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序章 いにしえの預言と新しい契約

 大剣士クロスと魔女バラが結婚し、世界は明るかった。

 ここバタフライ王国は名前の通り蝶の形をしており、右翅に位置する王都マッシュルームの剣士クロスと、左翅に位置する緑豊かなザリア地方の森の魔女バラは出会った。

 二人は恋に落ち、子どもも産まれ、幸せに暮らしていた。

 恐ろしい魔物が空や大地を行き交う暗黒時代もやっと終わりを告げ、『東の剣士と西の魔女が出会うとき、世界に平和が訪れる』という古くからの預言は当たったのだと、人々は大いに喜んだ。



◇◇◇


 クロスはその日、剣術の稽古を終えて教え子たちと別れると、大急ぎで我が家に向かっていた。

 今日はクロスの娘の一歳の誕生日なのだ。

 「やあ、クロス。調子はどうだい?」

 「ねえねえクロス、今度ぼくにも剣術を教えておくれよ」

 駆けるように通りを歩いているクロスに、パン屋の主人や妹を背負った少年が声をかける。

 筋肉質だが長身でほっそりとした体躯のクロスは銀色の髪を後ろでひとつにまとめ、白を基調とした上下揃いの仕立てのシャツとズボンを纏っており、青いマントが風になびいてフワリと翻る。

 今では世界的に有名な大剣士となったが、気取ったところがなくて愛想もよく、街の人々にも大変な人気だった。

 それらに笑顔で応じながら「では、また」と短く頭を下げ、商店が立ち並ぶ大通りを抜けていく。

 途中で買い求めたケーキが崩れてはいないだろうかと気にしながら、青い屋根の我が家を目指して急ぐ。



◇◇◇


 ケーキの箱を抱えて家のドアを開けると、妻のバラが椅子に座って娘を抱いていた。

 バラの髪は腰まで届き、緩くウェーブした美しい黒髪だ。

 そして長く豊かなまつ毛。

 瞳の色は魔女の証で燃えるような深紅だが、それが恐ろしい印象を与えないのは、優しげな微笑のせいだろう。

 唇は瞳と同じ深紅で、バラの端整な顔立ちをいっそう美しく見せている。

 傍らには魔犬ガングルーが眠っており、いつもと変わらぬ光景に微笑んでからクロスは「ただいま」と言った。


 野犬のように大きなガングルーは「使い魔」と呼ばれる魔犬で、ガングルーのような魔獣を使役する魔法使いは「ビーストマスター」と呼ばれている。

 バラは若いが強力な魔法使いで、この世界のビーストマスターの中でも屈指の魔女だ。


 バラが「おかえりなさい」と言って立ち上がろうとすると、赤ん坊が泣き出した。

 バラは赤ん坊をあやしながら、クロスに声をかけた。

 「クロス。ガングルーの様子が変なの」



◇◇◇


 バラが伝えると、眠っていたガングルーが目を開け、低く呻いた。


 「魔力だ。魔力が足りん」


 咄嗟にクロスが答える。


 「魔力ならバラの半分近くの力を与えられているだろう。その代わりにマスターであるバラの命令に従う、それが契約のはずだ」


 ガングルーはくちゃくちゃと口を動かしてから湿っぽく濡れた鼻を舐めた。


 「赤ん坊をよこせ」


 今度はバラが声を上げる。


 「恐ろしいことを言わないで! いったいどうしてしまったの、ガングルー」


 バラがまだ小さな娘を強く抱きしめると、ガングルーがのそりと立ち上がった。


 「予言なんて、まやかしだと思ってたんだがなぁ。長いあいだ様子を見てきたが、そろそろ我慢の限界なんだよ」


 「我慢だと? 何を言っている?」


 ケーキの箱をテーブルの上に置き、クロスが鋭い目つきで尋ねる。


 「契約を反故にするということか? だがそうなれば、バラの提供している魔力を失うことになるぞ」

 

 立ち上がったガングルーがいつもより大きく感じられて、バラは恐ろしさに数歩、窓辺に後ずさりした。


 「バラ。新しい契約を結ぶ時だ」


 ガングルーの低い声がグルル……と部屋に響く。


 「新しい契約?」


 「ああ。お前の魔力を全て俺に提供する代わりに、その赤ん坊を殺さずに助けてやる」


 「馬鹿を言うな!」


 今度はクロスが声を荒げ、魔犬から妻と娘を守るように立ちはだかった。


 「そんなことをしたら、バラは心を失ってしまう! ガングルー、お前の主人は誰か忘れたのか?」


 「ああ、うるせぇ。魔力のないお前に用はないんだよ」


 黒く光るガングルーがクロスに飛び掛かり、白い牙が剥き出しになる。


 「きゃあぁ!」


 バラの悲鳴が響き渡り、赤ん坊が激しく泣き出した。



◇◇◇


 「クロス! クロス!」


 床に倒れたクロスは既に息をしておらず、バラは娘を抱いて縋りついた。


 「うそ、うそよ! 返事をして、クロス!」


 「さあ、赤ん坊を救いたければ契約を結ぶんだな」


 「この魔獣! よくもクロスを!」


 片腕に赤ん坊を抱いたバラが、意識を集中させたもう片方の手を前方にかざす。


 掌が赤く輝き、炎の玉がガングルーめがけて勢いよく放たれた。


 その炎を口を開けて飲み込んだガングルーは「ああ、うめぇ」と喉を鳴らす。


 「おいおい、赤ん坊がまる焦げになってもいいのか?」


 「この子に手出しはさせない!」


 「なら契約成立、だな」


 ガングルーが邪悪に笑い、素早くバラの足首に噛みつく。


 毒のまわったバラはその場に崩れ落ちるように意識を失い、泣き続ける赤ん坊を咥えたガングルーは、ザリアの森を目指して走り出した。

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