第一話「忘却の廃校で幽霊は微笑む」
耳障りな音がどこからともなく響いてくる。眠りから覚めた少年はぼんやりとその音を聞き取った。蝉の声だ。夏の陽射しの中、木にへばり付き、狂ったように鳴き続ける蝉の声が、容赦なく空気を切り裂いていた。
短い生涯のほとんどを鳴き続けるだけの不思議な生き物。はたしてそんな命になんの価値があるのかと、まだぼんやりした頭で考える。
「……俺が言える立場じゃないけどな」
ベッドから降り、肩をすくめながらつぶやいた。少年にとって、ただ無為に日々を過ごすことに違和感はなかった。それが自分の望んだ人生なのかはわからないが、積極的に変えたいと思う気もなかった。
いつの間にか、高校一年生の夏休みも2週間ほどが過ぎていた。特に何かをしたいわけでもなく、毎日がただただ流れる。
彼は、背丈は平均的ながらも少し痩せた体つきで、頬はややこけた印象を与えている。まぶたが少し重たげで、気怠そうな目つきが日常の彼の姿を物語っていた。
彼は部活動として仕方なく写真部に所属している。写真が好きなわけでもないが、校則で部活動への所属が必須である以上、避けられない。ただ、部員数も少なく、誰かと協力して何かをするわけでもない。そんな写真部は彼にとっての最良の逃げ場だった。
だが、その選択の代償なのか、夏休みの課題として「夏」をテーマにした写真を撮る必要が生じた。漠然としたテーマを与えられても、いったい何を撮ればいいのか、見当もつかない。海や花火といった「夏らしい」イメージが何一つ自分には関係がないように思えたからだ。
仕方なく人の少ない場所を求めて歩き回り、やがて辿り着いたのが近所の高等学校の校舎だった。その高等学校は数年前に廃校となり、校舎だけが残されていた。不思議な静けさと、時間が止まったかのような寂寥感に包まれたその場所は、少年の心を微かに引きつけ、気づけば廃校ばかりを撮影するようになっていた。それが夏らしい写真かどうかはわからないが、今の少年にとっては唯一の被写体だ。
今日も、廃校へ足を運ぶつもりだ。クローゼットを開けて特段選ぶわけでもなく目についたシャツとジーンズを手に取り、寝間着から着替える。デスクに置かれた一眼レフカメラを手にとり、首にかけた。
階段を降り、洗面台に向かおうとしたところで母親と鉢合わせになり、声を掛けられる。
「あら、日陰、おはよう。今日は出かけるの?」
少し驚いた顔をするのは、彼が珍しく寝間着を着替えているからだろう。首にかけた一眼レフカメラも、彼が出かける合図のようなものになっている。母親、佐藤光。まるで自分とは正反対の名前だ。光から自分が生まれたのだから、皮肉めいた響きさえ感じる。
年齢相応に落ち着いた雰囲気を持っているが、その優しさが顔の表情に表れていた。
長い髪を一つにまとめて、エプロンを着用している。今日もその姿で、温かな笑顔を浮かべて日陰を見ていた。母性を感じさせる、安心感を与える存在だ。
「写真、そんなに楽しいの?」
どこか嬉しそうな母の問いかけに、日陰は少し照れくさそうに目を逸らし、ぶっきらぼうに答えた。
「別に……」
そのまま洗面台で支度を済ませ、玄関を出る。容赦ない酷暑が全身を包み、蝉の声が耳に響く。汗ばむ首筋を気にしながらも、廃校までの道を進んでいく。
いつもの坂道を歩き、目指すのは廃校の校門だ。
春には桜が咲き誇る並木も、今は夏の陽に照らされ、青々とした葉が繁るばかり。緑のトンネルが夏の訪れをこれでもかと主張しているようだった。
歩みを続けるうちに、日陰の心は静寂に包まれていく。少しずつ、その場所へと引き寄せられているような気がしていた。
途中、坂道の向こう側から、同じ高校の生徒らしい3人組が談笑しながら歩いてくるのが見えた。
鮮やかな私服、屈託のない笑い声。顔は見たことがある気がするけれど、名前は思い出せない。
誰とでも自然に笑い合える人たち——きっと学校の中でも光のような存在なのだろう。
(……俺には、関係ない)
無意識に視線を逸らし、すれ違いざま、少しだけ息を詰める。
ああいう輪の中にいる自分なんて想像もできない。どこか遠い世界の出来事のようで、羨ましいとも思えなかった。
むしろ、自分が入り込むことを考えるだけで息苦しくなる。
---
やがて、廃校の廃れた校舎が視界に入った。
かつての賑わいは跡形もなく消え去り、静まり返った空間が広がっている。
その場に立った瞬間、胸の奥に、ふっと涼しい風が吹き抜けた気がした。
(……やっぱり、落ち着くな)
誰もいない。誰の視線も、声もない。
廃れて色あせた校舎は、何も求めてこない。
——ここでは、何も壊れる心配をしなくていい。
傷だらけで止まった時間。
それが、日陰には不思議と心地よかった。
日陰は校門をくぐり、正面に佇むその廃れた建物を見上げ、無言でカメラを構えた。
止まった時計、ひび割れた窓ガラス、錆びついた鉄の柵——それらは時間が残した傷跡のように佇み、静かに過ぎ去った年月を物語っている。
——カシャ。
シャッターを切る音が、虚空に静かに響く。
その余韻が消えかけたとき、不意に背後から、柔らかな声が降ってきた。
「——ねぇ、私を撮ってよ」
反射的に背筋が震えた。
まるで止まっていた世界に突然水音が落ちたように、静寂が波立つ。
(……え!?)
思わずカメラを抱き寄せ、慌てて振り返る。
ずっと無人のはずだったこの廃校に、人がいる。
しかも——
そこに立っていたのは、見知らぬ少女だった。
長い黒髪が夏の風にさらりと揺れている。
制服は黒のセーラー服。真紅のリボンが胸元で軽やかに揺れて、微かに陽の光を受けて煌めいた。
透き通るように白い肌に、屈託のない笑顔。
なのに、その笑顔はなぜか儚く、この場所に似つかわしくないほど明るい。
陽の光が彼女を照らしているはずなのに、まるで淡い光を纏っているように見えた。
現実感が薄く、ふわりと空気に溶けてしまいそうな輪郭。
(だ、誰だ……!?なんでここに……!?)
心臓がドクンと跳ねる。
怖い。けれど、不思議と目が逸らせなかった。
彼女の姿には、異質さと惹きつけられる何かが入り混じっていた。
「……誰、ですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
日陰が問いかけると、少女はいたずらっぽく笑みを浮かべる。
「えーっ、人に名前を聞くなら、まず自分から名乗るのが礼儀じゃない?」
初対面とは思えないほど屈託のない声だった。
その軽さに、不思議と日陰の肩の力が少し抜ける。
(……普段なら、こういう子と話すだけで息が詰まるのに)
なぜかこの子には、言葉を返すことができた。
「佐藤……日陰、です」
自分の名前であるはずなのに、どこかぎこちない響きが残る。
その響きを反芻するように、彼女は楽しげに笑った。
「へぇ、佐藤日陰くんか。いい名前だね!」
笑顔と一緒に放たれたその言葉が、まっすぐ胸の奥に届いた。
あまりに自然で、あまりに眩しくて——息をするのを忘れそうになる。
「私はね、藤井美晴。『みっちゃん』って呼んで!」
無邪気な少女は自らを藤井美晴と名乗った。
日陰は内心でぼやく。
(初対面で“みっちゃん”なんて呼べるわけないだろ)
でもその声は、嫌味でも強制でもなく、不思議と親しみやすさに満ちていて——
言いかけた否定の言葉が、喉の奥で溶けた。
視線を合わせると、彼女の瞳はどこまでも澄んでいて、透明感の中にどこか遠いものを漂わせていた。
まるで現実の一歩先を漂っているような、神秘的な印象。
けれど、同時に——
不思議なほど温かさも感じさせた。
日陰は、心の奥が少しざわめくのを感じながらも、思わず視線を逸らした。
「何歳?」
美晴が興味津々な瞳で聞いてくる。
「……十五歳だけど」
彼女の雰囲気に圧倒されながら、ぎこちなく答える日陰。
「そっかー!中学三年生?高校生?私は十六歳!」
目を輝かせ、オーバーに体を動かしながら声を弾ませる美晴。
「……高校」
眩しすぎる笑顔に圧され、思わず目を逸らす。
気づくと、美晴の顔がぐっと近づいていた。
ほとんど息がかかりそうな距離だ。
「え、あ、その……」
言葉が詰まり、声が上ずる。まだ思春期真っ只中の彼には、この距離感がどうにも耐えがたい。
慌てて距離を取ろうとした瞬間、美晴がくすっと笑い、指先で日陰の肩を軽く突いた。
「何その反応〜!」
からかうような声に、日陰は顔を赤らめ、反射的に言葉を返した。
「や、やめろって」
その必死な様子が可笑しかったのか、美晴はさらに楽しそうに笑い出した。
困惑しながら額に汗を滲ませる日陰を見て、美晴はふっと笑みを緩める。
「ごめんごめん。で、こんなところで何してるの?」
首をかしげ、興味津々といった様子でじっと見つめてくる。
日陰は、心の中で「こっちの台詞なんだが…」と小さくぼやきながらも、視線を逸らしつつ答えた。
「……写真を撮りに。課題だから」
「ふーん、課題ってことは写真部とか?写真、好きなんだ?」
「……別に、好きってわけじゃない」
日陰の声にはどこか棘があったが、それは問いを向けられたことに対する防御反応だったのかもしれない。
美晴は一瞬きょとんとした後、にやっと笑みを浮かべる。
「そっか〜!でもいいなぁ、好きな時に好きなことができて」
美晴の声には、どこか羨ましげな響きが微かに混じっている気がした。日陰は「だから好きじゃないって」と言い返そうとしたが、なぜか言葉が喉に詰まる。咄嗟にそのわずかな感情の翳りを感じ取ったのかもしれない。
「どんな写真撮ってるの?」
美晴がまた一歩近づき、日陰のカメラに目をやる。
「……いや、別に」
日陰は思わずカメラを抱きかかえるようにして、視線を逸らした。
その仕草に、美晴はいたずらっぽく笑った。
次の瞬間、ぴょんと跳ねるようにして、日陰の目の前に現れる。
「ちょっ、待っ……!」
カメラのネックストラップが、ぐいっと引っ張られた。
首元に食い込む感触に、日陰は思わず声を裏返す。
「どれどれ〜」
悪びれる様子もなく、美晴はカメラの画面を操作し始める。
ぽちぽちとボタンを押しながら、撮影した写真を次々とめくっていく。
「……やめろって」
取り返そうと手を伸ばす。けれど——
女の子の手に触れることが、頭の中でやけに大きなハードルになっていて、指先は空を切っただけだった。
ストラップが頼りなく揺れる。
「わぁ、廃校ばっかり」
楽しげに振り返る美晴。
その屈託のない笑顔が、嫌味じゃないのに胸の奥をざわつかせる。
「……もう返せ」
低く、わずかに拗ねた声でネックストラップを引き寄せ、ようやくカメラを取り戻す。
「なんかさぁ、暗い写真ばっかじゃない? もっとキラキラしたものとか興味ないの?」
軽い口調で放たれた一言。
けれど、その何気なさが余計に胸の奥をチクリと刺した。
「……なんでもいいだろ」
ぽつりと漏れた声は、不格好だった。
言い訳とも呼べないほど頼りなくて、自分でも苦い気分になる。
(……でも、本当は、わかってる)
「夏」というテーマが与えられて、青空も街並みも、夏の花々でさえ。
カメラを構えようとすると、指先が止まってしまう。
——綺麗なものを撮るのが、怖い。
レンズ越しに見た美しい景色は、いつか必ず壊れてしまう気がしてならない。
写真に残した瞬間から、その輝きは過去になり、やがて色あせ、消えていく——そんな予感が頭から離れなかった。
(……いつの間にか、自分の中にできてしまっていたんだ)
“美しいもの = いずれ廃れて、朽ち果てるもの”
そう思ってしまうのは、きっとあの日の——
いや、それ以上は考えたくなかった。
「廃校なら、もう壊れてるし、ボロボロで、誰も見向きもしないし……だから、落ち着く」
誰に向けたわけでもなく、ぽつりと呟いた。
それ以上、失うものがない場所だから怖くない。
そんな逃げ場を、自分はここに見出していたのかもしれない。
「えー! せっかく写真を撮るなら、いろんなもの撮らないと!」
無邪気な声が、突き抜けるように響く。
明るく、真っ直ぐで、眩しいほどの響き。
美晴の言葉は、まるで陽の光のようだった。
——けれど、光は時に影を濃くする。
その純粋さが、かえって日陰の中の影を際立たせていく。
(……怖がってるだけなんだ)
誰かに指摘されたわけじゃないのに、胸の奥が小さく軋む。
自分で自分を責めるような思いがじわりと込み上げてきた。
「……別に、いいだろ」
声に力が入らなかった。
気持ちの奥を触れられたような不快感と、何かを見透かされたような居心地の悪さが絡みつく。
「へんなの〜!!!」
悪気ゼロの明るい声。
彼女の笑顔は、鬱陶しくもあり、羨ましくもあり——
でも、少しだけ心を揺さぶられる。
「……美晴さんは、なんでこんなところにいるんだ?」
唐突に、けれど気づけば口をついていた言葉。
「美晴」と呼ぶには距離が近すぎて、思わず「さん」をつける。
無意識のうちに、自分の安全地帯に立っていた。
美晴は、その呼び方が可笑しいとでも言うように、目を細めて笑った。
その笑顔に、胸の奥が不思議と緩む。
「それはね……ヒミツ。ミステリアスな感じが魅力的でしょ?」
軽やかな声。けれど、ふとした瞬間に影のような気配がよぎった気がした。
いたずらめいた笑顔の奥に、何か掴みきれないものがある。
胸の奥で、小さな針がチクリと刺さるような感覚。
(この子……本当に何者なんだ)
それなのに、不思議ともう怖さはなかった。
むしろ、気づけば目が離せなくなっていた。
光に触れたような温かさと、同時に、胸をざわつかせる儚さが入り混じっている。
ふと、彼女の横顔に目をやる。
夏の陽射しが頬をかすめ、輪郭がぼんやりと淡く光って見えた。
まるで現実と夢の境目に立っているような——そんな不思議な感覚。
「なぁ、本当にここで……何をしてるんだ?」
疑問というより、確かめたかった。
自分の中に芽生えつつある小さな違和感。
けれどその違和感は、不思議なことに徐々に興味へと姿を変えていく。
美晴は少しだけ視線を遠くに移し、口元に静かな微笑みを浮かべた。
その一瞬の間が、妙に印象的だった。
「うーん、そうだね……君に会いたかったから。って言ったら、信じてくれる?」
唐突に落とされた言葉に、心が跳ねる。
冗談にしては妙に真っ直ぐで、でも本気かどうかもわからない。
瞳に宿る光は無垢で、それなのに、ほんの少しだけ寂しげだった。
「……は?なんで俺に……」
自分でも愚問だと思う。
冗談だろう。揶揄われているに決まっている。
そう思うのが普通なのに、どうにも真っ直ぐで心がざわめく。
「んー、君が来たから、かな。私のこと、見つけてくれたの、君が初めてだし」
「それって……どういう――」
その意味を問い返す前に、美晴がふっと近づく。
一歩分の距離が急に消え、心臓が跳ねる音が自分でもうるさく感じた。
少し年上の先輩のような口ぶりで、いたずらっぽく唇を動かす。
「ねぇ、日陰。君、写真部でしょ? だったら、もっといろんな写真、撮らなきゃダメだよ!」
唐突な呼び捨てに少し驚きつつも、それを咎める気にはなれなかった。
どこか安心する声色で、まるで背中を押されるような響きを持っていたからだろうか。
「……撮りたいものなんて、特にないんだけど」
思わず口をついて出たその言葉に、自分でも少し驚いた。
完全に彼女のペースだ。
なのに、不思議と抵抗する気にはなれなかった。
むしろ、このまま流されてしまいたいような、妙に心地いい感覚。
美晴は数秒間、いたずらっぽい笑みを浮かべて黙っていた。
その沈黙が、どうしようもなく胸をざわつかせる。
「そっか。でもね、もし撮りたいものが見つからないなら――」
そこで言葉を区切る。
「私を撮ってみない?」
日陰の胸の奥で、何かが小さく弾けた。
「ねえ、私を撮ってよ」
さらりとした声。
からかいの響きが含まれているのに、なぜか冗談に聞こえない。
まるで、美晴自身がシャッターに映ることを心から望んでいるかのようだった。
日陰はしばらく黙ったまま、美晴の瞳を見つめた。
その瞳に宿る光は、屈託のない明るさと、もう一つ別の——もっと深い感情を隠しているように見える。
「……撮っても、いいのか」
自分でも驚くほど静かな声だった。
カメラを手に取ると、指先にほんのわずかに力がこもる。
ファインダーを覗き、美晴を捉えようとした——その瞬間。
胸の奥がざわついた。
視界の中で、彼女の輪郭がふわりと揺れる。
まるで陽炎のように、そこにいるのに、今にも消えてしまいそうな——そんな危うさがあった。
(……怖い)
シャッターを切った瞬間、この景色が“過去”になってしまう気がする。
ファインダー越しの彼女が、二度と戻らないものになってしまう気がする。
指先が微かに震えた。
---
春の午後。
まだ制服の袖に違和感が残る頃、日陰は無目的に街を歩いていた。
肩から下げた新品の一眼レフが、やけに重たく感じる。
入学早々に写真部へ入ったものの、特別に写真が好きなわけじゃない。
ただ、部員が少なく、誰かと関わらずに済みそうだったから選んだだけだった。
けれど、親に買ってもらったカメラを放置するのも気が引けて、こうしてなんとなくシャッターを切れる場所を探している——
それだけの理由だった。
---
ふと、足が止まる。
視界の端に色とりどりの花が映った。
古びた木の看板、くすんだガラス戸。
そこに並ぶ花たちは、春の光を浴びて、眩いほどに鮮やかだった。
(……綺麗だ)
無意識にカメラを構える。
ファインダーの中の花は、街の喧騒から切り離されたように静かで、そこだけ特別な世界に見えた。
——カシャ。
シャッター音が小さく響く。
光に透けた花びらが、瞬間ごと切り取られる。
「よく撮れたかい?」
柔らかな声にハッとし、顔を上げると——
店先に小柄なお婆さんが立っていた。
しわの深い顔に、優しい笑みを浮かべている。
「……あ、はい」
不意に声をかけられ、少し動揺しながら視線を逸らす。
「写真、撮るの好きなの?」
「い、いや……別に…」
ぎこちなく答えると、お婆さんは微笑みながら水やりを再開した。
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翌日。
(……用事があるわけじゃないのに)
気づけば、また花屋の前に立っていた。
扉の向こうからお婆さんがこちらを見て、穏やかに笑う。
「いらっしゃい。昨日の子ね」
「……通りかかっただけです」
「ふふ、そう」
店先の花は、春の光の中でさらに鮮やかさを増している。
カメラを構えると、不思議なことに昨日よりも楽しく感じた。
——カシャ。
---
さらに数日、日陰は花屋へ通った。
お婆さんはいつも優しく迎えてくれた。
ほんの数分の会話。
それが、普段他人と話すのが苦手な日陰には、なぜか心地よかった。
「学校は楽しい?」
「……普通です」
「そう。無理に楽しくしようとしなくていいのよ」
水やりをするお婆さんの横顔が、どこか柔らかく見えた。
(……悪くないかもしれない)
撮るたびに少しずつ心が軽くなるのを感じていた。
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ある日の夕暮れ。
お婆さんは店の奥から、小さな鉢植えを持ってきた。
まだ固く閉じた蕾が、春の光に淡く透けている。
「これね、もう少しで咲くの」
「……咲く?」
「ええ、二週間もすれば。咲いたらね、とても綺麗なのよ」
お婆さんは嬉しそうに蕾を見つめていた。
「写真に撮っておいたら?咲いたときと比べるのも面白いかもしれないわ」
日陰は少し迷ったが、レンズ越しに蕾を覗く。
その姿は、まだ開ききらないのに、どこか繊細で儚かった。
——カシャ。
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「咲いたら、また撮りにおいで」
「……え」
「約束よ」
小さな笑顔で告げられたその言葉が、なぜか胸に残った。
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二週間後、日陰は花屋を訪ねた。
だが、そこにはもう花の香りも、お婆さんの姿もなかった。
扉は閉ざされ、看板は外されている。
店内には見知らぬ人影があり、荷物を運び出していた。
勇気を出して声をかける。
「あの……ここって」
「あぁ……お客さ……。あの…おばあちゃん、先週倒れて……」
言葉を選ぶように、女性は目を伏せた。
「病院で亡くなったの」
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頭が真っ白になる。
店内の隅。
あの蕾だった花は、水を失い首を垂れていた。
萎れた花びらが床に落ちている。
(……なんで)
---
その夜。
日陰は部屋の中でカメラを手にしていた。
震える指で電源を入れ、撮りためた写真を一枚ずつ見返す。
ファインダー越しに覗いたあの日の花。
春の光を透かし、凛と咲き誇るその姿。
お婆さんが微笑みながら水をやっていた横顔。
どの写真も、あまりに綺麗で、あまりに優しくて。
だけど。
今、その美しさは苦しみに変わる。
あの花はもうない。
あの店も、お婆さんも、消えてしまった。
(俺が……シャッターを切ったから、終わったんじゃないか)
そんなはずはないと頭では分かっている。
でも、心はそう信じ込んでいた。
カメラのモニターに映る花の写真が、ひどく冷たく、無機質に見える。
もう戻れない時間を、突きつけるようだった。
(……見たくない)
画面を閉じ、無意識にデータ消去のボタンを押す。
「本当に削除しますか?」
問いかけが浮かぶ。
——はい。
指が動き、写真は跡形もなく消えた。
その瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開くような感覚が広がる。
(……美しいものほど、酷く壊れる)
あの美しさがあるからこそ、朽ちていく姿を思い浮かべるだけで胸が裂けそうになる。
壊れたことが鮮明に写る。
あの蕾は無惨に萎れ、美しさは失われていた。
あの輝きも生き生きとした緑の葉さえも、あの微笑みも、消えてしまうと、失うと、こんなにも胸が苦しいのだ。
どんなに美しいものもいつかは潰える。
そんな呪いのような思いが、彼を縛り付けてしまった。
---
「……やっぱり、やめておこう」
そっとカメラを下ろす。
美晴は不思議そうに首を傾げるだけで、無理に理由を聞くことはなかった。
「なにそれ、変なの!」
くすっと笑い、肩をすくめる。
その無邪気な仕草に、日陰は少しだけ見惚れてしまっていた。
「はーーー、まぁいいや!」
あっけらかんと笑いながら、美晴は校舎のほうへ視線を移す。
「それより、日陰はこの学校が好きなの?」
問いかけに、日陰は一瞬迷いながら、校舎を見上げた。
「……好きってわけじゃないけど。なんか……落ち着く」
言葉にして改めて自分の中の想いが形を成した気がした。
「あー、わかる。私も」
美晴は嬉しそうに頷き、遠くに視線をやる。
「落ち着くよね、ここ……どこか、特別な感じがするっていうか」
そのひと言に、日陰の心がかすかに揺れた。
彼女にとって、ここは“ただの廃校”じゃないのか。
「……そうだな」
短くそう返すと、美晴はふっと優しく微笑んだ。
「ほら。学校にはね、物語があるんだよ。
例えば……誰かがここで過ごした青春の物語とかね」
その言葉は、まるで風が胸の奥に吹き込んでくるようだった。
物語。青春。
かつて誰かがここで笑って、泣いて、走った——そんな時間の残り香。
今はもう誰もいない教室に、かすかに漂うその気配。
「日陰のカメラで、その思い出を切り取るの、面白そうじゃない?」
そう言われて、日陰は無意識のうちにカメラを持つ手に視線を落とした。
けれど、そこにほんの少し、重さを感じた。
春の日の記憶が、そっと胸の内側をなぞる。
(……思い出、か)
ふと浮かぶ、あの花屋の光景。
シャッターを切ったあの瞬間、確かに美しかった。
でも——そのあと、何もかもが消えた。
自分が撮ったことで、それが終わってしまったような、妙な罪悪感。
それ以来、綺麗なものにレンズを向けることが怖くなった。
自分の“綺麗だ”と思う感情が、何かを壊してしまうんじゃないかと。
それを説明することもできず、誰にも言えず、ただ避け続けてきた。
綺麗だと思うほど、その終わりが怖くなった。
だから、撮れなかった。
「カメラって、特別なものを切り取る道具でしょ?」
美晴の声が、そんな心の奥のほつれに触れる。
でもその声は、過去を掘り返すようなものじゃなかった。
どこか、未来の方を見ているような——そんな柔らかさがあった。
“終わりを告げる”んじゃない。
“ここにあった”という証を、そっと抱きしめる。
美晴の言葉には、そんな温度があった。
(……それでも、消えていくのが怖くて。
何も残さなければ、きっと、失う苦しさも知らずに済むのに)
心のどこかで、そう思う自分もいる。
けれど今、この目の前で笑う彼女は、
“終わること”を恐れるより、“残すこと”に意味を見出しているようだった。
「思い出とか、忘れたくないものとか、そういう特別なものをね。カメラは残してくれるんだよ」
その声は、静かに、けれど確かな熱を帯びていた。
日陰は、ほんの少しだけ、
“撮ってみたい”と思った。
この笑顔を。
写真を撮ることは、終わりを記すことじゃない。
——終わることを知っていても、廃れることがわかっていても、それでも、それすらも抱きしめようとするような行為なのかもしれない。
ゆっくりと、日陰はカメラを握りしめた。
しばらくの暗黙があった。
その暗黙を破るように、美晴がふいに言った。
「ねぇ、日陰、学校の中に入ってみたくない?」
美晴がふっと微笑みながら、校舎の正面玄関を見つめて言った。
廃校となったその建物の入り口は、長年の風雨にさらされて色あせ、ガラスにはうっすらと土埃がこびりついている。
奥には、時間に取り残されたような下駄箱の影が沈んでいた。
「……鍵、かかってるでしょ」
日陰は無意識にそう返す。
何度もここに通っているからこそ知っている。入り口はずっと閉ざされたままだった。
すると、美晴はふふっと笑い、言った。
「んー、じゃあ、見ててね」
そう言って、まっすぐ扉へ向かう。
そして――
彼女の輪郭が、ふわりとゆらいだ。
光を透かすように淡くなったかと思うと、次の瞬間にはその身体が、扉を通り抜けるようにしてすうっと消えていった。
「……!」
言葉が出なかった。
理解も、感情も追いつかない。
ただ、立ち尽くすしかできなかった。
そして――ほんの数秒後。
「カチャッ」
内側から鍵の回る小さな音がして、重そうだった扉が、何事もなかったかのようにゆっくりと開いた。
そこには、何食わぬ顔で立つ美晴の姿。
「鍵、開けといたよー」
無邪気な笑顔が、日陰の動揺をさらに深くした。
あまりに自然にそこに立っているせいで、さっきの出来事が現実だったのかさえわからなくなる。
けれど、確かに見た。
彼女が扉を、まるで霧のようにすり抜けて消えていったのを
絶対におかしい。
ただ立ちすくむ日陰に、美晴はふっと腕を差し出した。
「脈、ないんだー。触ってみる?」
その言葉は冗談のように軽くて、けれど――
その仕草はどこか切なげで、真実を含んでいるようだった。
日陰は迷いながらも、差し出された手を見つめ、そっと指先を近づける。
触れる寸前、わずかに手が止まる。
――戻れない気がした。
それでも、この違和感の正体を、どうしても確かめたかった。
静かに指を添える。
脈は――なかった。
冷たくて、けれどどこか柔らかい肌の感触だけが、確かにそこにあった。
「実はね、幽霊なんだー!」
美晴は軽く笑って、冗談のように言った。
その明るさと、どこまでも透き通るような儚さ。
なぜだろう――
その美しさと儚さが、あまりに綺麗に噛み合っていて、
だからこそ、日陰は現実として受け入れてしまいそうな自分に気づいていた。