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そも、思い返してみれば。
アマデウスが、皇国からの珍しい留学生たるテオフィロス・ミーディオカ男爵令息としてこの国の学園に潜伏していたのは、ひとえに、兄皇子からの差し向けられる暗殺の魔の手から逃れるためだった。
少なくとも名目としては、そういうことになっていた。
実際のところは、その気になればいつでも兄皇子サリエルを追い落とすことなど生後間もない赤子を泣かすことよりもたやすいことではあった。
だがしかし、アマデウスが『その気』になったときの遣り口が基本的にあまりにも陰湿で残酷を極めることを、アマデウスの駒の中でも特に“側近”とされる貴族達はよくよく思い知っていた。
たとえ兄皇子を蹴り落したとしても、立太子する際にそのアマデウスの遣り口が知られた場合、大変外聞が悪くなるであろうことは、考えるまでもなく明らかであった。
側近達は「どうか、どうか穏便に……! やりすぎてはいけません、あんなのでも一応あなた様の兄君様なのです! ここはひとつ平和的に、お慈悲をなにとぞ……!」と、アマデウスの立太子を望んでいるとは到底思えない口振りで手を変え品を変えすがってくるものだから、アマデウスは決めた。「そうだ、亡命しよう(要約)」と。
それはそれで側近たちは頭を抱え、「せめて潜伏という形でお願いします(要約)」とそろって土下座してきたので、アマデウスはイヤイヤ他国に『潜伏』することになった。
その潜伏先が、この国である。
一神教に重きを置き、排他的でほぼ鎖国状態を長く貫き通しているこの国は、実に平和で、呑気で、間が抜けた時代錯誤の国だった。
土地は豊かで、自国産業はそれなりに発展し、多くの王侯貴族が通う学園の学習内容の水準は悪くない。
ただし決定的に平和ボケしている。
諸外国を知らないまま育ち続けたこの国が今まで侵略されなかったのは、昨今の情勢がどの国も安定しているからにすぎない。
それこそアマデウスの兄皇子が立太子を通り越して皇帝として即位したならば、真っ先のこの国は食い潰されるに違いない。
そういう国だからこそ潜伏先として選ばれたこの国で過ごす日々は、想像していたよりもはるかに平和で、実に退屈だった。
自身の『留学』に先んじて潜入させた駒たちを適当に操りつつ本国の情勢を探り、ときに糸を引いて兄皇子を少しずつ追い詰めながら、「は~~~~おもんな」と溜息を吐く毎日。
他国籍、かつ、男爵令息という身分。加えて地方のなまり言葉。冴えない容姿に低姿勢の態度。
どれもこれも、この国においては一つだけであっても軽んじられるに足る十分な理由だ。
すべてを併せ持つことになっている自分はすっかり爪はじきにされ、毎日のんびりと過ごしていた。
――これはこれで悪かないけど。
――あかん、飽きてきたわ。
――やっぱり兄上をそろそろ潰しとこかなぁ。
などと、側近達が恐れるアマデウスの『やる気』の芽が徐々に育ちつつあった、ちょうどそのころ。
アマデウスは、出会った。出会ってしまったのだ。
サボり先の一つである学園の旧図書館の片隅で、ひとり涙にぬれている、一輪の菫の花に。
窓から差し込む金の髪がきらめいて、真珠のような涙をとめどなく流す紫の瞳はまぶしくて。
不覚にも見惚れた。らしくもなく、呼吸すら忘れた。
そして気付いたら、自分は彼女に声をかけていたのだ。
――――なぁに泣いとるん?
本来の自分であれば、「うわめんどくさ」と見なかったことにしていたに違いないのに。
それなのに気付けば彼女に近寄り、その瑞々しく輝く瞳を見下ろしていた。
そして、アマデウスは忘れていた呼吸を思い出し、そのまま人知れず大きく息を呑む羽目になった。
――――べ、つに、なんでもありませんわ!
――――みせ、見世物では、ございませんのっ!
――――放っておいてくださいませ!
正直に言おう。
殺されるかと思ったと。
アマデウスが声をかけた瞬間に、彼女の紫の瞳に激烈な稲妻のごとき光が宿り、その光はそのままアマデウスを真正面から貫いた。
兄皇子が送り込んできたどんな暗殺者よりも強く鋭く圧倒的な強さを誇る殺気を放って、泣きじゃくっていた乙女はこちらをにらみ上げてきた。
女であろうが男であろうが、本気の涙を流すときは、ある程度隙ができるものだ。
けれど、彼女は。
ヴァイオラ・エヴァランスは違った。
――殺されるかと思うただけやない。
――きっとボクは、あのとき確かに一度、殺されたんや。
そんな自分に気付かないまま、常ならば「さよですか」と捨て置くはずの彼女にハンカチまで差し出した。
ありえない。この自分が?
泣く女なんてめんどくさいだけだと知っているのに、それなのにわざわざ自分の存在を印象付けてから去るなんて、それこそどんな冗談なのか。
ああでも、今ならば解る。仕方がないことであったのだと。だ
ってあのとき自分は、確かに殺されたのだ。殺されてすぐにその場で生まれ変わったばかりで、生まれ変わった自分は彼女に忘れられるわけにはいかなかったのだから、仕方がない。
そうしてその場を去ってから、改めて、彼女がうわさに聞く『棘まみれの毒花』とは、これまたらしくもなく信じられず、ついつい首を傾げてしまったものだ。
――あんなん、随分かいらし菫やん。
そうしみじみと思った。
わざわざ調べ上げずとも、『棘まみれの毒花』こと、ヴァイオラ・エヴァランス侯爵令嬢については知っていた。
口さがない者達が口々にささやき合う内容から得た情報は、彼女が度重なる婚約破棄を突き付けられていること、それが当然とされる悪評を身にまとっていることだった。
――いや、アホちゃう?
――どう考えても、あのお嬢さんに非はないやろ。
何が『真実の愛』だ。アホか。でなかったらバカか。
王侯貴族の婚姻の意味も義務も理解せずに彼女を捨てて踏みにじる選択の愚かさに、いっそ感心してしまったものだ。
平和ボケするにもほどがある。
――お気の毒やなぁ。
他人事として、アマデウスはヴァイオラに珍しくも心から同情した。
なまじヴァイオラが、この国においては異端とすら評されるような先進的な、他国から見れば『真っ当な』知識と自覚を持ち合わせていたからこその悲劇だろう。
本当にお気の毒様である。
――ま、ボクには関係あらへんのやけど。
そう、関係ないと思っていた。
けれどハンカチをくれてやった彼女がわざわざ自分のことを探しているのだと駒から聞いたので、学園に潜伏する駒達に、彼女に助言することを許してしまった。
我ながら不思議な気まぐれだった。
駒達から得た助言を彼女がどう使って自分のもとまでたどり着くのか、純粋に興味があった。
そして、ヴァイオラ・エヴァランスは、アマデウスのもとまでやってきた。
その手にあの日のハンカチと、『口止め料』を握り締めて。
――――このヴァイオラ・エヴァランス!
――――一度差し上げたものを返されて受け取るような器の小さい女ではございませんの!
――――これはもうあなたに差し上げたものですわ、いらないなら捨ててくださいませ!!
ハンカチの返却はともかく、金品でこちらの口を黙らせようとしてくる態度は、本来ならば鼻で笑い飛ばしたくなるような滑稽な姿なのに、何故だろう。
あのときは、違った。
彼女は口止め料と自ら説明しながら、そういうつもりはなくて、本当に『お礼』のつもりであるのだと、気付かざるを得なかった。
――しかも本人、自覚あらへんのやもん。
――あれはずるいわぁ。
だからアマデウスは、『口止め料』を受け取った。
決して派手なものではないというのに、貴石の純度の高さ、確かな職人技が光る、見事なカフスを。
高飛車な態度と相反するあまりの一生懸命さがあまりにも滑稽で、それから無性にかわいく見えて、ついつい笑ってしまった。
あれほど笑ったのは本当に久しぶりだった。
何もかもが面白すぎた。
皇国でも数多の令嬢に擦り寄られたものだが、初めての珍品だった。
思い返すといまだに笑える。
だからだ。
――――ボクと、友達になってくれまへんか?
なんて、心にもない提案をした。
正確な本音を伝えるならば、「ボクのおもちゃになってくれまへんか?」だったのだけれど、流石にそれを口にしたらまずいことは解っていたので、言葉を選んだ結果の発言だった。
そんなこちらの実情などつゆ知らず、彼女はアマデウスの提案を受け入れてくれた。
かくして、アマデウス、もとい“テオフィロス”とヴァイオラの関係は確立されたのである。




