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第十六話「八月三十日」

教室の空気は、夏の終わりをうすく含んでいた。

開け放した窓から白い風がときどき入り、カーテンの裾をふわりと返す。


「えー皆様、本日が勉強会最終日でございます」


亮は両肘を机に置き、指を組んで口元へ。

影が表情の半分を隠す、妙に重々しいポーズだ。

かけてもいないサングラスの影まで見えそうだった。


「明日、マジで台風直撃みたいだわ!!うわぁぁぁぁあ最悪!俺たちの努力が全部、水の泡!!」


「台風、悪魔的すぎるよ〜!許せない〜!!」


美晴は下敷きをうちわ代わりに、窓の外へぱたぱた。

まるで『追い祓い』の儀式みたいに、本人はいたって真剣だ。


星奈がふっと笑う。


「まあまあ。課題は夏休み中に終わらせなきゃだったし、無駄じゃないよ」


「……あーーもう。やる気出ない。あとちょっとなのに、やれる気がしない……」


亮は机に突っ伏し、わかりやすく落ち込んだ。


翔子は困ったように微笑み、視線がちら、と日陰へ向かう。

日陰の表情は、少し曇っていた。


亮がスマホで動画サイトを開く。

最新の気象予報が流れ出すと、教室の空気が一瞬だけ音の方へ寄った。


『大型で非常に強い台風は、明日三十一日の夕方から夜にかけて、関東の広い範囲に最接近する見込みです。沿岸部だけでなく内陸でも一時的に非常に強い風、局地的に激しい雨のおそれ—―』


「やめろーー!!今すぐ折れろ!!!太平洋高気圧さん、押して!押してぇ!!」


亮が画面に向かって絶叫する。


「大丈夫!!!この日のために下敷きうちわぱたぱたを極めてきたって言っても過言じゃないから!任せて!この風で全部吹き飛ばすから!!」


美晴は立ち上がって下敷きをぶん回した。


その騒がしさに、星奈が肩を震わせて笑う。

ふたりの大袈裟なやり取りが、教室の重さを少しだけ軽くした。


日陰は耳を傾けながらもペンを走らせる。

紙の上で黒が増え、余白がゆっくり減っていく。


(台風が来たら、美晴と行けないのか……)


書く手は動いているのに、頭の中の線はほどけていく。

消しゴムのカスみたいな不安が端に溜まり、払ってもまた積もる—―そんな嫌な感覚。


「ひ、日陰くん……」


シャープペンの音が一瞬だけ止まり、日陰は顔を上げた。

視線は合いそうで合わない。

ノートの端に、翔子の指先がそっと触れている。


「な、なに?」


翔子は息をひとつ整えて、声を出す。


「わ、わからないところ……あったら、言ってね」


「……あ、うん。ありがとう」


短い言葉のあと、窓の外で風がひと押し。

葉擦れがさら、と教室を横切った。


日陰はシャープペンを机に置き、少しだけ身体を前へ。


「翔子さん……あとで、少し時間、もらえる?」


声量は、美晴と亮の笑いに紛れるほど小さい。

星奈が一瞬だけ目を見張ったが、すぐ何も聞こえなかったみたいに視線を戻した。


翔子は僅かに肩を跳ねさせ、胸の前でペンを握り直す。

それから、唇の内側で息を温めるみたいに—―


「……う、ん」


短い返事に、やわらかな熱が混じる。

ページの隅が、かさり、と小さく鳴った。


—―そうして、少し騒がしい午後が、そして八月三十日が、ゆっくりと夏の幕を引き始めていた。


---


廃校のすぐ近くのいつもの公園。

ブランコの鎖が動くたび、錆びた金属の音が短く鳴った。

日陰と翔子は隣り合って座り、ゆっくり身体を揺らす。

砂の上の影は、夕暮れに合わせて少しずつ長くなる。


「—―花火大会だけどさ」


思い切って口を開くと、翔子の肩がわずかに震えた。やっぱりその話だ、と息を整えて隣を見る。


「一緒に行こう」


「え—―」


こぼれた息といっしょに、表情がふっと緩む。

視線が泳ぎ、指先が鎖をきゅっと握った。


「あ、でも……花火が始まるまでは、美晴も一緒でいいかな」


日陰は少しだけ申し訳なさそうに言う。

翔子は瞬きをひとつ。「あ、うん。大丈夫だよ」


安堵が喉をさっと通り過ぎ、日陰はぎこちなく続けた。


「それで、その……花火が始まったら、あいつは—―一人で行動するらしい」


「……?」


一瞬首を傾げ、意図に気づいたのか、翔子の頬がほんのり色づく。


「日陰くんは……それでいいの?」


申し訳なさそうでいて、嬉しさの灯りが隠せない声。

それでも、断られるのが怖い、そんな揺れ方。


「……せっかく、誘ってくれたし」


喉の奥で言葉を選び、角のない返事を置く。

それが、美晴に言われた『条件』であることは、口に出さなかった。


「ありがとう」


翔子がやわらかく笑う。目尻が少しだけ下がって、夕陽をひと筋すくう。

—―見慣れていたはずの横顔なのに、今だけ、別のものみたいに見えた。

顔立ちが整ってることは前から分かってた。けど、そういう話じゃない。

笑い方とか、頬の赤さとか、まつ毛が落とす影とか。そういう細いところが、急に刺さる。


(……こんな顔、してたっけ)


自分の心音だけが一瞬、鎖のきしみより大きくなる。

二人のブランコは、同じタイミングで、自然と静まった。


喉の渇きを誤魔化すみたいに息を整えて、現実に手を伸ばす。


「……ただ、明日は、その……台風しだい、だけど」


日陰が立ち上がり、反対側の空へ目を細めた。

翔子もブランコを降り、裾をそっと直す。

つま先で砂を一度だけならし、胸の前で小さく手を合わせた—―幼い子のお願いみたいに。


「……台風さん、明日だけ寝坊してください。ほんの少しでいいから」


息ひとつほどの小ささで。

言ってから自分で気づき、唇に指を当てる。

日陰に聞こえなかったか確かめるように、恐る恐る横目を送る—―彼はまだ背を向けたままだった。


ふっと安堵の息。

耳の後ろへ髪を払って、くすぐったそうに微笑む。

その小さな仕草は風より軽く、日陰には届かない。


「じゃあ、戻ろうか」


日陰の声に、小さくうなずく翔子。

砂がさら、と鳴る。

校舎へ向かう二人の前で夕焼けは薄まり、鎖が風に一度だけ鳴った。

明日の空はどんなだろうか。


---


すっかり日が落ち、校門前に五つの影が並んだ。

それぞれが自分の鞄とゴミ袋を持っている。

袋のふくらみ方だけで、亮と日陰の荷物がいちばん重いとわかる。

日陰は片手にゴミ袋、もう片方で課題とカメラを詰めたトートバッグと、現像上がりのプリントが入ったカメラ屋の紙袋をまとめて抱えていた。

ビニールの擦れる音が、乾いた夜気にかさりと鳴る。

教室は片づき、課題もすべて終わっている。

胸の内には、終わりの寂しさと、やりきった静かな達成感が、同じ重さで沈んでいた。


「みんな本当にお疲れさまー!」


美晴が両手を大きく広げる。

星奈と翔子も「お疲れさま!」と笑い、街灯の白がその横顔を縁取った。


「あーーーー……せっかく終わったのに、明日の台風が気になって素直に喜べねぇ……」


亮が大げさに肩を落とす。


「まだ言ってるの〜」


星奈はふっと笑い、夜気に揺れた髪を耳へ払った。


「そりゃ言うよ!せっかく星奈さんと二人で行けるってなってるのに!!マジで台風許さん!」


「まあまあ。もし明日が無理でも、また別のときに行けばいいんだし」


「……え!?『また』ってなに!!明日中止でも、別で行ってくれるの!?!?」


「うん。全然いいよ」


さらりと返され、亮の目がぱっと輝く。


「うぉおおおお!嬉しい!!」


星奈は手の袋を持ち直し、明るく言った。


「だから、落ち込まない。台風が来たら来たで—―仕方ないって思お?」


その言葉に、日陰の肩から力がすうっと抜ける。


(……そうか。今回がだめでも、次があるか…)


遅れて胸に落ちて、ふと美晴へ目をやる。

彼女はいつものように口元をやわらかく上げ、穏やかな視線を星奈たちへ向けていた。


気づけば、亮の声色はもういつもの調子だ。


「じゃ、花火大会の情報は俺が随時チェックして連絡するわ!」


「助かる〜。よろしくね」


亮はスマホの画面を一度見て、星奈へ向き直る。


「じゃあ、花火大会決行なら、駅の改札に五時半でどう?」


「了解。細かいことは当日、連絡取り合おう」


軽く目を合わせて頷く。

画面の白がふたりの頬を一瞬だけ照らしていた。


日陰は少し逡巡してから、美晴と翔子へ視線を移す。


「美晴、携帯ないし……決行になったら、五時にここ集合でいい?俺も花火大会のサイトと天気は、ギリギリまで見ておく」


「はーい!わかったよー!」


美晴が元気よく手を上げる。


「うん、私も見ておくね」


翔子は静かに頷いた。

そこで一度、会話の輪がふっと落ち着く。


星奈がそれを見て、小さく頷き、手のゴミ袋を持ち上げた。


「……じゃあ、帰ろっか」


翔子も「うん」と小さく頷き、亮は「あいよー」と持ち替えた袋の口を握り直す。


けれど日陰は、三人の足並みに続かず、校門の前で立ち止まった。

亮が振り返り、視線だけで「今日も?」とでも言うように首を傾げる。

日陰が小さく頷くと、亮はニッと笑って手をひらひらさせた。


「美晴さんもまたねー!」


「うん!すごく楽しかった!ありがとう!」


美晴の声が夜空で軽く跳ねる。


亮が手を打つ。「じゃ、俺らは先に—―」


「ちょっと待って」


星奈が振り返り、日陰と美晴へ目線を滑らせ、手にした袋を軽く掲げた。


「交差点の近くの集積所に出すんだよね……みんなで行こうよ」


何気ない言い方。けれど、その瞳の底に小さな痛みが走る—―このまま二人にしてしまったら、翔子が可哀想。そんな思いが、言葉の端に影を落とした。


隣で翔子の指が、鞄の持ち手をきゅっと握る。

星奈が目だけで問いかけると、翔子は小さく笑い、静かに首を横に振った。


「大丈夫だよ。……三人で行こ」


穏やかな笑顔。

でも、その奥に薄い決意の色が見えた。

星奈は半拍ためらい、ふっと肩の力を抜く。


「……うん」


日陰と美晴へ向き直り、やわらかく告げる。


「やっぱり、先に行ってるね!—―二人も、早めに帰りなよ。暗いし、ちょっと雲行きも怪しいし」


「ありがとう!早く帰るね!」


美晴は満面の笑みで手を振る。

星奈はその笑顔を一度だけ受け止めて、ふっと息を吐いた。胸の奥の力を、ようやくほどくみたいに。

それから小さく手を振って、やわらかく言う。


「またね」


「じゃ、行こっか」


亮が星奈と翔子へ声をかけ、三人は袋を持ち直した。


翔子は去り際、袋を持つ手を少し上げ、日陰に向かって小さな会釈をする。

坂の下へ、三つの影がするすると流れていく。

残された二人の前には、静かな校門と、夏にしては少し涼しい夜気だけ。

どこか遠くで、遅い蝉の声が短く切れて、また始まった。


---


校門の前、街灯と月明かりが重なって、アスファルトに淡い輪ができていた。

その縁に荷物を下ろし、日陰と美晴は並んで腰を下ろす。風が紙袋の口をふっと撫でる。


「これさ。見せたかったんだ」


日陰がカメラ屋の紙袋から、ビニールに包んだ写真の束をそっと取り出す。

受け取った美晴の瞳が、ぱっと星みたいに明るくなる。


「なにこれ! すごい! 現像したんだ!」


「見せようと思ってたのに、なんか数日来なかった」


「ごめんってー!!」


指先で一枚すべらせる。

白い波打ち際、跳ねる水しぶき、指先ほどの貝殻。画面の端では、風にほどける黒髪。

笑っている。光の粒が頬に散って、夏がそのまま顔になったみたいだった。


「これ……初めて美晴を撮ったやつ。すごく特別なんだよな」


「これ、私にとってもすごく特別」


写真の自分にそっと微笑んで、息を足す。


「『いま、ここにいる』って思えたから。風の重さも、光の温度も、ちゃんと私にも触れてるって、わかった」


日陰は短くうなずく。

返事というより、深い呼吸に近い。


束の端へ指が移る。

理科室で白衣を着た美晴。

図書室の窓辺で紙片が揺れ、難しそうな本を読む横顔。

体育館の床に落ちる四角い光、華麗にシュートを決める一瞬。

『授業ごっこ』のはずなのに、どの写真も本当にここで授業を受ける生徒のようで、空気の湿度や木の匂い、蝉の音まで、鮮明にその中に閉じ込められていた。


美晴が笑って、次の束へ。

ヒッチハイクで出会った人たちの笑顔。

そして—―ひまわり。視界いっぱいの黄。

背丈を越える茎が列をつくり、風が通るたび、金色の波が畑の奥から手前へ連なってくる。


「—―私たち、ちゃんと夏を満喫したね」


「……ああ」


日陰は短く頷き、美晴が真剣にノートへ向かっている一枚を手に取る。

少しの沈黙のあと、低く言う。


「もし、この学校が普通に続いてたら、きっと俺、ここに来てなかった」


「うん。確かに」


美晴は受け止めるように頷き、ひまわりの縁を親指でなぞる。

日陰は海の白へ視線を落とす。


「そしたら、美晴に出会えなかった」


「それは――悲しいね」


「……ほんとにな。たぶん俺、今もずっと独りだったと思う」


「『ひとり』は悪いことじゃないよ?」


日陰はトートバッグからノートとボールペンを取り出し、地面に置く。

そしてノートに『独り』と『ひとり』と書き、指先でなぞるように見つめた。


「うん。でも、『独り』は違う。『ひとり』は自分で選べるけど、『独り』は……閉じ込められてる感じがする」


「なんか……わかる気がする」


写真をめくる音だけが重なり、街灯の白が指先で細くほどける。

やがて、美晴がぽつりとこぼした。


「ほんとさぁ、この世界って不思議だよね」


「ん?」


「綺麗で完璧そうに見えて、実はいっぱい壊れててさ。よく見たら、あちこちにヒビが入ってる」


「ヒビ……」


「そう。ほら、私みたいな幽霊だって生まれちゃうくらい。ちゃんとしてそうで、全然ちゃんとしてない。ほんと、おかしいことだらけ」


「……まぁ確かに」


「でもね、たぶん、それでいいんだと思う」


「……いいのか」


「うん。この世界が完璧だったら、きっと私たちは出会ってない」


日陰は小さく笑う。


「確かに。明らかに美晴は想定外すぎる存在だし」


「ふふふ。凄いでしょ」


「凄いな」


美晴は笑いながら、声を少し落とす。


「ね、日陰。世界が壊れてるって、つまり『隙間』があるってことだと思うの」


「隙間?」


「うん。もし全部が完璧に噛み合ってたら、人と人がぶつかることも、重なることもない。全部が『できあがってる』世界なら、何かを失わない代わりに、誰かと繋がることもない。――入る余地が、ないの」


日陰はゆっくりうなずく。


「……ヒビがあるから、入ってこれる」


「そう。欠けたところからしか、光って入ってこないんだと思う。壊れてるから、隙間が生まれて、そこから誰かがすべり込んでくる。――そして、出会いって、そのくらい『危うい』」


日陰が目を上げる。

美晴は言葉を選ぶみたいに、写真の角を親指で押さえた。


「ヒビの入ったところに手を伸ばすって、本当はとっても怖いこと。誰かに出会うのは怖い。だって、その人が現れた瞬間に、自分の世界が壊れて、崩れるかも。仮に噛み合っても、ときには離れて、ぽっかり穴だけが残るかもしれない。――それでも、人は手を伸ばしちゃう」


夜気が静まる。


「……こわいけど、伸ばす」


「うん。伸ばしちゃう。人は独りじゃ生きられないから。壊れるってわかってても、触れたくなる。世界が壊れるってことは、世界が『変わる』ってことだから」


言葉を置くたび、手の中の夏が増えていく。

何枚も何枚も重なって、その一瞬一瞬が永遠に見えるような。


美晴が最後の一枚を抜いた。

ひまわり畑での二人のツーショット。


「ね、日陰」


「ん?」


「出会えて、よかったね」


「……ああ」


短い答え。

胸の奥で、小さくシャッターが落ちる音がした。


「……美晴に出会えて、よかったよ」


無意識にこぼれた声に、美晴は目尻をふわっと緩める。


「私もだよ」


日陰は照れを隠すみたいに、ビニールの端をそっと撫でた。

夏のきらめきが、指先にまだ残っていた。


---


校門を出ると、歩道に落ちた街灯の円が、いくつも縫い目みたいに連なっていた。

二人はその縫い目を踏みながら、交差点の角にある自治会の集積所へ向かって歩く。

ビニール袋が膝に触れて、かさり、と乾いた音がした。


日陰は片手に大きなゴミ袋、もう片方でトートと紙袋を持ち直す。

紙袋の口がふっと鳴り、現像した写真の重みが手のひらに返ってくる。

美晴は小さめの袋を胸の前で抱え、つま先をそろりと運ぶ。

ローファーの踵がアスファルトを小さく叩くたび、夜の音が一粒だけ跳ねた。


「……あーあ。もう夏、終わっちゃうよ」


美晴がこぼす。


「……だな。また、学校が始まるよ」


日陰は首の後ろをかき、少しだけ息を抜いて言った。


「いいじゃーん。学校、楽しいじゃん」


「昼まで寝てたい」


「え?ずっと早起きだったじゃん」


「……まあ、そうだけど」


(美晴に会ってから…な)


喉の奥でだけ呟いて、飲み込む。


「楽しかったんでしょ?」


にやり、と覗き込まれて、日陰は視線を落として短くうなずく。


「……うん」


美晴は一瞬だけ目を丸くして、それから柔らかく微笑んだ。


「素直で偉い!」


赤信号で立ち止まる。

向こう側の自販機が低くうなり、遠くのコンビニの灯りがやけに鮮明に見えた。

青に変わって歩き出すと、日陰はゴミ袋の口を持ち替え、紙袋が太ももに当たらない角度を探す。


「明日、さ……」


日陰が言う。


「台風でダメになっても—―」


一拍、あっさり続けた。


「また次の機会に行こう。花火大会は毎年あるし」


日陰なりの「これからも」の言い方だった。


美晴は「ふふ」と笑う準備をした顔のまま、少しだけ前を向く。

街灯の円をまたひとつ越える。

影の長さが入れ替わって、二人分が一瞬だけ重なった。


「そうだね。……いろんなところ行こうよ」


言葉のあとに、短い間が置かれる。

自転車のブレーキが遠くで細く鳴って、すぐ静かになった。

自販機の唸りだけが一定で、虫の音が薄く重なる。

灯りの縁で美晴の横顔が淡く際立ち、日陰は小さくうなずく。

胸の奥に、冷たい水面みたいな静けさがひろがった。


「花火、見たかったな」


美晴が小さく言う。


「……まあ、確かに。でも、まだ中止って決まったわけじゃないだろ」


「そうだよね」


日陰は続ける。


「夏は終わるけど、秋にも近くで花火大会があるんだよ」


ふわりと、未来へ手を伸ばすみたいな言い方だった。

力みのない声。

時間がこの先も同じ目盛りで続いていく、と疑いもしない調子。


—―返事が、来ない。


日陰は半歩進んでから違和感に気づき、振り返る。

街灯の円の外側で、美晴が立ち止まっていた。

胸の前で袋を抱えたまま、顎をほんの少し上げている。


「……美晴?」


呼んだ瞬間、さっと一雫が、彼女の頬をまっすぐ落ちた。

音はしない。

ただ、薄い光の中でその軌跡だけが、きれいに残る。


日陰が近づくと、美晴ははっとして、手の甲で涙を慌てて拭った。


「……あれ?なんでだろ!相当楽しみにしてたのかな?あはは」


いつもの調子でおどける。

笑いの形はきれいなのに、端だけがかすかに震えていた。

日陰は半歩、彼女のそばへ戻る。


「……そんなに行きたかったのか?」


言いはしない。

言い切ったら、何かを壊しそうだった。

代わりに紙袋の持ち手をきゅっと握り直して、少し考えてから口を開く。


「……作るか。てるてる坊主」


「てるてる……?」


「効果はないかもしれないけどさ」


てるてる坊主で台風が曲がるほど、この世界は甘くない。

それでも—―無駄みたいなことでも、美晴となら意味のあることに変わる気がした。


「作ろう!絶対台風来なくなるよ!」


根拠のない「絶対」を、眩しい笑顔で言い切る。

その言い方に、ほんのわずかだけ、本当にそんな気がしてくる。

日陰は小さく笑ってうなずいた。


二人は歩き出す。

交差点の角、ガードレールの内側にあるゴミ集積所の網かごへ、袋をそっと収める。

視線の先にコンビニの灯りが四角く浮いた。


自動ドアが開く音。

白い冷気が頬を撫で、レジの電子音が軽く跳ねる。

ティッシュ、輪ゴム、麻ひも、油性ペン、セロハンテープ。レジ袋の中に詰められていく。


店を出る。

レジ袋の影が歩道に伸びる。

街灯の円を一つずつ踏み越えるたび、今日の終わりと、まだ終わらない夏が足元で交差した。


校門へ戻ると、月と街灯の境目の淡い輪の中にしゃがみこむ。


「よーし!作ろ!」


日陰がティッシュを一枚、掌でそっと転がして頭の芯を作る。もう一枚をふわりとかぶせると、美晴が輪ゴムでやさしく留めた。

麻ひもを通す。

油性ペンのキャップが小さく鳴る。


「日陰の顔、描こ!」


「えー、やめてくれよ。晴れないぞ」


「たしかに。本当に晴れなさそうだからやめた方がいいかな?」


「否定してくれよ」


美晴はくすっと笑い、けれど手元は真剣だ。

できあがった一体を胸の前に掲げる。


「じゃん!」


「……めっちゃ笑顔だな」


明らかに今の自分よりずっと大口で笑う『日陰』。髪の跳ね方だけ、妙にそっくり。

おかしくて、ちょっと嬉しい。


「私のも描いて!」


ペンを渡され、日陰はもう一つの白い頭を手に取る。

視線は—―自然に—―美晴へ吸い寄せられた。


「可愛くしてね」


「……」


まじまじと見てしまう。


(近くで見るとやっぱり……)


白い肌は光をやわらげ、髪はさらりと揺れて、目は大きい。

まつ毛が長くて、すっと通った鼻筋。

小さな口—―。


「ねー!日陰、早く描いてよ!」


はっと我に返る。

慌てて白い顔へ視線を落とす。

ペン先がわずかに震えた。


(キモすぎだろ、俺)


てるてる坊主なんて、にこちゃんマークで済むはずなのに—―足りない。

丸い目二つと小さな口、だけじゃ『美晴』にならない。

そんなものじゃ表現できない。


手が迷う。

何度もペン先を置き直す。

それでも逃げず、一画ずつ重ねた。

目尻を少し下げ、まつ毛を三本だけ長く、口は控えめに—―でも口角を上げて、笑顔に。


「……できた」


差し出すと、美晴の顔がぱっとほころぶ。


「すごいこってるじゃん!」


誰が見ても『上手い』とは言えない。

けれど、時間が乗っている。

線の端々に、いろんな想いが残っている。

日陰は自分の頬が熱くなるのを自覚した。


美晴はそれを大切そうに抱え、こくりとうなずく。


「みんなのも作ろ!」


亮のは元気な感じで眉を太くして、ツンツンの髪。

星奈は星形の目に、短めのボブ。

翔子は穏やかな下がり目にメガネと三つ編み。

ペンが擦れるやわらかな音が、街灯の輪の中で重なっていく。


白い小さな顔が五つ、並んだ。


「よーし!教室の窓に掛けよ!」


美晴が立ち上がる。

日陰もうなずき、二人で校舎へ。

暗い廊下をスマホのライトで照らして進む。

埃の粒が光の中で静かに回る。

教室の扉を押すと、月明かりが室内の輪郭を薄く縁取った。


カーテンを開け、レールにひもを結ぶ。

窓を全開にすると夜の空気がすっと入り、五つのてるてる坊主がふわりと揺れた。

どれも、空を見上げているように見える。


二人は、その小さな後ろ姿を並んで見上げた。


「晴れるといいね」


美晴が言う。

日陰は黙ってうなずいた。


日陰と美晴のてるてる坊主は横に並んでいて、風が寄り合うたび、時折、手をつなぐみたいに重なった。


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