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「罪と罰」における自意識の外側を描く描き方

 ドストエフスキーの「罪と罰」を読み返している。これまで散々、「罪と罰」について語ったのに、改めて読み返すと色々な事が思い浮かぶ。

 

 その全てを書く事はできないので、今、私が興味がある「自意識の外側」という観点から、「罪と罰」のあるシーンについて書こうと思う。

 

 このシーンについては、今回読み返すまで印象がなく、そういうシーンがあった事も忘れていた。しかし、今読むと、鮮やかにドストエフスキーの作家としての技術が現れていると感じた。

 

 この技術はもちろん、単なる小手先の技術ではなく、本質的に人間をどのように描くべきかという深い問いにドストエフスキーの場所からはっきりと答えたものとなっている。とはいえ、シーンそのものはあっさりとした、何気ない描写なので、詳しく見る必要がある。

 

 シーンは岩波文庫だと、上巻388pにある。既に殺人を犯したラスコーリニコフが、瀕死状態の酔っ払いマルメラードフを路上で見つけ、彼を彼の家族に送り届けるシーンだ。

 

 ラスコーリニコフはそこではじめてマルメラードフの一家と交流するのだが、そこには病んで精神がおかしくなっている母と、貧困でやせ細っている子供達がいる。

 

 ラスコーリニコフはマルメラードフ家から去る際に、小さな女の子に話しかける。「きみ、お祈りはできる?」とラスコーリニコフは問いかける。女の子は自分も一人前にお祈りできると、自慢気に言う。ラスコーリニコフは女の子に次のように言う。

 

 「ポーレチカ、ぼくの名はロジオンっていうんだ。いつかぼくのことをお祈りしてね。「(しもべ)ロジオンをも」って、それだけでいいから」

 

 ポーレチカはそれに対して次のように言う。

 

 「あたし、これから一生のあいだ、あなたのことをお祈りしてよ」

 

 少女はラスコーリニコフを固く抱きしめる。ラスコーリニコフはマルメラードフ家を後にする。

 

 ※

 この描写はなんでもないごく普通のやり取りのように見えるが、私は読み返して、ドストエフスキーの人間を描く技術が現れていると感じた。

 

 というのは、ここでラスコーリニコフが少女に「お祈り」を頼むのは、明らかにラスコーリニコフの思想に反したものだからだ。

 

 実際、ラスコーリニコフ自身もすぐ後に『それにしても、(しもべ)ロジオンのことを祈ってくれなんて、頼んだじゃないか』と、自分自身について反省している。この言動はラスコーリニコフ自身にとって思いもかけないものだった。彼はこんなセリフを言うはずではなかったが、つい言ってしまったのだ。

 

 ここでラスコーリニコフの殺人と、彼の殺人思想について少し振り返る必要があるだろう。

 

 ラスコーリニコフは老婆と、老婆の妹を既に殺害している。彼は、貧しさにあえいでいる大学を中退した若者だったのだが、金貸しの老婆を殺し、奪い取った財産をもとに生活をやり直そうと目論んでいたのだった。

 

 ラスコーリニコフの殺人思想において繰り返し現れるのは「乗り越えられる」という言葉だ。これは、ラスコーリニコフが最初から殺人という事実に対して心理的に打ち勝とうという姿勢があるのを意味している。

 

 殺人の証拠がなく犯人が捕まらないとすれば、存在するのは後には犯罪者の心理に重くのしかかる「人を殺した」という事実だけだ。ラスコーリニコフはこれを乗り越えられると確信していた。ところが、彼は二人を殺した直後から、自分の中の暗い観念に引きずられていく。彼の意識と無意識の分裂をドストエフスキーは描いていく。

 

 ラスコーリニコフの思想が正しいかどうか、といった事は、この文章では取り上げない。また殺人を犯すと本当に、ラスコーリニコフのような罪の意識が無意識に現れるのかどうか、これも問題としない。


 私はただ、ドストエフスキーがラスコーリニコフという人物を注視しながら、ドストエフスキーがうまくラスコーリニコフの意識の外側にあるものを拾い上げているという点を注視したい。

 

 私が引用したシーンは、「罪と罰」の中で特に面白い箇所というわけではない。それほど強いエピソードでもない。

 

 しかしラスコーリニコフが、思わず少女に向かって「お祈り」を頼むのは、その背後に、殺人者のような自分でも少女のお祈りによって許されたいのだというそういう観念がラスコーリニコフの無意識にあり、それがふと外に出てきた、そうしたシーンとなっている。

 

 ラスコーリニコフはすぐにそれについて『それにしても、俺もあんなお祈りをやるなんてな』と考える事によって、自分の行為を自意識のレベルに取り込もうとする。自分の無意識から現れた言動を自分で反省する事によって、自らの行為を全て意識下に置こうとする、そうした姿勢がラスコーリニコフには見られる。

 

 元々、「罪と罰」という作品は一人称で書かれていた。しかし、ドストエフスキーは一人称視点の草稿を捨てて、三人称で書き直して「罪と罰」を完成させた。

 

 仮に「罪と罰」が一人称で書かれたのであれば、ラスコーリニコフが少女にお祈りを頼んだシーンは、このように鮮やかな形で描く事はできなかっただろう。というのは、ラスコーリニコフがここでお祈りを頼むのは彼の無意識の発露であり、意識的には彼にとっては否定したい行為であるからだ。

 

 この事は、そもそも人間というものが分裂した存在であるという事を語っていると私は考えている。

 

 ラスコーリニコフという人間を一人の思想家として考え、彼の犯罪行為も全て彼の意識の中から見ようとしてみるなら、どのような世界が描けるだろうか。(一人称視点で考えるという事)

 

 その際は、彼が少女にお祈りを頼んだシーンは例えば「お祈りを頼むつもりはなかったのに、つい習慣で頼んでしまった」とか「少女があまりにもいじらしげだったので、ついついお祈りを頼んでしまった。本当はそんな気はなかった」などと言い訳するだろう。

 

 これは我々も普段よくやっている「心の中の言い訳」の一つに過ぎない。すなわち、意識の外側の無意識的行為というのは、自意識という歪んだレンズに映し出される事によって、自意識の論理に適合するものに変わってしまう。

 

 このようにして人は常に自分の行為を合理化し、意識的に自己の論理・思想・性格などを統一している(あるいはそのようなみかけを作っている)。私達は日々そのようにして生きている。

 

 だが「罪と罰」におけるこのシーンは、ラスコーリニコフが強固に自分の思想を練り上げたにも関わらず、そこから大きく逸脱したものとして描かれている。この何気ないシーンをドストエフスキーは的確に描いている。殺人者のラスコーリニコフもまた、自らの犯した行為への不安を隠せず、行きずりに出会っただけの少女につい「お祈り」を頼んでしまう。

 

 この事は「人間というのはそもそも分裂した存在ではないのか」という問いをはらんでいるという風に言い換えてもいいのではないか。統一された一つの観念によって人間を理解しようとした時、この分裂としての人間本質は見逃される。ドストエフスキーは小説家としてこの分裂を的確に描いている。

 

 私はこの描写は一人ラスコーリニコフという人間に当てはまるものだとは思っていない。人間というのは根底から分裂している存在ではないのか。最近はラカンなんかを読みながら、そういう事を考える。

 

 そしてこの分裂は自己意識の単一の言語では決して語れない真実だ。ドストエフスキーは、ラスコーリニコフという人間の自意識の外側に出る事によって、ラスコーリニコフという人間の「存在」をうまく描写できている。

 

 私は人間というものそのものも、本質的には外側が見ればこのように分裂している存在なのではないかと思う。意識の内側から見ると、これほどまでに統一され、一貫しているように見えるにも関わらず。



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