1-1 登校
まどろみ。心地の良い空間。
誰も好き好んでここから出たいとは思わないだろう。
しかし人間とは稀有なもので自ら設置した機械によって
この空間を破壊するのだ。
まったくもって意味不明で俺にはかけらも理解できない。
もちろんそんな愚かなことをしない俺は完全なる空間でこのまま微睡を堪能…
「ぴこぴこぴこぴこぴこ」
何かの音が遠くから聞こえる。
セミか?今の季節は春。しかもつい最近春一番が吹いたほどの
春はじめである。さすがにフライングが過ぎる。
こんな時期に求愛しても誰もいないぞ。いや。
そもそもここまで電子音のようには鳴かないか。
ピコピコゼミなんて言うのは俺の知識の中には存在しない。
いたらホラーだ。ということは…
「だれだぁ!!目覚まし時計つけたやつ!!」
怒号一発。朝から元気がいい少年が一人。というか俺だった。
「はぁい。おねぇちゃんです!
実は今日の入学式が楽しみでたまらなかった宣人への
お祝いを込めて設置しましたっ。今日もかわいい寝癖だねぇ。うーんかわいい」
といって俺の顔を自分の胸に抱え込むようにしてハグする女性が一人。
長い黒髪と藍色の目が特徴的で長身。
その姿は黒い漆に塗り彩られた艶やかな牡丹の飾り物のようだった。
というか姉さんだった。
「何とも目覚めの良い朝だねぇ姉さん。
あと俺はそんな運動会前日の小学二年生みたいな心境にはなってないからな」
対して言い返す俺は自分のことをかわいいなどとはかけらも思っていない。
確かに線は細いほうであると思うが…。
そういって鏡を見ると髪は漆のような黒で短髪。
寝癖がかかったそれと、大きな瞳は確かに若干の幼さなさを感じさせた。
わからなくも…ない…のか?
「うん。いつも通り宣人がかわいくてね」
俺の精いっぱいの皮肉を込めたひと言と葛藤は姉さんの語尾に
ハートでも付くのではないかという勢いに一蹴される。
そして姉さんはさらに胸を押し付けるように俺を抱きしめていく。
「うぼがぁ。姉さん。いきで…きない」
俺は人語とは思えないうめき声をあげ、みるみる生気を失っていく。
いまごろ顔色はもはや土色といっても過言ではない色に変化しているだろう。
「あら。姉さんの豊満なバストに感激して息もできないの?宣人君やらしい~。
けどね。そういうのもありだと思うの」
「いや姉さんそこまで胸大き、ぐぼぁ」
何とも子気味の良い音を立ててみぞおちに突き刺さる正拳突き。
抱き合った(?)状況からの正拳突きにもかかわらず、かなりの威力だった。
俺はベッドの上をのた打ち回り悶絶する。
「はい。宣人は事実無根を語ってないでご飯作ってね。
仕事に送れちゃうわ」
さきほどみぞおちにこぶしを打ち込んだ人間の言いようでは少なくともない。
「じゃあ自分でつくれ…。何でもないです」
ぎろりと睨まれると俺は渋々であるがみぞおちを抑えながらベッドから這い出る。
「まったく。姉さんも感謝してくれよ。
いまどきここまでよくできた弟はいないぞ」
「うんうん。してる。してる」
俺はさらにがっくりとうなだれ、姉さんは満面の笑みでそれを見つめていた。
「今日は時間もなかったからトーストにサラダ。それにオムレツでいいな」
いいながら俺は卵を割ってかき混ぜる。
オムレツの火の通り具合は俺と姉さんで好みが違うので別々に。
俺はまだトロッとした感じが好きだが姉さんはしっかり焼き派だ。
ドレッシングは出来合いのものだがそこは勘弁してほしい。
朝はやはり時間がないのだ。
姉さんが口を開く。
「けどさ。宣人ってなんだかんだいってしっかりやってくれるのよねぇ。
いつもは嫌だとしかいわないのに。ツンデレ?かわいい」
「ツンデレは男がやってもかわいくない。あとご飯はつくるなら
しっかりやらないと。食材がもったいないからな」
俺の声を聴くと姉さんはしばらく思案し、
「べ、別に宣人のために食べてあげてるわけじゃないんだからねっ」
「「・・・・・・・・・・・」」
そのあとは無言であった。
その状況に耐えかねたのか姉さんがわざとらしく咳払いをした。
「ごほん」
その顔は気持ち赤くなっていた。
「そういうことじゃなくてね。
私は別にトーストだけでもいいのに毎回結構立派じゃない。朝ごはん」
リビングからキッチンにいる俺を覗き込む姉さん。
それに見向きもせず、調理途中のオムレツを見つめながら答える。
「じゃあ毎朝トースト焼いて食って仕事行ってください」
「あはは。宣人君厳しいぃ。
おねーさんのガラスの心に傷がついちゃう」
「あなたはガラスでも防弾ガラスでしょ。厚さ7cmくらいの」
「さすがに厚すぎじゃないかしら?」
「突っ込みどころはそこですか…」
俺はかなり落胆した。きっと顔には影が落ちている。
今朝の怒号の持ち主とは到底思えない自らの衰弱ぶりに驚くばかりだ。
そんなやり取りをしている間に朝食は完成した。
どれもおいしそうな色合いを放っており、
特にオムレツは我ながら要望通りの絶妙な火加減だった。
「おいしい。やっぱり宣人のオムレツは美味しいわ。
なんでこういう細かいことは得意なのに魔術のほうはからっきしなのかしら…」
眉根にしわを寄せて久方ぶりの真剣な表情を見せる。
「仕方ないな、あれは。
やっぱり人には向き不向きがあるだろ。
あとそこまでひどいわけじゃないよ。姉さんと比べたら誰でもかすむだろ?」
むしろ魔術を使えない人間が普通だ、と付け加えかけたがそれは言わないことにした。
俺たちはこの身に他人とは違う才を宿したことを自覚しなければならない。
しかし、確かに魔術の行使技術が高いというわけではない。
あくまで中の上レベルで入学が決定している学校の合格ラインよりは下に位置する成績だった。
今回の入学に若干の裏技を用いているのだが、そのことを姉さんにはまだ伝えていない。
「そうかしら。時折感じるのよね。
こう何とも言えない大きな力というか。
だってあんたの陣の理解力ってすごいじゃない。気のせいかしらね…。
ほらこないだの事件のときとか。あの時はすごかったわよね」
「あれは完全にまぐれ。たまたまそこに陣の基礎が敷いてあったからだよ。
だいたい俺が俺の魔力だけで風の魔術で
地上から5階までひとっとびって無理な話だろ?
俺はそういう系列の魔術が苦手なことぐらい姉さんもしってるだろ?
きっとあの娘がいざという時のために敷いておいたやつだろうさ」
あの時とは俺が自殺志願の少女を助け出した時の話だ。
しかしそれは朝からする話題ではないだろう…。
「うーん。確かにそうなんだけど…。だとしてもそれはそれですごいっていうか…。
だって他人の敷いた陣術を利用するってことは、その構成を理解して…」
何やら考え込んでしまった姉さんをしり目に俺は席を立った。
「はい。この話はおしまい。仕事遅れちゃうぞー」
そういって俺は四角い黒いフレームのメガネをかける。
寝癖が少し気になるが少し整えるぐらいで済ました。
「え!!あッやっば。遅れちゃう。お化粧しないと!!」
「あ。姉さん今日から初仕事だっけ?がんばってね」
ジト目でいう俺。できるだけ棒読みを心がけよう。
「うんお姉ちゃん頑張る。じゃなくて急がないと!」
急に慌てふためく姉さん。素顔でもかなりの美人であるが
やはり女性として化粧は外せないところなのだろう。
女性というのはわからない。
俺はあわて駆け回る姉さんを視界の隅にとどめながら部屋を出ていった。
「まってよー。私職場行き方知らないー。電車乗れないー」
大人としてはかなり問題なんじゃないかという絶叫が住宅街に響き渡る。
扉の外でそれを聞き届けた俺は歩き出す。
口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
俺はそれに気が付いていたがそれを隠すことはしなかった。
そして今日も俺は日常を歩く。
俺の家は通う学校まで10分と掛からないという好立地で
歩く距離などたかが知れている。
しかしこのご時世、歩いている人間はほとんど存在しない。
歩いているように見える人間は少数の魔術師で、魔術を
使って「滑っている」だけだし、
多くの一般人は魔術師によって魔術的な処置が施され性能が
大幅に向上した交通機関を利用している。
夜を照らす光にも魔術的な技術が施されている。
どんなものにも魔術が絡んでいる。
一般人は魔術的な利益を魔術師たちから提供されているわけだが
どう考えてもそれを提供する魔術師より社会的に劣ってしまう。
そんな状況がまったく違和感なく溶け込んでしまっている。
そして俺はそんな中で当たり前のようにして過ごしている。
しかしそれについてとやかく言う権利は俺にはないのだ。
俺も魔術を行使して生きている側の人間だ。恵まれた人種だ。
この状況を肯定している側の人間だ。
そして魔術がなければ存命すらしていないだろう。
しかしその中でも多くの人に俺は自分のできる精いっぱいのことをしていこう。
かつて俺に魔術を仕込んだ師はこういっていた。
「己のために力を使え。だがその意味、取り違えるなよ」と。
俺は何のために魔術を深く学んでいるのだろう。
自分のためか、いや違うだろう。自分の守りたいもののため。
そのように師は言っていたはずだ。いつしか決意した言葉を思い出し、一歩踏み出す。
「魔術…か」
俺は魔術交通機関に覆われ、
もとの色をほとんど見せなくなってしまった空を少しの間仰ぎ見て、
そして歩き出した。




