4
かくして青天の霹靂は、今日も今日とて唐突にやってくる。
父であるエヴァランス侯爵の学園への来訪、それに伴う面会のための呼び出しとのことで、ヴァイオラは来賓室へと訪れていた。
貴族の子女として完璧なカーテシーとともに一礼を捧げ、そして「楽になさい」という許しを得て促されるままに顔を上げる。そして、そこに並んでいた顔ぶれに、ヴァイオラは素直に驚くこととなった。
「久しいな、ヴァイオラ」
「……ええ、お久しゅうございます、王太子殿下」
気安く声をかけられても、戸惑いこそすれ、喜びなど感じなかった。
正直に言ってしまえば「今更何のご用でいらっしゃるのかしら?」という嫌味にしか聞こえないであろう疑問すらわいて、気を抜けばそのままその疑問は問いかけの形となって口から飛び出しそうになった。それをすんでのところで飲み込んで、粛々楚々と改めて礼を取る。
そう、ヴァイオラを来賓室で待っていたのは、父ばかりではない。
彼は部屋の片隅で無表情でありながらも親しい者が見ればそうと確実に解るような大変憮然とした面持ちでたたずんでいた。
そんな彼を従えるようにして、こちらに正面を向いてにこやかに笑みを浮かべているのが、この国の王太子殿下である。
ヴァイオラの最初の婚約者であり、十五歳の誕生日に「お前のようなかわいげの以下省略」と婚約破棄を突き付けてくれた相手だ。
あれ以来学園でも社交界でもヴァイオラのことを避けに避け続けくださった彼とは、とんと顔を合わせることはなかったことを確と記憶している。
てっきりこのままお互いに干渉することなく、もし再び道が交わることがあるならば互いに誰かと婚姻を結んでからになるだろう、くらいの認識であった。
それくらいに嫌われている自覚はあったし、何より、王家もエヴァランス侯爵家も、そのくらいには王太子の身勝手なふるまいについては腹を据えかねている節があったはずだ。
それがなぜここで今更になって、と礼を取ったまま思考に耽るヴァイオラの手が、不意に持ち上げられる。
不躾に触れられてぞわりと肌が粟立ったが、何分相手は王太子、下手に振り払うこともできずに、引きつりそうになった顔を懸命に取り繕う。
それをヴァイオラの恥じらいと受け取ったのか、王太子はそのそれなりに凛々しく整ったかんばせに、よく言えば甘く、悪く言えば締まりのない笑みを浮かべてみせた。
「待たせたな、ヴァイオラ。私ときみの、再婚約がようやく決まったよ」
「…………え?」
そして投げ落とされた晴天の霹靂に、ヴァイオラは取り繕うことも忘れて目を見開いた。
王太子が手に取ったヴァイオラの手を、指先で妙にじっとりと撫でていく。
虫が這うような感覚にまた肌が粟立ったが、今度こそそれを表に出すような真似はせず、ヴァイオラは目の前の王太子と、その背後に控えている父の顔を見比べた。
父は何も言わない。王太子の手前、勝手な発言は許されていないからだろう。
ならば王太子から直接聞くより他はなく、「それはどういうことでございましょうか?」と形式ばった問いかけを口にすると、彼は一瞬怯んだようだったが、すぐに笑みを取り繕って「相変わらず……いいや、かつてよりも一層、きみは美しくなったな」なんてふざけたことを口にした。
それは世間の女性がうっとりするように甘く、ヴァイオラから見ればやはり締まりがなく威厳に欠ける笑みである。
そうですわね、この容姿に『だまされて』、一度はあなた様はあたくしに婚約を申し込んでくださいましたものね、誠に遺憾ではございますが、この容姿はさぞかしあなた様好みなのでしょう、美しいとは罪ですわ……などと内心で嫌味を挙げ連ねているヴァイオラには気付かず、彼は手に取ったヴァイオラの手を両手で包み込んできた。
生暖かいぬくもりが素直に気色悪いが、それを表に出すような愚は犯さない。
「ヴァイオラ、きみが私との婚約破棄を経てもなお、王太子妃教育を受け続けていてくれたと聞いている。勉学やマナーにとどまらず、既に政務にも携わっているとも。不義理を働いた私に、それでもなお長らく尽くし続けてくれた、そのきみの気持ちに、私は応えたい。だからこそ今度こそ私と真の婚約を結び、これからも私に尽くしてほしいんだ」
ヴァイオラが断るなどとはかけらも思っていない口振りであり、自信にあふれた表情であった。
既に婚約が解消された間柄で、侯爵令嬢の名を軽々しく呼び捨てにするような真似など、いくら王太子という身分と立場があろうとも許されるはずがない。
相変わらず“王太子”としての自覚も責任も理解していない御仁である。
そもそもヴァイオラは王太子妃教育を受け続けていたのは、王家からの命令であったからに過ぎない。
既に婚約が解消された身でどうして、と思わなかったわけではないけれど、王太子妃教育とは結局、この国における女性に対する最高の教育だ。
様々な面で厳しく辛い指導を、それこそ血を吐くような努力でこなさなくてはならないけれど、その結果、政務に携わることすら許されるようになったのは僥倖だった。
王太子妃教育を受けていれば、どんな相手に嫁ぐことになろうとも、不利益にならないという確固たる事実があるからこそ受け入れてきただけにすぎなかったのだが、王太子のこの態度、この反応。
もしかして、もしかしなくても。
そっと伏せていた瞳を王太子の背後に控える父へと向けて、「そういうことでございますか?」と視線だけで問いかけると、父は憮然とした面持ちを沈痛な面持ちに変えて「そういうことだ」と言葉なく頷きを返してきた。
つまるところ、そういうことらしい。
ようは、この三年間で、王家がヴァイオラ以上に王太子妃、果ては王妃としての責が務まる令嬢を王家が見つけられなかったこと、そして王太子がここにきてヴァイオラの美貌と才覚について手放すのが惜しいと考えを改めてしまったことが原因なのだろう。
これでヴァイオラが王太子との婚約破棄からその後も十二回にもわたって婚約破棄を経験していなかったならば話は別だったかもしれない。
この時点で誰かと婚約を結んでいれば、流石に王家もヴァイオラを略奪するような形で王太子と再婚約などさせなかったであろう。
けれど、そうはならなかった。
十二度にわたる婚約破棄を経たヴァイオラにとって、王太子との再婚約は、エヴァランス侯爵家にとっては願ってもないような良縁であり、今後の国益を考えればヴァイオラ以上に王太子妃として見事に立ち振る舞える令嬢はいないだろう。
――ああ、あたくしが美しすぎる上に有能すぎるばかりに……。
まさかここにきて自分の才覚を悔やむ日が来ようとは思わなかった。
美しいとは罪、だなんて使い古された文句まで浮かんで、意外と自分が冷静に冗談まで考えられることに驚いた。
ヴァイオラの花のかんばせを、学園の清楚な制服越しでもそうと解る華奢でありながらも見事な肢体のラインを、舐めるようにじっとりと見つめてくる王太子の視線が心の底から気色悪い。
この王太子は結局、三年をかけてもなお、何も変わっていないのだ。
この顔と身体だけしか見ず、それらを手中に収めて楽しみたいだけ。
あとはついでに仕事をなんでも押し付けられる、都合のいい女だとしか思っていないのだろう。
この調子では、きっと、再びヴァイオラに対して不満が噴出した場合、またしても婚約破棄を突き付けてくるに違いない。
――――だが、それでももう、ヴァイオラに選択肢はない。
「殿下との再びの婚約、謹んでお受けいたします」
そうとは気付かれない程度にすげなく王太子の手を振り払い、ヴァイオラは彼に深くカーテシーを捧げた。
脳裏に浮かんだ瓶底眼鏡と、耳元でよみがえる「ビビちゃん」というのんびりとした呼び声には、気付かないふりをした。
そうしてヴァイオラと王太子の再婚約の報は広く国中に広められ、当然学園中にも知れ渡ることになったのである。
影に日向にヴァイオラのことを『棘まみれの毒花』だの『当て馬』だの恐れ嘲り馬鹿にしていた同世代の学園の生徒達は、ここぞばかりにヴァイオラに擦り寄ってくるようになった。
これが王太子との再婚約前ならば、ヴァイオラとて多少は嬉しかったし、将来を見据えていわゆる『学友』となるべき相手を自身でも選定しただろう。
だが今擦り寄ってくる者達は皆、将来の王太子妃、果ては王妃となることが決定したヴァイオラから甘い蜜だけを吸い取りたい虫のような者だ。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
貴族社会において、その中でも女性は特に社交界にて活躍すべきであり、学園はその前段階とされている。
となるとその点に関して自分は間違いなく落第点であると断言できるが、それでもヴァイオラは授業が終わるたびに足早に教室を去らざるを得なかった。
『王太子の婚約者である侯爵令嬢』という立場でしか自分のことを見ていない彼らのその目は確かに正しいが、だからといってその相手をいちいち務めねばならないほどヴァイオラは暇ではないのだ。
そして不本意にも“逃げ込んだ”先の旧図書館、誰一人寄り付かない薄暗いテーブルに腰を落ち着けて、ヴァイオラは今日もしみじみと溜息を吐く。
「本当にどなたもこなたも手のひら返しがお上手ですこと」
「まあ将来が約束されはった権力者に擦り寄るんは社交の常套手段やからなぁ。今のビビちゃんなんてとびっきりのエビやで」
「……エビ?」
「エビで鯛を釣るって言うやん。ビビちゃんを介して王太子殿下にお近づきになって、そのままお手付きになりたいお嬢さんがたなんてごまんとおるやろ?」
「…………」
ヴァイオラを待っていたかのように悠々と旧図書館でくつろいでいたテオフィロスは、したり顔で頷いている。
ここで王太子の婚約者として、「殿下はそんな真似はなさりませんわ!」とでも啖呵を切れればよかったのだろうが、生憎そこまで王太子に信用はない。皆無である。
あの御仁は、ヴァイオラと十五歳のときに婚約破棄してからこの三年間、あちらそちらこちらどちらの貴族令嬢から平民出身の娘まで、それはもう好き勝手に手を出していた。
その火消しに王家がやっきにならざるを得なかったという事実を、ヴァイオラはとっくの昔に知っている。
なんならエヴァランス侯爵家もそれに協力せざるを得なかった件すらあった。
英雄色を好むという格言もあるが、王太子のアレはただただ下半身に素直で正直なだけである。
うっかり顔が悪くないのがまずかったのだろう。
そのせいであの凛々しくそれなりに整ったかんばせが浮かべる甘い笑顔にトチ狂った女性達が、どれだけ涙を流したことか。
そんな彼女達の中には王太子への想いを諦めきることができずに、今回彼と再婚約を結んだヴァイオラに恨みつらみ憎しみを募らせ、「あの毒花は身体で殿下を篭絡なさったのよ」だとか「殿下はあの女にだまされていらっしゃるんだわ、なんておいたわしい……!」だとか、ないことないことを吹聴され、これまでの評判も相まってヴァイオラの悪評はうなぎ上りである。
当たり前だがまったく嬉しくない。
「せめて今まで通りに殿下があたくしのことを放置してくださるとよろしいのだけれど、ね」
「あー、あれやろ、どこ行ってもついてくるんやろ、あの腰巾着はんは」
「不敬ですわ」
「ほんなら金魚のフンのがええかな?」
「もっとまずくてよ」
「せやけどビビちゃん、否定はしいひんのやなぁ」
「……あたくし、あなたのそのようなところ、とても好ましく思っておりますけれど、ときどきとっても腹が立ちますわ」
「おおきに」
「褒めてなんていな……いえ、褒めているのかもしれませんわね」
ふふ、と思わず笑う。
随分と久々に素直に笑った気がした。
けれどその笑みはすぐにかき消え、はああああああああ、と、それはそれは大きく深い溜息を、遠慮なくヴァイオラは吐き出した。
脳裏によみがえるのは、学園、社交界を問わずに、どこへ行こうにもついてくる王太子の、お世辞にも好ましいとは思えない、はたから見れば『素敵な王子様』と浮かれてふざけた標語がでかでかと書かれた笑顔である。
ヴァイオラとの再婚約後、かつての婚約破棄をなかったことにするかのように、彼はヴァイオラに付きまとってくる。
付きまとってくるだけならばまだしも、ヴァイオラのやることなすことに口を出してくるのだ。
しかもそれが有効な助言ではなくてんで的外れなものばかりなものだから、ヴァイオラはそのたび丁重にお断りせざるを得ない。
そのたびに彼は不機嫌をあらわにして周りに当たり散らして権力をかさにして自らの主張を押し通し、ヴァイオラに「きみも間違えることはあるのだから、気にすることはないよ」と笑いかけてくるのである。
その際にしっかりヴァイオラの腰に手を回し、じっくりとその身体の線を指先でなぞっていくのも忘れないあたり、彼は本来王太子などではなく下町言葉で言う、『ジゴロ』とか『ヒモ』のほうが向いているのではないかと思う。
口にはしないけれども。
ここまで自分で思い返してみたが、それにしたってなかなかどうしてなかなかである。
アレと本当に婚姻を結ぶのか、と思うと若干どころでなく気が滅入る。
ああ、また溜息がこみ上げてきた。
仕方のないことだとは、解っているとはいえ。
「……ビビちゃん、ここにはボクしかおらんで、ゆぅるり気ぃ抜いてええんやで。ほら、ボク、今日もお菓子持ってきてんよ」
そして気遣わしげに差し出されたのは、いつかと同じ菫の花の砂糖漬けだ。
砂糖のきらめく粒子に飾られた美しい紫の宝石がぎっしりと詰まった小箱を、そのまま手の上に載せられ、押し付けられる。
「箱ごと持ってき。疲れたときには甘いもんがええからなぁ」
「……ありがたく、頂戴いたしますわ」
菫の砂糖漬けくらい、自分でだって用意させることはできる。
けれど不思議と、テオフィロスからもらうこれは別格だった。
菫そのものの香り高さや砂糖の精製度のすばらしさはそうそう手に入るものではないに違いないと断言できる出来栄えであることもそうだけれど、それ以上に、純粋にこちらのことを労り、慮ってこの菫の砂糖漬けを用意し、差し出してくれる彼の厚意が嬉しいのだ。