたいのですが。お時間のあいているときで結構です」

「う、うん。いいよ」

「ありがとうございます」

 またわけのわからないことを言っているので、念のため確認しておこう。

 そこでタケシの席に座り、手元の資料と比較してみる。それを見て真由子は、タケシの仕事ぶりに感嘆した。ミミズがおどったような文字も、ちゃんと解読されている。

 給仕を終えたタケシがマグカップを片手に戻ってくると、真由子は彼の肩を叩いて、

「すごいね、さすがロボットなだけあるね!」

 半分からかいの意味あいもこめているのだが、タケシは気づいた様子もなく、

「おほめいただき光栄です」

 それに真由子は呆れるしかなかった。そこへマグカップを差しだされる。

「どうぞ」

「あれ、タケシくんのは?」

「私は飲食ができません。最長二十時間稼働で、八時間の充電が必要です」

「ああ、そう……」

 どこまでロボットのふりをするのだろう。そんな澄んだ目で、心地のいい声で言われては、頭ごなしに否定することもできない。


 休憩時間になり、真由子はタケシをさそい、社内食堂へ行く。飲食はしないらしいが、もちろんそんな言葉は信じていない。さすがに昼時、食べ物のにおいが充満する中で、どこまで耐えられるだろうか。

 券売機を前に、

「何食べる?」

「大丈夫です。持参しています」

 その言葉に真由子は頭がくらくらした。食べないと言ったり、持ってきていると言ったり、もしかして虚言癖でもあるのだろうか。とうのタケシは手ぶらで、何も持っている様子はないが。

 真由子はタケシの向かいで、豪快にソバをすすっていると、タケシは単二ぐらいの乾電池を取りだす。それに真由子は鼻からソバをふいた。何をするのかと声もかけずに見守っていると、タケシは二つほど取り出し、まず一個目を飲みこんだ。

「ダメぇぇぇぇ!」

 真由子の絶叫に、食堂中の視線が集まる。

「そんなもの食べちゃダメ!」

 タケシの喉を押さえ、揺さぶる。ひやりとしたが、筋肉質のかたい手触りだった。

「ちょっと吐き出しなさい! 死んじゃうわよ!」

 とうのタケシは平然として、二個目を飲み込む。世界にはガラスや石を食べても大丈夫な人がいる、らしい。真由子はその光景に失神寸前で、彼もそんなビックリ人間の一人なのだと、自分に言い聞かせた。

 色気より食い気の真由子も、すっかり食欲が失せてしまった。


 廊下を歩いていると明弘に呼び止められる。

「どうだ、あいつは?」

「タケシくんですか?」

「ああ」

 そこで真由子はたまりにたまった思いをぶつける。

「もう彼はビックリ人間大賞ですよ! 電池食べるんですよ! いっそテレビに出た方がいいんじゃないですか?」

 それに明弘は笑いながら、

「まあロボットだからな。大目に見てやってくれ」

「はあ……」

 そこで真由子は、明弘がタケシに親しいというか、前から知っているような印象を受けた。でなければ彼の虚言にあわせないだろう。

「部長は彼と知り合いなんですか?」

「ああ。いや、知り合いに頼まれてな。上からもよろしく言われてるし。何でも、職務への適応性を調査したいらしいんだ。だからよく面倒を見てやってくれ」

 つまり社会への適応を応援していると言うことだろう。確かに変わった言動を別にすれば、まじめで優秀だ。それに何となく好感がもてる。

「分かりました。彼がはやく社会に適応できるよう支えます!」

 明弘は少し引っかかるようだが、頼もしげに笑い、

「正直、真由子に任せたのは、お前が一番しっかりしているからだ。それにそろそろ後輩をもった方が、自分にもプラスになるからな。そう言ってもらえると助かるよ」

 真由子は少し照れくさくなった。ものぐさな明弘が、掛け値なしに感謝してくれているからだ。仕事を頼むときはわざとらしく媚び、成績をあげても「がんばったな」の一言もない。その明弘から言われて悪い気はしない。

 タケシを社会に適応させようと、真由子は意気込んだ。


 その後も、かいがいしく真由子はタケシの面倒を見た。ただタケシは優秀なので、教えたことは一度で覚えてしまう。そのため、真由子のすることといえば、彼の虚言につきあって、少しずつ更生していくことだった。

「ねぇ、休日ってどうすごしているの?」

「休日は必要ありませんが、週に一度、メンテナンスを受けています」

 これではいけないと真由子は思った。

「それっていつ?」

「毎週水曜日です」

「あぁ、確かに水曜はいつもいないよね。じゃあ来週も?」

「はい」

「私も来週休みだから、一緒に出かけない?」

「所長に確認してみます。メンテナンスはすぐ済むので、問題ないでしょう」

「うん、確認とったら教えて」

 これを聞いてまわりの同僚は唖然とした。何度デートに誘っても、かいのなかった真由子が自分から誘っている。

 とうの真由子はデートというより、タケシの更生が目的だったのだが、後に遊園地に行こうと思った。


 行楽シーズンの秋。都内の遊園地は人で賑わっていた。

 真由子は珍しく多少は女らしい格好をしてきたが、タケシは作業着のような私服だった。

「こういうところ、来るのはじめて?」

「はい。貴重な休日の時間を割いていただき感謝します」

「私だってわざわざ呼びだしちゃったんだから」

 笑う真由子に、タケシも微笑む。だんだんタケシの表情が豊かになり、人間らしくなってきた。真由子が笑えば笑う。怒れば眉をくもらせ、ほめれば喜ぶ。その二人の様子に同僚たちは、あの真由子が惚れたのだと、肩を落とした。実際は、世話のやける息子をもった母親の心境だった。

「ジェットコースター乗る?」

 それにタケシは困った様子で、

「申し訳ありません。おそらく基準体重を超えているので、私は乗ることができません」

 それを聞いて絶叫系は苦手なのだと気づき、無理強いしないことにした。タケシは、背は高いが、太っているようには見えない。筋肉質ではあるが、八十キロもないだろう。

 無難に、メリーゴーランドやゴーカート、列車のアトラクションに乗った。真由子自身遊園地に来たのは中学生以来なので、思わずはしゃいでしまった。右に左にと連れ回すが、タケシは嫌な顔ひとつせず、むしろ笑っていた。

「あー、喉かわいた。レストランで休憩しよ」

「はい」

「充電は大丈夫?」

「はい。人前では驚かせてしまうので、お手洗いの個室で済ませてきます」

 それに真由子はくすくすと笑った。

 レストランは恋人や家族づれで賑わい、はたから見たら自分たちも恋人同士に見えるだろう。そう思うと真由子は、浮かれていた自分に気づいた。タケシに変に誤解を与えてしまうのではないかと。むしろ自分が変な気をおこしているのかもしれない。

 席を確保するとタケシは一言ことわってトイレに向かう。それに真由子はほうけたようにうなずいた。

 それから少しして隣のテーブルに、タケシとすれ違っただろうか、十八歳ぐらいの少女が戻ってくる。少し年上の彼氏は先にカレーライスを食べている。彼女に注文する様子はない。白い肌に切りそろえた黒い髪、くりくり動く瞳が愛らしく、秋物の柔らかな服を着ていた。楽しそうに談笑をしているのを見て胸がうずいた。

 真由子はその年頃の、自分を思い出した。大学二年でできた恋人は、サークルが一緒で、ずっと好きだった。まわりがどんどん付きあっていくのに焦って、勇気をだして告白し、晴れて付きあうようになった。しかし付きあって三ヶ月目に、別の女性とも付きあっていることが判明した。大喧嘩の末、相手の鼻を殴って別れた。それ以来、ほとんど無意識に、恋愛というものに距離をおいた。

 今でも憎んでいるかと言われても、もう気にもならない。時間が経てば記憶も感情も風化するものだ。

 そこへ食事を済ませたタケシが戻ってくる。

「すみません。遅くなりました」

「ううん」

 笑ってみせたが、憂いを隠しきれない。

「どうかしましたか?」

 タケシに心配されるとは思わなかったので、少し嬉しかった。細かい感情の機微に気づけるのなら、もうすでに更生できたのだろう。そう思うと誇らしかった。

「ねぇ、恋人とかいないの?」

「はい。いません」

「じゃあ誰かと付きあったことはないの?」

「はい。ありません」

「今までに好きな人は?」

 タケシは誇らしげに笑い、

「国民です。そして私をつくってくれた方々、私を支えてくれる方々です。篠原さんはいつも私を教育してくださり、とても感謝しています」

 真由子はさびしげに笑った。

「じゃあ、今でも好きな人は国民なんだ?」

「はい。私は国民、そして世界中の人々に貢献するのが、この上ない喜びです」

 タケシは本気で言っているのだろう。真由子が聞きたいのはそういう好きではないのだが、うまい言葉が見つからない。手あたりしだいに、

「国民が好きなのは分かった。じゃあ異性で、恋人にしたいとか、そういう好きは? 本当に誰も好きになったりしないの?」

 タケシは少し困った様子だった。

「私は男性の外見をしていますが、性別はありません。仮に男性だとしても、異性を好きになるようにはつくられていません」

 真由子は頭を抱えたくなった。大声で「あなたは人間よ!」と叫んであげたかった。

 ちょうど隣の恋人たちが、手をつないで去っていく。その幸せそうな様子に、

「あれが好きだって言うこと。幸せそうでしょ? それでも誰かを好きになったりしないの?」

 タケシはふりかえり、少しして、何でもないように言う。

「女性の方はアンドロイドです」

 真由子は何も言う気にならなかった。


 またたく間に月日は流れた。

 タケシは少しすると仕事の要領をすっかり覚え、真由子はお役ご免となった。べつだん相手にしないわけでもないが、真由子はそれ以上深く関わろうとせず、同僚の間で「別れた」と噂された。タケシは相変わらずなので、真由子がふられたのだろうと、興味本位にささやかれている。

 そんな噂は気にしない程度に強いが、真由子は悩みをかかえていた。明弘をさそい、二人で飲みに行くことにした。

 明弘はここがいいと、真由子を連れ、静かな、感じのいいバーにきた。カウンター席に隣りあって座る。

「嬉しいね、真由子ちゃんが俺のこと誘ってくれるなんて! もしかして俺のこと好き?」

 皮肉をこめて笑いかけてくるのに、真由子はむすっとして「ありえません」と否定する。

「部長こそ、恋人とかいないんですか? その歳で独り身なんて」

 明弘はハイボールのグラスを口にあて、

「離婚した」

 はたと思いだし、真由子は反省する。前に同僚から、そんな話を聞いた気がした。

「すみません……私……」

「いいって、十年以上前だ」

 そこで一口飲む。

「失礼ついでに、何で離婚したか聞かせてやるよ」

「え? いや、いいです」

「なんだよ、こんなオヤジの恋愛なんて聞きたくないって? 無理矢理にでも話してやる」

 明弘はくっくっと笑い、

「よくある話さ。仕事と家庭どっちが大事なんですか、ってな。今じゃこの歳になって、こんなしがない部署にいるけどよ、昔は敏腕できかせてたんだぜ?」

「こんな部署って……私もそうですけど……」

「ああ、悪い悪い」

 からからと笑う。どこか遠い目だった。

「子供がな、息子が一人いたんだよ。今はもう二十歳になるのかな? 一度もかまってやれなかったな。毎日仕事で、家庭は全部任せきりで」

「……」

 聞いてはいけないことを聞いてしまったようで、申し訳ない気持ちになった。

「すみません。なんと言ったらいいか……」

 明弘は真由子の顔を見ると、

「おい、俺に惚れるんじゃねぇぞ」

「ありえません!」

 真由子は明弘の屈託のなさがうらやましく思えた。

「傷つくなぁ」

 そうぼやく明弘に、真由子は笑う。

「で、篠原、お前はどうなんだよ?」

「はい?」

「色恋沙汰」

「私ですか……?」

 真由子は視線をさまよわせた。わざわざ嫌な話をするのも何なので、ここで最近悩んでいたことを打ち明ける。

「好きって、なんですかね?」

 それに明弘はぶっとふきだす。

「お前、ロボット野郎は駄目だぞ? 絶対に許さないからな!」

「ありえません! それにどうして部長の許可が必要なんですか?」

「いや、まあ、それはだなぁ。まあそれならいいが……」

 明弘は言葉をにごしつつ、なにやら考えこむ。真由子はその横顔を見つめていた。きりっとした顔立ちなのだが、無精ヒゲにくすんだ肌、さぞかし若い頃はかっこよかったのだろうと思った。

「好きって言うのは、ようは本能だろう。この女を抱きたい、この男と寝たいとか。でもまあ、あれだ。その人と一緒にいたいとか、大切に思って、守ってあげたいとか、そういうのが好きってことなんじゃないか?」

「そうですよね」

「分かってるなら聞くなよ……」

 明弘は決まり悪げにぼやく。真由子は気にせず、

「でも分かんないんです。人を好きにならなくても平気な人もいるし、私なんかもそうなんですけど、本当にそれでいいのかなって」

 それに明弘は怪訝そうに真由子を見つめる。

「何ですか?」

 明弘は真顔で、

「お前、俺のこと好きだろ?」

「ありえません!」

 言うよりはやく、その肩をはたいた。



 タケシが来てから数ヶ月が経った。

 柔道の訓練をおえた彼が、汗一つかかず帰ってきた。

「おつかれさま、どうだった?」

「とても貴重な体験でした」

 それを横目に、一緒に帰ってきた同僚の松原が嫌そうな顔をする。真由子と親しげに話しているのに嫉妬しているわけではない。「貴重な体験」うんぬんが皮肉でしかないからだ。

 今日も一人として、タケシを投げ飛ばした者はいない。はじめのころは、見た目以上に重いタケシに苦戦する程度だったが、驚くべきはやさで上達し、今や誰も敵わなかった。

 知るよしもない真由子は微笑み、「よかったね」と肩を叩いた。それにタケシも笑う。

 そこへ赤い腕章をつけた、スーツ姿の男が入ってくる。

「失礼します」

 度の強い眼鏡で、両端に景色が見えた。腕章はいつかのタケシがつけていたもので、黒い丸の中に「K」の文字が入っていた。何か関係があるのだろうか。

「あっ、こんにちは」

 真由子が訪問の理由をたずねようとしたとき、タケシが横から、

「おはようございます、栗谷所長」

 これがあの所長かと思った。貧相で肌は白く、寝食を忘れて研究に打ちこんでいる姿が思い浮かぶ。

 栗谷は真由子に笑いかけ、

「篠原刑事ですね、タケシがいつもお世話になっています」

「いえ、そんな。こちらこそ助かってます」

「ああ、そうそう。遠座部長はいらっしゃいますか?」

「ああ、あちらです」

 デスクにふんぞりかえっている明弘を向く。

「どうも」

 栗谷は明弘に歩み寄り、それにタケシがついていく。何事だろうかと、興味本位で真由子もついていった。

 明弘はにやにや笑いで、「よう」と声をかける。どこか親しげな様子だった。

 栗谷も笑い、

「今日は話があってな」

「場所変えるか?」

「いや、大丈夫だ。タケシの件でな」

 とうのタケシはきちっと横に立っている。そのタケシを指して、

「半年の約束だったが、もう少し期限をのばしてもらうよう、上にかけあうつもりなんだ。思った以上に成果が上がってな」

 期限があったことに真由子は驚いたが、「成果」のくだりを聞いて誇らしかった。いろいろとがんばったかいがあったというものだ。

 明弘は栗谷を座らせるそぶりも、自分が立つそぶりも見せず、どこか皮肉げに、

「お前も偉くなったなぁ、角丸重工の上役だろ? 同じ大学を出たのに、えらい差だ」

「そう言うなよ」

 困った様子で栗谷は続ける。

「タケシは最先端のテクノロジーを駆使している。実際、どれほどのアビリティを秘めているか未知数なんだ。だからもう少し調査を続行したくてね。そこでまず部長の許可をもらおうと今日は来たんだ」

 この人も頭がおかしいのかと思ったが、明弘は気にした様子もなく快諾する。

「ああ、いいぜ。こいつがいると仕事が楽だからな」

「それを聞いて助かった。これからもよろしく頼むよ」

 そういって真由子を向き、軽く頭を下げる。真由子もお辞儀し、きっと更生施設の所長なのだろうと思った。タケシに話をあわせてあげているに違いない。とりあえず「親切な人だなぁ」と思った。


「それともう一つ、頼みがあるんだ。調査をしてもらいたいことがあってね」

「おいおい、うちは何でも屋じゃないぜ」

 面倒くさそうな明弘に、栗谷は苦笑した。

「先日、角丸で起きた、プラント火災事故を知っているか?」

「ああ、あったな。それが?」

 朝刊やニュースで見ただけだが、角丸重工の生産ラインで火災が発生した。工業用のロボットを生産する、日本で有数の工場で、損害は二百億円にのぼるという。ただ無人のプラントであったため、事故による死傷者は出ていない。

「ここ数年、プラントの爆破事件が多発しているだろう。聞いたことがあるだろ? 連続プラント爆破事件」

 明弘は「ああ」とうなずく。年間二、三件の頻度で、プラントを爆破する事件が多発していた。特定の企業のプラントを狙ったものではないが、爆破されたのは平内製の工場機械類だった。もっとも製造業の最大手が平内であるから、狙われたとは限らない。ただ一連の手口が同一と見られ、動機や人数は不明だが「組織犯罪と考えられて、捜査本部が設置されていた、はずだが?」と明弘が答える。

 栗谷は続けて、

「角丸でのは事故と考えられていてね。そこであらためて、そちらの方で調査してもらい、捜査本部に提出してもらいたいんだ。特殊調査部はそのためにあるんだろ? よろしく頼むよ」

「二度手間じゃねぇか。つーか勝手なこと言うな」

 そこではたと、

「あー、もうどうせ許可とってんだろ?」

「せっかくだからタケシに、もう一人つけてもらえないか?」

「お前が注文するな! いいよ。篠原、タケシをつれて調査行ってこい」

「は、はい」

 真由子は突然のことで困惑したが、栗谷は当然のように笑っていた。


 栗谷の運転する車で、真由子は助手席に座っていた。タケシは行儀よく後部座席に座っている。なんとなく栗谷の薬指の指輪に目がとまったが、それだけだった。

「遠座部長とはお知り合いなんですか?」

「うん。彼とは大学の同期でね。彼は警察になったが、私は研究の職に就いたんだよ」

「そうだったんですか」

「今じゃあんなんだが、昔は厳しくてね、みんなから怖がられていたよ。一緒にプロジェクトを組んでいたんだが、信念というか、はっきりした目的意識があってね、よく意見が対立したものだ。こう言っちゃなんだが、もっと出世すると思っていたんだがね」

 あの歳で特殊調査部の主任だなんて、窓際もいいところである。激務に追われているのならともかく、日がな一日ぼうっとしているだけで、はては競馬の予想をしている。ずっとそんな感じで、今に至るのだろうと思っていたが、栗谷の評価は違っていた。

 真由子も特殊調査部だが、あと二、三年もしないうちに、異動することになるだろう。何よりもまだ若い。

「今回の事故なんだけれども」

 そこで栗谷は本題に入る。

「事故と考えられているのは、爆発物が見つかっておらず、火災だと判断されたからだ。機械の電気系統、配電盤のショートが原因だと」

「それなら」

「私たちは機械屋だからね、分かるんだよ。事故の直前にセキュリティが麻痺し、防犯カメラが使えなくなっていたんだ。警察や消防は、最初に送電施設から出火しているので、それが原因だと判断したんだ。それによってプラント内の各種機械がショートし、大規模な火災を引き起こした、ということになっている」

 それだけ聞くと、そのとおりにしか聞こえない。だが栗谷は、

「角丸はね、もともと平内の子会社なんだ。独自に開発に成功し、分離独立したんだ。プラントの機械類は全部平内製でね、どれだけ信頼できるか、その中身から分かっているんだよ。だから今回のような事故はありえないんだ」

 自負心からくるものに、真由子は相手の気を損ねかねないので否定できない。しかしそこでタケシは、

「所長。今回の事故と、連続爆破事件を結びつける根拠は何でしょうか?」

「状況が違うとはいえ、無縁とは思えなくてね」

「しかし調査はすでに行われています。それが結論でしょう。また事件だとしても、組織犯罪というのは角丸重工の独断です。私たちが再度調査する理由がありません」

 真由子はタケシが強気なのに驚いた。言動は変だが、確かに仕事のことになると、一切手抜きをしない。今回のような曖昧な理由で調査をするのは、真由子はかまわないが、納得できる理由ではない。とはいえようやく仕事らしい仕事がきたのも確かだ。真由子としては乗り気だった。

 栗谷は苦笑いし、

「まあ、そう言わないでくれ。私よりも上の人が、調べて欲しがっているんだよ」

「失礼しました」

 素直なタケシに、真由子は微笑んだ。そこでタケシの名字が「角丸」であるのに、今さら気づいた。もしかしたら社長の息子なのかもしれない。そう思うと、ありえなくもない気がした。


 二人がつれて行かれたのは本社だった。現場は危険なため、立ち入ることが不可能である。そこで本社で聴取を行うことになった。

真由子は車で本社前を通るとき「さすがは角丸」と思った。巨大な偉容の周辺に、数人の警備員が配置されている。地下駐車場に入るにも、いちいち身分を確認され、その場に警備の姿が見えた。厳重な警戒態勢をしいているようだ。それほど警戒するなら、今回の事故が事件である証拠をつかんでいるのか、疑うだけの根拠をもっているのだろう。

 栗谷は車を停め、降りながら、

「ものものしい様子で申しわけない。なるべく表には出さないようにしているのだが、どうしてもね」

「普段からこうなんですか?」

「いや。例の事件があってからね。まあべつに、社の警備ロボットを使っているから、人件費はかからないので、たいしたことはない」

「社員の方々なんですね」

「ん? ああ」

 少し歯切れが悪かった。真由子は「この人も大変だな」と思った。

 途中真由子は首から提げるカードキーを受け取り、守衛室の前を通る。セキュリティのかかったドアをくぐって、三人はエレベーターに乗り三階に行く。階のボタンを見れば、七階まであった。

 案内されたのは映写室で、広い空間に机が無数に並び、そこに三人だけというのは居心地が悪かった。

「座って、少し待っててほしい。いくつか書類を取ってくる」

 栗谷が出て行くと、ようやく落ち着く。真由子は背伸びし、

「なんかこうも大きいと緊張するね」

「ここは主に、他の企業の方々にプレゼンテーションなどを行う場所です。角丸の本社では、業務のほとんどをロボットに行わせており、人間の社員は少ないです」

「そうなんだ」

 としか答えようがなかった。さすがは御曹司。

「タケシは角丸で働きたくなかったの?」

「私は警察の方々、そして国民の皆様のためにつくられました。警察官として働くのが、無上の喜びです」

 そうだ忘れていた。彼は警察ロボットなのだ。真由子は皮肉をこめて笑った。


 戻ってきた栗谷は書類の束を真由子に渡し、大画面に映像を映し出す。

「これが事故以前のプラント全景」

 海の近くに建てられた、広大な工場だった。人が写っていないので、縮尺が分からない。

「これが事故後」

 一瞬で、黒煙を上げ、倒壊した姿に変わった。

「被害状況は書類の方でまとまっているので、もし必要だったら目をとおしてもらいたい。わざわざ来てもらったのは、同じ報告を繰り返すためじゃないからね」

 栗谷はパソコンをいじり、別の映像に切り替える。六つの画像をつなぎ合わせたものだった。拡大したものばかりで、粒子が粗かった。そのどれも共通しているのは、一人の人物を写していることだった。目深にかぶった帽子に、赤い作業着を着ている。

「これは連続プラント爆破事件で、過去に撮られた映像の一部。監視カメラや破壊されたロボットのカメラに、偶然写り込んでいたものだ。平内から依頼され、長年角丸が解析し、ようやく発見した」

「この人物は?」

 顔は見えないが、がっしりした体格から、男だと分かる。しかしそれ以上のことは分からない。

「すべての爆破事件に関わっていると思えないが、七年前に起きた最初の事件と、最後に三年前の映像に、この人物の姿が写っていた。私たちは赤い作業着を着ていることから、安直だが『レッド』と呼んでいる」

「でもどうして犯人だと分かるんです? 作業員じゃ」

「いや、それはない。ほとんどが無人のプラントだが、確かに人がいる施設もある。機械の点検や工場の管理をしている。ただ赤い作業着を着た人間はいない」

「そうなんですか」

「それには理由があるんだ。機械の中には、色で部品を識別するものがある。何らかの理由で繊維などが混入するのを防ぐため、グレーに統一されているんだ」

 そこで真由子は納得する。それだけの状況がそろっているのなら、この人物が犯人だというのは確かなのだろう。

「そして」

 栗谷は画像を送る。

「これが今回の事故現場の、二枚目のプリントの地図で見れば、二地区目の排水溝近くだ」

 画像は燃え落ちた瓦礫ばかりで、地図を見てようやく場所が分かる。プラントは八つの区画に分かれており、二地区は海の近くにあった。

 真由子は見せられた理由が分からず、

「この映像がどうかしたんですか?」

 栗谷はある一点を拡大し、

「ここに下水への入口がある。四角い隆起が見えるだろう。これがその配管だ」

 そう背の高くない、コンクリートの地面と同じ灰色の隆起があった。

「このすぐ横だ」

 さらに拡大する。配管の縁だった。そこに赤い物が見えた。

「これは?」

「帽子だ。見覚えがあるだろう?」

 真由子は息をのんだ。

「もしかしてこの帽子は?」

「そうだ。あの連続プラント爆破事件の犯人、私たちがレッドと呼ぶ人物のものだ」


 そのとき、建物が大きく揺れた。突然のことで真由子は机につかまり、タケシは真由子の背に覆いかぶさる。栗谷が転倒したのが横目に見えた。はじめは地震かと思ったが、すぐにやむ。そしてアナウンスが鳴る。

『一階で爆発が発生しました。担当の者の指示に従い、すみやかに避難してください』

 それに真由子は栗谷を見る。栗谷は苦々しい表情で、

「ビルに爆発物はない。これはレッドだ!」

 断定的に言うが、真由子もその可能性は否定できなかった。タケシが冷静に、

「ただちに避難しましょう。非常階段へ」

 真由子の手を引く。それに栗谷がついて行く。

 廊下に出ると、人で溢れていた。真由子はタケシを向き、

「社員の安全を確保しましょう。私は動けない人がいないか確認してくるから、タケシは出口で逃げる人の整理をして」

 タケシの返事も聞かず、真由子は逆走する。奥行きは広く、非常口もいくつかあるようで、反対側に逃げる人もいた。耐震がしっかりしていたようで、また統制もとれており、真由子の出る幕はなかった。しまいには、

「君、はやく逃げなさい。危ないぞ」

 心配までされてしまい、拍子抜けだった。真由子はタケシのもとへ戻る。ちょうどタケシも真由子をさがしていたようだった。

「こちらの避難は完了しました。私が非常口へ案内します」

 うなずき、後に続く。

 そうして階段を下りていると、ちょうど上ってくる人がいた。

「上は危ない! はやく逃げて」

 暗がりから出てきた男は、真由子の前に立つ。目深にかぶった帽子、赤い作業着。肩にダンボールを担いでいる。真由子は唖然とした。男は無表情に、こちらを見ていた。

 真由子が我に返り、身構えるよりはやく、タケシが飛び出す。

 それに男はダンボールを投げ出し、二人は取っ組み合いになる。タケシはとっさに男の腕を掴み、背負い投げる。赤い帽子が空に飛んだ。

 男は背中から落ちていくが、空中で大きく反り、足の裏から着地する。

 そこでタケシは声を張りあげた。

「逃げてください! 私が足止めします」

 男は向きを変え、タケシに殴りかかる。その猛攻を何とか防ぐが、一撃もやり返せない。今すぐ手助けしたいが、足手まといになるのが目に見えていた。真由子がやきもきしていると、タケシが男を突きとばし、振り返る。

「はやく逃げてください! この爆破犯はアンドロイドです。私が処理します」

 必死なタケシに、真由子は唇をかみ、階段を駆け下りる。

 残されたタケシは、レッドと格闘した。レッドが右手の指をかぎ爪のように曲げ、タケシの胸元に振るう。一歩退いてかわすが、衣服が切り裂かれる。

 ここでレッドは初めて口をきいた。

「最新型の警備ロボットか。少しは楽しめそうだ」

「機械に感情はありません。規則に従い処理します」

レッドは立て続けにかぎ爪を振るった。肩や袖が裂かれる。体に触れればそのまま抉られるだろう。指のような関節の脆い部分を武器にするからには、相当の自信があり、鉄さえも抉る力がこもっているのだろう。

 壁際に追い詰められたタケシの、顔の横をかすめて、コンクリートの壁が砕かれた。


 二階におりた真由子は、武器になる物を探していた。階は煙が立ち込め、火災が起きている可能性もあった。

 ある部屋で、倒れた機材の足を引き抜き、鉄パイプを手にする。心もとない気がしたが、これであの男の頭を打ちすえよう。

 引き返すと、激しく金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。

 真由子は階段の踊り場で、タケシが男を叩きのめすのを見た。男の大ぶりな一撃をかわし、素早く蹴りをいれ、下半身を崩す。そのまま作業着の襟をつかみ、投げとばす。今度は背中から落ちた。

「すみやかに自らを解体し、メモリーを提出しなさい」

 冷然と言うタケシにレッドは起き上がりながら、

「これは、どういうことだ?」

「時間を稼がせてもらいました。あなたが他の階に爆弾を設置している可能性があり、追い詰めれば、自爆する可能性も考えられました」

「今までは時間稼ぎか?」

「そうです。そしてあなたの動きも、完全に学習しました。これ以上は無駄な足掻きをせず、素直に機能停止してください」

 何の会話をしているのか分からなかったが、タケシは真由子が逃げられるよう、時間を稼いでくれていたのだ。それもこの爆弾魔が自爆しないように。見ればタケシの服はぼろぼろだった。犯人は何か凶器を持っているに違いない。

 真由子は胸が熱くなり、階段を駆け上がる。そのとき、二階から爆発音がし、建物が大きく揺れた。真由子は悲鳴を上げ、手すりにしがみつく。それにタケシは真由子の存在に気づいた。レッドは何の感情もうかがわせない声で、

「馬鹿な人間だ。自分から死にに戻ってきた」

「ここは危険です! はやく逃げてください!」

 爆発は収まったが、小刻みにビル全体が揺れている。

「一階の、東側の柱を爆破しただけでは壊れなかった。混乱に乗じて、二階の柱にも爆弾を設置した。残念ながら時限式だ。念のため、三階に設置する前に、お前たちに見つかったが」

 そこで真由子は、わきに落ちたダンボールを見た。タケシもそれを察し、

「失礼します」

 と一言。真由子を抱き上げる。

「ちょっと、急になに?」

 困惑するのをよそに、タケシは構わず階段を駆け上がる。

「二階は危険です。三階の窓から脱出します」

「えっ? なに言って」

 瞬く間に三階にのぼり、窓を目指す。窓は足下から頭上までガラス張りだった。

 そこでやっと真由子をおろすと、タケシは地上を確認した後、近くにあった機材を持ち上げ、窓に投げつける。窓ガラスは音を立てて割れ、破片はきらきらと輝き、落下していく。

 真由子はタケシの、絶対の自信をもった行動に、呆気にとられていた。

 タケシはその真由子を再び抱きかかえると、

「では行きます」

「はい?」

 返事も待たずに、割れた窓枠から飛び降りる。

 時は午後三時、西の空に傾いた太陽がまぶしい。そんなことを思いながら、半泣きで真由子は、タケシの首に抱きついた。落下していくときの奇妙な無重力感に、気づけば悲鳴をあげていた。そして衝撃が体を打つ。タケシは真由子をしっかりと抱きしめ、両足で着地する。真由子は空を見上げ、あそこから飛び降りたのだと、泣き笑いだった。

「大丈夫ですか?」

 まったく動じた様子のないタケシに真由子は、

「怖かったぁ」

 と抱きつく。

 再び爆発音が轟き、ビルが東に崩れ、向かいの建物にもたれて止まる。気づけば辺りは、消防と警察のサイレンに包まれていた。


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