7,不治=不知
昼。脇に自分の本を挟んで、左手で握り飯。右手で鍵を開ける。朝、辺銀が私に鍵を渡すということは、私を挙動不審にさせた。
「あ、これ、ここの鍵なんで。次来るときからこの合鍵で開けてください。」
「はい?」
「合鍵ですよ。」
彼の左手には銀色の鍵がのっている。私は何故初対面の男に合鍵を渡される?
「昼、辺銀はここにいないわけ?」
「いますよ。」
「じゃあ鍵なんて必要ないじゃん。」
「あれ。先生。爺先生に聞いてないんですか?」
「解決策しか聞いてませんが。」
「解決策…?僕のことについて爺先生は何にも言わなかったのですか?」
「何も」
辺銀は、阿保っぽい顔をする。
「何も知らされてないのによくこの眼鏡について尋ねなかったですね。」
「うん。まぁね。聞いたら負けだと思っていた。」
辺銀に、阿保っぽい顔をされた。
「え?なんでそんな顔してるの?」
辺銀のため息が聞こえた。なんだか、十九年間溜め込んできたものを吐き出しているように見える。
「僕は、この世界に一人しか存在しない人間なんですよ。」
「知ってるけど」
こんな私もこの世には一人しかいない。
「簡単にいうと不治の病にかかっているんですよ。僕は、物の輪郭を見ることができない。光を感じることができない。人の顔を認識することができない。人の区別ができない。性別の区別もできない。色を鮮やかに認識することができない…ないないずくめの人間なんです。目にも脳にも異常はないのに、人と同じように世界を認識することができない。そのせいで親も友達もいない。後は…死の概念を持っていない。とか。」
「え?私と爺先生の区別もつかないの?」
突っ込むところが違うだろうとは言ってくれなかった。
「つきません。僕の世界はぼやけているのです。」
「ぼやけている。」
「ええ。あ、でも死の概念がないのは便利ですよ。おかげでこんな危うい世界で生きることができます。爺先生の言うには、そのおかげで僕は自殺しようとも思わず、ぼやけている不確かな世界で狂わないで生きていくことが出来ているみたいなんで。」
「そうなのか。」
「そうなんです。」
頭での理解が追いつかないほど驚いているのになぜか私の体は驚きを表現しない。
不治の病。それだけ聞くのも恐ろしいのに、辺銀はさっき、この世界に一人しか存在しないと言った。
「発症例が…ない」
「そうですよ。世界でも僕のような人間はいないんです。でも気にすることじゃないんです。僕は自分が病気なんて思ってませんから。」
そういえば辺銀は絶えず家のどこかを触っているな、と今頃気が付いた。
「あなた方から見れば、僕は病気なのでしょうけど僕から見れば僕のこの世界こそが世界であって、格別変わっているようには感じないんですよ。ただ周りの反応が異なるっていることにより、自分がどこかおかしいんだって気が付くわけです。」
「へぇ。」
「でも、あなたなら大丈夫そうだ。僕の世界を伝えた人間の中では群を抜いて反応が薄い。本当に薄くてびっくりしますよ。」
私だってびっくりる、驚いている。ただあまりにも驚きが大きすぎるために体がそれをどう表現したらいいのか、迷い、そして諦めてしまっていた。
「群を抜いて、ねぇ。」
とりあえず、それを知った全員何かしらのリアクションは取れたわけだ。となると私の驚きが一番大きいのではないか。
「無関心なのがこちらとしては一番楽なのですよ。相手が何もしてくれなくても無関心でいてくれるだけでこちらはありがたいのです。」
「辺銀って変わってんのな。」
「そういうものですよ。それに先生も変わりものです。」
変わり者が二人集まるとどうなるのだろう。
強者にでもなれるのだろうか?




