白蛇様
薄絹が天からたなびくかの如き霞をまとい、桜は山を下っていた。やがて人の歩む道に抜けると思い切り空気を吸い込む。湿った土のいい匂いがする。気分が良くなり、顔を弛めたまま桜並木を歩いていく。
ここで生きている人々は谷合の小道を進み、村から村、そしてある時は都の方へと移動する。とはいえここは人の手の加わった道の最奥の僻地だ。これより奥に人の通れる道は無い。よって桜並木もない。桜は今、山から人里へと向かっていた。白檀の煎じた薬を肉や穀物と交換してもらうために。
彼は普段、白檀とともにいくつかの拠点を移動しながら暮らしている。季節によって過ごす場所は変わる。今いる廃寺は春、梅雨が近づくと川から少し距離のある楓の下の小屋、真夏や秋には1箇所に留まることはしない。冬は降雪の程度を見ながら、何ヶ所かにある冬ごもりの拠点からひとつを選ぶ。
山々を移動する際、下を見れば家屋や畑が目に入ることがある。普段人里で暮らすことのない桜は、この人の営みを感じさせる道や田畑が好きだった。
桜並木は河川と田畑に囲まれている。その終わりが、村の入口だ。そこで男に出会った。
「おぉ、桜殿。久しいな。そろそろ来る頃だと思ってたよ。」
桜が会釈で応える。男は農民の出で立ちで、親しげに喋り続けた。
「あんたが来るのは、大体白蛇様のおわすときだからな。縁起がいいもんだよ。」
「白蛇様?」
「あれだよ」
男が指さす方を見ると、春霞が谷間へとどまり、黒い山の山頂だけが浮かぶようにのぞいていた。成程その様は山々の谷間に白い巨大な蛇が寝そべり、その身体を山々に巻き付けているようにも見える。
この辺りはこの山のせいで年中湿った空気がこもっているし、風も少ない。山霧の発現しやすい地形なのだ。そのため生まれた信仰的な類のものだろう。桜は以前白檀が言っていたことを思い出した。
「吉兆というものはその地や人々によって様々だ。蛹が蝶になる瞬間を捉える、朝蜘蛛をみつける、雲雀の声を聴く、夢の中の龍、茶柱...そもそも、ここは神と人とが交わる合流地点だ。人々の信仰が厚いのも当然なんだよ。」
「白蛇様はこの辺の山々をお守りくださってるンだ。あまり災害もないし飢饉なんてのも起こらない、有難ぇことだよ」
白蛇は太陽が登ると共に姿を消す。その日白蛇様を拝したことは、その日一日の桜の心を僅かに浮き立たせたのだった。