9
月の輝きと星のまたたきだけが頼りになる東屋は静かで、自分の荒い呼吸の音だけがやけにうるさかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
自分がどうしたいのかが解らない。自分がどうすればいいのか解らない。
この苦しさは、息が切れているからなのか、それとも別の理由からなのかすら、もう、何一つ解らなかった。
そしてどれほど経っただろう。
実際に換算してみればそれなりの時間は経過していたのだろうけれど、少なくともヴァイオラにとってはあっという間の時間で、テオフィロス、ではなく、アマデウス・グラーティア・アマランティーン皇太子殿下は、ひそやかにその東屋にやってきた。
「ああ、よかった。ビビちゃん、ようやっと見つけたわ」
ドレスが乱れるのも気にせずに座り込んでいたヴァイオラは、確かな安堵を交えてこちらを見下ろしてくる空色の瞳を見上げて、不意に泣きたくなった。
けれどそうするのはやはり意地と矜持が邪魔をしたから、素知らぬ顔を懸命に取り繕って立ち上がり、ドレスの裾を持ち上げて深く一礼してみせる。
「……アマデウス殿下におかれましては、大変無礼な真似を、誠に申し訳ございません」
「嫌やわぁ、そんな他人行儀なん。ボクとビビちゃんの仲やろ」
「っお友達ではないと、おっしゃったのは、あなたでしょう! ずっとずっと、あたくしのことをだまして、馬鹿にして……っ!」
ああ、駄目だ。とうとう限界が来てしまったと思った。
涙で視界が歪んで、自分がどんどん醜くなっていくのを感じる。
本当に、信じていたのだ。友人だと。この友情は、たとえ国境を隔てても続くのだと。
それなのに友人だと一度も思ってもらえたことはなくて、あろうことか意味の解らない婚姻の申し込みまでしてきて、どこまで彼は自分のことを馬鹿にすれば気が済むのか。
「きらい、きらいですわ、あなたなんて! テオ様も、アマデウス殿下も、どちらもだいきらい……っ!」
立っていられなくなって、情けなく座り込んで、両手で顔を覆う。
こんな顔、誰にも見られたくなかった。
たとえ一度は友と信じたテオフィロスであっても。隣国の尊き皇太子、アマデウスであっても。
この目の前の青年にだけは、こんな顔、絶対に見られたくない。
それなのに彼は目の前にしゃがみこんできて、べりっと無理矢理ヴァイオラの両手を顔から引き剥がしてくれやがるのである。
「うんうん。ボクはビビちゃんの笑顔がいっとう好きやけど、泣き顔もええなぁ。ほんまにかわいい」
「なっ!」
「だますつもりはなかったんよ。ボクが皇国のコレやったってのは、ついこないだ決まったことやし、一応不確定要素があったからで……」
「テオ様が皇国の第二皇子たるアマデウス殿下でいらっしゃったことくらい、ずっと前から存じ上げておりましたわ! どこまであたくしを馬鹿になされば気がお済みになるの!?」
「えっ」
ぱちくり、と、切れ長の空色の瞳が大きくまばたいた。
その瞳をにらみ付け、ヴァイオラは口を開く。
そも、“テオフィロス”がかけていた瓶底眼鏡。
あれは見る者が見ればすぐに解る、聖も魔も封じる魔法具だ。
生家であるエヴァランス家において、諸外国との貿易のための商品としてピンからキリまでそれらを目にしてきた物だが、彼の瓶底眼鏡もまたそれであると気付いたとき、ならば彼の瞳はきっと本当は黒ではないのだろう、と少しだけさびしく思ったものだ。
いつか本当の色を見せてもらえたら、なんて、らしくもないことを願った。
面と向かって眼鏡を外してくれだなんて到底言えなかった。
彼がおそらくは特級品であろう魔法具を身に着けているのにはそれなりの理由があるからだろうとは容易に想像できたし、何より、断られたら、そしてそこから縁が切られてしまったらと思うと、口になんてできなかった。
次は彼のそのなまった言語だ。
皇国の地方のなまりであるとは、言語学に精通していればこれもまたすぐに解る事実だが、その『皇国の地方』が、かつて皇国で栄えた旧都であり、皇国の現皇帝の妃の一人の出身地であることまで気付く者はこの国では稀だろう。
おそらくはこの国において数少なく世界の情勢に詳しい部類に入るヴァイオラだからこそ気付けた事実だ。
そして極めつけは、”テオフィロス“という名前、そのものだ。
友人になろうと手を差し伸べられたときにヴァイオラは言った。
その意は古き言葉で『神に愛された者』であると。
元より一般的ではない意味ではあるが、それは旧言語であるからという理由だけではない。
『神に愛された者』の意を汲む古き言葉で、最も広く知れ渡り、最も偉大とされる言葉。
それが、”アマデウス“。
それこそが、皇国で兄皇子との皇位継承問題に巻き込まれ、その居場所がようとして知れなくなっていた、皇国第二皇子の名前だった。
「いくらなんでも、そこまで手がかりがございましたら、どんなお馬鹿さんでも気付きますわ! テオ様が、アマデウス殿下でいらっしゃることくらい! それ、それでも、それでもあたくしは気付かないふりをしましたの! 気付かないでいたかったんですの! は、はじめ、はじめての、おともだち、で、でも、あなた、違うって、あたくしのこと、お友達なんかじゃないって、だから、だからあたくしは……っ!」
だから、何だと言うのだろう。
ああそうだ、何だも何もない。『だから』、ヴァイオラは、王太子妃に、はては王妃になろうと思ったのだ。あるいは神官にだってなっても構わないと思ったのだ。
すべては、皇国の皇子たるアマデウス――――『テオ様』とヴァイオラが呼んだ、確かに友人であると信じた相手に、もう一度会うために。
けれど結局のところこれだ。
国のためだなんて言い訳を重ね続けて、ただ自分が滑稽な道化になっていただけの話だったのだ。
涙があふれて止まらないけれど、もう何に対する涙なのかも解らない。
こんな見苦しくてみっともない姿を他人に見せるなんて冗談でもごめんだと思い続けてきた人生だ。
それなのに、初めて出会ったときも、そして今も、よりにもよってこの目の前の青年に見られてしまっている。
ああもう悔しい、腹立たしい、もういいから早くどこかへ行ってしまって。
そんな涙ながらのヴァイオラの願いは、それでも生憎、叶うことはなかった。
テオ様、とヴァイオラが呼び続けた青年が、ぷっと噴き出した。
え、とヴァイオラが思う間もなく、彼は「ははははははははっ!!」と腹を抱えて笑い出したのである。
まるでいつぞやの再現だ。
ちょっとお持ちになって、泣きぬれている乙女を前にそれはどういうご了見でいらっしゃいますの。
そう唖然と固まるヴァイオラの涙は音を立てて引っ込んで、そんなヴァイオラの顔を間近から覗き込んできたアマデウスは、それはそれは嬉しそうに破顔した。
「ほんまにいっつもビビちゃんは、ボクをびっくりさせてくれはるなぁ」
「な、にを」
「うんうん。やからボクはビビちゃんがええ。なあビビちゃん、ボク、いっぺんかて友達やなんて思うたことないって言うたやろ」
「……ええ」
「そりゃそうやろ。最初はおもろいおもちゃやと思ってたもん」
「…………は?」
今、さらりと、とんでもなく倫理観から外れた発言をされたような。
今度こそ泣いている場合ではなくなって「それはあまりにもひどすぎるのではなくて!?」といきり立てば、「まあまあ、せやけどなぁ」と、アマデウスはまた笑った。
見たことのない笑顔だ。
やわらかくて、どこか照れくさそうで、それでいていたずらげで、とっておきの秘密を打ち明けるような笑み。
「気付いたら、ビビちゃんはボクの好きな女の子になってたんやもん。惚れた相手は、友達になんて分類できひんやろ?」
「…………………………はあ!?」
淑女にあるまじき声を上げて固まるヴァイオラを前にして、アマデウスは「はー顔があっついわぁ、告白って照れるんやなぁ」なんてひらひらと片手で自らを仰ぎながらうそぶいている。
ふざけているとしか思えないその姿に今度こそぶわりと怒りが沸き上がってきて、「テオ様!」と本来呼ぶべきではないであろう呼び名を呼べば、今度は彼は嬉しそうに笑う。
「ビビちゃんがそないな風に呼んでくれはるから、ボクは兄上を蹴り落そうと思うてん。蒼穹眼なんて言うても、ほんまに未来を見通せるわけやあらへん。やけどなぁ、まあボク、これがもうよぉくできた皇子様でな? 大体のことは想定の範囲内で済んでまうんよ」
せやのに、と、アマデウスの手が伸びてきて、そっとヴァイオラのぬれた頬に触れた。
また顔を覗き込まれて、吐息すら触れ合うような距離まで顔が近付いてくる。
間近で見る彼の空色の瞳に、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。
「ビビちゃんはいっつも、ボクをびっくりさせてくれはるんやもん。なあビビちゃん、そのびっくりはな、ボクにとってはいつだって、『小さな幸せ』やったんよ。菫の花言葉通りになぁ」
「テオ、さま」
「うん。そのまま呼んで。ずっと、ずぅっと、ボクはビビちゃんの『テオ』がええ。皇位なんてなぁ、ほんっまに心の底からどうでもええしまあ別にいらへんなぁって思ってたんやけど、ビビちゃんに釣り合う男になろ思たら、そうも言ってられなくなってん」
「……だから、帰国を急がれたの?」
「当たり。いやぁ、間に合ってよかったわぁ。ほんまはもっと早う来たかったんやけど、思いのほか兄上が根性見せよってん。腐ってもボクの兄上やったってことやな。とはいえボクの兄上やけど腐ってたから、ちゃぁんと屑籠にぶち込まざるより他はなかったんやけど」
あっはっは、とその怜悧な美貌に見合わない豪快さで軽やかにアマデウスは笑う。
笑って話していい話題ではない。とんでもない話を聞かされている。
――ええと、あたくし、このままどうなるのかしら……?
ここに来てようやく自身の今後の身の振り方もまたとんでもないことになりつつあることを理解して、ヴァイオラは顔をひきつらせた。
そんなヴァイオラの手を取って、ヴァイオラにとっての“テオ様”はそっと立ち上がらせてくれる。
そのままつなぎ合った手をぎゅうと握り締められ、反射的に緊張を覚えるヴァイオラに、彼はまさに神に愛されるべき美しく麗しい笑顔を浮かべて、わざわざ片膝と立てて跪いた。
絵物語でよく見るアレである。
まさか自分がそんな場面に直面するとは想像したこともないヴァイオラが言葉を発するよりも先に、駄目押しのようにアマデウスは続けた。
「ヴァイオラ・エヴァランス嬢。どうか、私と結婚してほしい」
その台詞は、確かに懇願だった。
目の前にいるのは、ヴァイオラの知る『お友達』ではなく、ヴァイオラに求婚する『一人の殿方』なのだ。
――ああ、この方は本当に、仕方がないお方なのね。
それが理解できてしまったから、ヴァイオラもまた微笑んだ。
アマデウスと同じように、美しく、麗しく、咲き誇る花のごとき笑みを浮かべて、そして。
「謹んでお断りいたしますわ」
迷いのない口振りで言い切るとともに、すぱんっと手を振り払った。
アマデウスの笑顔が凍り付いた。
それでも流石に兄皇子を追い落として立太子した皇国の皇太子、すぐに立ち上がって「なんでぇ!?」と悲鳴を上げる。
「ボクと結婚、ええやんか! これでもボク、これ以上ないくらいの優良物件やで!?」
「条件は確かにこれ以上ないほど魅力的ですけれど、その性格がそれをしのいであまりあるほど問題物件でいらっしゃるじゃありませんの」
「それはせやけども!」
「……自覚済みでいらっしゃるのが余計にタチが悪い事故物件ですわね…………」
「せやかてビビちゃん!!」
「そんなに大きなお声を出されなくても聞こえていますわ、テオ様」
どうか落ち着いてくださいませ、と静かに告げると、がっくりとうなだれたアマデウスは、東屋のベンチに突っ伏してしまった。
「ええやんかボクと結婚……。ビビちゃん、言うてたやろ、国益になるならどないな結婚でも受け入れるて……そないならボクと結婚がいっとうええやん…………」
「それに関しては同意いたしますわ」
「せやったら!」
「ええ、でしたら、ということで、保留にいたしましょう」
「……保留?」
「はい。まずは今度こそ、お友達から始めましょう?」
アマデウスのとなりに座り込み、右手を差し出す。
不思議そうにまばたくアマデウスの空色の瞳が、夜闇の中ですら輝いて、とても美しいと思った。
その蒼穹を映した瞳ですら見通せない未来を、彼と生きていけるのならば、きっとそれはすばらしいことなのだろう。
でも、まだ早い。
まだヴァイオラは、彼のことを赦してなんてあげないのだ。
だから。
「あたくしはヴァイオラ・エヴァランスと申します。あなたのお名前を、窺ってもよろしくて?」
「……ほんっまにビビちゃんは……ああもう、もうええよ、ボクの負けや。どうせ惚れたほうが負けやもん。ボクはアマデウス・グラーティア・アマランティーン。これからどうぞ末永くよろしゅうに」
そうして握り返された手のあたたかさは、きっと、一生の宝物になるだろう。
味わったことの無いような清々しさにヴァイオラがふふと微笑むと、その唇にかすめるようにぬくもりが触れた。
え、と思う間もなく理解する。
目の前にある空色の瞳が、いたずらっぽく笑っている。
「とりあえず気張ったボクにこれくらいのご褒美はあってええやろ。これから覚悟しとき、ビビちゃん」
「っこのっ! 不埒者――――!!」
すぱーん!! とヴァイオラの左手がうなりを上げて、ヴァイオラの花弁のような唇を奪った不埒者、もといアマデウスの頬を打った。
見事な平手打ちである。
握手した状態だからこそよけることもできずに受け入れるより他はなかったアマデウスの、「あいったぁ!!」という悲鳴が、夜のしじまにこだまする。
「ひとまずこれで、あの日の屈辱を晴らしたことにしてあげましてよ!」
「えっどれのことや?」
「……お待ちなさい、まだ何かありますの?」
「…………いやいやいや、なぁんもあらへんよぉ」
「嘘をおっしゃい。素直に白状なさいな、テオ様、逃がさなくてよ!」
「ほらほらビビちゃん、そろそろ戻らへんと、ビビちゃんのオトンが今度こそ内乱起こしてまうで」
「それでごまかされるとお思い!? もう、テオ様ったら!!」
かくして二人は、じゃれ合うように事の次第に未だ喧騒が続く大広間へと戻ることとなる。
そうしてこれからようやく、『ビビちゃん』と『テオ様』の物語は始まるのだ。
絵物語よりももっと驚きにあふれた未来が、二人を待っている。
なにせ青天の霹靂とは、いつだって唐突にやってくるものなのだから。