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口の中でほどける芳しい甘味は、いくらでも食べたくなるけれど、食べれば食べるほど減っていってしまうものでもあるから、大切に、特別な時に食べよう。

そう心に決めて、ヴァイオラは両手で小箱を包み込み、小さく笑う。

その笑みに自嘲と諦念がにじんでしまったのは、無意識ではあったのだけれど、後から気付いて失敗だったと少し悔やむ。


「テオ様」

「うん?」

「一緒に皇国に、と、おっしゃってくださいましたわよね」

「うん、言うたねぇ」


のんびりと彼は頷いて、ヴァイオラの顔を覗き込んでくる。

間近で見ても、瓶底眼鏡の向こうにあるはずの彼の黒い瞳はなぜだかどこまでもどうしようもなく遠くて、ぎゅうと胸が詰まる思いがした。

王太子に見つめられたときとはまるで異なる感覚に襲われて、けれどその衝動に呑み込まれてしまうには自身の意地と矜持が許さない。

ここで泣きすがってしまうようなかわいげなんて、三歳のころには屑箱に全力でぶち込んでいる。


「ごめんなさい。あたくしは、皇国には行けませんわ。流石に王太子妃が留学だなんて許されるはずがございませんもの。せっかく素敵な、ええ、本当にとっても素敵な、ご提案をくださいましたのに」


ざんねんですこと、と続ける自分の声音は、震えてはいなかっただろうか。

両手で包み込んだ小箱に込めた力が無意識に強くなって、繊細な作りの美しいそれが悲鳴を上げたように感じたから、すぐに力を抜いた。


喉が引き連れて、目の奥が熱くなって、それでも泣こうとは思わなった。

泣きたくなんてなかった。

現状にどんな不満があろうか。

王太子との婚約はこれ以上望むべくもない最高の国益につながるだろう。

エヴァランス侯爵家の利権は強くなり、閉鎖的なこの国における諸外国との交流が深まれば、よりこの国は発展する。

ヴァイオラは、王太子と婚姻を結ぶのではない。

国益のために国に身を捧げるのだ。

それが侯爵家に生まれ、貴族としての恩恵をあますところなく甘受してきた者の務めである。

だから…………だから、自分は。


「改めて、お礼を言わせてくださるかしら、テオ様」

「んん? それは何に対して?」

「……何かしら。そうね、あなたがいてくださらなかったら、あたくしは覚悟を決められなかったでしょうから、それに対してかしら?」

「覚悟?」

「ええ、この国のために生きて死ぬ覚悟を」


女としての幸福など望まない。代わりに、国の利を。国の益を。

そのためならばなんでもしよう。なんだってできる。

そのきっかけは目の前の友人だ。


「閉鎖的なこの国には、新しい風が必要ですわ。ほぼ鎖国状態を続けてきたこの国がいつまでも独立国家でいられる保証などどこにもありませんの。あたくしは王太子妃として、果ては王妃として、この国に風穴を開けてみせましてよ。たとえ夫がどれだけポンコツでも……いいえ、ポンコツだからこそ都合がよろしいわね。ふふ、あたくし、見事あの方を手のひらの上で転がしてみせますわ!」


小箱をいったんテーブルに置いて、ぐっと拳を握り締める。

さりげなく王太子のことをポンコツ呼ばわりしたのはさておいて、それはともかく大丈夫。自分はやれる。やり遂げてみせる。

そう決意させたのは、覚悟を決めさせたのは、こちらをぽかんとした様子で見つめてくるテオフィロスだ。


「あたくしとて、諸外国には実は苦手意識がありましたわ。この国で育った者は皆そうでしょう。まああたくしの場合はお父様の影響もありましたから、比較的マシではありましたけれど、でも、決定打はテオ様。あなたでしてよ」

「…………ボク?」

「ええ。あなたのようなお方が外つ国にいらっしゃるなら、あたくしはもっとそれを知りたい。お会いして、お話して、手を取り合って、互いの国を盛り立てていきたい。そう思えたから、あたくしはこの国で生きていくことを覚悟しましたの。だから、テオ様、あなたに心からの感謝の意を捧げさせてくださいませ」


口に出してみて、理解した。

そういうことだったのだ。

婚約破棄だの再婚約だの四の五の言ってはみたものの、結局、ヴァイオラが目指すものは何も変わらない。

それを教えてくれたのがテオフィロスだったのだ。


――これも一つの、青天の霹靂かしら?


思ってもみなかった出会いが、思ってもみなかった結論へと導いてくれた。

きっとそれもまた、青天の霹靂であるに違いない。

だからいいのだ。


青空の下で晴れ晴れと笑うように、王太子と再婚約してから初めて、ヴァイオラは心からの笑みを浮かべた。

テオフィロスは何も言わない。

ただじっと、瓶底眼鏡越しにじいとこちらを見つめてくるばかりだ。

想定外に長い沈黙にそろそろ居心地の悪さを覚え、「あの、テオ様?」と声をかけると、彼は突然がばりとテーブルに突っ伏した。


「テ、テオ様?」

「あああああもおおおおおおおおお……」

「テオ様ったら」

「えろうすんまへん、あんなビビちゃん、ちょい待ち、もう、ほんま、ほんまにビビちゃんはなぁ……」

「テオ様……?」


両腕をテーブルの上に投げ出し、その間に額を押し付けて、うんうんと唸るテオフィロスの尋常ならざる姿に、とりあえずヴァイオラは彼の背中をさすさすと撫でた。

一体どうしたというのだろう。

いつものんびりとしている彼らしからぬ姿に戸惑いながらもなおも背中を撫でさすっていると、彼はやはりがばりと顔を上げて姿勢を正した。


「ああもう、うん、しゃーないなぁ」

「あ、あの?」

「うん。ボクも覚悟を決めるわ」

「……?」


だから何の話だ。

表情にも頭の上にもただ疑問符を飛ばすばかりのヴァイオラに、テオフィロスは小さく肩を竦めて笑いかけ、それから「あんなぁ」と口火を切った。


「ボク、明後日帰るわ」

「え?」


帰る、とは。

何を言われたのか解らなくて、ヴァイオラは凍り付いた。

いや違う、解らなかったのではない。

解りたくなくて、固まったのだ。


テオフィロスが『帰る』とわざわざ告げてくる行く先だなんて、たった一つしかないことくらい、先達て彼本人から打ち明けられたときからもうずっと解っていた。

それなのに。


「皇国に、帰られるの?」

「せや」

「……少なくとも一か月は先だとうかがっておりましたのに?」

「まあそないに悠長なことなんざ言ってられんくなってまってなぁ」

「だ、からって……っ!」


明後日だなんて急すぎる話ではないか。

調整するとは聞いてはいたけれど、それは先延ばしにする意味合いでの調整で、ここまで早急な方向で調整されるだなんて思ってもみなかった。


王太子妃になる覚悟はとっくにできていたのに、なぜだろう。

テオフィロスとの別れへの覚悟は、結局ちっともできていなかった自分に今更気付かされる。

覚悟なんてしたくなかった自分が、今まさにここにいて、ヴァイオラの中のやわい幼子のような部分が、いやいやと頑是なく首を振っている。


――ああ、でも。

――でも、だめなの。


ヴァイオラは彼を止めるすべを持たない。

たとえ友人だとしても。どんな権力を使ったとしても。

ヴァイオラは、テオフィロスの翼の風切り羽を断つ権利は、何一つ持ち合わせていないのだ。


だから口から飛び出そうとした言葉をごくりと飲み込んで、いつも通りに、エヴァランス侯爵家の誉れ高き令嬢として、笑ってみせる。

だってテオフィロスはヴァイオラの笑顔が好きだと言ってくれたのだから、別れの最後の瞬間まで、笑顔を見せ付けてやりたい。


――絶対に、忘れさせてなんて、やるものですか。


どうかわすれないで、だなんて言えるはずがない。

だからヴァイオラはとびきりの笑顔で、艶やかに色づく唇をわななかせる。


「お見送りはしないつもりでしたけれど、せっかくですもの。明後日までにとびきりのお土産を用意させますから、ちゃんとあたくし、最後のお別れを……」

「ああ、そないなもんいらへんいらへん。お構いなくってやつや」

「で、でも」

「見送りも土産もいらへんよ。ボクはそおっと発つつもりやから、王太子殿下の婚約者サマがお見送りになんていらしたら、えらい目立ってまってかなわへんもん」

「あ、たくしは、王太子殿下の婚約者である以前に、あなたの……っ」


取り付く島もなくからからと笑いひらひらと手を振ってヴァイオラが伸ばそうとする手を振り払う彼に、ひぐっと喉が引きつるのを感じた。


どうして、どうして、どうして。どうしてそんなことをおっしゃるの。

そうなじりたくなるのに、言葉が出てこない。

ここでなじってしまったら、今度こそ伸ばした手を跳ねのけられてしまいそうで、それが怖くて仕方なくて。

ああそうだとも、自分は王太子の婚約者だ。

でもそれ以前に自分は、ヴァイオラ・エヴァランスは。


「あたくしは、テオ様の、お友達でしょう……っ!?」


友人と最後の別れを惜しむことくらい、どうか許してほしかった。

他ならぬテオフィロスだからこそ、最後は笑ってお別れしたかった。

そして互いにその笑顔を忘れずに生きていくのだとしたら、それだけでこれからどれだけ王太子妃として辛い毎日が待っていようとも耐えられる気がした。


それなのに。


「なぁ、ビビちゃん」

「なに、かしら」


のんびりと続けられる言葉には、不思議と温度はなかった。

だからだろうか。その先を聞いてはいけないと思った。

けれど聞かずにはいられなくて、恐る恐るテオフィロスの、瓶底眼鏡の向こうにある黒い瞳を見つめ返す。

彼は笑っていて、そして。


「確かにボクから言い出したことやったけどなぁ。結局ボクはビビちゃんのこと、いっぺんだって友達やと思うたことはあらへんかったよ」

「――――――――――!」


ガツンと頭を殴られたような気がした。

信じていたものが根底から覆されて、意地と矜持をなみなみと湛えていた盆がひっくり返されたような感覚に襲われる。

たまらなかった。限界だった。


王太子妃教育の中でやらかしたら確実に厳しく教鞭で打ち据えられるに違いない乱暴な動作で立ち上がれば、その勢いに負けて椅子が倒れた。

しじまに満ちていた旧図書館にけたたましい音が響き渡る。

大切に手で包み込んでいた菫の砂糖漬けの小箱がひっくり返って、まるでガラスが砕け散るように紫のかけらが散乱した。


けれど誰もいないこの場所ではそれをとがめられることもなく、ヴァイオラはそのままきびすを返して駆け出した。

清楚に足を隠す長いスカートを翻し、テオフィロスとの交流の中で知り尽くした中庭の抜け道を駆け抜けて、そして誰もいない東屋へと辿り着く。

倒れ込むようにベンチの前に滑り込んで、そのベンチの座席にすがりつき、両の拳を握り締める。


ここで彼と、テオフィロスと再会した。

カフスを渡し、友人になろうと言ってもらった。言い出したのは向こうだというのに、ここにきて友人だと思っていなかったとはどういうことだ。


ふざけるな。ここまでコケにされたのは初めてだ。

これまで十三度に渡る婚約破棄を経てもなお、こんなにも腹を立てたことなどなかった。


それでもなおここに来てしまった自分が滑稽で、みじめで、見苦しい。

この胸をひたひたと満たす怒りに全身が打ち震え、たまらなくなってそのままその拳を打ち付けた。


「この屈辱、いずれ必ず晴らしてさしあげましてよ……!」


絶対に忘れない。忘れるものか。

飢えた猟犬がうなりを上げるように、あるいは敗戦の騎士が血反吐を吐くように。

ヴァイオラは確かにそう呟いて、そうしてようやく、ひとしきりたった独りで静かに泣き続けた。

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