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第十五話「八月二十九日」

夕方まぎわ。

陽炎はまだグラウンドの向こうに揺れているけれど、光は少し傾きはじめ、窓辺の斜めの筋が紙の繊維まで透かしていた。

蝉の声は昼よりわずかに間がのび、チョークの粉と古い木机の匂いが、ぬるい風にゆっくり混じっていく。


机の上で、亮のスマホが小さく震える。

ニュースアプリの見出しが、水気を含んだ空気に、ぴん、と刺さった。


「なぁ、台風さ――花火大会の日、直撃らしいぞ」


亮が顔をしかめ、ノートでぱたぱた扇ぎながら言う。


「え、最悪だね……」


星奈は窓の外を見る。

雲はまだ薄いのに、風だけが気まぐれに向きを変える。梢の葉がときどき裏返って、かさり、と軽い音。――気配は遠い。いまはまだ、ただ暑いだけ。


「いやだぁぁぁぁぁあ!行きたい行きたい行きたい行きたい!!!!」


亮が両手を天に突き上げ、机に額をつけてじたばたする。

星奈は吹き出し、「小学生みたい」と肩を揺らした。


その喧騒を、日陰はほとんど聞いていなかった。

ペン先を宙で止めたまま、空いた隣の席へ視線が落ちる。


(……今日で四日目)


喉の奥に、小さな錆びた釘みたいな不安が刺さっている。

息を飲み込んでも、うまく沈まない。

引っかかったまま、ずっとそこにいる。


---


昨夜。

みんなと別れたあと、気づけば足はまた廃校へ戻っていた。

携帯のライトを点けると、白い輪が砂利の上をすべっていく。

門柱の影が長くのび、足音だけが校庭に散った。


「……美晴」


呼べば呼ぶほど、名前だけが自分に返ってくる。


昼にも一度、そして夜にもう一度。

校内を端から端まで――教室という教室、踊り場、階段、廊下を、ただ歩いた。

屋上の扉は、いつも通り、固く閉ざされたまま。


(……まさか。そんなこと、ないよな)


その言葉だけは声にしたくなくて、奥歯を噛む。

灯りの輪が壁を舐め、月が傾くにつれて、影だけが増えていった。


---


「おい!日陰!」


肩を小突かれて、現実に引き戻される。


「――あ、え。ごめん。どうした?」


「聞いてんのかよ。大丈夫か?」


亮はノートをくるくる丸め、日陰の額にコツンと軽く当てた。


星奈が、少しだけ声を落とす。


「みっちゃんのこと?……今日も来てないから心配だよね。体調崩したとかかな……。日陰くん、家とか、知ってるの?」


図星を刺され、心臓がひとつ跳ねた。

指の間でシャープペンが、カチ、と鳴る。

視線が一瞬だけ泳ぐ。


(家……。美晴は幽霊で、今暮らしているのは――この学校、みたいなものだ。)


喉の奥まで言いかけて、飲み込む。

いま言えば、三人なら一緒に探してくれるかもしれない。

でも「この学校の幽霊なんだ」なんて、どうやって言う。

信じてもらえない顔を想像した瞬間、舌の先が冷えた。


「美晴は……この学校の――」


言いかけて、唇の内側を噛む。

言葉がそこで止まる。

止めたのは理性というより、怖さだった。


「……いや、ごめん。知らない」


短く吐き出して、椅子を引く。


「ちょっと、トイレ」


立ち上がると、隣で椅子の脚がきゅっと鳴った。


「わ、私も—―」


翔子が慌てて立ち、右手を胸元にぎゅっと構える。


「い、一緒に……いいかな?」


一瞬だけ驚いて、日陰はこくりと頷いた。


「あ、うん」


視線を合わせきれないまま、二人は並んで教室を出た。


---


校門から公園へ下る、細い坂道。

白いガードレールと金網の側溝、角のカーブミラー。

視線の先で、公園の遊具がぼんやり揺れていた。


「……美晴ちゃん、心配だね」


翔子が口をひらく。

歩幅は日陰に合わせている。

声は靴音より少しだけ小さい。


「うん」


日陰は前を見たまま、短く返した。

それきり、蝉の声と風の息だけが二人のあいだを行き来する。

沈黙が一枚、また一枚と重なって、足もとの影を少しずつ濃くしていった。


「……花火大会の返事、できてなくて、ごめん」


落ちた言葉は、坂の砂に吸いこまれる。

翔子は目をかすかに丸くして、それからやわらかく微笑んだ。


「大丈夫だよ。……私は、ひとりでも楽しめるタイプだから」


強がりの輪郭を、優しさでそっと包むような響き。

日陰は視線を合わせられず、ガードレールの影が斜めにのびる方へ目を逃がす。


「……ありがとう」


坂の上から傾いた陽が、二人の影を細長く引っぱっていく。

翔子は呼吸をひとつ整えて、言葉の置き場を確かめるみたいに前置きを落とした。


「勘違いなら……謝るんだけど」


ひと拍。


「……美晴ちゃんと、何かあった?」


責め色のない、そっと触れる指先みたいな問い。

日陰の喉が一度だけ鳴る。


「いや、何も……」


薄い答え。

けれど翔子は、その薄さの向こうを覗くみたいに、声に小さな力を宿す。


「私でよければ……相談に乗るよ」


胸の内側が、きゅっと鳴った。

日陰はようやく翔子を見る。斜めの陽が、メガネの縁に薄く引っかかって、すぐ消える。


喉の奥で固まっていたものが、少しほどける。

言っていいのかもしれない—―そんな気がした。


「実は……」


言葉がそこで一度、つまる。

何から言えばいい。どこまで言えばいい。

蝉の声の隙間に、自分の呼吸だけがやけに大きく混ざった。


「美晴ってさ—―」


口にした、その瞬間—―


「おーーーい!二人とも〜!!」


背後、校門の方角から飛んでくる、聞き慣れた、いま一番聞きたかった声。


振り向く。

傾いた陽が枝の隙間からこぼれ、舞い上がる砂埃を金色に染める。


そこに、美晴がいた。


光の縁取りの中で、ニコニコと大きく手を振っている。

髪の先が淡く透け、スカートの裾が風にふわり。

夕景がその笑顔をやわらかく滲ませ、坂道の上に小さな幻みたいな明るさを落としていた。


日陰は、その場で固まった。

翔子も一瞬目を見開いて—―ちら、と横目で日陰を見る。眉がほんの少しだけ揺れて、それから視線を美晴へ戻し、小さく手を振り返す。


「仲良しさんだね〜!」


坂の上から駆け下りてくるみたいな足取りで、美晴が明るく近づいてくる。

笑顔は、あまりにも滑らかだった。

まるで数日の空白なんて、最初から存在しなかったみたいに—―ただ自然に、そこに立つ。


その一言に、翔子の頬がふっと熱を帯びる。


「美晴ちゃん……なにかあった?…体調とか大丈夫?…みんな心配してたよ」


「あー!!ごめんごめん!」


美晴は大袈裟に手を合わせ、ぺこぺこと頭を下げる。

息をひとつ整えて、裾についた砂を指先で払った。


日陰はようやく口を開く。


「本当に、何してたんだよ……」


心配と、安堵と少しだけ混じった苛立ちが、声の端で擦れる。


「てーい!」


美晴の指先が前髪を小さく弾く。

ひやりとした感触に、日陰は言葉を飲んだ。


「女の子にはいろいろあるんだよーー!!野暮だよ、野暮!」


美晴は笑って、軽く指を振る。


翔子は、唇をきゅっと結んだ。


(……そういうこと、なのかな)


前髪を整えるふりをして、視線を靴先へ落とす。

頬の熱だけが、うまく隠れない。


日陰は喉まで出かかった問いを、飲み込んだ。

夕日の斜面で、三人の影が重なる。蝉の声が一段だけ近くなる。

「女の子にはいろいろある」は、これ以上踏み込むな、とやんわり言われているみたいだった。


「はぁ……。まぁ、いいけど」


小さく息を落として、日陰は男子トイレへ。

翔子も「じゃあ」と小さく会釈して、女子トイレへ消える。


外には、美晴だけが残った。

鼻歌が、金網と欄干のあいだで軽く弾む。

夕陽に手をかざすと、指の輪郭がそっと薄く透ける。

美晴は目を細め、やわらかな微笑みでその手を包むように見つめた。


ほどなくして、日陰が先に出てくる。

美晴はくるりと振り返った。


「ごめんね」


落とされたひと言は、夕映えの色をしていた。

さっきまで淡く透けていた指先は、いまはちゃんと光を掴んでいる。

輪郭が戻って—―ここにいる、と静かに告げていた。


その顔を見た途端、胸の中で固くなっていたものがほどける。

抱えていた苛立ちは、拍子抜けみたいに行き場を失った。


「……心配してた」


「ごめん」


少しばかりの沈黙。


「もう、何してたか聞かないの?」


やさしさに、かすかな罪悪感をにじませた声。

日陰はひとつため息をついて、視線を合わせる。


「予定とか……そういうの。なんかあるなら、今度からは、先に言っといてくれ」


仕方ない—―ほんの少しだけ甘さが混ざる。


「え〜!束縛彼氏ですか〜?なんでも把握しておきたい?」


ぱあっと明るくなって、わざとらしく肩をすくめる。


「……もーいいわ」


「わ、わかったって!!ごめんごめん!!」


美晴が笑って、空気が軽くなる。


「ごめん。待っててくれたんだ」


ハンカチで手を拭きながら、翔子が戻ってくる。


「いいよ〜ん」


美晴が言い、翔子が「ありがとう」とうなずく。

日陰も歩を合わせた。三人は並び、夕日の残る坂道をゆっくりと上っていく。


---


ガラガラ。


「ただいまー!!!」


引き戸が勢いよく開いて、明るい声が天井まで跳ねた。

机に向かっていた亮と星奈が、同時に顔を上げる。


「美晴さん!!」

「みっちゃん!」


声が重なって、教室の空気がふっと戻る。


美晴はえへへ、と舌をちょこっと出して肩をすくめた。


「ちょーっと体調悪くてですねーー!無断欠席ごめんね!」


星奈が胸をなで下ろすように息を吐く。


「やっぱりそうだったんだ……でも、よかった」


亮もペットボトルを持った手を止め、眉を下げる。


「大丈夫か?無理すんなよ」


「おかげさまで!めちゃ元気!」


小さくガッツポーズ。

その笑顔につられて、二人の口元もゆるんだ。


遅れて、日陰と翔子も教室に入る。

風でカーテンがふわりと膨らんで、光の形が一瞬だけ変わる。

さっきまで胸に残っていた重みが、そこに置き去りにされたみたいに、少しだけ軽くなる。


---


それからは、ページを埋める音だけが続いた。

シャープペンが紙を掻く音、プリントが擦れる音、椅子の脚が小さく鳴る音。

陽が傾くころには、教室の色もゆっくり変わっていた。

斜めの光にチョークの粉が細く舞い、美晴は窓辺で下敷きをぱたぱた鳴らしている。


「—―できた」


星奈がペンを置いて、肩の力を抜く。

続けて翔子もノートを閉じた。指先に、薄い跡。


「おめでとー!!!」


美晴がぱちぱちと拍手して、亮が身を乗り出す。


「え、完全に終わった感じ?」


「うん」


星奈が頷き、翔子も同じように頷いた。


「えーー!!めっちゃいいタイミングじゃん!でも俺も、もうちょっとで終わるわ!」


椅子がきぃ、と鳴る。


「日陰は?」


「……俺も、明日で終わるかな」


「じゃあ、明日が最後だね」


星奈の言葉に、翔子がこくんと頷く。

その目尻だけが、ほんの少しだけ追いつかない。


亮が肩をすくめて、申し訳なさそうに笑う。


「いいよ。教えるの、復習になるし」


星奈はさらっと返して、問題集の端を指で揃えた。


「まじでありがとう……!明日も来てくれる?」


亮は両手をパチンと合わせる。

祈るみたいに、顔の前でぎゅっと。


「もちろん!—―ね?」


星奈が翔子へ視線を送る。

翔子は一瞬だけその視線を受けて、やわらかく頷いた。


窓の外で風がひとつ通って、カーテンの裾がふわりと返る。

美晴はそれに合わせて下敷きを止め、いたずらっぽく親指を立てた。


教室は明るいのに—―日陰の胸の奥だけ、まだ少しだけざらついていた。


---


校門の前。

影が長く伸び、風が少しだけ強まっていた。


「—―ちょっと、美晴。いいか?」


日陰が声をかけると、美晴が「ん?」と首を傾げる。

その間に、亮が空気を読んで手を打った。


「じゃ、俺らは先に帰るか!」


星奈は一瞬だけ引っかかるように瞬きして、隣の翔子へ視線を送る。

翔子は「大丈夫だよ」と言うみたいに、やわらかく微笑んだ。

星奈は安堵の息をひとつ。「……いこっか」

三人は並んで坂を下りはじめる。


「ばいばーい!」


美晴がひらひらと手を振る。

日陰も短く「また」と返した。


足音が遠のく。

門の錆びた気配だけが、急に濃くなる。


ふたりきりになるやいなや、美晴がにこにこ顔で距離を詰めた。


「なぁに〜??内緒話〜?」


「花火大会、どうするんだ」


日陰の眼差しは真っ直ぐだった。

美晴は「やっぱりそれか」とでも言うみたいに笑って、さらりと返す。


「日陰は?どうするの?」


問うたはずが、主導権を軽く奪われる。

言葉が喉でほどけて、日陰は視線を泳がせた。

翔子の顔が浮かぶ。


「……俺は—―」


「翔子ちゃん?」


いつもの調子で、美晴がにこっと笑う。

日陰は思わず瞬く。「え?」どうして知って—―。


「当たってた?行ってあげなよ」


軽い声。軽い笑顔。

なのに、胸のどこかがかすかに擦れた。


「誘われたの?」


日陰は答えない。目を逸らす。

それだけで、美晴は察したみたいに肩をすくめた。


「その感じだと、どうせ返事できてないんでしょ?」


図星。日陰は口を結ぶ。


「女の子を待たせるのはNGだな〜」


美晴は笑いながら言う。


(……美晴に言われたくないな)


口には出さない。

日陰は視線を逸らしたまま、喉の奥でだけ呟く。


すると美晴が、人差し指をぴん、と立てて、わざとらしく咳払いする。


「……ま、めちゃくちゃ可愛い『大天使』の美晴ちゃんと一緒に行きたいって思うのは仕方ないことではあるから、条件をあげるよ」


日陰は突っ込まず、黙って聞いた。

変に返したら、今の空気が壊れそうだった。


「翔子ちゃんと一緒に行くなら—―私も行ってあげてもいいよ」


「……なんだそれ」


「でも、花火は翔子ちゃんと『二人』で見てあげてよ」


言い方は軽い。

けれど、目元にだけ温度が宿っていた。


「俺は……」


続きが、喉の手前で止まる。

その先の言葉を言えるほど、まだ自分の気持ちは整っていない。

口を開けば、いまの関係が変わってしまいそうで、舌が動かない。


「日陰。お願い」


祈るみたいな声だった。

その瞬間、翔子の顔がよぎる。返事をできないまま過ぎていった時間。


胸の奥の罪悪感が、少しだけ緩んだ。

この頼みを飲めば――その重さに、形がつく気がした。


(……美晴とも、祭りには行ける)


「……わかった」


短く頷く。満点じゃない。

でも、ここで立ち止まるよりは、ましだと思った。


風が一段強く抜ける。

葉の裏が白く返り、遠くで蝉が声を張った。


美晴は小さくガッツポーズを作って、いつもの笑顔に戻る。


「決まり!楽しみだね」


その横顔に、純粋な『楽しみ』が透けて見えて—―日陰は息を詰めた。


でも、気づけばトートバッグからカメラを取り出していた。

半ば無意識のまま—―


—―カシャ。


シャッター音に、美晴が小さく肩を跳ねさせる。

すぐに、にこっと笑う。


「なんで撮ったの?」


問いに、日陰ははっとしてカメラをしまった。

答えは喉まで来ていたのに、口にできない。


「……なんでもない」


言い切った自分の声が、思ったより硬かった。


美晴は笑ったまま、「そっか」とだけ頷く。

その頷きが、なぜかとても優しく感じた。



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