第九話 モルフォ蝶(2)
クロスいち推しのパン屋『モーニング・マッシュ』で、バラはいくつかのベーグルと値引きのミラクルカンパンを買い求めた。
その後、クロスと二人で、のんびりと広場を見て歩く。
クロスは王都で人気者なのか、こうして歩いていても老若男女、様々な人から声をかけられる。
クロスの青いマントが風になびき、バラの黒い髪とローブが揺れる。
こうして二人が並んで歩く姿は、バラが昔、本の挿絵で見た美しいモルフォ蝶のように、広場の人々の目を引いた。
「クロス。あなた私と歩いていて大丈夫なの?」
隣を歩く長身のクロスを見上げ、バラが尋ねる。
「なにがだい?」
「だって私、魔女よ」
「それが?」
「え?」
クロスはバラの言外を察したのか、真面目な面持ちで語る。
「人々が君たち魔女を、魔物や魔族と混同してしまうのは、多くの人がしっかりと読み書きができない故に、王都で配布される新聞の記事を、正しく読めないからだ」
そう言って、クロスは穏やかな瞳で王都の人々を見やる。その視線にはとても温かなものが溢れていた。
「だから俺は街の人たちに、身を守るための剣術や、簡単な読み書きを教えることを生業にしている。俺の持ちうる限りではあるが、俺は人々に、正しい技と正しい知識を、正しい心で伝えたいと願っている。少し、おこがましいかな」
「……いいえ」
バラは微笑み、胸の内で答えた。
――いいえ。あなたのような人を、きっと多くの人が求めているわ。
あっという間に時間が過ぎ、ふいに、クロスが夕刻の空を見上げた。
「さて。そろそろ日が暮れる。君も家に帰ったほうがいいな。やっぱり家まで送ったほうが……」
「ねえクロス。よかったら、私の母に会っていかない?」
「え?」
「素晴らしい友達ができたことを、母に報告したいの」
♢♢♢
バラの小屋の前で、二人はファイアバードの背から飛び降りた。
「私と母とで、この小屋に二人で暮らしているの」
言いながらバラが小屋の戸を開ける。
遠慮がちなクロスに、バラがどうぞ、と招き入れる。
小屋の中からはよい匂いが漂って、石造りのかまどの前、夕餉の支度をするバラの母が驚いてクロスを見る。
「母さん。王都で友達ができたの」
「マッシュルーム城付きの剣士、クロスと申します」
「まあ……」
その夜、ザリアの森の小さな小屋では、暖かな光と三人の笑い声が漏れてさざめいた。
♢♢♢
「ごめんなさい、ずいぶん遅くまで引き留めてしまったわね。クロス、王都まで送るわ」
ひとしきり話し終えた三人が食後のお茶を飲んでいると、バラが切り出した。
「バラ。クロスには今夜、ここに泊まっていってもらったらどうだい?」
「え」
バラの母が提案すると、クロスがお茶を飲み損ねてゴホゴホとむせ込んだ。
「そうね……もしあなたがよければ。どうかしら? クロス」
「ベッドはバラのものを貸しておやり。あたしとバラは一緒に寝ればいいだろう」
「いや、しかし……」
「いつも母娘二人だろう。やっぱりこうして剣士がいるってのは、心強いねえ」
「そうね、母さん。今夜は安心して眠れそう」
そのままするすると女二人に押し切られ、気づけばクロスはバラのベッドで天井を見つめていた。
♢♢♢
「……」
眠れぬクロスはそっと起きるとベッドを抜け出し、隣のベッドで窮屈そうに寝ている母娘を起こさぬように通り過ぎ、戸を押して小屋の外に出た。
クロスが暗い森の木々の隙間から、満天の星空を眺めていると、背後に気配がした。
振り返ると白い寝巻きのバラが立っており、クロスはつい視線を外した。
「眠れないの?」
バラが夜風に髪を抑えながら続ける。
「ごめんなさい。強引に泊まっていけ、だなんて。でも、あんなに嬉しそうな母の顔を見るのは久しぶりだったから、つい」
「いや……俺のほうこそ、女性のベッドを奪ってしまって。すまない」
「……なんだか私たち、謝ってばかりね」
クスクスと、バラが唇に手を当てて笑う。
クロスもつられて笑い、二人は肩を並べて星を眺めた。
「寒いだろう」
クロスはそう言いながら、自身の白い上着を、バラの肩にかける。
バラは「ありがとう」と微笑み、少し、胸が痛むのを感じた。
――こんな時間が、ずっと続けばいいのに――。
するとクロスがふ、と、視線を落とした。
「俺は今まで、君たち魔女を誤解していた。魔女とはつまり、もっと――」
「凶悪?」
バラが悪戯っぽく尋ねる。
「いや……ああ、情けないな。人々に正しい知識を伝えようだなんて、ずいぶんと思い上がりだった」
クロスが悔しそうに、両手を組んでそれをきつく握ると、バラがクロスの瞳を見つめて言った。
「いいえ、あなたは立派だわ。私なんて、いつも自分のことばかり。この世界にあなたのような美しい心の人がいることだって、ちっとも、知らなかった」
「バラ……」
クロスは驚きとも恥じらいともとれる表情でバラを見つめ、そして言葉を続けた。
「バラ。俺は君が、好きだ」
クロスの言葉に、バラは少しビク、としてから下を向き、そして顔を上げた。
「クロス……私も。……あたなが好き……」
そうして若く美しい二人は、満天の星空の下、ザリアの森で、初めての口づけを交わした。
♢♢♢
翌日、クロスはファイアバードの背に乗り、王都に帰った。
――きっと、自分が、君たち魔女が受けている誤解を解いてみせる。
そして王都で配布される新聞記事への真実の執筆を、王に依頼する――クロスはそう言うと、見送るバラの手を引いてそっと耳打ちをした。
――今度会う時には、君のお母さんに、一年分のミラクルカンパンと。そして君への婚約指輪を手土産にするよ――。
クロスの言葉を聞いたバラは、両手で顔を覆って、少し泣いた。
――だがしかし、クロスがバラの母にミラクルカンパンを手土産にすることはなかった。
バラの母はそれからおよそ一月後、ザリアの森で薬草を摘んでいるところを、魔法薬を探す魔王の配下と遭遇した。
不老不死の薬を求める魔族のレムノウという男と、それを拒むバラの母。口論はやがて戦闘になり、バラの母は果敢に応戦したが、激しい戦いの末、命を落とした。
帰りの遅い母を心配したバラが森の中を探すと、そこには、既にこと切れた母が倒れていた。
その手には、魔王やその配下である印、青い炎の刻印された金のボタンが握られていた。
そしてバラから彼女の母の死を伝えられたクロスは、かねてからの想いを決意に変えた。マッシュルーム城の弓士ルルーと、魔女バラを伴って、魔王ハルデスを討伐するため、北へと旅立つことになる。
――しかしそれはまた別の物語として、別のときに語られるべきだろう――。
♢♢♢
バラは徐々に白んできた空の明け月を見上げ、肌寒さに小さく身震いする。
――でも。ララが生きていて、本当によかった――。
そしてクロスとララを想い、目を閉じて、いつものように子守唄を口ずさんだ。




