香食
深緑の山中に粉を振ったような薄紅が混じりあう清明の頃、拠点となる廃寺にも桜の花が降り積もっていた。せまい境内の椿の林のすぐ脇に、1本だけ山桜が植わっているのだ。他の木より色が薄く、薄桜よりも月白に近い花色をしている。この桜が芽吹く頃、白檀は昼まで寝過ごす。「春眠暁を覚えずだよ」ともっともらしいことをぬかし、枕元で村人にもらった八朔を剥いていた。だらしないことこの上ない。
「天気もいいし、桜も見頃だよ。明日は天気も崩れるから今日花見でもしようかな」
桜は未だ床から抜け出さない養父は放っておくこととして、寺内に光を入れようと戸を開け放した。生い繁る椿のせいであたりは薄暗い。それでも柔らかな春の木漏れ日が腐りかけの板間におち、暖かさの中に少し混ざった、冷ややかな風が桜の頬を撫でた。少し顔を上げ、頭上から聴こえてくるまだ下手な鶯の声に頬を緩める。
その時、桜の目の端に白いすじが映り空に溶けた。見間違いかと思い目を凝らした瞬間、鼻腔を甘い香りがくすぐる。
本堂に続く参道に、男が1人立っていた。
男の左手には手提げ香炉が下げられている。濡れたようにうねる黒の短髪、異国を思わせる褐色肌。背中には厨子、僧服を纏い笠を被っている。目元には黒い光沢のある繻子が巻かれていた。
「珍しい客人だ。」
桜が身構えていると、後ろから白檀が顔を覗かせた。久しぶり、とにこやかに告げまるで警戒する様子もない。こんなにも怪しいのに。
「あれは香食といってね、古い友人なんだ。安心して、話のわかるやつだから。こいつは名の通り香りを喰らう。万物のものを匂いで理解する。全ての匂いに名をつける。だからこいつに目は必要ないんだ。」
「見えてないとは言ってない。」
男は初めて言葉を発した。穏やかに低い、響かない声だった。
「花御堂でもつくろうか」
「甘茶ならあるぞ」「有難い」
「えっ飲めるのか?香りを食うんだろ?」
桜が疑問に思い訊ねると、香食はくふふ、と笑った。口の中に笑いを押し込めるような、こもった笑い方だ。それでも彼が愉快に思っているということが分かる、不思議な笑い方だった。
「飲めないとは言ってない。」
自由な先人たちにおされて、あれよあれよとささやかな花まつりが始まった。
暫く歓談をした後、ここへ来た理由を彼は話し始めた。
曰く、ヒトにしか頼めない事らしい。捜し物だ。ただ場所なら分かっている。しかしヒトでは無い自分には取る事が出来ない。それで此処へ来た。古い友が、ヒトの子を拾ったと聴いたから。
白檀と桜は香食について彼の住処に向かった。それは程遠くない場所にある同じような廃寺だという。白檀は手に風呂敷を提げていた。山道を下り、もう人の住んでいない廃村を通り抜ける。濃い草と土の匂いが生命を感じさせる。すみれや種漬花が至る所で咲いていた。
「じき着くぞ。」
香食の声に顔を上げる。朽ちた民家の角を曲がると、山の斜面一杯に桜が咲いていた。魅入っていると、香食が笑った。
参道を歩む道すがら、ずっと桜吹雪が舞っていた。桜達がいた廃寺は薄暗かったが、ここは眩しいほど明るい。見渡す限り花、花、花、その一つ一つが光を反射し合い発光していた。その中に黒一色の香食はどこか異質のように見えた。
桜の森の中にある本堂の中は、くゆる煙で霞んでいた。天井から真鍮の吊り下げ香炉、また重なるようにして至る所に炉が置いてあり、その全てに火が入っている。
「寺院か、遊郭がお気に入りらしく姿をよく見かけるって聞いたよ。」
「ほう。誰に」
「河童」
「くふ、あやつらの情報網も侮れんな。」
2人はずっと楽しそうに話し込んでいる。そんな白檀を見るのは新鮮で、なんだか不思議な感覚だった。
「嗚呼そうだ、桜。裏の井戸から水をくんできてくれ。」
急に香食に呼ばれ、意識を戻す。あぁ、と軽く返事をして本堂の裏手に回った。
桜と話す時、白檀は煙に巻いたような発言をしたり揶揄うことが多い。話すことを楽しむと言うより、反応を楽しんでいるような気がする。だが、香食とは話の内容を愉しんでいるのだろうな...と思う。普段から饒舌ではないし、自分の知らない白檀の方が多いことも何となく察している。だから友人がいたことに驚き、それは良いことだと思う反面、自分には見せない一面があるというのを目撃してしまったことは少し切なくもあった。
井戸に近づいた時、花の甘い、どこかツンとする匂いがした。その瞬間くら、と意識が揺らいだ。
「…っ」
井戸の縁に右手をつき左手で頭を支える。どうにか倒れ込まずに済んだ。しかし必死に意識をつなぎとめないとすぐに遠ざかってしまう。耳鳴りがする。桜は井戸端にしゃがみ込んだ。
「桜」
耳に温度のない手が添えられる。白檀の香りがする。
顔を上げると白檀がいた。耳鳴りも収まっていた。
「他と違って常識はあるが、香をかがせた相手に見せたい夢を見せたり幻覚を見せたりするのも香食だ。」
香食は数歩離れたところでこちらを見ていた。
白檀が喉をせばめた声で言った。
「香食。その香炉の灰だけ随分古いね。中に」
白檀の目は香食を見つめていたが、目はもう笑っていなかった。
「何が入ってる?」
桜は中にずりずりと手を入れて何かを掴んだ。乾燥した親指程の石のようなものだ。しゃりしゃりと灰を食む、かすかに鈴のなるような音がする。
「...骨?」
香炉が一基置かれていた。中は空だ。その中にコン、と骨を入れた。
「有難い。」
香食はそう言うと炉を脇に退けた。
「何を取りだしたのか分からないようにちょいと幻覚見てもらおうと思っただけだ。そう怖い顔をするな」
「...それで?」
言外に骨の人物について訊ねる。
「そのうちな。」
白檀を見ると彼は首を横に振った。話すべき時に話すだろう、ということらしい。
「全く。桜に何かあればお前を祓うところだったよ。」
白檀はやれやれ、と肩をすぼめて見せた。頼み事は終わったらしい。
桜は横で白檀が香食に長々と説教するのを、口の端を噛みながら聞いていた。
説教も終わった頃。
「お前さんにやろうと思っていたものがあったんだ。数十年前から。」
白檀はそう言うとそばの風呂敷を開いた。毛の塊のようなものと木片が置かれている。
「麝香...?」
「良いな。鼻に抜ける後味は何事も甘いのがいい。」
「同感だ。そしてこちらが...」
「御神木だ!嗚呼…おいしそうだなあ……」
白檀が言い終わらぬうちに香食は木片を奪い、愛おしむように手で撫でた。
香食は機嫌良さそうに、桜に一合の香炉を差し出した。
「君にこれをあげよう。礼と詫びと、お前の師の礼だ。」
「はぁ...」
差し出された香炉に手を伸ばす。金属の香炉を手に持った瞬間、反射的に手を引っ込めていた。熱い。
「あっっっつ!!」
「お前の弟子にしては用心がないな。」
「まだ幼いんだ。勘弁してやってくれ。」
そんな会話を恨めしげに聞きながら取り落とした香炉を見やる。火の入った香木でも入っていたのかと思ったが、それらしきものはない。胡座をかいた膝の上から転がったため、すこし灰がこぼれた程度だ。しかし落ちた香炉をよく見ると中の灰がむくむくと動いている。もっと良く見ようと落ちた香炉に顔を近づけると顔に灰がかかった。
「...」
「火鼠だね。」
「かわいいもんだろう。」
灰を撒き散らしながら出てきたのは真っ白な鼠だった。目は朱雀色で、毛皮は光の当たり加減で虹色に輝いている。
「火ネズミ...?」
顔を払いながら白檀を見る。口にも灰が入ったみたいだ。
白檀は可笑しそうにこちらを眺めながら説明してくれた。
「活火山に住む鼠だよ。こいつらの毛皮は燃えることがなくて希少だから、昔の人間が乱獲してしまって数は少ないらしいね。仲良くするんだよ。」
灰から頭を出している鼠と見つめ合う。片手に乗る程の大きさしかないモノとの馴れ合い方など分からない。しかしこの生命の芽生える季節に出会ったのは、愉しいことだと思ったのだった。