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事件が起こったのはつい先日。
月の奇麗な空の下で催された、王侯貴族が集う夜会でのことだった。
かくして晴天の霹靂は、例によって例のごとく今回も唐突にやってきたのである。
というわけで、今日も今日とて侯爵令嬢たるヴァイオラ・エヴァランスは、ダァンッ!! と淑女にあるまじき力強さで拳をテーブルに叩きつけた。
「――――ま・た・で・す・の!!」
ヴァイオラの憤懣やるかたなしと言わんばかりの怒声が、うららかな春の日差しに満ちた中庭の隠れた東屋にこだまする。
その鬼気迫る勢いに、周囲でのどかにさえずっていた小鳥達が一斉に飛び立っていった。
常に楚々として余裕を持ち美しく淑やかにあれ、と自身に言い聞かせ、そうあるよう努めている。
しかし今日ばかりはそうも言っていられない。本当にやっていられない。いい加減にしてほしい。
あたくしが一体何をしたというのかしら、ええそうですわね、何もしていないですわ、ああそう、その何もしていないことこそがむしろ悪手だったのね、はいはいはいはいさようでございますの、承知いたしましたわ……とブツブツと呟きつつ拳を震わせていると、「まあまあ、落ち着きぃビビちゃん」とのんびりとした声がかけられる。
ぎらつくように輝く紫の瞳でそちらをにらみ付ければ、その鋭すぎるまなざしは、相手の分厚い瓶底眼鏡によってバチコンッと弾かれる。
それでもなお、いよいよ憎々しげかつ恨めしげににらみ付けるのをヴァイオラはやめることはできなかった。
淑女にあるまじき一言で言えば、「このヤロウ」である。
「テオ様、他人事だとお思いね?」
「せやな」
「……ここは嘘でも『そんなことはない』とあたくしをなぐさめるべきところでは?」
「そないなこと言われても、他人事は他人事やしなぁ。ビビちゃんかて、ボクが下手に口挟んでも、納得なんてしぃひんやろ」
「…………………………」
まったくもってその通りである。びっくりするほどぐうの音も出ない。
いやいやいや、だがしかし。
それにしたって、この王国において五指に入る有力貴族たるエヴァランス侯爵家の“ご令嬢”、それを差し引いても長く伸ばされた波打つ黄金の髪にきらめく紫の瞳を持つ、自他ともに認める跳びぬけた美貌を誇るヴァイオラに対してこの言い様はいかがなものか。
麗しき乙女に訪れたる災難について、ちょっとくらい寄り添ってくれてもバチは当たらないはずだ。
いくらヴァイオラ本人が下手ななぐさめなど心の底からお断りだと思っているとはいえ、それにしても、そ・れ・に・し・て・も! というやつである。
つくづく本当にこの友人はいい性格をしているものだ。
ついついじっとりと正面に座る彼の顔を再度にらみ付けると、彼は「ん? どないした?」なんてとぼけた返事とともに首を傾げてみせる。
――解っていておっしゃっているわね、このお方。
一気に毒気が抜かれるのを感じ、ヴァイオラは深々と溜息を吐いた。
もう一人でキレ散らかしているのも馬鹿馬鹿しい。
気の置けない学友としてのんびりとあくびまで浮かべてくださりやがっている彼の名は、テオフィロス・ミーディオカ。
皇国の男爵令息であり、ヴァイオラが通うこの王国における王侯貴族の子息子女が主として集う学園にやってきた留学生だ。
ぼさぼさ頭の黒髪にとんでもなく分厚い瓶底眼鏡、極めつけは隣国である皇国においてもド田舎とされる地方のなまりで話す彼こそが、学園でも社交界でもぼっちを極めるヴァイオラにとっては唯一の友人である。
「ほらほらビビちゃん、とりあえずこれ食べとき。実家が送ってくれたんよ、この菫の砂糖漬け。好きやろ?」
「…………ごまかそうとなさってるでしょ」
「ん? いらへんかった?」
「そうは言っておりませんわ! 本当にもうあなたというお方はいつもいつも……っいえ、もう結構ですわ。ありがとう、いただきますとも」
美しいガラス細工の小箱に詰められた菫の砂糖漬けを差し出され、あえなくヴァイオラは撃沈した。
細く白く繊細な指先でひょいとひとかけらをつまんで口に運ぶと、上品な砂糖の甘味とともに、ふわりと芳しい花の香りが口の中に広がっていく。
自然と強張っていた肩の力が抜けて、ヴァイオラはようやく本来の余裕と冷静さを取り戻していく自分を感じた。
そして余裕を湛え、思考に冷静が横たわったからこそ、改めて深々と溜息を吐かずにはいられなかった。
「また……また、またしても、婚約破棄……っ!!」
あ、だめだ。またしても拳が震えてしまった。
そんな自分を恥じつつも、それでもつい血を吐くように唸ってしまったヴァイオラに、テオフィロスは自身も菫の砂糖漬けを放り込みながら、うんうんと頷いた。
「つい先日の夜会やろ? ボクも聞いとるよ。お疲れさんやったなぁ。ちなみにこれで何度目やっけ?」
「…………じゅうさん……」
「あれま。不吉な数字やね。てかもう二桁の大台に乗ってたん?」
「ええ、ええ、乗っていましたわ。それはもう、とっくの昔に。今度こそと思っておりましたのにっ!」
「記録更新、おめっとうさん」
「何一つめでたくなどございませんの!」
取り戻したはずの余裕と冷静さをまたしてもかなぐり捨てて、ワッとヴァイオラはテーブルに突っ伏した。
この場が学園の中でも滅多に他人がやってこない、隠れた穴場である中庭のさびれた東屋だからこそできる所作である。
自分で言っておきながら、改めて『十三』という数字が胸に突き刺さる。
テオフィロスの言う通り、不吉な数字だ。
何が十三なのかはもうお察し案件ではあるが、そう、つまりは婚約破棄である。
誰のってヴァイオラの。
今回も相手側からの極めて一方的な婚約破棄が、テオフィロスの言う通り『つい先日の夜会』にて、ヴァイオラに突き付けられたのだ。
「なんやっけ、よう覚えとらんけど、どっかの伯爵令息のぼっちゃんやろ。あちらさんから頼み込まれたから受け入れたって話やなかったん?」
「なんでも、真実の愛を見つけられたそうでしてよ。大変結構なことですわね」
「ほぉん、またそれかい。なんなん? 流行っとるん? その『真実の愛』とやらが?」
「あたくしが知るわけないでしょう。でも確かにそうかもしれませんわね、ふふ、あたくしがその真実の愛を見せていただくのは、これで………………何度目だったかしら?」
少なくとも今回ばかりではない。
そも、現在十八歳のヴァイオラの人生における十三回の婚約破棄の始まりは、十五歳の誕生日からである。
その間で相手側に『真実の愛』を主張されたのは、二度や三度で済まされないのは確かだ。
思い返してみれば、最初の婚約はこの王国の王太子と結ばれたものだ。
十五歳の誕生日当日に開催された祝賀会にて、「お前のようなかわいげのない女など願い下げだ!」と指を突き付けられたのも、今となってはいい思い出である。
いやぜんぜんいい思い出ではないが、少なくとも『真実の愛を見つけた』とかなんとかいうふわっとしたトンデモ案件でないだけ百倍マシだ。
ヴァイオラは自分にかわいげがないことくらいこれでもかと理解している。百も承知の上であるとも。
そして同時に、そのかわいげのなさを補って余りあるほどの美貌と才覚を持ち合わせていることもまた自覚済みだ。
解りやすい容姿に限った魅力だけ挙げ連ねるならば、波打ち輝く金の髪、きらめく深き紫の瞳、それを縁どる長く濃い睫毛はくるんと上に跳ね上がって陽光を弾き、透けるように白い肌は夜闇の中でもほのかに瞬くように輝いて、見事な細く華奢でありながらも女性らしい肢体の輪郭は誰もが見惚れるほどである。
幼い頃からその容姿の美しさに定評があったヴァイオラの姿に胸打たれた王太子に熱望され、家格としても申し分なかったことから王家側から申し込まれたのが、王太子との婚約だった。
かくして始まった厳しい王太子妃教育を、ヴァイオラは完璧すぎるほど完璧に、なんならむしろ物足りないと思うほどに見事にこなし、誰もが認める王太子の婚約者となり、周囲からは『かの大輪の花のごとくあれ』とすら呼び称されるほどになった。
はっきり言おう。
今ならばヴァイオラも理解できる。
自分は、“やりすぎた”のだ。
誰もが認める完璧すぎる令嬢は、学園に入学してからは嫉妬と称賛を集め、気付けば敬遠され、最終的に忌避すらされるようになった。
ああそうだとも、解っている。
解りやすい魅力をしのぐほどに、自分の性格にも問題があるということくらい。
才覚を鼻にかけるつもりはないが、だからと言って謙虚になることもなかったヴァイオラは、自分にも他人にも厳しくならざるを得なかった。
結果、『大輪の花』は花でも、『棘まみれの毒花』と恐れられ、その結果が王太子からの婚約破棄である。
そこからはもう怒涛の勢いだ。
娘に恥をかかされ、家名に泥を塗られたと父であるエヴァランス侯爵は激怒し、国の重鎮である彼と、名家であるエヴァランス家への償いのために王家が王太子に代わる婚約者を用意してくれた。
が。
「どなたもこなたも、自身が貴族たる自覚も、貴族たるからこそ務めをすっかりお忘れになって、真実の愛とやらを優先なさるのだもの。その真実の愛とやらは、よっっっっっっぽど素敵ですばらしいものなのでしょうね」
これまた淑女らしからぬガラの悪さでハッと吐き捨てるヴァイオラだが、それをテオフィロスが咎めることはない。
それは彼の生家の家格がヴァイオラの生家よりも下位であるからではなく、彼がヴァイオラのことを友人と思っていてくれるからで、お互いに気を遣わないでいられる仲であるからということを、ヴァイオラはこの一年ですっかり理解していた。
「ああもう、またお父様の胃が締め上げられるし、王家の皆様方が頭をお抱えなさることになるわ」
「えらいこっちゃねぇ」
「ええ、本当にさようですこと。テオ様、もう一つ頂いてもよろしくて?」
「ん、ええよ。ビビちゃんのために送ってもろたもんやもん」
「あらお上手」
「せやろ」
「ふふ」
再び差し出された菫の砂糖漬けを味わいつつ、ヴァイオラはこれから再び始まるであろう婚約者選出問題を思い、心の底から遠い目になった。
ここまで来ると他人事のように思えてくるから不思議である。
「あの伯爵令息……もう名前も覚えていませんけれど、あの方、これからどうなさるおつもりかしら」
「なんやっけ、あれやろ、ココで珍しい平民出身のお嬢さんとくっついたんやろ? ええんか、それ? たしかそのぼっちゃんもオカンが平民出身だから、その血に箔を付けるためにオトンの伯爵がビビちゃんのオトンに頼み込んで婚約に持ち込んだとかなんとかビビちゃん言うてなかったっけ?」
「よく覚えておいでですわね。その通りですわ」
もう無駄な知識にしか分類されない名前についてはまったく覚えていないしその必要も皆無なので問題はないが、状況については確と覚えている。
十三人目の婚約者である某伯爵令息との婚約は、テオフィロスの言う通り、相手側から土下座せんばかりに頼み込まれてのものだったと。
某伯爵は、屋敷に仕えていた平民出身の侍女と恋に落ち、周囲の反対を押し切って婚姻を結んだ。平民出身の侍女を妾とし、新たに貴族から正妻を迎えることもせずに。
貴族にしては珍しく、純愛を貫いた、というやつである。
そして健やかな男児を得、その男児は成長し、立派な伯爵令息となった。
だがしかし、ここで伯爵を悩ませたのが、息子の血だ。
伯爵にとっては妻である母親が平民出身であることで、母親も、息子も、陰に日向に嘲られている、という事実があった。
ならばせめて、息子たる伯爵令息が、高貴なる血を持つ妻を得れば……という思考に至るのは、まあ無理のない話であったとは言えよう。
息子に自らや妻と同じような苦悩を抱えさせたくないという親心が三割、純粋に政略としての打算が七割といったところか。
そこで白羽の矢が当たったのがヴァイオラ・エヴァランス侯爵令嬢だったのも、まあまあまあまあ解らない話でもないのだ。
エヴァランス侯爵家の血は特級品、その権力は国王陛下にすら及ぶものであり、縁故を結ぶことが叶えば将来の安泰は確約される。
とはいえ伯爵家風情、しかも平民の血が混ざった子息相手との婚約などありえないはずだった。
だがしかしだ。エヴァランス家には、一人、いた。
婚約を破棄されたばかりの、本人不本意ながらもそうならざるを得なかった、『問題物件』が。
当時十二回に及ぶ婚約破棄を受け入れたばかりだったヴァイオラに、その伯爵令息との婚約が持ち込まれたのである。
この時点で王家が用意する婚約者のネタもそろそろ尽きてきており、エヴァランス侯爵が「お前が構わないならば……」とヴァイオラに打診してきたのが、此度の十三回目の婚約であった、という訳だ。
「あたくしと婚約を結びたがるお方なんてもういらっしゃらないと思っていましたもの。この際贅沢は言っていられないと思って受け入れましたのに。あの方、夜会でなんとおっしゃったと思いまして? 『僕も父と同じく真実の愛を見つけた!』ですって。その後ろでお膝から崩れ落ちていらっしゃる御父君にはまったく気付いていらっしゃいませんでしたわ」
「まあ公衆の面前で王家も認めた婚約を勝手に反故にしはるくらいええ根性しとるみたいやしなぁ。どないんすんやろね、これから。少なくとも確実に廃嫡やろ」
「でしょうね。まあ真実の愛とやらのお相手であるお嬢さんと、つつましやかに平民として生きていかれるなら、ちょうどよろしいのでなくて?」
「そこまで考えとるんやろか。話に聞いとるだけやけど、聞く限りの浅はかっぷりやと、これからその平民のお嬢さんと我が伯爵家を盛り立てていったるわ! みたいな感じやあらへん?」
「流石にそこまで浅慮ではないと思いたいですわね。確かに、くだんのお嬢さんにはその夜会で『これからはあたしが伯爵夫人としてこのひとを支えてみせるわ!』と啖呵を切られましたけれど……まあ、あたくしの知ったことではございませんもの」
ついでにその時に、名前呼びを許した記憶など一切ない初対面のその少女に「『棘まみれの毒花』にしかなれないヴァイオラ様には、このひとの気持ちなんてわかんないでしょ!」とかなんとか罵られたが、そのまま彼女も、ついでにその台詞に感動し感激に打ち震えていた伯爵令息も、そろって衛兵に引きずり出されて行ったのでその後のことはまったく知らないし興味もない。
それよりも目下の問題は、繰り返しになるが自身の今後の婚約者選出である。
「王太子殿下との婚約を破棄された時点で覚悟はしておりましたけれど、それにしても困りましたわね。エヴァランス家と家格がつり合う貴族はほぼ全滅、下位貴族のお方と添おうにも、ここまで瑕疵の身となったあたくし相手に尻込みなさらないお相手なんて皆無も同然。いよいよ嫁がず後家決定かしら?」
ここまで来るともうそれも十分アリよりのアリな気がしている。
ああ、溜息が止まらない。
ほう、と薔薇色の唇からもう何度目かも忘れた溜息を吐き出すと、その口にひょいっと甘露が放り込まれる。
菫の砂糖漬けだ。
ぱちんと大きな瞳を瞬かせて、気付けば俯いていた頭を持ち上げると、瓶底眼鏡の向こうの炭のような黒い瞳がこちらを見つめていた。
「ま、そないに落ち込むもんやないで。ビビちゃんは笑とるほうがかわええよ」
「落ち込んでなどおりませんわ。そもそもあたくしはどんな姿でも美しくありましてよ」
「それはせやけど、それはそれとして、ボクはビビちゃんの笑顔がいっとう好きやもん」
「……本当に、あなたって人は…………」
もう、とつい苦笑すると、にっこりと笑い返される。
ぼさぼさ頭に瓶底眼鏡の彼のこの笑顔に、不思議とこんなにも癒されていく。
そんな自分に気付かされたのはいつだったか、記憶力の良さには自信も定評もあるヴァイオラは、それなのになぜだか覚えていない。
脳裏にまざまざとよみがえるのは、彼、テオフィロスとの出会いだ。
思い返すたびにしみじみと思う。
あれこそが本当に、とびきりの青天の霹靂であったと。