第十八話「私の分の海」
夏休みが終わってから一週間。
夕暮れの陽が部屋に浅く入り、カーテンの陰が広がっていた。クーラーの送風音だけが低く続き、どんよりと重苦しい空気が居座っている。
床にはTシャツとタオル、勉強机の上にはバッテリーの抜けたカメラと、裏返しの写真がばらばらに散らばっている。
枕元のスマホは黒い画面のまま。
充電コードも刺さっていない。
ノックが三度。
「日陰、起きてる?」
母の光の声だった。
ここ一週間、光は朝・昼・晩とご飯を作り、ドア越しに呼んでくれる。
だが、食欲がほとんどなく、最近は一食、食べるか食べないかくらいでいる。
—―ただ、夕飯にしては少し早い時間だった。
間をおいて—―「お友だち、来てるわよ」
日陰はベッドから上半身を起こした。
扉越しに、亮の大きい声、星奈の控えめな相槌、翔子の小さな息遣い。
少し躊躇ったが、
「……入っていいよ」と呟くように言った。
—―この三人になら、いまは話せるかもしれないと思えた。
ドアが開く。
三人の顔が見えた。
花火大会から一週間しか経っていないのに、やけに久しぶりに感じた。
「よー!心配してたぞ。体調不良で休みって……うわ、顔色、マジで悪いな」
亮が言い、
「お邪魔します……」
と星奈が小さく会釈して部屋の散らかりに目を瞬かせる。
翔子は目を伏せ、気まずそうに立ち位置を探した。日陰も、翔子の方はなるべく見ないように視線を滑らせる—―それでも、来てくれた声が部屋に入っただけで、胸の重さがほんの少しだけ薄くなる。
「とりあえず、ほら」
亮がコンビニ袋を掲げる。
「ゼリーとスポドリとパン。食えそうなやつだけ買ってきた」
星奈が素早くペットボトルのキャップを開け、ストローを差す。
「無理せず、ちょっとずつでいいから」
翔子はゼリー飲料のキャップを開けると、いったん自分の掌で包んだ。
それから日陰の手元まで持っていき、触れない距離でそっと差し出す。
「ゼリーなら……喉、通りやすいよ」
日陰は少しだけ悪いと思いつつ、優しさに感謝してゼリーを受け取って口に運ぶ。
ゼリーが喉を滑り落ちる。
酸味が弱く、やけに優しい味がした。
二口、三口。
固まっていた胃が、ゆっくり思い出すみたいに動く。
「……ありがと」
小さく言うと、亮がわざとらしく胸を張る。
「ほらな!生き返ったろ!」
翔子はスポーツドリンクのボトルを手に持ち、いつでも差し出す準備をしているように見える。
—―そんな静かな励まし。
たしかに、来る前より呼吸が少しだけ深くなっている。
「まじで、連絡も返さねーし!死んだんかと思ったわ」
亮がいつもの調子で笑いながら言う。
「ごめん。充電切れてて」
枕元のスマホを手に取って見せる。
「充電しろよ、ばか」
笑う亮。つられて日陰も少しだけ笑い、星奈と翔子も優しく笑った。
「にしても……散らかってんなぁ」
亮が苦笑して、机の上を一瞥する。
勉強机の上の裏返しの写真が、乱雑に散らかっていた。
「こういうのさ、夏休みの思い出話とかで元気出るんじゃね?」
言いながら、その中から一枚をひょいと摘もうとする。
「……おい、勝手に触るなよ」
思わずベッドから身を起こし、亮の手に近づく。
「なんだよー」と亮は言いつつ、指の力を弱めない。
そのまま、ふっと表に返す。
日陰は視線を床に落とし、伸ばしかけた手を止めた。
「うぉ!海? めっちゃ綺麗!!これ俺たちと行ったやつと違うな?」
喉がきゅっと詰まる。裏向きにしてきた写真だ。
黒いセーラー、真紅のリボン、砂に残った足跡、満面の笑み—―思い出すたびに胸がきしむ。
だから、裏向きにしてしまった。見ないように。
いま見たら崩れてしまいそうで、壊れてしまいそうで、だから。
いっそ捨てようとさえ思った。
だが、それだけはできるわけがなかった。
「あぁ……うん……」
日陰はベッドの端に腰を落とし、手で目を覆った。
「へぇ、すごい透明感だね」
星奈がのぞき込み、
「……綺麗」
翔子も短く同意する。
しばらく三人が何枚かをめくる。
紙が空気をすべる、乾いた音だけが続く。
捲られ、「綺麗」と発されるたびに、美晴の顔がちらつく。
あの瞬間の記憶が、どんどん蘇ってくる。
「もういいだろ」—―そう低く言いかけて、日陰が顔を上げたとき。
「……一人で行ったんだ?」と亮が何気ないトーンで言った。
目が数回瞬く。
「は?……いや……美晴と行ったよ」
「……へ?」
亮が眉を上げる。
「美晴って、誰?」
星奈も首を傾げる。
「お友達?」
翔子は困ったように目を泳がせている。
部屋の音が、ひとつずつ遠のく。
クーラーの送風音だけがやけに耳につく。
血の気が、すっと引いた。
喉がひどく乾く。
頭がくらくらする。
「は?……何言ってんだよ」
いつもより少し強い調子。
「え、ごめん。俺、なんか悪いこと言った?」
亮が肩をすくめ、星奈と翔子を見る。
二人の顔にも、同じ「わからない」が浮かぶ。
その揃い方が、背中を氷の指で撫で下ろす。
「だ、大丈夫か?」
亮は慌てて空気を変えようと、机の写真を数枚、表に返す。
「ほら、これとか! ひまわりもすげぇ! ぜんぶ、綺麗だな!」
ぱらぱらと紙の音。
ひまわり畑。海。廃校の教室。
次々と日陰へ向けられる。
だが、そこにいたはずの黒いセーラー服の少女は、どの一枚にも写っていなかった。
日陰の脳裏に確かにある『居場所』だけが、写真の上ではぽっかりと空いている。
首を支える力が抜け、視線が床へ落ちる。
「…は?」
声にならない声だった。
心配するように亮は何か口にしようとしたが、
「……ごめん。……一人にしてほしい」
小さな声の日陰。
心が崩れていく、穴がぽっかりと開く感覚。
亮が目を丸くする。
「だ、大丈夫……か?」
「いいから。……本当に」
声の温度で、泣いているのが伝わったのだろう。
亮は言葉を飲み込み、二人に目線で合図する。
「……わ、わかった。悪かった。これ置いとくから、メシはちゃんと食えよ」
コンビニ袋をそっとベッドのそばに置く。
星奈がドアを少しだけ開け、「また来るね」と小さく言う。
翔子は何かを言いかけて、でも結局、唇を結んだまま一礼した。
ドアが閉じる。足音が遠ざかる。
部屋に、夏の終わりの静けさが戻る。
日陰はゆっくりと立ち上がり、机に手をついた。
そして、恐る恐る、まだ裏向きの写真たちをひとつ、またひとつ表にしていく。
(見間違いだ—―)
そう言い聞かせるたび、表に返った光景はどれもよく晴れていて、どれも綺麗で、どれにも—―彼女はいない。
視界が滲む。息が浅い。胃がきゅっと縮んで、吐き気がせり上がる。
写真を掴んだ手がじわりと汗ばむ。
最後の一枚を、表に返す。空白が、そこにもある。
(全部……なかったことになるのか……?)
膝から力が抜けた。
床の冷たさが頬に触れる直前、世界の角がふっと丸くなる。
—―暗さが、音より先に落ちてきた。
---
カーテンの隙間から薄い光が、散らかった床を撫でていた。
クーラーの送風音だけが部屋の中で低く続く。
勉強机の上には裏返しの写真が散らばって重なり、枕元のスマホは黒い画面のまま。
充電コードは、挿さっていない。
部屋の扉がノックされる。
間をおいて、声。
「……日陰くん」
翔子の声だった。
躊躇いを含んだ呼吸が、言葉の前にかすかに擦れる。
日陰は布団に顔を埋めたまま、
「……帰ってほしい」
声は、思っていたより弱かった。
廊下の向こうで、翔子が一拍、息を飲む。
「………いきなり来ちゃって、ごめん」
少し間があって、続く。
「でも、帰らない。ドアの外からでもいい」
喉の奥の湿り気が、すっと引いた。
「ごめん。……誰とも話す気分じゃない」
冷たく聞こえるのを自分でもわかっていた。
優しさを無碍にしている嫌なやつだ、と頭の中で呟くのに、今はどうしても耐えられなかった。
「それでも—―」
少し震える声。
「伝えたいことがあるの」
沈黙。
クーラーの送風音が低く鳴る。
「—―あの夜からね」
かすかな悲しみの色が、声の縁ににじむ。
「胸の真ん中に、ぽっかり穴が空いたみたいで。最初は……振られたからだって思ってた」
心臓が、ぎゅっと握られる。
痛みと罪悪感が、いっぺんに顔を出す。
「でも、三日前に星奈と亮くんとここに来て……日陰くんの、撮った写真を見て」
浅い呼吸が、言葉を探す。
「それだけじゃないって、思ったの」
日陰は思わず布団から顔を出し、上半身をゆっくり起こしてドアのほうを見る。
「写真を見た時。写ってないのに—―そこに『誰か』の輪郭が浮かんだんだ。……悔しいのに、目を逸らせなかった」
(……覚えているのか?)
喉の奥の問いが、熱へ変わる。
呼吸が少し荒くなるのを、自分でも止められない。
「だから帰れない。誰かを、日陰くんは失くしちゃったんだって……そう思ったから。その穴の辛さ、私にも少しはわかるから」
扉の前で、気配が止まる。
胸の奥の硬いところが、じわりと溶けた。
無言で立ち上がり、ベッドから降りて扉へ。
気づけばノブを回し、ドアを開けていた。
「……入っていいよ」
翔子は少し驚いて、頬を赤く染めながらも小さく会釈し、一歩だけ中へ入る。
「お邪魔します」
部屋の空気を確かめるみたいに息を整え、視線が自然に机の方へ—―散らばった裏返しの写真に吸い寄せられる。
こちらを一度見上げ、「見てもいい?」と尋ねる。
日陰が小さくうなずくと、散らばった写真の中からそっと一枚を抜き、表へ返した。
「これ……綺麗な写真、だよね」
日陰は無言でうなずく。
海の写真だった。
白い波の線、空のまぶしさ。潮の匂いまで、いまも喉の奥に残っている。
—―初めて、美晴を撮った一枚だ。
「……ただの海の写真に見えないの」
翔子は指先で真ん中の—―空の辺りをなぞる。
「ここに『誰か』がいる気がする。日陰くんは、その人を撮ってる—―そんなふうに見える」
胸の内側で、いくつもの温度が渦を巻く。
苦しい。痛い。
写真には写っていないのに、目にははっきり浮かぶ。
(そうだ。そこに、いた)
頷こうとして顎がわずかに震える。
視界の縁が、水で滲む。
けれど、次の瞬間—―喉の奥が、別の痛みで締まった。
春の匂いが、ふいに鼻腔を刺す。
シャッターの音。短くて、乾いていて、取り返しがつかない音。
俺が撮ったせいで。
撮らなければ、
終わりなんて知らずにいられたのに。
握った指先が冷たくなる。
「……でも」
声が、思ったより掠れた。
翔子が顔を上げる。
「……もう写ってないんだ」
写真から目を逸らせないまま、日陰は言う。
「消えてしまったんだ。……どこにも…いないんだ」
言葉の端が震える。
視界の中の海は、綺麗すぎるくらい晴れている。
綺麗だから、余計に怖い。
—―『終わり』の手触りが、そこにある。
「こんなことなら、撮らなければよかった……」
吐き出した瞬間、胸の奥がひりつく。
後悔を言葉にしただけで、あの春に引き戻されるみたいだった。
「俺が撮ったから……だから……終わったんだ……」
喉が詰まる。
唇の裏が苦い。
写真を抱えた腕に力が入らない。
翔子は、何も言わなかった。
ただ、唇をきゅっと結び、視線を落とす。
苦しそうに息を飲んで、それでも逃げない。
その沈黙が、日陰の言葉を否定しないまま受け止めてくれる。
机の上の写真の山が、薄い音を立てた。
クーラーの送風音が、やけに遠い。
翔子はゆっくりとバッグの口を開ける。
写真袋を取り出し、指先で一枚を探してから、日陰の前にそっと出した。
「………これ、見てくれる?」
視線が落ちる。
花火の夜のツーショット。
二人とも、ぎこちなく笑って、肩が触れている。
日陰は、思わず瞬きをした。
「……それ」
翔子は写真の角を、指で軽く押さえる。
「ごめんね。勝手に印刷しちゃった…」
日陰は気まずそうに目を逸らす。
「この写真を見ると思い出すの」
一拍。喉の奥で言葉を整えるみたいに息を吸う。
「—―振られた、あの瞬間を」
日陰の胸が、きゅっと縮む。
反射で顔を上げてしまう。
翔子が慌てたみたいに目を揺らし、苦笑する。
「あ……ごめん。日陰くんも、こんな話……気まずいよね」
言いかけて、でも首を振る。
逃げるのではなく、踏みとどまるみたいに。
「でも続けさせて」
翔子は写真を見つめたまま、言葉を選ぶ。
「正直、消そうと思ったの」
日陰の喉が鳴る。
「見るたびに涙が出てきて……告白なんてしなければって思った。苦しくて、痛くて……もう日陰くんに会えないって思った」
指先が、写真の縁をなぞる。
破れないように、落とさないように。
「でもね」
翔子は、ほんの少しだけ笑った。
その笑みはすぐにほどけて、カーテンの隙間からの夕光にかすかに揺れた。
「それと同じくらい……思い出した記憶が、すっごく楽しくて……ドキドキして……本当に幸せで……」
声が、ひどく優しい。
優しいから、胸が痛む。
「だから私は、この日を絶対に忘れたくないって思った」
日陰は、何も言えない。
ただ、耳の奥で—―花火の音がもう一度、遠く鳴った気がした。
「日陰くんの『特別』にはなれなかったけど……私にとっては、間違いなく特別な時間だったの」
一拍置いて、翔子は続ける。
「この一枚があれば、あと五十年くらい生きられるかもって—―本気で思えた」
胸の奥が、じわりと痛む。
罪悪感が、熱に変わる。
「きっと。楽しさも感動も、痛みも悲しみも。ぜんぶ含めて『思い出』って呼ぶんだと思う」
翔子は写真を見つめたまま、まっすぐ言う。
「思い出は、前を向かせてくれる力があると思う」
日陰は小さくうなずく。声は出ない。
翔子はツーショットを写真袋に戻し、バッグに入れた。
その動作が、やけに丁寧だった。
『消す』じゃなく、『残す』みたいなしまい方。
「だから、日陰くんの思い出が—―その瞬間の『特別』が、日陰くんの中で残り続ける限り、きっと未来を照らしてくれる」
息が詰まる。
それでも、肩の力がすうっと抜けていった。
—―彼女はもう、どこにも写っていない。
それでも、写っていない場所が—―胸の中で、こんなにもうるさい。
終わったなんて、言えるはずがなかった。
目を閉じれば戻れる。
花屋の棚に鮮やかに並んだ花も、おばあさんの笑顔も、蕾のまま朽ちてしまった花も、空っぽになった店も。
潮の匂いも、波の音も、眩しいほどの黄色も、花火と一緒に消えてしまった、太陽みたいな笑顔の彼女も。
痛みも苦しみも残ってる。消えてくれない。
指先で触れたら崩れそうで、できるならもう見ないでおきたい。
それでも—―光が残ってる。
もう戻らない光だ。
なのに、戻らないからこそ、いまもこんなにも鮮やかだ。
シャッターの音が、終わりを連れてくるんじゃない。
終わりが来ても、終わらせないために—―俺は押した。
そう思えるだけの温度が、確かに残っている。
—―あの声が、まだ耳の奥を震わせている。
苦しさは消えない。
でも、それが全部なはずがない。
胸の奥では—―痛みと一緒に、それ以上の光が、まだ温かく灯っている。
あの笑顔が、鮮明に焼き付いたままだ。
日陰は海の写真を胸元に引き寄せるみたいに持ち直した。
やっと、息を吐いた。
「……ありがとう。なんか、元気出たよ」
翔子はふわっと笑う。
「……よかった」
日陰がゆっくりと息を吐くと、翔子は少しだけ視線を泳がせ、口を開いた。
「わがまま、言ってもいい?」
「ん?……まあ、励ましてもらったし。俺にできることなら」
翔子は遠慮がちに、机の下に置かれたカメラ屋の紙袋を指さす。
「勉強会の時の写真、欲しかったのがあって……」
「あー、はいはい」
日陰は紙袋をごそごそ漁り、束になった写真を取り出す。
「好きなの、取っていいよ」
「ありがとう」
翔子は嬉しそうに受け取り、ぱらぱらとめくる。
そして、一枚で指が止まる。目がやわらかく笑った。
「—―えっ、それは」
日陰の声が上ずる。
翔子の指先にあったのは、勉強机に伏せるノート、窓の光、そして真剣な日陰の横顔。
「うわー!!それは恥ずかしいから、ダメだ!!」
耳まで熱くなる。声の調子が、ほんの少し戻っているのに気づく。
「ず、ずるいよ……さっき『好きなの、取っていいよ』って言ってくれたのに」
翔子は口を尖らせ、それでも楽しそうに笑う。
「これは、流石に恥ずかしすぎるだろ……」
日陰が顔を覆うと、翔子の表情がすこしだけ寂しく揺れたのに気づく。
(まぁ……好きなの取っていいって言ったのに、取り消すのは—―ないか)
日陰が迷っていると、翔子が小さく息を吸う。
「それにしても……これ、やけに綺麗だよね」
横顔の写真をうっとりと眺める。
「光の拾い方がすごく優しい……落とさないように両手で包むみたいに、構図が丁寧で……ピントにも迷いがない」
「—―大切なものを撮るときの優しさを感じる」
言葉が、胸のど真ん中に落ちる。
膝から力が抜け、気づけば床に膝をついていた。
翔子は慌てて膝を折り、同じ目線に降りる。
「大丈夫?」
日陰は無言で、泣きながらうなずく。
翔子はやさしい顔で、そっと笑う。
「…………やっぱりこれは諦めるね」
そう言って、写真を日陰の手にそっと重ねる。
紙が小さく鳴る。
そして、別の束から一枚を抜き取った。
—―四人で海に行ったときの集合写真だった。
「代わりに……この写真、もらうね」
「……うん」
翔子はその一枚を胸の前に掲げ、まっすぐ言う。
「これは、—―私の分の海」
きっと、彼には—―誰かと見た海がある。
あの写真の内側にたしかに触れた、二人だけの時間。
きっと、とても素敵だったんだろう。
それは私の海ではない。
目の前のこの一枚も『二人の時間』じゃない。
友達四人で見た海だ。
それでも、胸の内側まで押し寄せてきた波の色、星奈と初めてツーショットを撮れた嬉しさ、みんなで笑った声、日焼け止めも追いつかない陽射し、新幹線の他愛ない会話—―そして、気づけば誰かを好きになっていた、その始まりまで。ぜんぶが、この一枚に残っている。
だから翔子は胸を張る。
これは—―私の分の海だ、と。
彼女は顎を少し上げ、窓の外へ視線を送った。
「素敵な夏だったね」
日陰は、涙越しにうなずいた。




