第十四話「あげない」
グループチャットに短い通知が落ちたのは、午後一時を少し過ぎたころだった。
『ごめん、ちょっと遅れる。』
すぐに返事が跳ねる。
『おーい遅刻かよー!じゃ罰として帰りにアイス奢れ!』
『了解ー!気をつけて来てね』
教室にいるのは、星奈と翔子と亮だけ。
開け放たれた窓から風が入り、カーテンがふわりと揺れて、机の上の薄いプリントの端が小さく鳴った。
星奈はスマホを伏せる。
笑い合うはずの三人の輪が、いまは二つ欠けていることがやけに目立った。
(……もしかして、日陰くんとみっちゃん、二人でどこかに行ってるのかな?)
星奈はふと、隣の翔子を見た。
昨夜、翔子から電話があった。
いつもより少しだけ声が明るくて、言い出す前に一拍、息を飲んで――
恥ずかしそうに笑って、「花火大会に誘ったんだ」って言っていた。
星奈までつられて頬が緩んだのを覚えている。
だからこそ、日陰の「ちょっと遅れる」が、妙に引っかかった。
もし本当に二人で出かけているのだとしたら。
翔子は、どう思うんだろう。
星奈は口には出さず、視線だけで翔子の横顔をそっと確かめた。
翔子はプリントを押さえる指先に力が入っていて、紙がわずかにしわになる。
顔は前を向いたままなのに、息を吸う間が――一拍だけ長い。
星奈は、その『間』に胸の奥がきゅっとする。
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ガラガラ。
三十分程経って、教室の引き戸の向こうから汗をにじませた日陰が入ってきた。
右手には、側面に街の写真屋の小さなロゴが入った白い紙袋。
「……遅れてごめん」
「遅刻遅刻!反省文〜!……って、その袋なんだ?」
亮が真っ先に立ち上がり、紙袋を覗き込む。
「写真……。この一週間のやつ、まとめて出してきた。思ったより時間かかって」
日陰は袋から厚い写真の束を取り出し、机へ広げる。
並ぶのは勉強会の風景――俯く手元、笑い合う横顔、斜めに差し込む逆光、笑顔の集合写真。
撮っているのはほとんどが美晴で、ときどきブレたり、ピントが甘かったりする。
だからこそ、『そのままの時間』が切り取られていた。
ただ、必然的に、どの写真にも美晴自身の姿は写っていない。
「好きなの、持って帰っていいよ」
思いがけない言葉に、三人の目が丸くなる。
「えー!最高!」と亮が弾け、「嬉しい!ありがとう」「……ありがとう」と星奈と翔子も笑った。
「これ、一日目の休憩のやつ!なんかもう懐かしい」
「俺の髪、跳ねすぎじゃね?」
「この逆光、綺麗………」
三人はわいわい身を寄せ、欲しい写真を選んでいく。
ふいに、翔子と日陰の目が合った。
次の瞬間、ふたりとも同時に視線を逸らす。
(……ごめん)
(……いや、その……)
昨日のことが一気に蘇る。頬が熱を帯びる。
恥ずかしさと、まだ返事ができていないことへの後ろめたさが、言葉にならないモヤモヤになって、写真を掴む指に力が入った。
「あれ?」
星奈が袋の口を覗き、首を傾げる。
「まだ入ってるけど……他にもあるの?」
「……あ、これは――」
日陰は反射的に、袋の口を手で覆った。
「は?なんで隠すんだよ、見せろって〜」
亮が身を乗り出す。
「まぁ、亮くん」
星奈がやんわり袖を引いた。
亮は一瞬びくっとして頬を赤らめたが、すぐに咳払いで誤魔化す。
「まっ!男なら誰にでも人には見せられない写真の一枚や二枚はあるよな!わかるわかる!」
(いや、絶対わかってないだろ)
日陰は内心でだけ突っ込み、袋のフタを二つ折りにして中身を隠す。
そっと床へ置き、椅子の背へ静かにもたれた。
そして隣の席へ目をやり、ようやく気づく。
「……あれ?美晴は?」
「え?てっきり二人でどっか行ってるのかと思ってたぞ」
亮が言い、星奈も翔子も、こくりと小さく頷く。
(……おかしいな)
日陰は眉を寄せたが、すぐに肩の力を抜いた。
(まぁ……この学校に住んでるみたいなもんだし、そのうち来るだろ)
「連絡とかないの?」
星奈が穏やかに問う。
「――ああ、そういえば」
一瞬だけ躊躇してから、日陰はさらりと嘘をのせた。
「……あいつの親、かなり厳しくてさ。携帯、持ってないんだ」
真実の端だけを切り取った、都合のいい説明。
ここで話を広げても仕方ない、と少しの罪悪感を喉の奥に押し込む。
「なるほど。言われてみれば、美晴さんがスマホいじってるとこ見たことないわ」
亮が軽く頷く。
「……そう、なんだ」
星奈はわずかな疑問を胸にしまい、短く頷いた。
そのとき、翔子は静かに息を吐いた。
安堵に似た吐息だった。
それから、彼女は一枚の写真をそっと手に取る。
美晴が撮った一枚。
真剣な顔で課題を進める、日陰の横顔だった。
(……かっこいい、な)
指先で写真の端をそっと撫でる。
そして――
(美晴ちゃんは、どんな気持ちでこれを撮ったんだろう)
胸の奥で、名前のつかない小さな棘が、音もなく疼いた。
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「はーーー!あっちー!」
亮がTシャツの襟をぱたぱたさせる。
星奈は笑いながら窓を全開にして、熱の混じった風を呼び込んだ。
カーテンがふわりと返って、紙の端が軽く鳴る。
ペンの音。紙の擦れる音。
時計は午後三時を、少し回ったところだった。
「……みっちゃん、今日はもう来ないのかな」
星奈がぽつり、とこぼす。
亮は机に突っ伏したまま、横向きでジュースを器用に飲んでいた。
「下敷きうちわ係って、めちゃくちゃ助かってたんだな……」
日陰はノートから目を上げ、空いた隣の席へ視線を落とす。
(……どうしたんだろ)
一拍だけ考えて、椅子を小さく押し出した。
「ちょっとトイレ」
それだけ言い置いて、教室を出る。
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廊下は陽光に照らされて白く焼けていた。
いつもなら「トイレ」と言えば、校舎の外へ抜けて近くの公園に向かう。
けれど今日の足は、そっちへは向かない。
校舎をぐるりと一周するみたいに、ゆっくり進めた。
理科室、家庭科室。
音楽室の窓ガラス越しに、埃をかぶったピアノが眠っている。
整列した椅子は黙ったまま、夏の熱だけを抱えていた。
「……美晴」
小さく呼ぶ。返事はない。
開け放たれた廊下の窓の向こうで、遠い蝉の合奏だけが均一に続いている。
踊り場をいくつも覗き、手すりに残る熱を指先で確かめる。
屋上の扉は鍵がかかったまま、びくともしない。
体育館の中は音を呑み込んだようにしんと静まり、裏手へ回れば、ただ蝉時雨だけが耳を満たした。
……しかたがなく、教室の階へ引き返す。
ポケットのスマホを取り出して画面を点けると、思っていたより時間が過ぎていた。
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ガラガラ、と引き戸が鳴る。
亮が顔を上げ、すかさず口角を上げた。
「おそっ!どんだけでっかいの出してたんだよ」
軽口に、日陰は「……ごめん」とだけ返す。
それきり言葉が続かない。
亮は返しを待って――来ないのを見て、ふっと表情を引き締めた。
「ま、いっか」とでも言うみたいに何も言わず、ペンを握り直す。
再び、シャープペンが紙を刻む音だけが教室を満たした。
(……美晴。どうしたんだ)
ページの端が、風に一枚だけめくれる。
もやもやはほどけないまま、時計の針だけが進んでいった。
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夕方。
チャイムのない学校なのに、三人の手がほとんど同時に止まった。
ひとつ、ふたつと目配せが交わされる。
「今日は……ここまでにしよっか」
星奈が顔を上げた。
「賛成〜。脳みそ溶ける前に撤収」
亮が大げさに伸びをする。
「……うん。続きはまた明日」
翔子は静かに頷いて筆記具をしまい、日陰も鞄に手をかける。
写真の入った紙袋へ手を伸ばして――そこで止めた。
(……置いてくか)
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門まで出ると、空は薄い橙。影が長い。
「解散ね」と星奈が微笑み、亮は鞄を肩へ。
翔子はふと坂の上へ目をやる。
やっぱり、気配はない。
風が葉を撫で、さらさらと音を立てていた。
「よーし!今日は男同士で語り合いたい気分だから、星奈さんと翔子さんは先に帰って!」
亮がニヤニヤしながら日陰を見る。
「は?」と漏らす日陰に、星奈がくすっと笑って頷いた。
「はーい!わかった!翔子、帰ろっか」
「……うん」
二人が坂を下っていく。
亮が大げさに手を振ると、振り返った星奈がひらりと応じた。
日陰も控えめに手を上げた。
二人の背中が十分に離れて、小さくなったのを確認してから、日陰はため息まじりに亮へ向き直る。
「……なんだよ」
「おいおい、親友が話したいって言ってんだ。そんな嫌そうにすんな」
「……いつから親友になった」
「いま」
「……もういいから早く言え」
亮はははっと笑い、数歩だけ先へ行って振り返る。
瞳の色が、少し真面目になる。
「……振られたわ」
日陰の足が、一瞬だけ止まった。
(……え?もう言ったのか?)
遅れて意味が追いつく。
「……まじか」
「マジ」
亮は苦笑いして、炭酸をひと口。
舌の上で弾ける音が、やけに大きく聞こえた。
「でも、言ってよかった。黙ってたら一生モヤモヤしてただろうし」
「……そうか」
「そう。そうなんだよ」
短い沈黙。
日陰が口を開く。
「……亮は、すごいよ」
「は?どこが」
「ちゃんと伝えただろ。普通、怖いとか……失敗したらどうしようって、なるだろ……」
「いや、だから失敗なんて考えてないっ――」
言いかけた亮の視線が、日陰の顔で止まった。
眉間のこわばり。喉奥で飲み込んだ息。揺れている目。
「……思うに決まってんだろ。めちゃくちゃ怖えよ」
不意を突かれて、日陰の目が丸くなる。
「え?そうなのか?じゃあ、めっちゃ自信が――」
「ない!!全然!あの星奈さんだぞ?流石の俺でも釣り合わねぇって、わかってる」
「じゃあ、なんで言ったんだよ」
夜の手前、街灯がぽつぽつ灯り始める。
亮は少し笑って、空を仰いだ。
「伝えないまま終わるほうが、後悔するから」
「後悔、か」
「うん。失敗するかもしれない!でも、言わないよりマシ」
日陰は小さく息を吐く。
「……失敗しても、いい?」
「まーそうなんじゃね」
亮は足を止め、まっすぐな目で続けた。
「なぁ日陰。『失敗できる』って、実はめっちゃ贅沢なことだと思うんだよ」
「どういう意味?」
「失敗できるってのは、挑戦した証拠。何も賭けてないやつは、そもそも失敗すらできない」
亮は笑って、言葉を転がす。
「それに、医者みたいに失敗が許されない世界もある。でも俺らの告白なんて、失敗しても死ぬわけじゃないし、世界が終わるわけでもない」
肩をすくめる。
「つまり、極論!『失敗できる』ってことは、『生きてる』ってことじゃね?」
日陰ははっとして、亮の横顔を見た。
夕風に前髪が揺れ、灯りが頬に滲む。
「……たしかに」
「だからお前も、ちゃんと言えよな」
亮は笑ってるのに、目だけは真っ直ぐだった。
日陰は一瞬、言葉を飲み込む。
「は?な、何をだよ」
とぼけたつもりの声が、わずかに上ずった。
亮は肩をすくめて、わざと軽く笑う。
「まーまー。もたもたしてたら、あとで後悔すんぞ」
亮は空きボトルで手のひらを叩く。
カラン、と乾いた音が夕闇へ転がった。
「俺は、とりあえずOK貰うまでアタックするつもり!」
日陰がふっと笑う。
「……お前、今日ちょっとかっこいいな」
「当たり前だろ!?今日だけじゃないだろ?それにまだ一回目だぞ?ここから何万回も挑戦して、OKもらえたら、その『何万回』が全部報われるんだよ」
「何万回も振られてたら、さすがに無理だろ。諦めろよ」
「黙れ!!」
二人の笑い声が、夜風にほどけていく。
犬の遠吠え。夏の匂いが、薄く、長く続いていた。
(明日、美晴に花火大会どうするか、ちゃんと聞こう)
亮の言葉が、少しだけ日陰の背中を押す。
(というか。どこ行ってんだよ。……美晴)
「あ、てかお前今日の遅刻の罰としてアイス奢れよ」
「なんか、今の発言で全部台無しだわ」
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坂を下りながら、星奈が横目でそっと翔子をうかがう。
街灯に引き伸ばされた二人の影が、アスファルトの上で細く寄り添っていた。
蝉の声の隙間を縫うみたいに、風がさらりと頬をすべっていく。
「……翔子、大丈夫?」
問いは、靴音より小さい。
翔子は返事の前に一拍だけ息を飲んで、笑いに似た息をこぼした。
「……大丈夫。たぶん」
つま先で弾いた小石が、ころん、と転がる。
翔子の視線はその小さな背中を追って――戻ってこない。
星奈は歩幅を半歩ゆるめて、声の角をそっと丸くした。
「……写真、良かったね。日陰くんの横顔」
言葉の置き場所を確かめるみたいに、ゆっくり。
翔子の睫毛がかすかに震えた。
指先が、さっき写真の端を撫でた感触を思い出すみたいに、宙をなぞる。
「……見てた?」
「うん。……でも、貰わなかったでしょ?――貰っておけば、よかったのに」
翔子は俯いて、静かに首を振った。
「今日は、美晴ちゃんがいなかったから」
「え……?」
星奈の目がわずかに見開かれる。
翔子は言い直すみたいに、言葉を選びながら続けた。
「うまく言えないけど……あったかさ、みたいなのを感じたんだ。撮った人の気持ち――みたいな」
短い沈黙。
星奈は並んで歩く横顔を見つめる。
「じゃあ、みっちゃんが欲しいって言ったら……渡すの?」
翔子は一瞬だけ迷って、唇を結ぶ。
それから小さく、でもはっきり首を振った。
「……あげない」
小さい声なのに、芯があった。
それが強がりじゃなくて、守りたいものの形に聞こえて、星奈はふっと笑う。
歩みを止めて、そっと翔子を抱きしめた。
「応援してるよ」
明るい声色の奥に、祈りみたいな温度が混じっていた。
翔子は少しだけ目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。




