第十七話「どうしようもなく綺麗だった」
朝、枕元のスマホが小さく震えた。
グループチャットに亮からのメッセージ。
『花火大会決行だぞ!!!! やばすぎる! 奇跡って起きるんだな!』
ぼんやりした視界のままネットニュースを開く。台風は夜のあいだに進路を外れ、温帯低気圧に変わって消滅――の文字。
時刻は午前十時すぎ。
胸の奥で何かが、ふっと軽くなる。
日陰はチャットに戻り、短く打ち込んだ。
『ありがとう。良かった』
二度寝の誘惑はあった。
けれど布団のふちで起き上がり、クローゼットを開ける。
しばらく突っ立ったまま、ハンガーの列を見つめた。
(……別に、いつものでいいよな)
そう思うのに、落ち着かない。
白、グレー、黒。
どれも無難で、どれも少しだけ違う気がする。
指先が、いちいち迷う。
もう一度ベッドに倒れ込み、スマホを顔の前へ。
検索アプリを開いて『祭り 服装』と打つ。
画面にはハッピの画像がずらりと並ぶ。
(いや、そういうんじゃない)
検索欄に指が止まる。
ためらってから、打ち足した。
『祭り 服装 デート 男』
(バカみたいだな……)
躊躇しつつも、検索を押す。
『清潔感』『きれいめ』の文字が目に入る。
白いTシャツ、薄いグレーの開襟シャツ、黒のワイドめのパンツ。
(何をそんなに迷ってるんだよ……)
気づけば正午を回っていた。
窓の光はさっきより眩しい。
クローゼットから服を出しては掛け直し、また戻す。
鏡の前で髪を手ぐしで整え、気になって爪の先を少し切る。
ベッドの上には候補が並び、何度も合わせては脱いでを繰り返した。
(何やってんだ……)
記事をもうひとつ読む。
靴は汚れていないこと。
涼しげがいい。
――香水?
(そんなの持ってないぞ…)と頭をかく。
髪のセット方法、メンズメイク……見れば見るほど、今からじゃ無理なものばかり。
そうこうしているうちに十四時を過ぎていた。
結局、白いTに薄グレーのシャツを重ね、黒のワイドめのパンツ。
無難で、ほとんどいつも通りの服装だ。
深いため息がひとつ落ちる。
とぼとぼ階段を降り、洗面台で顔を洗う。
冷たい水で目を覚ます。
トーストを一枚、牛乳を半分。
喉を通る音がやけに頼りない。
「よし」と小さく息を吐く。
カメラのネックストラップを首にかける。
重さが胸の真ん中に落ち着いた。
玄関でスニーカーに足を入れていると、廊下の向こうから母・光の声。
「あら、出かけるの?」
驚いて振り返る。
「……うん」
自分でもわかるくらい、声にほんの少し嬉しさが混じった。
光はその色を見逃さない。
目尻をやさしく下げて笑う。
「楽しんできてね」
「……うん。いってきます」
ドアを開ける。
外は明るく、蝉が元気に鳴いている。
画面の時刻は十六時三十分。
まだ高い陽は、今夜のためにゆっくりと深さを増やしはじめていた。
---
桜並木のゆるい坂を登っていると、背中の方で小さな呼吸が揺れた。
「……日陰くん」
振り返る。
翔子だった。
「—―あ、今日はよろしく」
驚いたまま、日陰の足が止まる。
翔子は少しだけ小走りで追いついて、隣へ並んだ。
「こちらこそ」
照れを混ぜた声。
視線が、つい足元から拾ってしまう。
浴衣だった。
薄白の地に墨の花。
灰鼠の帯がきゅっと締まって、襟元がきれいに決まっている。
うなじを見せるようにまとめた髪に、白い花の髪飾りが一輪。
肩には細いストラップの小さなカメラ、もう片手には同じ色の巾着。
緑陰の中で、布の白だけが静かに浮いて見えた。
(……綺麗だ)
その単語が、胸の内側に落ちたまま残る。
今日は—―翔子と花火を見る。
ずっと美晴のことで頭が塞がっていたのに、今はこんなふうに隣を歩いている。
しかも、もしかしたら—―いや、勘違いかもしれないけれど—―自分に好意を抱いて
そう思った途端、喉が乾いた。
吸う息が浅くなる。
目を合わせられなくて、前だけを見たまま歩幅が少し速くなる。
「ご、ごめん。日陰くん。ちょっと……これ、歩きづらくて」
翔子が立ち止まり、しゃがんで下駄の鼻緒を指先でそっと直す。
蝉の声と、浴衣の布が擦れる小さな音だけが坂に残る。
帯がさらりと鳴って、墨色の花が風に揺れた。
「あ、ご、ごめん」
日陰も慌てて止まり、トートの持ち手を握り直して息をひとつ整える。
「……まだ十分前だし。ゆっくり歩こうか」
顔は見ないまま、声だけやわらかく落とす。
翔子は見上げて、安心したみたいに笑った。
「うん。ありがとう」
立ち上がる音。
下駄が軽く地面を叩く。
並び直す。
今度は日陰の歩幅が、半歩ぶんだけ短くなる。
そのとき—―坂の上から、こちらに大きく手を振る影。
「おーーーい!!!二人ともーーー!!!晴れたよぉおおおおおお!!!」
美晴だ。
胸の緊張が、ほんの少しだけほどけた。
相変わらずうるさい声量なのに、その明るさが—―今は、ありがたかった。
---
三人で並んで歩く。
校門を離れるほどに音が変わっていった。
蝉の声が遠のき、太鼓の試し打ち、拡声器のアナウンス、屋台の呼び込みが層になって重なる。
風はまだ昼の熱を抱えたままなのに、街路樹の影はもう夕方の色で、胸の奥がじわじわざわついた。
美晴はいつもの黒のセーラー。
真紅のリボンが小さく揺れる。
翔子の浴衣は薄白に墨の花。
涼しげなのに、どこか『終わり』の気配を連れている。
二人が並ぶと、季節の両端が肩を寄せたみたいだった。
角を曲がる。
提灯の赤がいっせいに増えて、ソースと油の匂いが鼻先をくすぐる。
のぼり、灯り、湯気—―色のついた空気の向こうに、大通り。
「うわー!!!たこ焼き!焼きそば!綿菓子!りんご飴!!」
美晴が指を伸ばし、目をきらきらさせる。
そのはしゃぎ方に、こちらの特別感まで少し緩んで、日陰は思わず笑ってしまった。
「なんか買うか?」
「いらない!」
ぶん、と指を振って、にこっと笑う。
(いらないんかい)と心の中で突っ込みつつ、(—―食べられないもんな)と胸の奥でだけ呟いて、日陰はうなずいた。
「翔子さんは?」
声を向けると、翔子は視線を少し落として—―
「かき氷とか……どうかな」
「いいな」
短くうなずいて、三人で列へ。
氷削機のモーター音が近づき、紙カップが「からん」と重なる。
シロップの甘い匂いがふわりとほどけ、提灯の赤が氷の白をやわらかく染めた。
「なんかさ、屋台って、見てるだけでドキドキするよね」
美晴の声が弾む。
翔子がこくりとうなずいて、日陰の胸のざわつきも隠れない。
列がはけ、先頭になった瞬間—―美晴がニタァと笑って肘でつついた。
「日陰、こんな可愛い子ふたり連れてお祭りなんて、成長だね〜」
「えっ—―」
思わず目を見開く。
翔子は顔を赤くして、視線を足もとへ落とした。
「罪な男だね」
慌てる日陰の前で、屋台のおじさんが朗らかに笑う。
「モテモテで羨ましいねぇ。で、注文は?」
「いや、全然そんな……。あ、す、すみません。ストロベリーひとつと……ブルーハワイひとつで」
「あいよ!」
氷が刃に触れて、しゃらしゃらと夏の音を立てる。美晴が面白がって覗き込む。
「このふたり、お似合いなんですよ〜」
にこにこ言う美晴に、おじさんが冗談めかして眉を上げる。
「あれ?じゃあねえちゃんは振られたのかい?」
「そ〜なんですよ〜!私、このあとの花火は一人ぼっちで〜」
「え〜!じゃ、ねえちゃんはオレがもらっちゃおうかな?」
「ごめんなさいおじさん!私の恋愛対象は三十歳までです!」
「はっはっは!完全に対象外だ!」
大笑いがはじけて、周りの空気がちょっと軽くなる。
(高校生と三十歳ってアウトだろ……)と内心だけで突っ込み、まあ冗談だろと肩の力を抜く。
渡された紙カップを受け取り、ストロベリーを翔子へ差し出す。
赤が氷の端でとろりと濃くなり、スプーンストローが小さく鳴った。
「ありがと……」
翔子がそっと受け取る。
唇に触れた冷たさに、肩の力がすこしほどけたように見える。
日陰は自分のブルーハワイを持ち直し、屋台を離れた。
背中には太鼓の音。
前には人の波。
紙カップの中で溶けていく青と赤が、夜へ向かう空の色にゆっくり重なっていく—―
「—―あ、そうだ!」
美晴がぱっと顔を上げる。
「二人、撮ってあげる!」
日陰はびくりと肩を上げた。
「い、いや、いいよ。べつに……」
「なぁに言ってんの!今しかないんだよ!残さなきゃ!」
きっぱりと美晴の声が響く。
隣で翔子も小さく身を縮める。
「え、えっと……ど、どうしよう……」
「はいはい〜貸して貸して〜!」
美晴は日陰の首から手際よくネックストラップを外し、黒いボディをくるりと構えた。
提灯の赤がレンズに丸く灯る。
「じゃ、そこの提灯を『背景』にして—―ふたり、もうちょい寄って寄って!可愛いね〜可愛いよ〜、はい、肩すこし近づけて〜」
「ち、近い……」
日陰は耳まで熱くなる。
氷のカップを持つ指が落ち着かない。
翔子も視線を泳がせたまま、そろりと半歩寄る。
「う、うん……」
「いいね〜その距離!じゃ、カップの『氷』が胸の前で見えるように……そうそう。あ、翔子ちゃんはストロベリーみたいで可愛いね〜!日陰はまさにブルーハワイって感じだよまったく!」
(何言ってんだアイツ……)
鼓動がさらに速くなる。
翔子は確かめるみたいに立ち位置を微調整した。
「そう、そこ!はい、顎ちょい引いて、目だけこっち—―はい、せーの!」
—―カシャ。
「表情固い固い!じゃもう一丁!!日陰、目尻だけやわらかく、そう!!翔子ちゃんは口角すこーし上げて……あー可愛い!!!天才!はい、もういっかい、せーの!」
—―カシャ。
「ラスト、まだ寄れる〜!もっともっと!うん、そのまま!そのまま……もう一体化しちゃえええええ!」
—―カシャ。
「……っ」
シャッターの余韻で、日陰は呼吸を忘れたみたいになる。
翔子は慌ててカップを持ち直し、スプーンストローがゆっくり傾いた。
「は、恥ずかしい……」
「ご、ごめん!近すぎたかな」
「全然いいよ!最高!!—―見て見て」
美晴が液晶画面を向ける。提灯の玉ボケの前で、赤と青のかき氷が並び、二人の肩がほんの少し触れている。翔子の唇にストロベリーが薄く光り、日陰の頬の赤さと妙に呼応していた。
「ほら、可愛い〜!」
日陰は視線をそらして耳をかく。翔子は「……ありがとう」と小さく頭を下げる—―けれど耳まで赤い。
「はい、じゃあどんどん回って色々撮ろ〜!」
美晴はにこっと笑ってネックストラップを自分の首に掛け、カメラを握る。
(勝手だな……)と思いながらも、日陰はしぶしぶ歩調を合わせた。
---
それから三人は屋台の島をぐるぐる回った。
金魚すくいの水面に提灯の赤がほどけ、すくい皿の紙がじわりとふやける。
射的のコルクは狙いより少し下へ落ち、戦果はゼロ。
りんご飴の硝子みたいな艶、ソースの甘じょっぱい匂い—―美晴は終始カメラを構え、横顔や手元、こぼれた笑いまで次々と切り取っていく。
串や紙皿を抱えてゴミ箱を探し回る時間さえ、せわしない夏の一部だった。
やがて河川敷へ。
祭りの中心から少し離れただけで空気に余白が生まれる。
草と川面の湿り気、遠くの提灯は小さな島みたいに明滅し、レジャーシートの青や折りたたみ椅子の脚がまばらに点在していた。
空はすっかり夜で、黒いキャンバスが低く広がる。
「ふぅ〜!いっぱい回ったね〜!」
美晴が息をひとつ吐いて振り向く。
上気した頬で、真紅のリボンが小さく弾んだ。
「じゃ、私はそろそろ—―おいとましようかな!」
はじける声のあと、美晴は首のストラップをすっと外し、黒いカメラを日陰へ返す。
レンズの縁で提灯の赤が小さく灯った。
日陰は反射的にスマホを見る。
十九時五十分。
花火は二十時からだ。
言葉にならない気配が喉の奥で一度だけ揺れて、静かに沈む。
三人分だった足音が、二人分に整っていく未来だけが、やけにくっきり見えた。
翔子は帯のあたりでそっと手を組み、視線の置き場を迷っている。
頬には提灯の赤がわずかに差していた。
「じゃ!翔子ちゃん!楽しんでね!」
「あ、うん。ありがとうね…美晴ちゃん」
美晴は親指をぐっと立て、風に乗せるみたいに手をひらひらさせる。
軽やかさの端に、ほんの少しだけ強がりの硬さ。
気づけば口が動いていた。
「……美晴も、観てるよな?」
美晴は一瞬だけ首を傾げ、すぐ笑顔でうなずく。
「うん!帰って観てるよ!」
『帰って』。
どこへ、とは聞かない。
日陰は小さく手を振り返す。
黒いセーラーの裾がくるりと翻り、彼女は階段を軽い足取りで登っていった。
影は人波に紛れ、提灯の明滅に溶ける。
残ったのは、二人分の影と川の匂い。
日陰は隣へ目を向ける。
翔子は顔を染めたまま、小さく息を吸い、巾着をぎゅっと握り直す。
白い花の髪飾りが風の端でかすかに揺れ、小ぶりのカメラが肩で静かに休んでいる。
「……ここ、座ろうか。見やすそうだし」
斜面の角が丸く擦れたブロックを指さす。
二人で腰を下ろすと、コンクリートの冷たさがズボンの布越しに伝わった。
遠くの拡声器が「間もなく開始します」とか細く告げ、堤防の下では子どものサンダルが砂利をぱらぱら鳴らす。
黒い空は、音を待つ大きな余白。
どこかで息を飲む気配が連鎖し、河川敷が同じ『間』を共有する。
日陰はストラップを指先で確かめ、翔子は背筋を少し伸ばした。
並んだ肩越しに、同じ深さの夜が見える。
川の匂い。草の青い匂い。
夏の匂いでいっぱいだった。
(ねぇ、日陰くん。今、何を考えているのかな)
横顔を盗み見る。
まつ毛が意外と長い。
細いのに、やっぱり男の子だと思わせる首筋の線。
喉がひとつ上下して、呼吸が浅くなる気配。
視線が合いそうになって、慌てて逸らす。
帯が、さら、と小さく鳴った。
(本当は—―私じゃなくて、美晴ちゃんと見たかった?)
返事はもちろんない。
聞きたいけど、聞きたくない。
巾着の紐を結び直す。
結び目が、きゅ、と小さく鳴る。
胸の奥に、温度の違うものが二つ並ぶ。
嬉しさと、罪悪感。
「どうしたの?」
やさしい声。
驚くほど、いつものままの声。
思わず首を振る。
目が合って、すぐ落とす。
(ねぇ。私とで本当によかったの?)
優しい目に、嫌そうな気配はない。
都合のいい思い込みかもしれない。
—―それでも、私の隣で夜を待ってくれているみたいで、嬉しい。
周りを見渡す。
スマホの画面が点いては消える。
二人で顔を寄せる影。
笑い声。
(他の人から見たら、私たちも『恋人』に見えるのかな)
胸の内側で、小さく願いがふくらむ。
—―勘違いでもいい。
いまだけでいい。
(美晴ちゃんは、どう思ってるんだろう)
あの明るい笑顔が浮かぶ。
美晴ちゃんは、好き。いっしょにいると楽しい。
—―なのに、あなたが美晴ちゃんと笑っていると、すごく……嫌になる。
でも、そんな自分が、すごく嫌い。
美晴ちゃんみたいに譲れる優しさも持っていない。
(こんな私、本当は隣にいる資格なんてないのに)
喉がからりと鳴る。
花火が始まったら、もう言い出しにくくなる。
この『間』のうちに。いまなら—―。
「……一枚、いいかな」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
日陰はこっちを見る。
目が少し丸くなって—―それから、やわらかくうなずく。
胸の奥が、きゅっと縮む。
ばれないように息を整える。
小さなカメラを両手で持ち、レンズをこちらへ向ける。
画角は感覚で合わせるしかない。
(入ってるかな……もう少し、近く)
腕を伸ばすと、肘がぷるぷる言い出す。
手首の震えが自分でもわかる。
「大丈夫?」すぐ横、耳もとに落ちる少し低い囁き。
「……うん」細い声が出る。
唇が乾く。
耳が熱い。
でも、そっと肩を触れさせる。
布越しの体温。
思っていたより硬い、男の子の肩。
鼓動が速くなる。
画面は見えない。
それでも、いまこの距離なら—―入る。
(この一瞬だけは、私だけのもの)
顎をほんの少し上げ、笑う準備をする。
息を合わせる。
数えないけれど、同じ拍で。
親指が、そっと落ちる。
—―カシャ。
音が、夜の『間』にやわらかく沈んだ。
二人の息が、ふわりとほどける。
肩はそのまま、影が解けない距離。
指先の震えがようやく落ち着いていくのを感じながら、そっと腕を下ろす。
膝の上の小さなカメラに視線が落ちる。
(海のとき—―)
あの日、あなたが撮ってくれた写真で私は救われた。
星奈の隣にいていいんだって自信を持てた。
私は少し、前を向けた。
(……いまも、たぶん)
(驚かせようかな……困らせようかな?)
小さな悪戯みたいな気持ちが、指先で跳ねては、すぐしぼむ。
(言葉にしたら……壊れるかな)
伝えてしまったら、もう二度と戻れない気がする。
(いっそ、このまま—―この距離のままの方が)
幸せ。……なのかもしれない。
でも、喉が、口が、勝手にあなたへの気持ちを押し上げる。
耳の奥で、見えない秒針がすこし速くなる。
「ねぇ、日陰くん」
声は、思ったより小さかった。
(聞こえないで)
(でも、気づいて)
矛盾したお願いを胸の奥で握りしめたまま、翔子は息をひとつ浅く吸う。
日陰くんが、ゆっくりこちらを向く。
何も構えていない目。—―それが、いちばん怖いのに、いちばん嬉しい。
呼吸をそろえる。
唇が勝手に動きそうで、喉の奥をきつく締めた。
ほんの少しだけ顎を上げて—―
「す—―」
空が割れた。
最初の花が、真上でひらく。
赤。
胸の底まで落ちてくる重い音が、言葉の行き先をさらっていく。
—―き。
口だけが形を作った。
音は花に飲み込まれて、なかったことみたいに消える。
(……聞こえなかったふり、してくれていいよ)
視界の端で、日陰くんの目が丸くなる。
喉仏が小さく揺れて、迷っているのがわかる。
(あぁ。困らせちゃった)
それでも日陰くんは、息を整えて、まっすぐこちらを見てくれる。
優しい顔。
戸惑っている顔。
—―そして、どこか申し訳なさそうな顔。
胸の奥で、波が引いて、また寄せる。
(……お願い)
後悔が、遅れて押し寄せた。
もう戻れないのに。
伝えてしまったら、もう同じではいられないのに。
最初からわかっていたのに。
それでも、もしかしたら—―なんて、淡い希望を抱いた自分が情けない。
(……言わないで)
二発目が、間を狙うみたいに遅れて爆ぜる。
青。
光が頬を洗い、轟きがまた耳を奪う。
—―ありがとう。
唇が、そう動いた。
音が聞こえないことが救いなのか。
いや、だからこそ、はっきり見えてしまう。
視覚だけが正確で、残酷で、その優しさの断りをなぞらせる。
巾着の紐が、掌の中でくしゃりと鳴った。
涙が、花火の残光をひと筋ずつ拾っていく。
頬の上で光が砕け、小さな火花みたいに散って、薄い金の糸になる。
塩の味が、火薬の匂いに混じって、ひどく静かだった。
うまく笑えない。
ここに座っていることが急にできなくなる。
体が拒む。
帯を片手で押さえて、立ち上がる。
視界の端で、日陰くんの手がわずかに動く。—―止めようとしてくれるみたいに。
「—―ごめんね」
自分でも聞こえないほど小さく震えていた。
足が先に走り出す。
下駄が石をかすめるたび、コツン、と乾いた音。
花火の音に紛れて、あっという間に遠ざかる。
夜の川風が、襟元から滑り込む。
火花の残像が網膜でほどけていく。
(名前は呼ばないで。振り向けないから)
今夜の空は綺麗なはずなのに、私だけがうまく見られない。
坂の上、提灯の赤がにじんで揺れる。
私は、夏の音の外側へ—―ただ走った。
---
坂は、まだ夏の匂いを抱いていた。
緑の葉の裏に花火の光が薄く走り、遅れて、低い爆ぜる音が轟く。
並木の緑が夜の底でひそやかに揺れて、(—―ありがとう)と作った口の形だけが、やけに鮮明に残っている。
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
あんなふうに、ひとりで走らせてしまった。
追いかけもしないで、引き留めもしないで。
—―最低だ。そう思うのに。
足は止まらない。
叩きつけるみたいに罪悪感がまとわりつくのに、呼吸の奥では別の声が膨らんでいく。
笑っている美晴の声だ。
校門の前。
黒い鉄が夜気を吸い、少し湿った軋みを返す。
さっきより少しだけ遠い花火が空に弾け、遅い衝きが鼓膜を叩いた。
門扉の影が地面を浅く塗り替える。
息を吐いて、門をくぐる。
砂利の音が、誰もいない校庭にすっと吸い込まれていく。
(帰って観てるよ!)
美晴の言葉が、頼りない羅針盤みたいに胸の奥で光った。
いつもの教室をのぞく。
誰もいない。
開けた窓から、昨夜結んだ五つのてるてる坊主が、風に細く揺れていた。
—―まるで、みんなで花火を見ているみたいだ。
机の間を縫うように歩く。
椅子の金具が、かすかに冷たい。
ため息は音にならず、胸の内側だけを曇らせる。
階段を上る。
手すりの鉄が、掌の汗をあっさり奪う。
踊り場で一度だけ立ち止まると、遠い閃光が壁を一瞬白く撫でた。
耳が、次の轟きを待つ『間』に慣れていく。
(……いる)
確信というほど強くない。
けれど引き戻せない予感。
足がひと段、またひと段と数えるたび、その予感は形を持ちはじめる。
屋上の扉。
いつもは固いはずのドアノブが、今日はあっけないほど静かに回った。
押せば、夜がすっと開いてくる。
風がひとつ、前髪を撫でて通り、火薬の匂いがわずかに濃くなる。
そこに、美晴がいた。
白い金属の手すりに両手をかけて、火の花が咲く空を見ている背中。
黒いセーラーの布が、風の端でやわらかく揺れる。
花火が大きくひらき、遅れて音が来るたび、その縁取りだけが彼女の輪郭を淡く縫い直した。
こちらの足音に、肩が小さく揺れる。
美晴が振り向く。
光の欠片が瞳に乗って、すぐほどける。
口元が、いつものように少しだけ上がった。
叱るでも、問いつめるでもなく、まっすぐなやさしさだけを乗せて。
「おかえり」
日陰は返事の代わりに、喉仏をひとつ上下させた。
指がストラップを探し、革の縁をきゅっとつまむ。
「……ごめん」
美晴は責めない目で一度だけうなずき、柵の手すりを指先で軽く叩いて手招きした。
「ほら、ここ。特等席だよ!」
日陰は隣へ立つ。
冷えた手すりの金属が、掌にすっと移った。
「……晴れて、よかったね」
「うん」
間を割るのは、遠くの「ぱん」という音。
光が遅れて屋上の床を浅く撫でた。
日陰が空の端を見ながら言う。
「もうちょっとで、クライマックスなんだ」
「えっ! そうなの?」
驚いた顔がすぐに、ちょっと残念そうにほどける。
「すごく大きいのが、最後に上がるんだよ」
「えー! 楽しみ!」
美晴は背伸びするみたいにつま先で立って、またすぐ踵を戻した。
風がリボンの端を小さく揺らす。
しばらく二人で眺める。
音の『間』に、同じ呼吸が揃っていく。
「—―まだかな?」
美晴が横目で笑う。
ほんの少し、期待が跳ねる。
「でも、終わっちゃうぞ?」
「あー!そっか!それはいやだなー!」
頬をふくらませて、すぐに笑う。
「なんか、早く見たいのに、終わっちゃうのは嫌って……変な感じ〜」
「わかる」
短く返すと、美晴は満足そうに前を向いた。
二人の影が、次の閃光で細く並ぶ。
風の音と、遠い「ひゅるる」が、夜の底で重なる。
「……」
「……」
指先が、同じ上桟の高さに並ぶ。
息がひとつ、揃って落ちる。
「そろそろ、来るかも」
日陰の声に、美晴がこくりとうなずいた。
その横顔に、遠い光が一度、二度、薄く重なる。
風が彼女の髪を抜ける瞬間、花火の光が透けて見えた—―気がした。
瞬きを一度、もう一度。
美晴は優しく笑っている。
けれど、その笑顔の縁が—―ほんの少しだけ、軽い。
花火の白が頬をなぞるたび、輪郭の奥に夜が薄く滲む。
(……見間違いだ)
喉の奥でそう言い聞かせる。
花火の光は強すぎる。
目だって、たまに嘘をつく。
夜空が—―爆ぜた。
遅れて胸板を叩く衝撃。
金と紅、群青と白が、何層もの花を重ねる。
光の粉が風に乗り、屋上の床をかすかに撫でていく。
その光の下で—―
美晴の輪郭が、少しずつ薄くなっていく。
肩の丸みの縁から、髪の先から、指先から。
花火の残光が彼女の中に溶け、向こう側の夜が微粒子みたいに覗いた。
「……美晴」
日陰の喉が乾いた音で動く。
柵の手すりに置いていた指先が、ひやりとするほど確かで。
その確かさが、隣の軽さをいっそう浮かび上がらせた。
(……嘘だろ)
ストラップの革を、指で強くつまむ。
首に残る重さが、現実を主張する。
カメラはここにある。
—―だから、隣も、ちゃんとここにいるはずだ。
「ねぇ、日陰」
美晴は微笑んでいた。
花火の白が頬を撫で、瞳に細い光の糸がかかる。
その糸が、次の瞬間にはほどけそうで、日陰は息を止めた。
「夏って、こんなに綺麗なのに、すぐ終わっちゃうね」
「やめろよ……」
言葉がうまく形にならない。
首を振るだけで、胸の内側がきしむ。
「でもね、心には長く残るの。風の匂いとか、肌に残る熱とか、いまの色とか」
美晴は少しだけ肩をすくめる。
困っているみたいに、でもやわらかい顔で。
「ねぇ。花火って、なんのために咲くのかな」
声は小さいのに、花火の『間』を選んで届く。
それでも輪郭は、音のたびに薄まっていく。
美晴は空を見上げた。
「夜を明るくするため……だけじゃないよね。たぶん、『いま』の輝きを誰かに渡すため」
一拍。花火の余韻が空に残るあいだに、美晴は日陰を見た。
「誰かの中に、ちゃんと光を置いていくため」
次の閃光が夜を染める。
白が走って、影がひっくり返って、また戻る。
「日陰のカメラはね、その光をそっと拾ってくれる。失くさないように、しまっておいてくれる」
声は静かなのに、言葉だけがまっすぐ刺さる。
「日陰がシャッターを切るたびに、夏は少しだけ長くなるの—―この夏の私に輪郭をくれたみたいに」
光の粒が弾けるたび、彼女の重さが少しずつ抜けていくのが、なぜか分かってしまう。
分かってしまうのに、認めたくなくて、日陰は唇の内側を噛んだ。
でも、本当はずっと。ずっと—―。
気づいていないふりをしていただけだった。
頭のどこかでは、『いつか』が来るって分かっていた。
だからこそ、考えない。近づけない。
終わりなんて来ないって、ずっと続くって。
思い込もうとして—―
気づきたくなくて、目を逸らし続けていた。
「終わるのは、こわいよ」
美晴は笑う。
泣き顔みたいに綺麗な笑顔で。
「でも、残るって信じてる。だから、いまを、その一つ一つの欠片を大事にしてね」
いつもの笑顔よりも優しくて、日陰を励ますみたいな声で。
「桜は……?」
日陰の声は、ひどく掠れた。
言ってから、自分でも驚く。
「桜……一緒に見に行こうって、約束しただろ!!!」
『来年の春』が、舌の先でほどけていく。
いま言葉にした瞬間、それが急に遠くなる気がして、指が震えた。
美晴はふっと口元をほどいて、息みたいに笑った。
それから、言葉だけをそっと落とす。
「……見たかったな」
声は淡く、火の花の明滅に溶ける。
輪郭も、まつ毛の先も、光の粒にほどけて—―
いま目の前にいるはずなのに、遠い。
そのとき、夜空がもう一度—―大きく爆ぜた。
最後の花が、頭上でひらく。
金と白。
風が一瞬止まって、世界がまぶしさだけになる。
日陰の体が、先に動いた。
考えるより先に、カメラが上がる。
焦点も露出も、そんなことはどうでもいい。
ただ、いまを、ここに残さないと。
今が終わる。
無くなる。
嫌だ。—―その一心だけ。
—―カシャッ。
音が響いた瞬間、
美晴の輪郭が光に溶けた。
まるで、花火の欠片がそのまま彼女になって、
そして花火と一緒に散っていくみたいに。
「美晴!!!!」
呼んだ声は、光の残り香に吸われて消えた。
隣は、空っぽだった。
日陰はその場に立ち尽くしたまま、
震える手でカメラを下ろす。
液晶には、大輪の火の花が咲いていた。
眩い光だけが、そこに焼き付いている。
風が止む。
世界が息を潜める。
胸が締め付けられて、膝が勝手に落ちた。
喉が鳴って、声にならない。
先ほどまでの賑わいも花火の音もない。
ただただ襲う静けさが、終わりを残酷に告げるようで。
心に穴があいたみたいに苦しくて、吐きそうなのに。
でも、どうしようもなく、
—―綺麗だった。




