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彼女との出会いは、味わったことのない驚きだった。
青天の霹靂とは、きっと、ああいうことを言うのだろう。
そしてその“青天の霹靂”は一度きりに収まらず、その後も彼女は何度も何度も幾度となくそれを自分に見せ付けてくるものだから、結局のところ、その時点で自分の敗北は決定付けられていたに違いないのだ。
***
「ま・た・で・す・わ!」から皮切りに、散々十三度目の婚約破棄について、本人曰く『不毛な相談』、テオフィロスにとっては『めっぽうかいらし甘えた愚痴』を散々吐き出していったヴァイオラ・エヴァランスは、侍女を伴って去っていった。
それを見送って、テオフィロスはふふと笑う。
ようやく彼女に提案できた、ヴァイオラにとっては隣国、そしてテオフィロスにとっては本国である皇国への留学。
つい先日までであったら「なんですって? そのように逃げるような真似などあたくしがすると思って? 冗談も休み休みおっしゃいなさいな。それとも寝言をおっしゃっているの? 喧嘩をお売りになっているならヴァイオラ・エヴァランス、この名前の沽券と矜持のすべてを懸け、今ならば買うのもやぶさかではなくてよ!!」だのなんだのと怒涛の勢いで畳みかけてきた挙句に「……気が立っていたとはいえ、言い過ぎましたわ。八つ当たりしてしまって申し訳ございません」としょんぼりと肩を落としていたに違いない。
驚くほどその姿が容易に想像できるし、テオフィロスが「気にせんでええよぉ、それよかほら、ボクはビビちゃんに笑っててほしいわぁ」なんて言ってみたら、彼女はぎこちなく気恥ずかしげに、その苛烈な美貌に不思議と似合う楚々とした微笑みを返してくれるのだろう。
――うーん、ほんまにかいらしなぁ。
想像だけでこんなにもかわいらしいのに、実物はもっとずっと比べるべくもなく途方もなくかわいらしいのだから、ヴァイオラ・エヴァランスという女性はテオフィロスにとってはつくづく不思議な存在だと思う。
歴代でも随一とうたわれるこのすべてを見通すとされる瞳ですら、彼女を推し量り切ることは到底かなわないのだから、うん、それはやっぱり不思議で、そして素敵で、何よりきっととても素晴らしいことなのだ。
――こないな辺鄙な引きこもりの国に、あーんな掘り出しモンがくすぶっとるなんざ、もったいないことこの上ないやろ。
――ボクが見つけたんやから、ボクがちゃあんと持って帰らんと。
“ヴァイオラ”。その名前の通りだ。
菫の花はそのささやかで愛らしい姿のまま、楚々と咲き誇っていた。
それを見つけたのは自分なのだから、手折る権利はもちろん自分にあり、今更誰にも譲る気はない。
くつくつと喉を鳴らして嗤ったテオフィロスは、そうして肩越しに振り返り、その瓶底眼鏡に隠された瞳を、ゆぅるりと背後へと向ける。
「そろそろ出てきてええで。ビビちゃんの護衛ももう行ってもうたし、お前に気付くこともあらへんやろ」
ヴァイオラが去った今、テオフィロス以外には、誰もいないはずの東屋。
しかしテオフィロスは当たり前のように背後の『誰か』に向かって声を投げかける。
途端に、いつの間にか戻ってきていた小鳥のさえずりや木々の葉擦れの音ばかりが確かだった東屋の空気が、ざわり、と動いた。
そのまま木陰からずるりと伸びた影は、一人の人間の形を成した。
その身に学園の衛兵のための甲冑をまとった青年は、ためらうことなくテオフィロスの背後に低く跪く。
「――――発言を、お許し願いたく」
これ以上ないほどの、畏敬の念が込められた声音であった。
崇拝とも呼べるようなそれを向けられても、テオフィロスの表情は変わらない。
内心で「は~~~~、おもんないわぁ」なんて思いつつ、瓶底眼鏡にぼさぼさの黒髪もそのままに、ふわふわへらへらとした笑みをたたえて、さも鷹揚に頷いてみせる。
「ん、ええよ」
「光栄に存じます。本国より、火急の知らせにございます」
「ああ、ようやっとテナークス公がボクに頭下げる気になったんか。意外と早かったなぁ」
「……ッお流石にございます、おっしゃる通りです……! テナークス公爵は兄君様をようやく見限り、いよいよ殿下の……」
「ん、もうそこまででええで」
皇国において皇家に次ぐ古き血の流れを汲み、だからこそ時代錯誤にも『長子こそ皇太子たれ』と言い張っていた公爵家の古狸の渋面がまざまざと脳裏に浮かぶ。
――あっはっは、ざまぁみぃ。
――当てが外れて残念やったなぁ。
別段好きでも嫌いでもない相手だが、今後の身の振り方を考えるとなると、アレは手駒にしておいたほうがいい。
近く連れ帰る予定のヴァイオラの後見役として、ちょうどいい身分と年齢だ。
下手に若いとヴァイオラの魅力に撃ち抜かれてしまう可能性があるが、あの古狸であれば、彼女のことを「儂のかわいい孫娘……!」とかなんとか言い出すくらいで収まるだろう。
だからそれはいいとして、だがしかし、それにしても、それはそれだ。
「あの頑固ジジィ、もうちっと粘るかと思とったんやけどなぁ。よっぽど兄上の寵臣贔屓と自称皇国改革が気に食わへんかったんやな」
「既にそこまでご存知でいらしましたか」
「そらせやろ。この国に撒いとる僕の駒はお前だけやあらへんし、情報を得る手段なんざ駒を介さなくとも自分で得るもんやで。特にこの国はその辺ザルやしなぁ」
「……この国の閉鎖性については各国の諜報員が頭を抱えるほどの水準であると我々は認識しているのですが」
「そらごくろーさん。無能な奴らはかわいそやね、苦労が多くて」
「っまさか殿下から労いのお言葉を頂戴できるとは……! 身に余る光栄にございますっ!」
「…………」
うわぁきもちわるぅ。とは思えども、口にはしなかった。
自分で言っておいてなんだが、わりと手酷くこき下ろしたつもりである。
しかし何故かテオフィロスに付き従う信奉者達は、普通に労うよりもこき下ろしたほうが喜ぶタイプが非常に多い。
背後の青年も、頬を紅潮させ、うっとりと瞳を潤ませている。
繰り返そう。うわぁきもちわるぅ。
しかしもういい加減慣れているし、別に気持ち悪かろうが使えるものはなんでも使えなくなるまで有効活用して後腐れなくきっちり捨てるのがテオフィロスである。
誰かに再利用されるなんてもったいない真似はしない。
若干どころではなく倫理観に欠けている自覚はあるが、最後までばっちり使い切られての使い捨てこそ誉れと考える変態、もとい信奉者達には事欠かないので問題はない。
「ほんで? まさかその火急の報せっつーのは、古狸の件だけやないやろ」
「は。言うまでもございませんが、テナークス公爵が殿下の傘下に加わられたことで、中立派も動き始めました。兄君様も当然その動きを察しておられます」
「ほぉん? 冤罪でっち上げて自分トコに引き込むんは兄上の常套手段やもんなぁ。大方、それだけじゃ足りへんくなったから、妃候補だのなんだの言うて体のいい人質をあっちこっちから集めてはるんやろ」
「さようにございます。先ほど殿下はエヴァランス嬢に一か月後の帰国とお伝えでしたが、我が皇国の無辜の民、心ある貴族のため、殿下のより急ぎの帰国を求める声が高まっているのが現状です」
どうか、と再び深く頭を下げる青年に、テオフィロスはそれはそれは深く「は~~~~~~~~~~」と溜息を吐いて天を仰いだ。
ああ、空が青い。
こんなにも美しい空は、きっと、本国では見られない。
何をどう聞いてもめんど……もとい、気が滅入る内容でしかない話題に、つくづく嫌気がさす。
あーほんまめんどくさ。アッ言ってもうた。
「兄上も必死やなぁ。もうええんちゃう? やっぱりボクが気張らんでも、やる気だけはお持ちの兄上が気張りなはればよろしいやろ。兄上は愚鈍やけど阿保でも馬鹿でもないもん。普通にまつりごとする分には問題ないんちゃう?」
そう、テオフィロスにとっては兄にあたる皇国第一皇子サリエルは、頭は悪くない。
ただちょっとばかり権力に対する執着心が人一倍強く、女と金と酒に弱いだけだ。
そのあたりのことをうま~く手玉に取れる奸臣、もとい寵臣がいれば、皇国は今まで何一つ変わることない朝を迎え、夜を過ごすことが叶うだろう。
テオフィロスはテオフィロスで、さっさと皇位継承権を屑籠にぶち込んで、晴れてヴァイオラと楽しく学術院生活を楽しみ、生まれ故郷の地方に彼女とともに引っ込んで楽しく隠遁生活を送るだけだ。
それをきっとヴァイオラは望まないだろうけれど、まあその辺はうまいことを言いくるめるよう努めればいい。
それくらいは、というか、そここそがテオフィロスの頑張りどころであり、腕の見せ所である。
かくして世はすべてこともなし。
なるほど、実にめでたいことではないか。
そううんうんと一人頷くテオフィロスを前に、ぶるぶるとその他大勢の中の一人にすぎない信奉者たる青年が身体を震わせ、そして。
「アマデウス殿下!」
たまらなくなったように叫びを上げた。血を吐くような悲鳴だ。
あーめんどくさ、うっとおし。
そう内心で掃き捨てながら、“テオフィロス・ミーディオカ”とこの国では名乗る、本来の名を“アマデウス・グラーティア・アマランティーン”たる皇国第二皇子は眼鏡を外し、冷ややかに瞳をすがめた。
「――――分をわきまえよ。その名を貴様がこの場で口にすることを、私は許した覚えはないぞ」
「は、ははっ! 申し訳ございません……!」
こちらが気分を害していることなど明らかだろうに、その上で青年は感極まったように平伏した。
そう言えばコレの婚約者であった令嬢は、あの兄皇子に目を付けられ、それを拒んだがために無礼討ちにされたのだったか。
その仇を取ろうとコレが剣を取ったところをたまたま居合わせた自分が仕方なしに取りなしたところ、それ以来コレは自分に身も心も身分も剣も何もかもを捧げるようになった。
ごくろーさん、ごしゅーしょーさま。
とは思えども、しょせん自分にとってはそこまでの話に過ぎないのに、何故かコレに限らず数多の有象無象が勝手に自分に期待する。
――ほんまに勘弁してほしいわぁ。
――ビビちゃんのお願いやっちゅーなら、おもろいのになぁ。
本当に不思議なものである。
けれどテオフィロス、もといアマデウスの知るヴァイオラ・エヴァランスは、決してアマデウスに何も求めないだろう。
それが嬉しくもあり、楽しくもあるのだけれど、同時に歯がゆく悔しくもあるのだから、余計に彼女は面白い。
「何か異論でもありまして? 文句があるならばエヴァランス邸にいらしてくださいまし!」と扇を突き付けてくる彼女の姿が脳裏にまざまざと浮かんで、思わずくつくつと笑みをこぼす。
そんな自分に青年が向けてくる視線は、どうにもこうにも不可解そうなもので、うん? とアマデウスは首を傾げてみせた。
「なんやの。なんか言いたそうやね」
「は。恐れながら」
「うん」
「先ほどのヴァイオラ・エヴァランス侯爵令嬢へのご提案、本気でいらっしゃるのですか?」
「当たり前やん。嘘や冗談であないなことビビちゃんにほざく訳ないやないの」
深く、深く、艶やかに鮮やかに、アマデウスは嗤った。
そう、信じられないとお前が目を見開き言葉を失うと言うならば、何度でも繰り返してやろう。
「――――もちろんだとも、この名に懸けて」
アマデウスはもうとうの昔に選び、決めている。
ヴァイオラ・エヴァランスという存在を。
今更誰にも譲らない。誰がそんな真似を赦すものか。
誰であろうと、何であろうと、赦しはしない。たとえそれがヴァイオラ自身であり、彼女が「冗談ではなくてよ! 馬鹿も休み休みおっしゃい!!」と怒鳴り付けてこようが、もう知ったことではないのだ。
――恋する男はみーんな馬鹿で阿保になるもんやで。
――だからしゃーないんよ、ビビちゃん。
ああ楽しい。面白い。想像するだけでぞくぞくする。
こんなにも自分を楽しませてくれるのは後にも先にも彼女だけだから、だからもう逃がしてなんてやらないのだ。
という訳で、ヴァイオラのあの様子では、近く彼女は本当に留学の道を選んでくれるだろうけれど、彼女の父であるエヴァランス侯爵が四の五の言うことも目に見えている。
はてさて、どうその背中を蹴り落そうか――――と、アマデウスが薄い唇に片手を寄せた、ちょうどその時、アマデウスの様子をもはや戦々恐々と言った様子で見つめていた青年が「恐れながら」と先ほどと同じく口火を切った。
なんやまだおったんか、とそちらを見つめると、アマデウスにすべてを捧げるとかつて誓った青年は別にこちらは何もしていないというのになぜか気圧されたようにごくりと息を呑んだ。
「実は、その件についても、ご報告すべき旨がございます」
そうして青年が語った内容に、アマデウスは本当に久々に、「…………………………はぁ?」と低く唸る羽目になったのである。




