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そして後日、宣言通りに隣国たる皇国からの留学生、テオフィロス・ミーディオカ男爵令息はひそやかに学園を去った。
もちろんヴァイオラが見送ることはなかった。
頼まれたってごめんであったし、そうでなくとも、課外授業として王太子妃教育の一環である行政事業のための会議に出席しなくてはならなかったため、元より見送りが叶うはずもなかったのだ。
風変わりな留学生が一人いなくなったとて学園は何も変わらないが、ヴァイオラに限って言えばそうでもない。
つきまとってくる王太子に、それに伴って擦り寄ってくる有象無象、婚約者としての立場をいよいよ確固たるものにしたことでより一層厳しくなった王太子妃教育、倍増した政務。
多忙を極めるヴァイオラに、王太子は何かと手を出し口を出してきた。
果ては婚前交渉まで求めようとするそぶりまで見せてきたので、適当に彼にふさわしい割り切った間柄となる高級娼婦まで見繕う手間までかけさせられたのには天を仰ぎたくなった。
高級娼婦などとは比べるのもおこがましいような美貌と肢体を誇るヴァイオラは、もうそろそろ色狂いと言っても過言ではない王太子にとっては垂涎の餌らしい。
婚約者であるというのにろくに触れられないヴァイオラに対し不満をあらわにする彼との関係は悪化の一途を辿りつつも、それでも彼にとってはヴァイオラの顔と身体は諦めがたいらしく、ヴァイオラはなんかもうぶっちゃけ本当に面倒くさくなっていた。
それが解決されたのは、テオフィロスが帰国してから、ちょうど一か月後のことだった。
きっかけは、神殿による、異世界からの聖女の召喚である。
その話を聞かされた時、ヴァイオラはまたしても天を仰ぐ羽目になった。
思わず「やらかしやがりましたわね」とうめいてしまったことをここに記しておこう。
聖女の召喚は、本来、国が太刀打ちできない危機に瀕したとき――――それこそ、絵物語に語られるような悪しき魔王や、国を揺るがすような大災害に直面したときの打開策である。
現状として、国はそんな危機になど一切瀕していない。まったくもって平和なものである。
だというのに、わざわざ聖女を召喚した、その理由。
それはただ単に、エヴァランス侯爵家をはじめとした諸外国との外交によって勢力を伸ばす貴族への、神殿による対抗措置だ。
宗教色が強く、神殿の権威は高められているのは、この国が鎖国を維持し、諸外国からの情報を世間から隔絶させているからこそ、という側面がある。
だからこそ、自らの権威の保持するために、神殿は己が勢力に箔を付けようと、奇跡の力を持つ聖女を擁立して人々の信仰心を集めようとしたのだろう。
ヴァイオラも含め、わずかでも諸外国の情勢に触れたことがある者には、手に取るように理解できた。
そう、そういう風に理解できるものは、ごくごく少数だったのだ。
異世界からやってきた聖女は黒髪にこげ茶色の瞳を持つ十六歳の少女であり、とびぬけた美貌の持ち主ではないものの、男女問わずに好感を抱くに十分に足る愛嬌の持ち主だった。
物珍しさゆえか、王太子はそれまでヴァイオラにつきまとっていたのが嘘のように彼女につきっきりになり、国中のあちこちを彼女とともに回り始めたのである。
もちろんその間の王太子としての政務はすべてヴァイオラに回ってきた。
解せない。遺憾である。
政務は嫌いではないしむしろ好きなほうだが、すっかり聖女サマとやらに夢中になっていらっしゃいやがるポンコツの穴埋めなど頼まれてもしたくない。
まあそのおかげでなけなしの王太子派の権力も、自身の勢力に取り込むことができたので、結果としては及第点ではあるとはいえどもだ。
聖女は各地で奇跡を起こし続けた。
曰く、転んで擦りむいた子供のけがを癒した。
曰く、枯れた花をよみがえらせた。
曰く、日照りの続いていた地方に雨を降らした。
なるほどどうして、確かに奇跡の御業である。
現在のこの国はすっかり聖女サマに熱狂し、神殿への信仰はうなぎ上り、喜捨もかつてないほどに増えているのだという。
それを王都の学園に通いつつ政務をこなすかたわら聞いていたヴァイオラは、「おめでたいことですわね」と笑った。
もちろん祝辞ではなくあてこすりの嫌味であるし、なんならその笑顔は鼻であざけるタイプのそれだった。
聖女の奇跡はしょせんその場限りのものだ。
子供のけがを癒すならば、そもそも医療施設の増設、充実と、そこに勤める医療従事者の教育を行うべきである。
花をよみがえらせる暇があったら、食物となる穀物や果実の増産や、薬草の栽培の手法の開発に努めるべきだ。
日照りに悩む地方があるというならば、新たな水源の発掘や治水工事、水質汚染の調査に従事すべきである。
少なくともヴァイオラはそう考えるからこそ、そのたぐいの嘆願書や要望書、提案書をかき集め、公費だけではなくときには自身の私財を投じた。
の、だが。
――棘まみれ毒花は、金を養分に育つらしい。
――王太子殿下と聖女様の仲睦まじさに嫉妬して、好き勝手に遊び惚けているらしいな。
――とんだ当て馬令嬢でいらっしゃいますこと。
日々忙しくなる政務に、とうとうほとんど通えなくなりつつある学園では、そんなうわさが蔓延しているのだという。
別に構わない。
青天の霹靂でもなんでもない、十分すぎるほど十分に想定の範囲内である。
そんなうわさの火消しに奔走するよりも、目の前にうず高く積まれた政務をこなすほうがよほど重要だった。
だってそうだろう。
――あたくしは、王太子妃になる。
――諸外国との国交を確固たるものにしてみせる。
――そして、皇国との繋ぎが取れたならば。
――ねえテオ様、どうか覚悟していらして。
権力になんてサラサラ興味がないと言っていたテオフィロスを、皇国側の外交官として指名してやる。
皇国の政治に隣国の王太子妃が口出しすることなど本来叶わないことくらい解っているが、この国の閉鎖性はとびぬけている。
資源も人材も、神殿に関することを除けば豊かなこの国と繋ぎを取る手段として男爵令息テオフィロス・ミーディオカを指名することは、難しいことではあるが、無理なことではないだろう。
そう、そうであってもらわねばならない。
無理を通せば道理が引っ込むとはよく言ったものだ。
こちらとて王太子妃が外交官として立つと言っているのだから、相応の対応を求めさせてもらう。
そうして、ヴァイオラは必ず、あの日の屈辱を晴らしてみせるのだ。
――待っていて。
その一念が、ヴァイオラを突き動かし続けた。
そうしてテオフィロスとの別れからちょうど半年が経過して、いよいよヴァイオラは、学園を卒業することになった。
後半はほとんど通っていなかった学園ではあるが、その卒業を祝う祝賀の夜会には当然出席を求められる。
瞳の色と同じ、麗しい紫のドレスに身を包んだヴァイオラは、ヴァイオラのことを今や完全に『当て馬令嬢』と馬鹿にする周囲の目にとってすら、感嘆の溜息をこぼしながら恍惚と見惚れ、言葉を失わずにはいられないほど、とびきりの美しさを誇っていた。
だが、そのとなりには、本来あるべき姿はない。
ヴァイオラと同じく学園を今年卒業することになった、婚約者たる王太子。
夜会のパートナーとしてヴァイオラをエスコートするのが彼の使命であるはずである。
そう、そのはずであったのだが。
「王太子殿下のご入場です!」
この夜会のために門戸が開かれた王城の大広間の、扉が大きく開かれる。
そして胸を張って入場してきたのは言うまでもなく王太子であり、そのとなりに寄り添っているのは、可憐な白いドレスに身を包んだ聖女と呼ばれる少女である。
さながら婚礼の式典のような入場に、周囲はわっと沸き立って、それからさも愉快げにちらちらとヴァイオラへと視線を送る。
開いた扇で口元を隠し、「殿下がお好みそうな趣向ですこと」と内心で呟くヴァイオラの元に、王太子はさも気遣わしげに聖女に腕を貸しながら、ツカツカと歩み寄ってきた。
「王太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じます」
ヴァイオラが扇を閉じて見事な一礼を捧げると、周囲から誰ともなくほお、と感嘆の吐息がもれる。
その見事すぎるほど見事な麗しさ、他の追随を許さない美しさに、ヴァイオラのことをにらみ付けていたはずの王太子すら、顔を赤らめて「楽にしろ、私とお前の仲だろう」などと言い出している。
確かに婚約者ではあるが、数か月間とんと顔を合わせていなかった相手、しかも露骨に不貞を働かれていた相手との仲とはどういうものか。
ヴァイオラの賢い頭でも答えが出ず、とりあえず許しが得られたので顔を上げて、何とはなしに王太子にぴっっっっったりと寄り添っている聖女へと視線を向けた。
あらまあかわいらしいこと、領地の遠乗りで仕留めたタヌキのようね、というヴァイオラの内心のつぶやきが聞こえたわけでもないだろうに、聖女は大げさにびくりと身体を竦めた。
そのまま、そのよく言えば清楚な肢体、悪く言えば出るところも引っ込むところもない子供体型の身体をさらにぴっっっっったりと王太子に寄せ、うるうるとこげ茶色の瞳を潤ませる。
「に、にらまないでくださいっ! あたしのことを無視した上にそんな、ひどい……っ!」
「ああリナ、かわいそうに。私の愛しい聖女に恐ろしい思いをさせるような女だとは、ヴァイオラ、見損なったぞ! 私はお前を見誤っていたようだな」
公衆の面前で恥ずかしげもなくこれ以上ないほど身体を寄せ合い、聖女の頭を撫でた挙句に涙のにじんだまなじりに唇まで寄せた王太子は、ぎろりとヴァイオラのことをまたしてもにらみ付けてきた。
ここまで来たらもう馬鹿でも解る。
賢く敏く思慮深いヴァイオラならばなおさらだ。
しかもヴァイオラはこの状況、もう十三回も経験済みである。なので。
「ヴァイオラ・エヴァランス侯爵令嬢! お前との婚約を破棄する!」