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♢37♢ 幻想の青い蝶々

 セスナとララがムジカ王国、音楽の都エデンの城を出て、西に進路をとった、正午のその頃。

 大陸最北端のヒャドム地方。その最北端に、毒沼に囲まれた古城が、晴天にも関わらず怪しげなオーラを放つ暗い紫色の空の下、慄然と佇んでいる。



 魔王ヘルデスはいつものように玉座の間、豪奢な椅子に悠然と座して、だが珍しくぼんやりと正面を見つめていた。

 

 側に控える配下のゾーラは不思議な面持ちで、その痩躯の若い男の青白い横顔を見つめる。



 「ゾーラ」


 ヘルデスに名を呼ばれ、ゾーラはただちに「はっ」と応じる。


 「こちらへ、来い」


 「?」


 一体なんだろう、と、ゾーラは玉座に座するヘルデスに歩み寄る。



 そしてヘルデスの正面に両手を後ろ手に組んだゾーラが仁王立ちになると、ヘルデスは突如ゾーラに「私を抱き寄せろ」と命じた。



 「はあ?」

 ゾーラがすっとんきょうな声を上げる。


 「聞こえなかったのか?」とヘルデスが続けると、「は、はい」と言って、ゾーラはおそるおそる、魔王の正面に立ち、少し腰を曲げて青い直毛を耳にかけた。



 「では、失礼いたしまする」


 

 ――ギュウッ。


 屈んだゾーラが、漆黒のマントの上から、魔王ヘルデスの首に両手を回し、希望された通り、ヘルデスをぎゅっと抱き寄せる。



 「……」


 一体これはなに? と、別の意味の高鳴る胸でしばらくそうしていたゾーラがやがて身体を離すと、ヘルデスはおもむろにゾーラの肩をつかみ、その唇に己の唇を重ねた。



 ――チュッ。



 そしてゆっくりと唇を離す。


 氷の魔法を得意とするゾーラが、氷のように固まっている。




 ――違うな。


 ヘルデスはトン、と、固まっているゾーラの肩を押して、己に屈みこんだままのゾーラの体を離す。




 するとどこから迷い込んだのか、ひらひらと、青いモルフォ蝶が、固まっているゾーラを通り越して、ヘルデスの眼前に舞い降りた。




 「……」



 す、と、ヘルデスが、青い蝶に細い指先を伸ばす。

 モルフォ蝶はしかし、ヘルデスを弄ぶように、ひらひらと飛んで舞い上がり、玉座の間の外へと、ヘルデスを誘う。



 「チ……」

 未だ固まっているゾーラを横目に、ヘルデスは舌打ちをして立ち上がった。




 ♢♢♢


 青い蝶はその後を追うヘルデスを誘うように、古城の上階へと続く階段へ飛んでいく。


 ヘルデスはひらひらと飛ぶ青い蝶に誘われるまま、薄暗い階段のところまでやってきた。


 そして蝶はそのまま、城の上階へと続く階段に向かって飛んでいき、姿を消した。




 「……」



 ヘルデスは一瞬ためらうが、しかしすぐに硬い靴音を鳴らして、最上階への階段を上り始める。




 ――コツ、コツ。



 古城の窓から吹きこむ、冬の始めの風に揺られた蝋燭の炎が、ヘルデスを照らして、長く不安定な影をつくっている。



 一段一段をかみしめるように上っていくヘルデスは、「俺がこの階段を上るのは、これが最後だ」と、己に言い聞かせていた。



 


 ――なぜ俺は、あの女に、この冷たい心を動かすのか?



 最上階の最奥の一室では、今も、囚われたバラが、あの小さな部屋で、粗末なベッドに腰かけているだろう。




 ――確かめたい。

 この城のメイド達やゾーラには感じずに、あの女にだけ感じるもの。


 ――それがなんなのかを確かめたら、すぐに女の部屋を出よう。




 ヘルデスは己にそう言い聞かせて、最上階の最奥の部屋、施錠されたその部屋の戸の前に立ち、灰色の魔族服から取り出した鍵をガチャリと回した。





 ――バン!


 

 勢いよくドアが開け放たれ、予想通り、ベッドに腰かけていたバラが、ズカズカと入室したヘルデスの姿を認めて、身を硬くする。




 二日ほど前の夕方、ヘルデスがこの部屋を訪れた時。バラとの言い合いの末、沈黙に耐えかねたヘルデスは、黙ってこの部屋を後にした。




 その記憶も生々しく入室したヘルデスは、ベッドに腰かけるバラの正面に立ち、冷ややかな金の瞳で、紅いドレスに白い上着を羽織った美しい女の姿を見下ろす。



 黙ったままベッドに腰かけているバラも、燃えるような深紅の瞳で、正面に仁王立ちになる長身痩躯の若い魔王を見上げて、その瞳を射抜くように見つめた。





 ――これだ。この、瞳だ。




 ヘルデスはバラの深紅の瞳を見つめながら、その燃えるような眼差しに見つめ返されることに、喜びを覚えている自分に気づいた。



 どれだけ冷たい仕打ちをしても、構わずに己を見つめ、向かい合ってくる、この女の強さ。


 魔族である母の愛を知らないヘルデスは、そこに、人間の女という者が持ちうる不可解なエネルギーのようなものを感じ、惹かれていたのだった。



 ヘルデスは試みるように、ベッドに座るバラの紅いドレスの胸ぐらを掴み、己にバラの身体を引き寄せる。

 そして自身に近づいたその頬を、平手でしたたかに打った。




 「……!!」


 バシッ、と、その殺風景な部屋に、渇いた音が響く。



 したたかに頬を打たれたバラは、打たれた頬を両手で押さえて、キッ、とヘルデスを見上げる。




 小さな部屋を沈黙が包み、魔王と魔女は向き合って、金と深紅の瞳を合わせる。




 すると部屋の小窓の隙間から、先ほどと同じ蝶だろうか、青いモルフォ蝶がひらひらと二人の前に姿を現した。




 「……」



 青い蝶はそのまま部屋の中をさまようように、あちらこちらへと飛んでいる。

 

 それを見る二人は黙ったまま、ヒュウゥ……という風の音だけが響いて、静かな部屋に沈黙の時は流れていく。




 するとヘルデスの瞳を見つめていたバラが、おもむろに口を開いた。




 「あなたはいつも非情に振る舞っているけれど、その心の中に、ちゃんとあたたかな心、誰かを愛する心をもっている。ただ、その表し方を知らないだけよ」


 打たれた頬を押さえ、挑むかのようにヘルデスを見上げて言うバラに、ヘルデスは皮肉に笑って冷たく見下ろす。



 「では訊くが。あの頃、誰がその愛とやらを俺に教えてくれたというのだ? 父ですら、母でさえ、同胞までも、俺にその愛とやらを与えはしなかった」



 ヘルデスが返すと、バラは腰かけていたベッドから立ち上がり、長身のヘルデスを見上げて視線を合わせる。



 「ヘルデス。私に心を開いて」


 「黙れ!」


 再びヘルデスの平手が、バラの頬を打つ。


 すると先ほど部屋に入ってきたモルフォ蝶が、ひらひらと、魔王ヘルデスの肩に舞い降り、そこに止まった。



 「あ……」



 打たれた頬の痛みにも構わずに、バラがヘルデスの肩に手を伸ばした、その刹那。


 ヘルデスは己に手を伸ばすバラの腕を引いて身体を抱き寄せ、その痩せた胸に思い切り、バラの顔を押し当てた。




 「……!」


 トクン、トクンと、人間のものと同じリズムで打つ鼓動が、バラの鼓膜に伝わって振動する。




 ――トクン……トクン……。

 


 バラはその音に耳を澄ませ、抱き寄せられたまま、ヘルデスの冷たい胸板に目を閉じて顔を埋める。



 ヘルデスの肩に止まっていた青い蝶はふわりと舞い上がると、昼下がりの紫色の空へと、小窓の外へ導かれるように消えていった。




 それは魔王ヘルデスがその生涯でただ一度きり、その心と体を解放した、ある昼下がりのことだった。

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