第三話 東の剣士(1)
その日は朝から雨が降っていた。
王都マッシュルームの路地裏にある小さな店には、ドラゴンのような図案とともに『ワイバーン屋 マシューの店』と書かれた看板がかかっている。
店主であるマシューは腰を痛めて半年ほど前から店の二階で静養しており、今は代わりに一人息子のセスナが仕事を担っている。
先日ザッパという商人と西の森に飛行してから三週間が過ぎた。その間にも家族であり仕事仲間でもあるワイバーンのルキアが客を乗せたり、セスナがルキアに乗ったりして、仕事はなんとかこなしていた。
店のカウンターの椅子に座り、人気の少ない窓の外に降る雨を見ていたセスナは小さく欠伸をした。
セスナは今年で十六歳になる。
父との二人暮らしで、母はセスナがまだ幼い頃に病死している。
幼い頃から父の店を手伝い、近所の武器屋の親父さんの長男には剣術を教えてもらっていた。
その長男のアルデリオには剣の素質があるからと、王国の騎士団への入団を勧められた。だがセスナは迷っていた。
剣は好きだ。しかし、自分の命を賭して守りたいものや目的があるわけでもない。剣術を教わったのも、王国内外に蔓延る魔物から、家族や自分の身を守るためだ。
それだけだった。
正午の休憩時間になると、セスナは看板を裏返してからルキアのいる小屋に向かう。
小屋は店裏にひと続きになっており、カウンターのある部屋から扉を開けてすぐに入ることができた。
「今日は少し冷えるな。ルキア」
セスナは言い、空色のワイバーンの背中を撫でた。ルキアはグウゥ……と唸ってそれに応え、気持ちよさそうに眼を閉じる。
ルキアは十歳になる小型のワイバーンだ。ドラゴンとワイバーンはよく似ている。四本足のドラゴンとの違いは主に、ワイバーンは足の数が二本とドラゴンに比べて少ないことだ。
だがそれが特に仕事の妨げになることはなく、この世界のワイバーンは気性が温厚でドラゴンよりも扱いやすい。そして空を飛べるため馬よりも重宝した。
だが馬よりも乗り手を選ぶため、この店のように専門的にワイバーンを貸し出すワイバーン屋というものが、王国内には点在していた。
♢♢♢
ルキアの様子を見てから、食材の買い出しにセスナは雨の中を広場に向かった。
雨のせいか、広場にはいつも以上に人が少ない。馴染みの八百屋と肉屋で買い物を済ませ、パン屋にも寄る。
パン屋では焼きたてのベーグルをいくつか買い求め、布包みで両手がいっぱいのセスナは雨に濡れながら家路を急いだ。
雨のせいか、なんとなく気がふさぐ。雨で濡れた金色の前髪が、セスナの緑の瞳の視界を遮る。
セスナは肩まで届く金髪を後ろでひとつに結った、細身で中性的な外見の少年だ。
幼い頃はよく女の子に間違われるのが嫌だった。髪が長いせいかもしれないが、頻繁に切るのを面倒くさがっているうちに、あっという間に伸びてしまうのだ。
自分はこのまま父の店を継いでいくのだろうか。それもいいだろう。
だが夢中で剣を振るっている時に感じる、これだというような本能のようなもの。生きているという実感。それは剣術の稽古の時間でしか得られないものだった。
「――騎士団、か」セスナは呟く。
騎士団に入れば、マシューは喜ぶだろうか。王国のために働き、たくさん金貨をもらって、今よりもっと暮らしが楽になるかもしれない。
でも剣の素質があるというだけでは、家柄を重視する王国騎士団に入団するのに苦労するだろう。文武両道のエリートたちに、家格や中性的な見た目をからかわれるかもしれない。
それよりもっと、自分にやるべきことが――おいらにしか果たせない目的が、おいらにもあればいいのに。
それが父の店を継ぐことなのかもしれない。
でも。
ルキアに乗って、風を受けて高い空を飛ぶ。剣を振るって、大切な何かを守り、まだ見ぬ道を進んでいく。
セスナはなぜか、商人ザッパと訪れた西の森を思い出した。
あの日空から見た景色と、踏みしめた森の落ち葉の感触を脳裏でなぞる。
そして小屋の少女。ルキアに水をくれた。声は愛らしく、豊かな黒髪と深紅の瞳が綺麗だと思った。
西の森に行けば、またあの子に会えるかしら。
もしも。もしもあの子を守るために、おいらの剣が役に立つことがあるとしたら。
さっきまでの塞いでいた気分はどこかへ消え、雨に濡れたセスナの足取りは軽かった。
♢♢♢
帰ると、店の外には小さな人だかりができていた。なんだろう、とセスナは布包みを抱えて近づく。
「おお、セスナ大変だ。きみのルキアが、数人の男に無理やり連れていかれたぞ」
「ルキアが!?」
見ると小屋の鍵が乱暴に壊されている。
「すまない、わしらではどうすることもできなかった」と初老の男が頭を下げる。
「男たちは青い髪に金色の瞳の、異国の風貌をしていた。攫われたのはルキアだけでマシューさんは無事なようだ。どうする、騎士団に連絡するか」
セスナは布包みを地面に置き、初老の男に駆け寄った。
「その男たちがどこへ行ったか、分かるかい」
「魔物の格闘ショーがどうとか、言っておったが」
「格闘ショーだって!?」
魔物の格闘ショー。それはバタフライ王国では禁止されている違法な賭け事だ。魔物と魔物を闘わせ、客は勝つ方に金貨を賭ける。時には観客や審判にも怪我人が出る、危険なショーだ。だが危険であればあるほど観客は喜び、賭け金は増えていく。
そんな場所にルキアが連れていかれただなんて。肌寒い空気が更に寒く感じられる。
「おじさんたち、ありがとう!」
魔物の格闘ショーが行われるのは、ここから更に東の、スラム街のベロー地区だ。
セスナは濡れたまま店に入ると棚の上に置いておいた短剣を掴んで腰に携え、小降りになってきた雨の中を駆け出した。




