第27話 獣は月光に吠え続ける
訓練場は、いつも微かに鉄のような匂いがした。
汗と、擦り切れた床と、何度も打ち付けられた拳から流れる血が残した、時間の蓄積の匂いだ。
神原獅斗は、汗と血で濡れた地面に両足を踏みしめ、静かに呼吸を整えていた。
吐く息が白く滲み、夕暮れ時の暗闇に溶けていく。
(…まだ、足りない)
内側から湧き上がる衝動を、獅斗は必死に押さえ込んでいた。
焦り、苛立ち、そして焦燥。
それらはいつも、胸の奥で獣のように唸っている。
ひとつ息を吐いて、右腕に力を込める。
瞬間、皮膚の下を膨大なエネルギーが走った。
骨格が軋み、肉が盛り上がり、爪が人のものではない鋭さを持ってせり出す。
スキル《獣王化》
獅斗の右手は、もはや人間のそれではなかった。
黄金色に近い毛並みが前腕を覆い、五指の先には、鋼のような爪が光を反射している。
訓練用の案山子に向かって軽く腕を振ると、鈍色に輝く5本の爪の軌跡に沿って、簡単に傷ついた。
「……チッ」
獅斗は舌打ちし、爪を床に叩きつけた。
硬質な音が響き、地面に裂け目が走る。
世界的にも希少で、上位能力者たちが羨望と畏怖を込めて名を呼ぶ力。
獣王化――獣の王の性質を身に宿す、変身系の能力。
理論上、全身を獣へと近づければ、身体能力は桁違いに跳ね上がる。
爪、牙、筋力、反射神経、感覚――すべてが人の限界を越える。
(……俺は、まだこの程度だ)
獅斗は自分の右手を見つめた。
獣の爪は確かに強い。だが、これだけでは足りない。
まだこの力に振り回されていて、まったく制御できているとは言えない。
獣王化は出来て両腕の前腕だけしか変身できず、獣のパワーはある程度出せても俊敏さや柔軟さはいまいちだった。
このままでは、いつまでたっても追いつくことなんてできない。
脳裏に、ひとつの名前が浮かぶ。
—芽吹 慧。
無能力のお荷物だったあいつは、今では最速でDランク探索者に成り上がった麒麟児だ。
探索者支部でも最近はめっきり芽吹のうわさで持ち切りだった。
いわくFランクで中層にいる魔獣を撃退した、いわくその後一人でダンジョンボスを倒した、いわく火力も汎用性も高いスキルを持っている、いわく天空の翼に目をかけてもらっている。
どれか一つでも真実なら、本当にやつは手の届かない存在になってしまう。
だが、認められない。
一度、落ちこぼれたあいつのことを俺は許すわけにはいかない。
あいつの顔を思い出した瞬間、胸の奥が軋んだ。
◇
遠い日の記憶、かすかに鼻の奥に残る香りの記憶。
俺は物心ついたときから暮らしていた児童養護施設の裏庭にいた。
その日の夕暮れの空は、いつも少しだけ赤かい気がして、なんとなく記憶に残っている。
「獅斗、こっち!」
小さい頃の芽吹は、糸がほつれてボロボロのボールを抱えて笑っていた。
あいつの周りには、俺を含めていつも施設の仲間たちが集まっていた。
誰よりも前に立ち、誰よりも声が大きく、自然と周りを引っ張る存在。
同じ施設で育った、親に捨てられた子どもたちの一人。
みんな生まれた境遇は同じはずなのに、芽吹は何か人を引き付ける魅力を持っていた気がする。
そんな施設のリーダーみたいな存在にひかれて、みんな憧れのような感情を抱いていた。
獅斗も、その一人だった。
転んだら手を差し伸べてくれた。
喧嘩になれば、間に入って止めてくれた。
弱い子を守るのが当たり前のように、芽吹はいつも俺たちの前にいた。
(……かっこいい)
それが、正直な気持ちだった。
だからこそ、15歳のスキルを授かる年になって、芽吹が無能力者だと知らされたときは、言葉にできない複雑な感情が渦巻くようになった。
同情?失望?優越感?
一言で言い表せない感情の塊は、心の中でどんどん大きくなっていき、次第にそれは嫌悪に代わっていった。
「なんで……なんでそんな目をしやがる」
施設の薄暗い廊下。
成長した芽吹は、俺をまっすぐに見つめていた。
小さいころは同じ背丈だったはずが、今は俺が芽吹を見下ろすようになっていた。
スキルどころか、体格も恵まれない哀れな元英雄。
それなのに、小さい頃の、あの日と変わらないまっすぐな目が気に食わなかった。
「能力もねえくせに…生意気な目つきしてんじゃねぇ」
その言葉は、刃だった。
獅斗自身の心を切り裂く刃。
憧れていたからこそ、信じていたからこそ。
”自分よりはるかに弱くなった存在”という現実が、どうしようもなく悲しかった。
悲しさは、やがて歪み、怒りに変わり、
そして――嫌悪という形で、芽吹に向けられた。
(……最低だ)
今でも、獅斗は何が正解かわからず、何かを見失って迷っている。
◇
獅斗は拳を握り、再び能力を発動させた。
今度は左腕にも、わずかな変化を走らせる。
だが、限界はすぐに訪れる。
視界が揺れ、鼓動がうるさくなり、全身が重くなる。
能力は強大だが、扱うための体がまだ追いついていない。
「……っ」
獅斗は膝をついた。
汗が地面に落ち、荒い呼吸を吐く。
あいつが弱いままであればよかった。
それだったら、洗ばれたスキルの優越感で、昔のことなんて綺麗に忘れることができた。
だけど、芽吹は変わった。
無能力だったあいつは、ある日突然、力を得た。
そして、努力し、鍛え、強くなっていった。
俺の足元ではいつくばっていた無能力の背中は、気づけば遠くなっていた。
「…俺は」
歯を食いしばり、こぶしを力強く握る。
爪が皮膚に食い込んで、握りしめたこぶしの隙間から血が流れた。
世界的に見れば、自分のスキルは最強のクラスに含まれている。
才能がある、強い力を持っている、体格だって恵まれている。
だけど
「……才能だけで、勝てるほど」
足に力を入れて、ゆっくりと立ち上がった。
「……あいつは、甘くねえ」
芽吹は、努力の塊だった。
無能力の絶望を知り、それでも前に進んだ男だ。
だからこそ、俺は努力をやめない。
嫉妬も、後悔も、過去の過ちも。
すべてを背負って――獣は牙を研ぐ。
まだスキル《獣王化》を制御することも、力を引き出すこともできていない。
まだ、空を掴むには程遠い。
ライオンだって、生まれながらに最強なわけではない。
谷底に落とされて、血を流し、爪を折り、それでも立ち上がることで、王へと至る。
神原獅斗は、再び構えを取った。
いつの間にか登っていた月光が、獣の爪に反射する。
過去の事をすっかり忘れることも、この感情を整理することも今はできそうにない。
だけど、自分の牙を磨き続けることはできる。
獣の王の器を持った男は、月光に向かって吠え続けている。
少しの間、主人公不在です。
サブ主人公の神原くんの活躍をご期待ください。
―—綺凛(作者)から皆様へ――
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