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ちょうど一年前のことだ。
折しも、十人目の婚約者から、婚約を破棄されたばかりのころだった。
今度こそ、と思っていた相手だった。
エヴァランス侯爵家と家格は等しいが内政には疎く、いまいち最後の一押しに欠ける某侯爵家の子息。
彼は妾腹の生まれであり、権力を求めていた。王家の命令により、瑕疵の身であるヴァイオラとの婚約を受け入れたのも、その野心ゆえだ。
引き合わされ、二人きりになったときに宣言されていた。「きみを愛することはない」と。
けれどこうも言われていた。「その代わり、きみに誠実を尽くす」とも。
その言葉に、「このお方ならば」とヴァイオラもまた婚約を受け入れようと決めた。
元より貴族に生まれた身で、恋だの愛だのを貫き通せるはずがない。
貴族の婚姻は政略だ。
自分は彼に恋をすることはないだろうけれど、「誠実を尽くす」と言ってくれた彼とならば、家族にはなれるに違いないと思った。
それなのに。
――――すまない。
結局、また、青天の霹靂だった。
いくら妾腹とはいえ彼もまた侯爵家の生まれ。
たやすく頭を下げることなど許されてはならないのに、それでも彼は、ヴァイオラに深く頭を下げた。
――――真実の愛を見つけてしまった。
彼女以外と生きる人生など考えられない、とか。
金も権力も侯爵家もいらない、ただ彼女がいればいい、とか。
そういうことを彼は言って、ヴァイオラに婚約破棄を突き付けた。
思えば彼は、歴代の婚約者の中でもだいぶまともな部類だった。
婚約破棄をする場は、きちんと王家に通達して両家の当主がそろった場を選び、まっとうかつ正当な手段を持って、きちんとヴァイオラとの婚約破棄に臨んだ。
当初の宣言通り、最初から最後まで、誠実な人だった。
だからこそ、ヴァイオラだって「このお方ならば」と思ったのだ。
安堵すら孕んだ決心は決意となり、きっと、淡くほのかな、やわらかい思慕に育ちつつあった。その矢先のことだった。
『またあの棘まみれの毒花が婚約破棄されたらしい』だの『もういっそ体のいい当て馬だな』だのと好き勝手にうわさする学園の生徒達の声が、いつもならば気にならないはずなのに、そのときばかりはどうにも耳障りだった。
逃げるように、というのは実に不本意ではあるけれど、真実を捻じ曲げるのは好まないので正直に言おう。
あのときヴァイオラは、何もかもから逃げて、学園でもうほとんど人が寄り付かなくなった旧図書館へと飛び込んだのだ。
そうして、ほこりっぽくかび臭く薄暗い旧図書館の片隅の、わずかな光が差すばかりの窓際に座り込んでしまったら、もう駄目だった。
まなじりが熱くなり、その熱は頬をつたい、ぽたりと床に落ちた。
それが涙だと気付いた時にはもう遅く、情けなくもヴァイオラは泣き崩れた。
自分でも理由なんてとっくに解らなくなっていた涙があふれて止まらなくて、情けなくて、悔しくて、むなしくて、何よりもさびしくて泣いた。
こんなときにそばにいてくれる人が誰もいない自分がみじめで、かわいそうで、そう思ってしまう自分がなおさら腹立たしくて涙は次から次へと止まらなかった。
そのときだ。
ふ、と。自分の上に影が落ちて、そして。
――――なぁに泣いとるん?
のんびりと間延びした声が、頭上から降ってきた。
息を呑んで涙もそのままに顔を上げると、こちらを見下ろす瓶底眼鏡と目が合った。
いや眼鏡と目が合う、というのは語弊がある。
正確には、分厚いレンズの向こうの黒い瞳に見下ろされ、その瞳をちょうどたまたまヴァイオラが見上げる形になった、ただそれだけだ。
――――べ、つに、なんでもありませんわ!
――――みせ、見世物では、ございませんのっ!
――――放っておいてくださいませ!
しゃくり上げながらもそう吐き捨てる自分を、どこか遠くで見つめている自分がいた。
こんな風に泣いているときですら『かわいげがない』から駄目なのだろう。
何が駄目、だなんて知ったことではない。知りたくない。知ってしまったら、今度こそ自分の根幹がぽっきりと折れてしまう気がした。
もうなんでもいいしどうでもいいから、とにかく放っておいてほしかった。どこかへさっさと行ってほしかった。
それなのに。
――――はい、これ、使ってええよ。
差し出されたのは、綺麗に折り畳まれたハンカチ。
きちんと香が焚き染められているのか、ヴァイオラの知らない異国の香りが鼻孔をくすぐった。
同情も、憐憫も、命を懸けられたとてお断りだと言い聞かせてきた人生だ。
こんなハンカチなんてその際たるもので、差し出されたそれを跳ねのけることなんてたやすいはずだった。
それなのに気付けばハンカチは自分の手にあって、それを押し付けてきた当の本人は「そんじゃなぁ」とのんびり後ろ手に手を振って去って行ってしまって。
残されたのは、何故だか涙がぴたりと引っ込んだヴァイオラと、手の中のハンカチだけだった。
飾り気のないハンカチだった。
レースがあしらわれているわけでもなければ、刺繍が入っているわけでもない、けれどとても上質な生地であると解るそれ。
そのままではいられない自覚なんて誰に言われずとも大いにあったものだから、「仕方ありませんわね」なんてうそぶきながらそれで顔をぬぐったら、焚き染められた香りに不思議と胸が満たされた。
初めてだった。
この学園で……いいや、この学園ばかりではなく、あらゆる場面において、家族以外の誰かに、こんな風に気兼ねなく厚意を傾けられたのは。
まるで学園の子女の間で流行っている絵物語のような出会いだった。
時代の情勢を知るには若者の流行を覗くのは常套手段だ。
興味をそそられなくとも一つの勉強として何冊かそのたぐいの書物に手を出したヴァイオラの結論は、「つまらなくもないしおもしろくないこともない、おめでたい話ですこと」だった。
そんな絵物語を踏襲したような出会いを経験したヴァイオラは思ったものだ。
――最悪の弱みを握られるなんて!!
――ヴァイオラ・エヴァランス、一生の不覚でしてよ!!
と。
そう思ってしまったら、もう泣いてなどいられなかった。
この上ない屈辱に奮い立ったヴァイオラの、そこからの行動は早かった。
びっくりするほど早かった。
学園における交友関係などほぼほぼ皆無のヴァイオラだが、それでもすぐにハンカチの主は見つけられた。
ぼさぼさの黒髪に瓶底眼鏡、それから極めつけの隣国の地方特有のなまり。
これだけの情報があれば、あっという間にハンカチの主たるテオフィロス・ミーディオカに辿り着くことができたのだ。
生まれも育ちも当然この国のヴァイオラから見ても、自国は閉鎖的であるという認識がある。
そこへやってきた珍しい留学生は、周囲からとんだ田舎者として周囲から軽んじられ嘲られているのだという。
当然学友がいるはずもなく、彼がいつも一人で行動し、中庭の片隅の隠れた東屋で多くの時間を過ごしているのだということまで、学園を守護する衛兵から聞き出したヴァイオラは、その東屋へと向かった。
――――テオフィロス・ミーディオカ男爵令息。
――――少しよろしくて?
自分でも意味も理由もまったく解らないのに、やけに緊張していた。
国王陛下に謁見するときですら、常に余裕と冷静さを身にまとっているのに、何故だかそのときは手の中にじわりと汗がにじんだ。
ヴァイオラが声をかけると、東屋のベンチに寝そべっていた彼――テオフィロスは、のそのそと起き上がり、「あれぇ?」と首を傾げたものだ。
――――これはこれは、ヴァイオラ・エヴァランス侯爵令嬢サマやないの。
――――ボクみたいなしがない留学生風情に、どないな用件?
ヴァイオラから仕掛けておいて何だが、それはそれとして、テオフィロスもこれまたいきなり随分な当てこすりをしてくるものだと、驚くを通り越していっそ呆れた。
正直なところ、その時点でもうきびすを返したくなったものだが、そうするには自分の矜持と仁義が許さず、ヴァイオラはツカツカと彼の元に歩み寄り、その手に持っていた包みを差し出した。
――――あたくしをご存知ならば結構。
――――これを受け取っていただけるかしら。
嫌な言い方だと、他人にはよく言われる口調になってしまった。
何人目かの元婚約者には、「あなたのその上から目線の口調が辛いんだ」と面と向かって言われたこともある。
丁寧な口調なのにどうしてそうなのかと、あの方は随分苛立たしげにしてらしたわね、と思い出しても、一度口にしてしまった言葉はもう元には戻らない。
よって、包みを差し出したままでいるしかないヴァイオラをまじまじと見つめて、やがてテオフィロスは包みを受け取ってくれた。
無意識に安堵の息を吐き、そのまま「では、あたくしはこれで」と去ろうとしたヴァイオラを、「もう行きなはるん? せっかくやから、少し話していきまへんか?」と呼び留めてきたテオフィロスの真意は、今でも解らない。
そして同時に、その言葉を受け入れて、恐る恐る彼のとなりに腰を下ろした、自分自身の行動についても。
ヴァイオラが腰を落ち着けたのを見届けてから、テオフィロスは「開けてええですか?」とわざわざ包みを示してきた。
「あなたに差し上げたのだから、お好きになさればよろしくてよ」と、また“かわいげのない”ことを言うヴァイオラに嫌な顔一つせずに彼は笑って、「ほんなら遠慮なく」と包みを開いた。
―――――ハンカチと……カフス?
素直な驚きが表れたその声に、ヴァイオラは頷いた。
渡した包みの中身は、先達て渡されたハンカチと、ヴァイオラが用意した青い貴石が光る職人物の見事なカフスだった。
瓶底眼鏡の向こうでぱちぱちと瞳を瞬かせるテオフィロスに、手汗を握り締め、それでもなおツンとすまし顔を取り繕いながら、ヴァイオラは続けた。
――――お礼ですわ。
何に対するお礼なのかは、言えなかった。口にするには、意地と矜持が邪魔をした。
それでもなお、テオフィロスには正確に伝わったらしい。
彼は肩を竦めて、ハンカチを懐に入れ、そして。
――――ん。
――――こっちはいらへんですわ。
――――わざわざおおきに。
突き返されたカフスを前に、今度こそヴァイオラは言葉を失う羽目になった。
自慢ではないが、ヴァイオラが用意したのは、見る者が見れば喉から手が出るほど欲しがるに違いない逸品である。
たとえそうと解らずとも、侯爵令嬢たる自分が用意したものを突き返すような真似など、いくら留学生とはいえ男爵令息には許されないはずだ。
思わずその顔とカフスを何度も見比べていると、テオフィロスは今度こそ苦笑を浮かべた。
――――お礼が欲しゅうてしたことやないです。
――――泣いとる女の子がおったら、そりゃあ男ならああさせてもらうでしょう?
――――そもそもハンカチだって差し上げたつもりやったしなぁ。
だからいらない、と何の気負いもなく言う彼の姿に受けた衝撃と言ったら、筆舌に尽くしがたいものだった。
ヴァイオラのこれまでの元婚約者達は、多くがヴァイオラ個人の資産や、エヴァランス侯爵家の資産を事あるごとに引き出そうとし、食い物にしようとしてきたのに。
ヴァイオラが用意したカフスは、本来隣国の男爵子息風情には到底手が届かないもので、てっきり喜んで受け取るに違いないと思っていたのに。
――――だ、だったら!
――――こ、これ、これはそう、口止め料ですわ!!
自分でも驚くほど必死になって、突き返されたカフスを、今度はこちらからもう一度突き返した。
――――このヴァイオラ・エヴァランス!
――――一度差し上げたものを返されて受け取るような器の小さい女ではございませんの!
――――これはもうあなたに差し上げたものですわ、いらないなら捨ててくださいませ!!
……我ながら、本当に、“かわいげのない”ことを言ったものだと思う。
相手が相手ならば、逆上されてもおかしくなかったのではないかと後から考えるくらいには、嫌な言い方だった。
それなのにテオフィロスは、怒るでも呆れるでもなく、あろうことか。
――――っぷっ!
――――あはっ! はははははははははっ!!
とまあ、これ以上ないくらいに笑ってくれたのである。
腹を抱えて、瓶底眼鏡越しにすらそうと解るほどまなじりに涙を浮かべて、もうとんでもない勢いで笑ってくれたのだ。
最終的に引き笑いにまでなって、呼吸すらおぼつかなくなり、「た、たすけて……」とひぃひぃと息も絶え絶えになって助けを求められたので、ヴァイオラは慌てて彼の背を撫でさすることになった。
そしてその笑いがようやく収まったころになって、彼は、大人しくカフスを受け取ってくれた。
――――せやなぁ、そないなことなら、ありがたくもろときます。
――――結構なお品を、ほんまにおおきに。
――――そんで、こっちが口止め料なら、もひとつ別にお礼をもろてもよかですか?
受け取ったばかりのカフスを片手ににんまりと笑った彼は、思えば随分図々しかった。
どんな無理難題を押し付けられるのかと思ったら、ぎくりとせずにはいられなかった。
同時に、深く落胆もした。結局彼も、今までの婚約者達と同じなのかと。
貴金属のたぐいではなく、直接金銭を無心されるのか。それとも、権力の要求か。
なんであるにしろ、ここまで来たらヴァイオラは後には引けない。
つまらない男に引っかかってしまった自分の失態を悔やみ、人生に教訓が増えるだけだと思えばいい。
そう覚悟を決めて視線で先を促すと、テオフィロスは右手を差し出してきた。
――――ボクと、友達になってくれまへんか?
そう笑みを含んで告げられた瞬間の衝撃は、カフスを断られたとき以上のものだった。
きっと稲妻に撃たれたならば、同様の衝撃を味わうことができるのだろうとすら思ってしまった。
唖然呆然と固まるヴァイオラに、彼はにこにこと笑いながら、「ボク、自慢じゃあらへんのですけど、友達おらへんくて」と本当に自慢にならない台詞を続けて、「だめやろか?」なんて小首を傾げてくれた。
その幼げな仕草が駄目押しだったなんて口が裂けても言えないけれど、気付いたらヴァイオラは、右手を握り返していた。
「奇遇ですわね。あたくしも自慢ではないけれど、お友達がおりませんの」なんて冗談めかした台詞まで付け加えて。
――――改めて名乗らせていただきますわ。
――――あたくしはヴァイオラ・エヴァランスと申します。
互いに右手を握り合ったまま、ようやく取り戻した余裕とともにヴァイオラが微笑むと、テオフィロスはくつくつと喉を鳴らし、「うん」と何やら納得したように頷いた。
――――花言葉は、『誠実』。
――――ヴァイオラ様は、『棘まみれの毒花』よか、その名の通りの『菫』のがずぅっとお似合いやなぁ。
その言葉に驚かされた。
そう、“ヴァイオラ”とは、古い言葉における、“菫”の意。
現代においては忘れ去られつつある旧時代の言葉の意味を他人に紐解かれたのはこれが初めてであったし、そうでなくても、棘まみれの毒花とは程遠い、可憐で愛らしい花の名前が似合っているだなんて、家族ですら口にしない。
『誠実』という言葉のせいで婚約を破棄されたばかりだったけれど、その瞬間、何故だろう。
何もかもが報われた気がした。
ぶわりと顔が熱くなって、鏡を見ずともきっとそうに違いないと思えるほどに赤くなるのが解って、そうして照れ隠しに、ヴァイオラは「あなただって」と続けた。
――――あなたこそ『神に愛された者』だなんて、随分とお幸せなお名前ですこと。
嫌味でも当てこすりでもなく、純粋な賞賛だった。
“テオフィロス”もまた、古い言葉において意味ある言葉であり、その意は“神に愛された者”。
言語学も当然含まれている厳しい王太子妃教育は、今もなおなぜか続けられている。
だからこそ、目の前の彼を見つけるために調べた名前を初めて目にしたとき、なんてうつくしい名前なのかと人知れず感動したものだ。
素敵ですわね、と笑みを深めると、テオフィロスもまた驚きから一変して嬉しそうに笑ってくれた。
――――そないならよろしくなぁ、ビビちゃん。
友人になったならば敬語はいらないだろう。愛称で呼ぶのも当然だろう。そんなそぶりでいきなり距離を詰めてきた彼のその態度が、不思議と嫌ではなくて、むしろ嬉しくて。
――――ええ、よろしくお願いいたしますわ、テオ様。
だからヴァイオラもまた、彼を愛称で呼び、自由に振る舞うことにした。
その日からだ。
ヴァイオラとテオフィルスの、奇妙で不思議な友人関係が始まったのは。
お互いの立場上、表立って並び立つことはない。
けれどその分を埋めるように、頻繁にこの東屋や旧図書館で落ち合い、話し合い、笑い合い、基本的にはヴァイオラが一方的に愚痴を吐き出した。
どれだけヴァイオラが婚約破棄についてや、未だに続けられている王太子妃教育についての愚痴を募らせても、テオフィロスは嫌な顔一つしない。
その代わりにけらけらと面白がって、最終的に「まあ気張んなはれ」とお菓子を勧めてくる。
その距離感がありがたかった。
テオフィロスの前では、自分がとても息がしやすいことに気付いてしまった。
テオフィロスは初めての友人だ。ただ一人の友人だ。
だからこそ彼が周囲から軽んじられているのが腹立たしくて、せめてその口調のなまりを直せと言語学を一緒に学んでも、一向にそれに関しては前進しないのが歯がゆくて仕方なくて、同時に安堵している自分がヴァイオラは恥ずかしくて仕方がない。
――だって、テオ様の素敵なところに他の皆様が気付いたら。
――そうしたらテオ様のお友達は、あたくしだけではなくなってしまうもの。
だからこそ本気で彼の口調を矯正させる気にはなれないのだが、なんだかんだで勘が鋭くあれそれと気が利いて敏いテオフィロス本人にそのあたりのことを気付かれていないかどうかが最近の悩みだ。