第十二話「また明日も君と」
辺りは少しずつ暗くなり、街灯がぽつぽつと灯り始める頃。
日陰たちは校門の前に集まり、今日の勉強会を終えた余韻を感じながら、それぞれの帰路につこうとしていた。
そんな中、星奈がふと美晴を見つめ、何気ない口調で問いかける。
「ねえ、みっちゃんの家ってどこなの?」
唐突な質問に、美晴は一瞬驚いたように目を丸くした。しかし、すぐに笑顔を浮かべ、何でもないことのように逆方向を指さす。
「私はみんなと逆方向だよ!」
軽い調子で答える美晴。その仕草はどこか自然ではなく、話を掘り下げさせないためのものに見えた。
星奈はその微妙な違和感に気づいたが、あえて追及はしなかった。ただ、静かに微笑んで「そっか……」とだけ返す。
「1人だと危なくない?送って行こうか?」
亮が心配そうに言いながら、一歩前に出る。
「全然大丈夫!私、歩くの速すぎてみんな着いてこれないよ!体育得意だからね!」
美晴は両手をぶんぶん振りながら、軽快に笑って見せた。その声は明るく、いつもと変わらないように聞こえる。
「いや、それ体育得意とか関係あるのか?」
亮が突っ込むが、美晴は冗談めかしたまま、「じゃあ、また明日ね!」と軽やかに手を振る。
「うん……またね、みっちゃん」
星奈が手を振り返し、翔子と亮もそれに倣う。
日陰だけが、その小さくなっていく後ろ姿をじっと見つめていた。
美晴の姿が遠ざかるにつれ、日陰の胸には何とも言えない違和感が広がる。
(逆方向……か)
美晴の帰る場所はこの廃校だ。
わざわざ嘘をついて実際に逆方向の道を進んでいく彼女の後ろ姿を見ながら胸が苦しくなるのを感じた。
日陰は美晴が幽霊であることを隠そうと、無意識に誤魔化す発言をしてしまった。
それが本当に正しかったのか——今になって、もやもやとした想いが浮かんでくる。
「おい、どうしたよ日陰!帰るぞー!」
亮の声が遠くから響き、日陰はハッとしたように顔を上げる。
「あ、うん……」
どこか歯切れの悪い返事をしながら、3人の後に続いて歩き出した。
亮は星奈に楽しげに話しかけ、星奈も柔らかく微笑みながら会話を交わす。
翔子はその様子をぼんやりと見つめていたが、ふと日陰の歩調が少し遅れていることに気づく。
日陰の視線はどこか遠く、心ここにあらずといった様子だった。
「ど、どうかした……?」
翔子がそっと声をかける。
メガネの奥の瞳は、街灯に照らされて宝石のように輝いている。
日陰は一瞬、戸惑うように彼女を見つめた。
「ん……いや、何もないよ」
小さく首を振る。
「そ、そっか……」
翔子の声はどこか寂しげだったが、それ以上は聞けずに視線を落とす。
彼女の胸の奥で小さくくすぶる感情は、言葉にするにはまだ形を成していなかった。
一方、日陰の心も揺れていた。
(美晴……本当に予定があるのか?)
彼女が花火大会に行けないと言った時の声。
笑顔はいつもの明るさのままだったが、どこかほんの僅かに、歪みを感じた気がする。
——それでも、何も言えなかった。
(このまま、聞かなくていいのか?)
美晴が「予定がある」と言った理由——。
それが本当のことなのか、ただの口実なのか。
日陰は確かめる術を持たないまま、気持ちだけがざわついていた。
どちらの答えであっても、彼の中には違和感が残る。
そして、ふと足を止める。
「あっ……」
少しわざとらしい声に、3人が振り返った。
「どうした?」
亮が首を傾げる。
「いや、問題集……教室に置きっぱなしだ」
日陰の発言に、亮は「何だそんなことか」とでも言いたげに眉を寄せた。
「まあ、明日も来るんだし、そのままでいいんじゃね?」
亮が肩をすくめるが、日陰は小さく首を横に振る。
「いや……帰ってからも少し進めておきたいから」
言葉を残し、日陰は踵を返して走り出した。
「おい!マジで戻るのかよ!」
亮の驚いた声が背後から聞こえるが、日陰は振り返らない。
その様子を見て、星奈は微かに眉を寄せた。
(やっぱり……日陰くんは美晴ちゃんのことが気になってる……?)
確信はない。けれど、心の奥に引っかかる何かがある。
彼女は静かに翔子の方を見る。
翔子は、日陰が走り去った方向を見つめたまま、ぽつんと立ち尽くしていた。
その横顔には、微かに沈んだ影が落ちている。
「……私たちは帰ろうか」
星奈が柔らかく声をかけると、翔子はハッとして顔を伏せる。
「……うん」
その声は少しだけ震えていたが、星奈は何も言わず、微笑みながら歩き出した。
夜の涼しい風が、街灯に照らされた道をそっと流れていく。
そして、校舎へと駆け戻る日陰の足音だけが、夜の空気の中で響いていた——。
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緑の桜並木が続く坂道を登り、息を切らしながら校門に辿り着いた日陰。
夜の静寂に包まれた廃校の入口を前に、彼はしばらく立ち止まる。
月明かりが静かに地面を照らし、虫の声が遠くから響く。
喉が渇くような静寂が、じわじわと心に広がる。
日陰は校門を見つめ、迷うように視線を彷徨わせた。
心臓の鼓動が、やけに大きく響く。
意を決したように深く息を吸い込み——
「美晴ー!!!」
思い切り声を張り上げた。
その声は夜の空に響き、廃校の静けさへと溶けていく。
しかし、返事はない。
静寂だけが耳に返ってきた。
日陰は唇を噛みしめ、もう一度——
「美晴!!! ごめん! 俺……」
言葉の途中、背後から涼しげな声が響いた。
「日陰〜、近所名物だよ〜」
日陰は思わず驚き、バッと振り返る。
そこには、美晴が立っていた。
黒いセーラー服が風に揺れ、月光を受けた黒髪が儚く幻想的に輝く。
彼女は満足そうな笑みを浮かべながら、ゆったりと腕を組んでいた。
「……っ、びっくりした」
思わず息を呑む日陰に、美晴はクスクスと笑う。
そんな姿に一瞬見惚れそうになるが、振り払うように首を振って声を発した。
「近所迷惑な……」
小声でツッコミを入れる。
美晴はその反応が面白かったのか、さらに笑った。
その笑顔につられ、日陰も思わず小さく微笑む。
しかし、ふと沈黙が落ちる。
日陰は、真剣な眼差しで美晴を見つめた。
「……俺、美晴に悪いことしたと思う」
不意に呟いた日陰の言葉に、美晴の笑顔がふっと止まる。
「ん? なにが?」
無邪気に問い返す彼女の瞳は、吸い込まれそうなほどに澄んでいた。
日陰は一瞬言葉を詰まらせるが、唾を飲み込み、静かに続ける。
「……みんなに、幽霊だってことを隠した。美晴に……嘘をつかせた。その……ごめん」
言いながら、日陰は視線を落とす。
ずっと引っかかっていた罪悪感を、ようやく言葉にしたことで、少しだけ肩の力が抜ける気がした。
美晴は目を丸くしたあと、ふっと目を伏せて小さく笑った。
「謝ることないよ。私が勝手に言ったんだし」
「でも……」
日陰が反論しかけたとき、美晴はゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「日陰が正しいよ。……私がおかしかったんだと思う」
その言葉に、日陰は少し眉を寄せた。
明るい口調なのに、どこか遠くの方を見ているような声だった。
「私はさ、やっぱり日陰たちとは違う存在だから」
言いながら、美晴はセーラー服の袖の端をそっとつまむ。
その指先がかすかに震えているのを、日陰は見逃さなかった。
「ていうか私、みんなの前でいきなり幽霊なんておかしな子すぎるよね!絶対変な子って思われたよね〜」
平然を装おうとしているようなそんな響きを感じるほどに彼女の声は震えていた。
「……そんなこと……」
日陰が何かを言いかけたとき、美晴が先に口を開いた。
「そもそも、こうして話せてるだけで、十分奇跡だと思ってる。だから……ね?」
風に揺れる髪が月明かりを受けてきらりと光る。
「弁えないといけないって思ったの。みんなで過ごす時間は本当に本当に楽しいけど……でも私は、外から応援してるのがちょうどいいのかもしれないなって」
「……」
日陰は言葉を失ったまま、美晴の横顔を見つめる。
「せっかく日陰には、友達ができたんだよ?すっごく嬉しい!!花火大会も、みんなで楽しんでほしい!!!……私は、いいから」
「……いいわけ……ないだろ」
日陰が、ぽつりと呟いた——その声は、自分でも驚くほど低かった。
言葉にするまでに、数秒の沈黙があった。
その間、心の中にはぐちゃぐちゃとした感情が渦巻いていた。
(なんでだよ……)
いつもの美晴なら「みんなで楽しんで」だなんて言わないだろう。
絶対に「私も行くー!」って飛びついてくるはずだった。
ノリと勢いで日陰の腕を引っ張って、行く気満々で笑っている、そんな姿しか思い浮かばなかった。
なのに今の美晴は、まるで——
(まるで、自分のことを“外側の人間”だって決めつけてるみたいじゃないか……)
それが、どうしようもなく引っかかった。
どうしても飲み込めなかった。
昨日まで、あれだけ一緒に笑っていたのに。
まるで「それはもう終わったこと」とでも言いたげな口ぶりが、胸に刺さる。
(幽霊だってこと……みんなの前で隠したからか……だから避けられてる……?いや……それはさっき許してくれたはず………じゃあなんで?……何があったんだよ…)
不安が頭の中を駆け巡る。
けれど、視線の先の美晴は、いつも通りの笑顔で微笑んでいた。
だからこそ、その“ズレ”が、余計に苦しかった。
(……どうして笑ってるんだよ……)
言いたいことがあるなら、怒ってくれればいい。
拗ねたっていいし、泣いたって構わない。
なのに、美晴は——何も言わずに、ただ笑っている。
——まるで、何かを誤魔化すように。
——いや、何か決心したかのように。
だけど。
「…………いいわけ……ないだろ」
噛み締めた言葉を再び口に出しても感情の奥のざらつきは、消えてくれなかった。
「なんで……なんで一緒に行けないんだよ。予定って、なんなんだよ。ずっと予定があるなんて言って……それ、本当なのか?」
珍しく語気を強めた日陰の問いに、美晴の肩が小さく揺れる。
「ほんとだよ〜? 私も色々あるんだよ!」
冗談めかして笑うその声には、ほんのかすかに痛みが滲んでいた。
明るさの裏に、何かを隠すような——そんな響き。
日陰は思わず、美晴の表情を凝視した。
口元は確かに笑っている。けれど、その目は、どこか遠くを見つめているように感じた。
「…嘘なんだろ……。そんなに……行きたくないのか?」
言葉を絞り出すように口にしたとき、自分でも喉の奥が詰まるのがわかった。
声は上擦り、微かに震えていた。
美晴の笑顔が一瞬だけ止まった。
そのわずかな“間”に、日陰の胸が締めつけられるように苦しくなる。
「日陰、誘ってくれてありがとね」
まっすぐに、柔らかな声でそう言われて、日陰は息をのんだ。
優しい——けれど、それは、どこか“別れ”のような優しさだった。
「私は、大丈夫だから。ほんとに。だから、みんなで行って。たくさん笑って。たくさん思い出作って。——それが、私の願いなんだ」
ゆるやかな口調。いつも通りの穏やかな笑顔。
でも、その奥にあるものが、見えないわけじゃなかった。
(そんなの……納得できるわけないだろ……)
日陰は、震える手で膝をぎゅっと握った。
拳を握りしめるその力が、感情の揺れをかろうじて繋ぎとめていた。
——昨日までの美晴と、どこか違う。
明るく、無邪気で、勢いで引っ張ってくるような彼女が、今はまるで逆だ。
自分の輪郭をぼかすように、遠ざかろうとしている。
「今更……今更なんなんだよ」
日陰の声はかすれていた。
「今まで散々振り回しておいて……」
思い返すだけで胸が熱くなる。
あの海、ひまわり畑、廃校での時間——すべてが美しくて、特別だった。
「急に距離を取ってきて……! わけわかんねぇよ!!」
こみ上げる感情が、とうとう言葉になって噴き出した。
「だから……私は日陰たちとは違う存在だから」
美晴は、笑っていた。
でもその声には、風にかき消されるような弱さがあった。
日陰は、今にも飛び出してしまいそうな勢いの感情を抑えながら、その場に踏みとどまった。
「そんな事、関係ないだろ!」
声が、教室に響いた。
静まり返った空気に、強い熱が揺れる。
美晴の瞳が、ほんの少しだけ揺らいだ。
「美晴、言ってたじゃないか……。普通に話せるし、触れられるし、何より全然怖くないでしょって……! 美晴は、俺たちと変わらないよ! 現にこうして会話して……笑って……俺らと変わらず、高校生みたいに過ごしてるじゃないか!」
口から出た言葉は、言い訳に近かった。
自分でも、どこかでわかっている。
亮たちの前で彼女の正体を隠したのは、自分だ。
「違う存在」だと、最初に線を引いたのも、自分だった。
それでも——。
「ありがとう。でもそれは……勘違いだった。日陰と出会って、私……浮かれてたんだよ」
美晴の声は、あまりにも静かだった。
「また青春をやり直せるかもって……日陰と一緒に、普通の高校生みたいに楽しい時間をこのまま送れるかもって……思っちゃったんだ」
目を伏せる彼女の睫毛が震え、頬は少しだけ紅潮して見えた。
セーラー服の袖口を、細い指がきゅっと握りしめている。
「でも、今日で思い知ったんだ。私はみんなとは違う。今を生きているみんなは、とっても眩しくて、キラキラしてて……。これから先、いろんなことを経験していくんだろうなって……」
彼女は、小さく息を吐いた。
まるで吐息に混じって、何かを手放していくかのように。
「それに比べて……私は、もう終わった存在…。みんなと一緒にお菓子も食べれないしね」
静かなその言葉が、日陰の胸に鋭く突き刺さる。
美晴は、ほんの一瞬だけ俯いた。
「……でも、自分で選んだ選択だから。報いは受けないと。だからね……」
その声には、覚悟と、諦めと、ほんの少しの怖さが混じっていた。
「もう日陰の邪魔はできないなーって思ったんだ」
そして、顔を上げた。
作り笑顔とは思いたくなかった。
でも、その笑みは、どこか色のない仮面のようだった。
——違う。
日陰の心の奥で、何かがぶちりと音を立てて千切れた。
「勝手に決めるなよ!!!」
叫んだ。
感情のすべてを、声に乗せてぶつけた。
震える声が、張り詰めた空気を裂いた。
その瞬間だけ、世界から色が消えたような静けさが広がった。
「何だよ急に! 邪魔なんて思ってねぇよ!」
日陰は強く言う。
「それに! じゃあ何で、さっきまた明日って言ったんだよ!」
美晴は目を丸くし、唇を噛む。
そして——
「……じゃあ、明日からは私は参加しないよ」
小さく呟いた声は、今にも消えそうだった。
「何でそうなるんだよ!! 本当は一緒にいたいって思ってるからなんだろ?」
美晴は、黙り込む。
「急になんなんだよ! あんなに強引に海とかひまわり畑とか連れて行ったくせに!!」
日陰は、どんどん感情が込み上げるようで、声が段々と大きくなる。
「花火大会だって、いつもなら『行きたい!』って飛びついてきそうなのに、何で嘘までついて断ってんだよ!」
美晴は俯きながら、小さな声で——
「……ごめん」
と呟く。
日陰は頭を掻きむしり——
「あーーー!! もう!! 謝ってほしいんじゃないんだよ!!!」
叫ぶようにそう言うと、目をギュッと瞑り、貧乏ゆすりをする。
感情の行き場がなくて、どうしようもなくて。
「美晴と出会ってから毎日が楽しくて!!美晴といる時間が、本当に、本当に……幸せで!!」
叫びが、夜の闇に反響する。
「だから!!ずっと花火大会誘おうって思ってたのに!!」
日陰はまた髪をわさわさと掻き上げて
「でも、なんか全然誘えねぇ雰囲気だし!あーーーもう!!何なんだよ!一緒に行きたいんだよ!」
——沈黙が落ちる。
美晴は、涙目になりながら日陰の顔を見た。
その視線を受けて、日陰は急に恥ずかしさがこみ上げ、顔を伏せる。
耳まで赤く染まっているのが、自分でも分かる。
(……は? 俺、何言ってんの?)
(めっちゃ恥ずかしいこと言ったよな?)
(今の、なしで!!!)
「……バカ」
美晴の小さな声が、静けさに溶けた。
日陰はビクリと肩を揺らす。
「そんなに叫んで……恥ずかしくないの?」
「……恥ずかしいよ!! 今、めちゃくちゃ後悔してるよ!!」
耳まで真っ赤にしながら、日陰は視線を逸らす。
「……そういうの、ずるいよ」
美晴がぽつりと呟いた。
日陰はハッとして顔を上げる。
「え……?」
美晴はじっと日陰を見つめていた。
いつものふざけたような笑顔じゃない。
優しくて、どこか切なげな、それでも少しだけ嬉しそうな顔。
「そんなに真っ直ぐに言われたら、……困るよ」
「…モヤモヤでいっぱいだったんだよ!」
日陰の恥ずかしそうな表情を見て美晴は少し唇を噛んでから、ふっと笑う。
「そんなに行きたかったなら、もっと早く言えばよかったのに」
「い、いざ誘おうとすると…なんかタイミング逃すだろ……そ、それに花火大会だし…」
「あ〜あ、やっぱり日陰は不器用だよね」
美晴は、まるで昔から知っているかのような調子で笑う。
その笑顔が眩しくて、日陰は言葉を詰まらせる。
そして、ふと、いたずらっぽく口元を緩めた美晴が、突然すっと日陰の顔に近づいた。
「……え?」
驚く日陰をよそに、美晴は小さく息を吐く。
「はぁ……そんなに私と行きたいのか〜」
美晴はゆっくりと目を細め、しばらく日陰の顔をじっと見つめたあと、
「それってデートみたいなことかな?」
そう囁くように言った。
日陰は一瞬、動けなくなった。
(……デ、デート?)
頭が一瞬真っ白になり、体温が急上昇するのが分かった。
(違う! いや、違わない? 今までも海とかも2人で行ったし……いやいや、そうだよな。デートじゃないよな、そもそも俺たちそういうんじゃ……え、でもこれって………?)
日陰は固まったまま、美晴を見つめるしかなかった。
耳まで熱くなるのを感じる。
これは……美晴のいつものからかいなのか?
でも、さっきまでとは違う。
いつもの軽口より、ずっと——
「……バ〜カ」
美晴が、ぽつりと呟いた。
今度は、本当に小さな声だった。
でも、それが妙に愛おしくて、どこか嬉しくて。
日陰は赤くなった顔を隠すように、プイッとそっぽを向いた。
「……なんか、涼しいな」
「なにそれ、話そらしてるし」
「うるさい」
「ふふっ……」
美晴は、くすくすと笑う。
日陰は胸の奥がむず痒くて、美晴に視線を合わせられない。
今すぐどこかに隠れてしまいたい気分だった。
そんな日陰の様子をじっと見つめていた美晴が、小さく息を吸い——
「でも…すごく嬉しい」
ポツリと呟いた。
静かな夜風に乗ったその声は、どこか震えていた。
美晴の頬も、ほんのりと赤く染まっているような錯覚を覚える。
日陰はそんな彼女を見て、余計に体温が上がるのを感じた。
「な、何だよその反応……。美晴っぽくない。余計恥ずかしくなるからやめてくれよ」
「うるさいなー! こっちのセリフだから! さっきのやつの方が全然日陰っぽくないでしょ!」
美晴がぷくっと頬を膨らませる。
「何のことですか。記憶にございません。」
「は〜? そんなこと言って良いの〜? こんな可愛い美晴ちゃんと花火大会に行けなくなっちゃっても良いの〜?」
美晴は、すかさず挑発するように笑ってみせた。
その笑顔は、いつもの美晴らしくて、どこか安心する。
日陰はそんな美晴をじっと見つめたまま、少しだけ深く息をついた。
それから——
「それって俺と花火大会に行ってくれるってことでいいの?」
いつもの軽口に乗らずに、真剣に問いかけた。
美晴の笑顔が、一瞬だけ止まる。
わずかに瞳を揺らし、戸惑ったようにまばたきする。
しかし、すぐにニッと笑い——
「ん〜! 考えておくよ〜!」
とおどけたように言った。
その笑顔は、どこか眩しくて、
そして、今まで見たどの笑顔よりも——楽しそうだった。
「は? 何だよそれ」
「先ずは課題終わらせてからね! それから考えよ!」
美晴は声のトーンを上げ、楽しげにくるりと回る。
スカートの裾がふわりと揺れ、夜風に乗ってさらさらと髪が靡く。
「ま、まぁ、それもそうか」
日陰は額に汗を滲ませながら呟いた。
美晴はくるりと振り返ると、夜空に拳を高く突き上げる。
「は〜! 明日も下敷き団扇当番がんばるよー!!」
満面の笑みを浮かべた美晴は、片目をつぶりながらウインクを飛ばす。
その姿が妙に楽しそうで、日陰は思わず吹き出しそうになった。
「お、勉強会参加するんだな」
「だって参加しないと日陰がやる気出ないって言うから〜! 仕方なくだよ?」
美晴は、まるで恩を売るかのように胸を張る。
「腹立つな……そんなこといつ言ったんだよ」
「……あー!!! そんなこと言っていいのかな? 花火大会行かないって選択肢も全然まだあるからね? 今後の日陰くんが良い子良い子してるかによるからね?」
(……調子に乗ってんな……)
日陰は内心で呆れつつも、美晴の顔をじっと見つめた。
そこには、無邪気で、元気で、ちょっと意地悪な——
いつもの美晴がいた。
モヤモヤしていた気持ちが、少しずつ晴れていく。
まるで、重く垂れ込めていた雲が、夜空に溶けて消えていくように。
「……まぁ、気が向いたら考えといてくれよ。あと写真も一緒に撮ろうよ」
「え〜〜〜〜〜!!!!!どうしよっかなぁ?」
美晴はニタニタと笑いながら、夜空に視線を仰がせる。
(あ〜。調子乗ってるな)
そう心の中で呟きながら、日陰もふと空を見上げる。
そこには、闇にぽつぽつと浮かぶ無数の星たち。
そして、それらを優しく包み込むように輝く月が、静かに夜空を照らしていた。
辺りはすっかり暗くなっていたが——
その月明かりは、まるで明日への希望を照らしているように見えた。
ふと、美晴が口を開く。
「そういえば、みんなは?」
柔らかい夜風に揺れる髪を手で抑えながら、美晴が日陰に問いかける。
「帰ったよ」
日陰は空を仰ぎながら、何気なく答えた。
それを聞いた美晴は、少しだけ目を細める。
「なんて言って戻ってきたの?」
ゆっくりと日陰に視線を向ける美晴。
「……問題集、忘れたから取りに戻るって」
日陰はどこか後ろめたそうに目を逸らしながら答えた。
すると、美晴はニターっと口角を上げる。
「私、みんなの忘れ物ないかちゃんと最後に確認したけど?」
日陰はピクリと肩を震わせた。
美晴の言葉に軽く喉を鳴らし、短く息を吐く。
「……まぁ、忘れてないからな」
観念したように呟くと、美晴はクスクスと楽しそうに笑った。
「そんなに私と話したかったんだね〜」
悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、美晴は日陰の顔を覗き込む。
「一旦黙っててくれ」
日陰は顔を背けながら、わずかに耳を赤く染める。
しかし、それを見逃さなかった美晴は、さらにニヤリと口角を上げた。
「あー!!!図星だー!!!よーし、仕方がないから明日は日陰に多めに風送ってあげるよ!」
いたずらっぽく拳を握りしめ、得意げに宣言する美晴。
その姿は、いつものように眩しく、そしてどこまでも無邪気だった。
(……もう無視しよう)
日陰は深く息を吐き、空を仰ぐ。
満天の星が瞬き、夜風がふたりの間をそっと通り過ぎていった。
——まるで、明日もまた同じ時間が訪れると、信じさせるように。そう願いたくなるように。
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教室の扉をそっと開けると、ほんのわずかに空気が揺れた。
——余熱が、まだ残っている。
さっきまでの笑い声や筆記の音、それらが教室の中でまだ反響しているように、空気を漂っているようだった。
「……ふふっ」
美晴は、小さく微笑んだ。
誰もいなくなったはずの空間に、確かに残る“ぬくもり”を抱くように。
まるで、そこにまだ——自分がいられるような気がして。
「はぁ……楽しかったな……」
そう呟いて、そっと教室に足を踏み入れた——その瞬間。
ふらり。
「あっ……」
バランスを崩し、足がもつれる。
咄嗟に机に手を伸ばし、なんとか体を支えた。
ギィ……と、机がわずかに軋む音がした。
その手は細く、かすかに透けていて。
そして、足元に目をやれば——左足のふくらはぎから下が、すでに透明になりかけていた。
月明かりが差し込む教室で、その足はまるで光に溶け込むようだった。
「……まただ……」
かすれた声で呟く。
目を伏せて、机に体を預ける。
頬にかかる髪を揺らしながら、美晴はそっと目を閉じた。
「日陰……。私、こんなだけど、本当に一緒にいて良いの……?」
その言葉は誰に届くわけでもなく、ただ教室の静寂に吸い込まれていく。
胸が締めつけられるような思いがこみ上げ、視界が滲む。
「私だって……ずっと、ずっと一緒にいたいよ……」
溢れ出した涙が頬をつたい、机に一滴、こぼれ落ちる。
「一緒に……もっと、写真、撮りたいよ……」
途切れそうな声で呟いたそのとき——
月明かりが、教室の隅にあるひとつの椅子を淡く照らした。
まるでそこに誰かが今も座っているように。
美晴は、そこを静かに見つめたまま、声もなく涙を流し続けた。