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第十一話「貼り物のような笑顔の太陽」

夏の朝の日差しが、桜並木の坂道を鮮やかに照らしていた。

木漏れ日の下、緑の葉が茂った桜の木の枝が揺れ、涼しげな影を地面に映している。

坂道を登る途中、日陰、亮、星奈、翔子の4人が並んで歩いていた。


日陰は白のオーバーサイズシャツに黒のワイドパンツというシンプルな服装。首から下げたカメラがいつもの彼らしさを感じさせる。肩には問題集やノートが入ったトートバッグ、そして片手にはコンビニの袋をぶら下げていた。中には、お菓子やペットボトル飲料がぎっしりと詰まっている。


亮は半袖の白シャツに薄い色のデニムパンツ。黒のリュックサックと足元の黒いスニーカーがラフで軽快な雰囲気を強調していた。その手には大きなコンビニ袋が二つ。両手が塞がるほどの大荷物で、まるでピクニックにでも行くかのようだった。


星奈は透け感のある袖が特徴的な白のトップスに、モノトーンのミニスカート、白いレザーのトートバッグを合わせている。

足元の白いハイソックスとストラップシューズ、さらにベレー帽が彼女らしいトレンド感を引き立たせ、華やかでおしゃれな雰囲気を漂わせていた。


翔子はふんわりとした白いブラウスに黒のミニスカート。少し大きめのベージュのショルダーバッグに白のサンダルが控えめで可憐な印象を与えていた。

その上、柔らかい丸みを帯びたフレームのメガネが彼女の穏やかな雰囲気を引き立て、知的でどこか儚げな印象を醸し出している。


4人それぞれの個性が、夏の朝の光に照らされながら静かに映える。


「大丈夫?重くない?やっぱりひとつ持とうか?」


星奈が心配そうに亮の顔を覗き込む。

翔子もちらりと亮と日陰の手元に視線を送り、気にかけている様子だった。


だが、亮は両手にパンパンのコンビニ袋を持ったまま、ぐっと胸を張る。


「いや、全然平気!俺、普段から筋トレしてるから!」


なぜか少しキメ顔で、声のトーンもワントーン下げ気味だ。

ちょっとした見栄と、かっこよく決めたいという気持ちが透けて見える。

そんな様子を見て星奈は「じゃあ任せます!」と言って微笑んだ。


手にした袋のカサカサとした音や、ジュースの入ったペットボトルが揺れる音が、今日の一日がちょっと特別なものであることをさりげなく知らせていた。


「いやー、廃校で勉強会なんて粋なことするじゃん!」


亮が朗らかな声で言うと、日陰は肩を軽くすくめながら曖昧に答えた。


「そうかな……まあ、静かでちょうどいいかなって思っただけで……」


彼の控えめな反応に、星奈がくすりと笑いながら視線を向ける。


「ねえ日陰くん、花火大会の話、全然入ってくれなかったけどさ、勉強会は場所まで指定してくれて、ずいぶんノリノリじゃない?」


その言葉に、日陰はぎくりと肩を揺らし、視線を少しそらした。下を向きながらぼそっと答える。


「……花火大会の話は……ごめん。ちょっと考えててさ……」


ふと気づけば、日陰は星奈に対面しても意識することなく、自然に敬語を外して話せていた。自分の変化に内心少し驚きを感じていた。

星奈は日陰の様子を観察しながら、ふと意地悪そうな笑みを浮かべて口を開いた。


「あれー?それってさ、もしかして先約があったりするの?」


その一言に、翔子がぴくりと肩を動かす。表情を崩さないまま、彼女は日陰に向ける視線をほんの少し逸らし、こっそりと星奈の方を見る。星奈もその仕草を見逃さず、視線を絡めるようにして、どこか意味ありげな笑みを深めた。


しかし、肝心の日陰は、まるで気づかないかのように首を横に振る。


「いや……いないよ。そんなの……」


照れ臭そうに答える彼の言葉に、翔子の表情が少しだけ緩む。肩の力が抜けたように見えるが、声を出して反応することはない。


亮が首を傾げながら口を開いた。


「あ、てかさ。チャットで言ってた友達って誰なんだ?」


日陰は一瞬だけ足を止め、考え込むように唇を引き結んだ。それからゆっくりと口を開く。


「それは……もう廃校にいると思うから…」


「まさか日陰が俺ら以外に友達いたなんてな〜!どんなやつなんだ?気になるな〜!同じ学年?」


亮が悪気なく笑いながらそう言ったその瞬間、日陰の顔がほんのわずかに険しくなった。


(失礼な話だ…まぁ確かに、つい最近まで亮のことも友達だと思ってなかったからな……)


心の中でそう呟くが、口には出さない。そのまま先を歩き出すと、星奈が再び笑みを浮かべて歩み寄る。


「ねえ、それってさ……女の子?」


その問いに、翔子が再び微かに反応する。肩をわずかに揺らしながら、耳を傾けるように少し前かがみになる。その仕草に、星奈は目を細めて意味ありげに口元を緩めた。


一方、日陰は焦りを隠せない様子で、どもりながら答えた。


「そ、そう……」


その途端、3人の反応は見事にバラバラだった。


「おいおいおいおい!!!日陰が!?女の子の友達だって!?まじかよ、どこの誰なんだ!?」


亮は目を輝かせながら身を乗り出し、まるでコンビニ袋で両手が塞がれていなければ、日陰の肩を叩きたくなるのを堪えているような勢いだった。完全にいつものテンションで盛り上がっている。


「えっ、本当に!?女の子なんだ!」


星奈は両手を広げながら冗談めかして言い、目を丸くしてみせる。ただ、その瞳には微妙に計算めいた含みが感じられる。


翔子は小さく息を飲みながら、驚きの表情を隠さずに日陰を見た。けれど、言葉を発することはせず、どこか自分の中に感情を収め込むような静けさをまとっている。


「いや、そんな大した話じゃないし……」


日陰は明らかに居心地悪そうにしながら視線をそらした。だが、亮の勢いは止まらない。


「大した話だろ!女の子だぞ!?日陰がだぞ!?おいおい、どういう流れだよ、説明しろよ!いやー、まさかそんなことがあるなんてな〜!」


(……失礼だな……)


日陰は心の中でそう呟きながらも、うるさく騒ぐ亮を横目で見るだけに留めた。そんな亮の声が響く中、廃校の門が視界に入る。


「ほら、もう着いたぞ。そこにいるからさ。」


日陰が指差した方向には、セーラー服姿の美晴が門の前で既に立っていた。彼女は日陰たちの姿をみつけると、手を大きく振ってこちらに笑顔を向けていた。

朝日を浴びて輝く彼女の姿に、誰もが一瞬言葉を失った。


---


美晴と日陰たち4人が廃校の教室の扉の前に到着すると美晴は元気よく教室の扉を開け放ち、明るい声で言った。


「ど〜ぞ〜!」


彼女の声に誘われるように、亮、星奈、翔子、そして日陰が次々と中へ足を踏み入れる。教室は古びた木材の香りが漂い、長い年月を感じさせる佇まいだ。

それでも、不思議なほど清潔感があり、窓から差し込む朝日が床に穏やかな光を落としている。机や椅子はきちんと整頓されており、黒板も綺麗に拭かれているような感じだった。


(昨日の夜、美晴が掃除してくれたんだな……)


日陰は周囲を見渡しながら、美晴の気配りを感じ取る。そして、何気なく彼女に視線を向けると、美晴が満面の笑みでこちらを見ていた。さらにウインクを送られ、日陰は驚きつつも、つい笑みを返してしまう。


日陰と亮は、手に持っていたコンビニの袋を机の上に置いた。袋の中からは、ペットボトルやスナック菓子の包装がぶつかり合う、くぐもった音が響く。


「お〜!古いけど、なんか割と綺麗だな!」


亮は袋を置いたあと、空いた手で机を軽く叩きながら感心したように声を上げる。


「歴史がある感じで素敵だね」


星奈は窓際の机に手を添え、指先でそっと撫でながら柔らかく微笑んだ。


「お、落ち着く……」


翔子が小さな声で呟く。静かな教室の空気に、彼女の言葉がすっと溶けていく。


そのとき、教室の後方から顔を覗かせた美晴が、コンビニ袋に目を留めてぱっと声を上げた。


「すごい荷物だね!なんか遠足みたい!」


楽しげに言いながら近づいてくると、亮が笑いながら肩をすくめた。


「好きに食べていいよ!こういうのはみんなでワイワイやるのが一番だからさ!」


亮の言葉に、美晴はぱあっと嬉しそうに表情を明るくした。


そしてそのまま教壇の前に立つと、明るい笑顔で手を挙げ、声を張る。


「みんな初めまして!私は藤井美晴!得意な教科は体育!気軽に『みっちゃん』って呼んでね〜!」


元気な声が教室中に響き渡る。彼女の人懐っこい笑顔は、初対面の緊張感を一気に吹き飛ばしてしまうほどだった。


(……緊張してる感じが全然ないな。さすがだ)


日陰はそんな美晴を見て、自然と感心していた。


それを聞いてニコッと笑い、亮も元気よく自己紹介を始める。


「俺は坂本亮!得意な教科は俺も体育だな!!苦手な教科はそれ以外全部!!特に数学が本当に苦手でさ。今日はみんなに教えてもらうから、よろしく頼む!」


その明るさに、星奈が笑いながら手を挙げる。


「梅澤星奈です!得意な教科は英語かな〜。亮くんとは違って、ちゃんと勉強してるので安心して!」


わざと亮をからかうように言う星奈に、亮が「おいおいおいーーー!」と笑いながら軽くツッコミを入れる。二人の軽快なやり取りに、翔子は少しだけ口元を緩めながらも、控えめに自分の番を待つ。


「藤本翔子です……得意な教科は国語です。よろしくお願いします」


彼女は小さな声で言いながら軽く頭を下げる。その控えめな姿に、美晴が優しく微笑みながら視線を送っていた。


その穏やかな空気を破るように、亮が突然美晴の姿をじっと見つめながら首を傾げる。


「……美晴さんって、どこの高校なの?そのセーラー服、なんかどっかで見たことあるような気がするけど……この辺りにそんな学校あったっけ?」


亮の率直な疑問に、星奈も「そういえば」といった様子で口を開く。


「私も小さい頃に見たことがあるような気がする。でも、どこの制服なんだろう?」


その言葉に、日陰の心臓がドクンと跳ねた。ギクッと肩を震わせ、すぐさま美晴へと視線を向ける。


(やばい……!これ、返答によってはめんどくさい展開にならないか…? 幽霊だってこと、さすがに言えないよな? 隠しておいたほうがいいよな……!?)


そんなことを必死に考えながら美晴を見ると、彼女はにっこりと微笑んで日陰にウインクを送った。それは「わかってるよ」とでも言いたげな、軽やかで頼もしい表情だった。


しかし次の瞬間。


「えっとね!私は幽霊で、この制服はこの廃校の制服なんだ!」


美晴が、まるで普通のことのように満面の笑みでさらりと言い放った。


「はぁっ!?」


日陰は思わず声を上げ、驚きのあまり顔が引きつる。他の3人も一瞬固まり、「え?」とそれぞれぽかんとした表情を浮かべた。


「と、という冗談を結構言う子なんだ!ちょっと変わってるんだよ!」


日陰は慌てて間に入り、額にじんわり汗を滲ませながら取り繕う。焦りすぎて声が裏返りそうになるのを必死に抑えた。


「美晴さん、面白い子なんだな!」


亮が急に大笑いし、いつもの調子で美晴を見ながら言う。「幽霊」と聞いても冗談だと思っているらしい。星奈も苦笑しながら「本当、変わってるけど面白いね」と微笑み、翔子も口元に小さな笑みを浮かべた。


日陰はなんとかその場が収まったことに胸をなでおろし、ふうっと大きなため息を吐く。


(頼むからこれ以上ややこしいこと言わないでくれよ……?)


そう思いながら再び美晴へと視線を向けると、美晴は頬を膨らませ、まるで「えー?なんで隠すの?」とでも言いたげな表情でじっと日陰を見つめていた。


(めんどくさいことになりそうだろ……)


日陰は心の中で美晴に向かって訴えつつ、再び視線を逸らすのであった。


「で、どこの高校なの?」


亮が気を取り直すように美晴に向かって再び問いかける。その問いに、日陰の肩がわずかにピクリと反応した。


「えっと、結構遠くの学校だから言ってもわからないよな?」


誤魔化そうとする日陰の声にはどこかぎこちなさが滲んでいる。内心ではどうにかこの場を収めようと必死だった。

美晴に視線を向けると、彼女は一瞬だけ寂しそうな顔をした。

ほんの一瞬——かすかに揺らいだ表情。

しかし、それはすぐにふっと柔らかい微笑みへと変わる。


(……今、何か変じゃなかったか?)


違和感が、心の奥にわずかな波紋を広げる。

でも、何が変なのかまでは分からなかった。


「これは、コスプレで〜す!」


美晴がいつもの調子で、明るく宣言した。

軽快な声が教室の中に響き、亮、星奈、翔子の3人が一斉に目を丸くする。


「「「……コスプレ?」」」


「うんうん!日陰が言うように高校は遠いところだから、言っても伝わらないと思う!このセーラー服は可愛いから、普段から着てたりするんだ〜!だから、どこの高校のでもないよ!」


美晴は堂々と笑顔で言い切った。

その無邪気な明るさに、日陰は安堵し、ホッと胸を撫でおろす。


「へ〜!コスプレか!確かに黒のセーラー服って可愛いよな!」


亮が率直に感想を口にしながら、美晴の制服姿をじっと見つめて納得したように頷く。

その隣では、星奈が楽しそうに翔子へ視線を向ける。


「自分の高校と違う制服って着てみたいな〜!私たちも着てみちゃう?」


ニコッと微笑みながら肩をすくめる星奈に、翔子は一瞬驚いたような顔をした。

しかし、すぐに恥ずかしそうに目を伏せ、メガネの奥でそっと小さな笑みを浮かべる。


「そ、それは……」


控えめに開いた口元から漏れた声は、戸惑いながらもほんの少しだけ興味を含んでいた。

そんなやり取りを眺めながら、日陰は静かに息を吐く。


(……良かった。なんとか誤魔化せたみたいだな)


それでも、胸の奥の違和感は消えなかった。


「みっちゃんの高校も、夏休みの課題あるの?」


星奈の問いに、美晴は得意げに胸を張る。

そして、えっへんと威勢よく言い放った。


「私は全部終わったから、みんなの応援役するよ!」


(応援役ってなんだよ…)

良かった。大丈夫。いつもの調子の美晴だと安堵しながら、心の中でツッコミを入れる日陰だったが、一瞬の間を置いて妙な引っかかりを覚える。


まるで——美晴の言葉が自分には関係のない話をするような言い方に聞こえてきたのだ。


「いいな〜!俺ももっと早く手つけときゃよかったよ!」


亮がだるそうに椅子に腰掛けながら嘆く。

そして、窓の外の夏空を見上げながら、ポツリと続けた。


「花火大会行くには、あと2週間で全部終わらせないとだからな!」


その言葉が落ちた瞬間、教室の空気がわずかに変わった気がした。

亮や星奈、翔子は「間に合わせないと」と焦るような表情を見せる。

しかし、日陰はそれよりも——


(美晴……?)


一瞬、美晴が表情を曇らせたように見えた。

目元の笑みがわずかに歪んで——

いや、気のせいかもしれない。


「…美晴?」


日陰は、小さく彼女の名を呼んだ。


「ん?どうしたの?日陰」


美晴はすぐにこちらを向く。

いつものように首を傾げ、柔らかな笑顔を浮かべていた。


(……気のせい、か?…考えすぎか……)


日陰は自分の中に生じた違和感を、うまく言葉にできないまま飲み込んだ。

さっきの曇りは、一瞬の見間違いだったのかもしれない。


「いや……何でも……」


「ほらほら!日陰もみんなと花火大会行かないとでしょ!課題頑張らないと!」


美晴は両手を小さく握り、ガッツポーズをして見せる。

それは、いつもと変わらない明るい美晴だった。


(でも……)


心の奥に広がる、拭いきれない違和感。


美晴の笑顔は確かにいつものように見える。

けれど、それはどこか貼りつけたような——

何かを誤魔化しているような笑顔に思えた。


「美晴は……どう……」


日陰は思わず口を開きかけた。

でも、その先の言葉が出てこない。


美晴はどうするんだ?

花火大会に行くのか?


そう聞きたいのに、なぜか言葉にするのが怖かった。


「さぁー!私、応援頑張るよー!!」


美晴は勢いよく教壇の段差をぴょんと跳ねてみせる。

その動きは軽やかで、明るく、何の迷いもないように見えた。


でも——

何かが違う。


日陰はその違和感の正体をつかめないまま、ただじっと美晴を見つめていた。


---


みんなが机を動かして並べたのは、教室の中心。四つの机を長方形に並べ、もう一つをその中心に向けてくっつけた形で全員が座っている。星奈と翔子が隣同士で座り、星奈の正面には亮、翔子の正面には日陰が座り、その間の真ん中の席に美晴が笑顔で座っていた。


「さぁ!やるぞー!!!」


亮が拳を握りしめながら声を張り上げる。星奈が正面から少し身を乗り出し、微笑みながら明るい声で言う。


「じゃあ私が数学教えてあげるよ〜」


亮は一瞬だけ照れたように目をそらしたが、すぐにいつもの調子を取り戻し、少し大きめの声で返す。


「お、おう!!よろしく!!!」


そう言って、机に課題を広げる亮。その様子を見て、星奈は満足げに頷いた。そして、亮の隣に座る日陰に目を向ける。


「日陰くんは何が苦手?」


突然話を振られた日陰は、少し驚いたように肩を揺らし、戸惑いながら口を開く。


「んー、英ご……」


しかし、日陰が言い終わる前に星奈が口を挟んだ。


「そっか〜!国語か〜!国語は翔子の方が得意だから、翔子!ね!ほらほら日陰くんに教えてあげて〜!」


「え、違う、英語だって!」


日陰が慌てて訂正するが、星奈は聞く耳を持たず、翔子に目を向けてさらに強引に続ける。


「ほらほら翔子、教えてあげて〜!」


突然の展開に、翔子と日陰は同時に慌てた表情を浮かべる。

翔子は顔を赤らめながらも、星奈からの視線に気づき、少し恥ずかしそうに頷いた。

内心で深呼吸をし、両膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。


「じゃ、じゃあ日陰くん……」


翔子はおそるおそる視線を日陰に向ける。

日陰は少し汗ばみながら、心の中で苦笑した。


(まあ、国語の課題も残ってるし……いいか)


そんな二人の様子を見て、美晴は真ん中の席から微笑みながら眺めていた。

そして、急に元気な声を上げる。


「ねぇ、日陰!下敷き貸して!」


「え?」


突然の頼みに戸惑いながらも、日陰は手元から下敷きを取り出して渡す。

受け取った美晴は立ち上がり、勢いよく叫ぶ。


「おりゃーー!!」


そのまま下敷きを団扇代わりにして、みんなを仰ぎ始めた。


「おーーー!!!涼しい〜!」


亮が大笑いしながら声を上げる。

日陰と翔子は苦笑いし、星奈は感謝の笑顔を浮かべながら言った。


「みっちゃんありがとう!ちょっと暑いなって思ってたから、でも疲れちゃうよ?」


「大丈夫!私、体育得意だから!」


その自信満々な答えに、日陰は内心で突っ込む。


(いや、なんだそれ、関係ないだろ……)


美晴はさらにテンションを上げ、教室をぐるぐると回りながら「うりゃー!うりゃー!」と叫び続けていた。

そんな美晴を見ながら、日陰は思わず口元を緩めてしまった。


(いつもの美晴だよな…)


---


問3. サヨコは教室の窓から外を眺め、『とても明るく色鮮やかに見えた』と述べています。

この時、サヨコにどのような変化が起こったと考えられますか。


教室に響く微かな蝉の声と、美晴が下敷きを使って仰ぐ風の音が涼やかさを添える中、日陰と翔子は向かい合って課題に取り組んでいた。

日陰は問題文を何度も読み返しながら、少し首を傾げる。


「サヨコは…主人公の女の子だよな…。えっと…?『サヨコは教室の窓辺の席に座り、外をじっと眺めた。いつもと変わらない校庭のはずだが、何故か今日はなんだかとても明るく色鮮やかに見えた』……景色が変わったのか?ん?何を感じたんだろう……」


彼は額の汗をぬぐいながら呟くと、翔子がそっと口を開いた。


「……景色そのものが変わったわけじゃなくて……きっとサヨコの……気持ちが変わったんだと思う……」


翔子はメガネのブリッジ部分を軽く触りながら、声はどこか躊躇いがちだった。指先で課題の問題文をそっとなぞる。その仕草に日陰は耳を傾けた。


「気持ちが変わった……って、どういうこと?」


日陰が問いかけると、翔子は少し考え込んでから、静かに続けた。


「サヨコは……たぶん、ずっと自分がそこにいていいのか、わからなかったんだと思う……。だけど……」


彼女は一瞬ためらい、視線を窓の外に向ける。


「……きっと、自分がそこにいていいんだって……心から思えた瞬間……景色が明るく見えたんじゃないかな」


翔子の声は少し震えていたが、その瞳には確かな思いが宿っていた。

その言葉に、日陰は問題文に視線を戻しながら考える。


「……つまり、サヨコが窓の外を鮮やかに感じたのは……自分の居場所を見つけたから、ってことか」


そう言いながら顔を上げると、翔子が驚いたように日陰を見つめていた。

そして、彼女の頬に淡い紅が差し、控えめに頷く。


「……うん……たぶん……そうだと思う……」


その声は小さかったが、確信を伴っていた。

日陰は頷き、解答を書き込もうとする。


翔子の胸には、海での日陰とのやり取りが浮かんでいた。

ずっと星奈の隣にいることを「自分には分不相応だ」と思っていた。

でも、日陰に背中を押され、星奈と写真を撮った時、気がついた。

彼女はただの憧れじゃない。

星奈と自分は「友達」なんだ、と。


──その瞬間、世界が鮮やかに色づいた。


翔子は微かに息を吸い込み、思い出を振り払うように小さく頷く。

そして、日陰がペンを動かしながら言った言葉が、再び胸に響いた。


「……解答は、『サヨコは自分の居場所を見つけ、嬉しさで気持ちが明るくなった』……でいいかな?」


日陰の言葉に、翔子は胸が熱くなるのを感じた。

日陰の言葉が自分の気持ちを代弁しているかのように感じたからだ。

視線を少し伏せ、頬を赤らめながら、小さく答える。


「……うん。それで……合ってると思う……」


翔子の声には、少しの恥じらいと満足が混じっていた。


問4. サヨコはタケシに対してどのような気持ちを抱いていると考えられますか。また、その理由を物語の内容から説明しなさい。


ペンを握ったまま、日陰は考え込む。

問題文に視線を落としながら、つぶやいた。


「タケシはサヨコの前の席のやつだよな……」


机の上に置かれた解答用紙に陽光が射し込む。

日陰は眉間にしわを寄せながら物語を読み返す。


「タケシの一言が、サヨコの胸に温かい火を灯した……って書いてあるけど、これってどういうことだ?」


彼の困惑した声に、前方の翔子がそっと顔を上げた。彼女は自分の指先で問題文をなぞりながら、一瞬だけ言葉を選ぶように唇を引き結んだ後、控えめに口を開いた。


「……きっと、その言葉で……サヨコは救われたんだと思う……」


その柔らかな声は、窓の外から差し込む夏の陽光と溶け合うように響く。

翔子の言葉に、日陰は少し驚き、ペンを止めて彼女を見つめた。


「救われた……?」


彼の問いに、翔子は膝の上で組んでいた手を少し強く握りしめる。

その動作に一瞬だけ迷いが見えたが、次の瞬間、彼女は静かに続けた。


「……うん……たぶん、サヨコはずっと自分を信じられなかったんじゃないかな。タケシの言葉が……そんなサヨコに自信を持たせてくれたのかも……」


彼女の声は微かに震えを帯びていた。

日陰は再び問題文に目を落としながら、考え込む。


「う…ん。つ、つまり?」


助けを求めるような彼の問いかけに、翔子はほんの一瞬だけ瞳を揺らし、唇を少しだけ噛む。

それから、意を決したように小さく息を吸い込むと、懸命に言葉を紡ぎ出した。


「サヨコは、自分が何もできないって思ってたのかもしれない。でも……タケシがその一言で、そんなことないんだって……そう思わせてくれたんだと思う……」


翔子の言葉が、静かな教室に溶け込む。

日陰は彼女の話をじっと聞きながら、再び問題文に目を向けた。


「だから、サヨコは……タケシのことをすごく大事に思ってる。きっと……それまで感じたことのない感情だったんじゃないかな……」


彼女の声は少し掠れていたが、その言葉には確信が込められていた。

翔子の視線はいつの間にか窓の外へ向かい、光を反射する校庭を見つめている。その横顔に、日陰はわずかに視線を留めた。


「……温かい火を灯した、ってそういうことか。自分の中に新しい気持ちが生まれたってこと……?」


日陰が呟くように言うと、翔子は一瞬驚いたように顔を向けた。

その頬がじんわりと赤みを帯び、彼女は慌てるように視線をそらす。


「……うん……きっと、そんな感じ……」


翔子は再び指先で問題文をなぞり、唇を引き結ぶ。どこか自分の思いを確認するような仕草だった。

日陰は彼女の様子をちらりと見ながら、ペンを回し、もう一度自分の言葉を反芻する。


「でも……その気持ちって、何なんだろう?」


日陰の問いに、翔子ははっと息を飲み、胸が大きく跳ねるのを感じた。

彼の言葉が、自分の中に隠していた気持ちに触れているような錯覚に陥る。


「……きっと……すごく特別で……大事な気持ち……」


翔子の小さな声は、まるで教室の空気を震わせるかのようだった。

その声に導かれるように、日陰はまたペンを止め、考え込む。


「……特別で、大事……」


日陰はその言葉を反芻し、さらに深く考え込む。

翔子の胸は高鳴り続け、顔が次第に熱くなるのを抑えきれなかった。

日陰の沈黙が、彼女の中の焦燥感をさらに煽る。


「それって……もしかして……」


彼の呟きが次の瞬間、翔子の心を鋭く突き刺す。


「……好き……ってこと?」


その言葉が教室に響いた瞬間、翔子は顔を真っ赤に染め、慌てて視線を俯けた。

胸の奥が熱くなり、ドキドキと音を立てる心拍が自分でも抑えきれない。


「た、多分……それで……合ってると思う……」


震える声でそう答えた翔子の表情は、恥じらいと戸惑いが入り混じっていた。

頬から耳まで赤く染まり、息苦しささえ感じる。

翔子の言葉に気づいた日陰は微笑みながら、ノートに解答を書き込む。


「『サヨコはタケシに対して、彼が自分を変えてくれたことに感謝し、その存在を特別に思う気持ちを抱いている』……こんな感じでいいかな?」


「うん……きっと、そう…だと思う…」


彼女の声は控えめだったが、どこか満足そうでもあった。その横顔を見た星奈は、隣で優しく微笑みながら、その様子を静かに見守っていた。


翔子にとっては、日陰との静かな時間が、まるで自分だけの特別な世界だった。


それに気づいた美晴は、すかさず翔子の隣に近寄り、持っていた下敷きを勢いよく振り回し始めた。


「翔子ちゃん、暑い!?顔真っ赤だよ!ほらほら!!うりゃー!!!」


美晴は翔子の周りを軽快に歩きながら、全力で仰ぎ続ける。翔子は突然の行動に驚き、慌てて机に顔を押し付けた。


「ち、違う…!……暑いとかじゃなくて…」


「えー?でも耳とか真っ赤だよ!もっと涼しくしてあげるからね!うりゃー!」


美晴は気にする様子もなく、さらに仰ぐ勢いを増して翔子だけでなく、亮や星奈、そして日陰にも次々と風を送る。


「おいおい、美晴さん、そんなに仰いだら翔子さんが飛ばされるぞ!」


亮が大声で笑いながら冗談を飛ばす。その声に美晴は満面の笑みで答えた。


「大丈夫!体育得意だから力加減は完璧だよ!」


一方で、翔子は机に伏せたまま顔を隠し、赤く染まった耳を両手で覆っている。その恥じらいの様子を見た星奈は、そっと彼女の肩に手を置いた。


「ははっ、翔子さんの顔、ほんと真っ赤だな!日陰、お前も何か言ってやれよ!」


亮が笑いながら日陰に話を振ると、日陰は首を傾げながら呟いた。


「でも、今日はそんなに暑くないよな……むしろ涼しい方だし」


日陰の鈍感な発言に、翔子はますます顔を伏せ、机に完全に埋もれるような姿勢になった。美晴はそんな日陰の言葉を全く気にせず、またも下敷きを振り回しながら叫んだ。


「そんなことないよ!翔子ちゃんの顔が真っ赤だから暑いはずだよ!!日陰にもほらほら!!うりゃー!!!!」


「え、いや、俺は大丈夫だけど……」


日陰は戸惑いながらも、美晴の勢いに押されるようにその場で硬直していた。


翔子は机に伏せたまま「もう……やめて……」と小さな声で呟くが、美晴の耳には届いていない様子だった。その無邪気な振る舞いを微笑みながら眺めていた星奈は、翔子の背中に置いた手で優しく撫でる。


「翔子、頑張ったね」


星奈のその声に、翔子は机に顔を埋めたまま、微かに肩を揺らして応えた。

美晴の明るい笑い声と、教室に響く下敷きが風を切る音。その中で、翔子の胸には先ほどの日陰とのやり取りが温かい余韻となって残っていた。


---


星奈は自分のノートと問題集を広げながら、亮に何かを説明している。

彼女の声は軽やかで、時折明るい笑い声が混じり、その響きが教室に柔らかな空気を漂わせていた。

それに応じるように、亮も「あー、なるほどな!」と大げさに頷いてみせる。


「で、ここが分かれば、この問題も解けるはず」


星奈が指さしたノートには、公式や計算の流れが丁寧にまとめられている。

それを見た亮は、少し困ったように頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。


「星奈さん、いつもこんなに綺麗にノート取ってんの?すげぇな……俺なんてこれだぜ。自分で書いたのに自分で読めないからな」


亮は自分のノートを星奈の前に滑らせる。

そのノートに書かれた文字はミミズが這ったように曲がりくねり、もはや解読不能だった。


「かなり独創的な字だね!」


星奈は吹き出しそうになるのを堪えながら微笑む。その無邪気な笑顔に、亮は一瞬目を奪われ、慌ててノートに目を落とした。


「ひ、酷いな〜。そんなに笑うなよ〜」


声を裏返しながら誤魔化す亮に、星奈は優しく言った。


「でも、独創的なところが亮くんらしいよね。ほら、それじゃあ次はこの問題、自分で解いてみて?」


星奈がペン先で指し示した問題を見て、亮は途端に怯えたように両手を振った。


「えっ、いやいや、まだ準備運動が終わってないから!」


亮のふざけた態度に、星奈はため息をつきながら軽くノートで彼の額をトンと叩いた。


「準備運動なんていらないの!ほら、次は私、見守り担当だからね!」


「えええええ!無理無理!俺、数学とはマジで相性悪いんだって!」


亮がふざけながらも焦る様子で答えると、星奈は穏やかに微笑み、彼の目を見つめた。


「そんなことないよ。亮くんならちゃんとできる。自信持って!」


その言葉に亮は一瞬戸惑ったが、彼女の優しい表情が胸に刺さる。星奈への好意の感情が、静かに膨らんでいく。


(……自信持って……か)


星奈の言葉が胸の奥に響く。亮は内心の動揺を隠すように「よし!」と気合を入れ、ペンを握り直した。


「わかったよ。俺、一人で解いてみる!」


亮が少し真剣な表情で言うと、星奈は驚きながらも嬉しそうに微笑んだ。


「うん、亮くんなら絶対できるよ!」


その応援に背中を押されるように、亮はペンに力を入れる。


「やるぞー!!!うぉおおおおおおお!!!!」


が次の瞬間。


「ぁぁぁぁぁぁあ!!!もうダメだ!!星奈さん!俺には数学ってやつの言葉が通じないらしい……」


亮が大げさに机に突っ伏すと、星奈は吹き出しそうになりながらもノートをくるりと回し、彼の方に向けた。


「ちょっと!!諦めるの早すぎない!?」


星奈が呆れたようにノートを指でトントンと叩く。その仕草に亮は「悪い悪い!」と笑いながら頭を掻く。


「でもやっぱり!もうちょっと星奈さんに教えてもらいたいな〜なんて」


亮の冗談混じりの言葉に、星奈は「もう、仕方がないな〜」と笑いながら、軽くノートの端で彼の額をトンと叩いた。


---


一通り説明を終えた星奈が、ノートから顔を上げて、ぱんっと手を軽く打った。


「じゃあ、ちょっと休憩しよっか。頭使うと甘いもの欲しくなるし!」


「わ〜い!おやつターイム!」


亮がノリ良く反応して立ち上がり、教室の後方の机の上に置かれたコンビニ袋をがさごそと漁り始める。

日陰も立ち上がり、袋の中から冷たいペットボトルを取り出しては、無言でひとつずつ亮と星奈と翔子に手渡していく。

そして、流れるようにもう一本を取り出し、美晴のほうへ手を伸ばす。


「……あっ」


気づいたときには遅く、手渡しかけたペットボトルが宙に止まる。

美晴は飲み物も摂らないのだ。


美晴はその様子にすぐ気づいたようだった。

だが、何事もなかったかのように柔らかく微笑むと、そっと受け取って「ありがとう」と小さく呟く。


その笑顔に、日陰は何も言えず、わずかに目を伏せるだけだった。


「チョコ系がいい人〜?」


星奈が袋の中を覗きながら問いかけると、翔子が控えめに手を上げた。


「はい!どーぞ!」


星奈がミニサイズのチョコ菓子を翔子に手渡すと、翔子は「ありがとう」と小さく笑って受け取った。


その様子を少し離れたところから眺めていた美晴が、楽しげに声を上げる。


「すごい!なんか遠足みたいだね!!」


「いっぱいあるから、好きなやつ選んでいいよ!」


亮が袋を押し出すようにして差し出すが、美晴は小さく笑って首を振った。


「私は大丈夫〜。ダイエット中だから!」


冗談めかした口調だったが、その声にはふわりとした距離感があった。

それは、ふいに立ち込める夏の雲のように、微かに場の明るさを曇らせる。


「え〜?全然細いじゃん!」


星奈が笑いながらそう言うと、美晴は「ありがと〜」と軽く手を振った。

けれど、その手の動きはどこか空をかき分けるようで、ほんの少しだけ虚ろだった。


——私はみんなとは違うんだ


亮らの笑みと楽しそうな声が教室に弾み、袋から取り出されたスナックが机に並ぶ光景を、美晴はただ見つめていた。


——輝いてるなぁ


楽しそうな時間の中で、彼女だけが取り残されたまま、どこか遠い場所に立っているような感覚だった。


日陰は、そんな美晴の横顔にふと目を向ける。

一見いつも通りの笑顔。だけど、瞳の奥に揺れる微かな影に、胸の奥が小さくざわついた。


---


休憩を終えた一同は、机に向かいながら、徐々に勉強モードへと気持ちを切り替えていた。


そんな中、星奈がふとノートから顔を上げる。

夏の陽射しが差し込む窓辺に佇むその横顔は、どこか穏やかで、光の中に溶け込むようだった。


「ねえ、亮くん」


星奈が窓の外を見つめたまま、ぽつりと話しかける。


「花火大会、楽しみだね」


その言葉に、亮は一瞬驚いたように星奈を見た。

慌ててペンを置き、声を大きくして答える。


「マジでそれな!みんなで行ったら絶対楽しいよな!」


表向きは明るく返事をした亮だったが、その胸の内では、星奈に対する今にも溢れ出しそうな想いが静かに渦巻いていた。


「ねぇ、日陰くんはどうするの?」


星奈は微笑みながら、亮の隣に座る日陰に視線を向けた。

国語の問題集に集中していた日陰は、突然の問いかけにペンを止め、少し戸惑った表情で顔を上げる。


「お、俺は……」


曖昧な答えを口にしかけたその時——。


「日陰行かないの!?」


美晴が下敷き団扇を振る手を止め、大きな声を上げた。彼女の明るく元気な声が教室中に響き渡り、空気が少しだけ軽くなったような気がした。


「あ、いや……」


日陰は視線を泳がせながら言葉を濁す。その様子を見て、美晴は首を傾げた。


「えー!花火大会なんて青春そのものじゃん!絶対行ったほうが良いよ!!」


美晴は満面の笑みを浮かべながら、楽しそうに言う。その言葉には、普段通りの無邪気さが感じられたが、ほんの一瞬だけ微かな影がよぎった。

日陰はそれに気付き、何か言いたげに唇を動かしたが、すぐに閉じてしまった。


「みっちゃんは行くの?花火大会」


星奈が優しく問いかける。笑顔はいつもと変わらないように見えるが、その奥にほんの少しの探るような気配が混じっていた。


「私?わ、私はね、予定があって行けないんだ〜」


美晴は少し戯けたような調子で答えるが、その言葉の裏に隠された違和感に星奈は少し眉根を寄せた。


「え!?」


日陰が思わず声を上げる。

予想外の反応に、教室の空気が一瞬だけ静まり返った。


「あ、いや……」


自分の声の大きさに気づき、日陰は視線を落とす。どこか申し訳なさそうに、机の端をペンでトントンと叩いて誤魔化すようにしていた。


「……予定って………な…なんなんだ?」


ほんの少し声が震えていた。

気になって仕方がない。だけど、聞いてはいけないような気もしていた。

美晴は一瞬だけ目を泳がせ、それから小さく笑った。


「んーとね、ちょっと大事な用事!」


いつもと変わらない口調。でも、どこか線を引かれたような言い方だった。

日陰は言葉を飲み込んだ。何かを言いたかった。けれど、そのまま「…そうなんだ」とだけ呟いた。


彼女の笑顔は変わらず柔らかかったが、その奥にあるものは、日陰には見抜けなかった。


「どうせ日陰は何も予定ないでしょ?絶対行ったほうがいいって!」


美晴が気を取り直したかのように首を少し振り、軽い調子で言いながらニコニコと笑う。

その笑顔は明るいが、日陰と星奈の目には少しだけ作り物のように映った。


「し、失礼だな……」


「え、じゃあなんかあるの?」


「……ねぇよ……」


日陰の小さな声に、美晴は勝ち誇ったような表情を浮かべる。


「プークスクスやっぱり暇人だ〜!」


美晴は口元に手を当ててからかうように笑う。

その無邪気な振る舞いに、日陰は「う、うるさいな!」と軽く反論したが、どこか力のない声だった。


一方で、星奈の心には微かな疑問が浮かんでいた。


(みっちゃん……本当に予定があるの?何か隠してる気がする)


星奈の視線がふと翔子に移る。

翔子は机の上にノートを広げたまま、じっと日陰を見つめていた。

その瞳には、何かを期待しながらも不安を抱えているような色が混じっている。


(でも、翔子は日陰くんと一緒に行きたいんだよね。応援してあげたいな……)


星奈はそっと息を吐き、視線を戻した。


「美晴さん行けないの?」


そんな中、亮が純粋な声で問いかける。

彼の声は明るく響くが、美晴の反応に気づいていない様子だ。


「う、うん!ちょっと予定があってね!」


美晴は明るく言ったが、その声にはわずかな震えが含まれていた。


「そっかーー!!!残念すぎる」


亮は落胆したように肩を落とし、その姿に美晴は少しだけ微笑む。


「あはは、ごめんね!みんな楽しんでね!」


貼り物のような笑顔を浮かべる美晴を見た星奈は、さらに心の中に小さなもやもやを感じた。

だが、感情を振り払うように首を横に小さく振ってから


「予定があるなら……仕方ないよね。日陰くんはどうする?」


星奈は努めて自然に問いかける。

翔子がその答えを待つように、ちらりと日陰を見た。


日陰は短くため息をついてから、少しだけ考えるようにペンを回した。


「じゃあ……俺もみんなと一緒に行こうかな」


その言葉に亮がパッと顔を上げ、明るい声で応じる。


「おーー!!!いいねー!!」


星奈は日陰の言葉を聞いて、ふっと微笑みながら、隣の翔子に視線を向けた。

翔子は少し顔を赤らめ、視線を俯けたまま小さく頷く。

そして、控えめながらもどこか嬉しそうな声で言った。


「じゃあ……課題、頑張って終わらせよう……」


翔子の声には、期待と喜びが静かに混じっていた。

日陰はどこか納得していないような表情のまま、美晴に視線を向ける。


美晴は相変わらず明るい笑顔を浮かべ、片手を軽く挙げて言った。


「おー!いいね!じゃあみんな花火大会に向けて頑張ろー!!私はそれまでサポートするよ!なんでも言ってね!勉強教えて以外なら!」


美晴の弾むような声に、亮が負けじと拳を突き上げる。


「おー!!!となればみんなが課題終わるまで毎日ここで勉強会だー!!」


教室には明るい声が響き渡り、夏の暑さすら吹き飛ばすような賑やかさが広がった。

星奈は「仕方ないなあ」と微笑み、翔子も少し恥ずかしそうに俯きながら、それでもどこか嬉しそうに小さな笑みを浮かべる。


けれど、その中で日陰は静かに視線を美晴へと向けていた。


彼女は下敷きを片手に振り回しながら、いつものようににこやかに笑っている。

まるで太陽みたいに、眩しくて、あたたかい笑顔。


——でも、なぜだろう。


何かが引っかかる。

手を伸ばせば届くはずなのに、どこか遠い。

そんな奇妙な距離感を、美晴に対して感じてしまう。


(……なにか隠してる?)


日陰の胸の奥に、小さな違和感が渦巻く。

美晴の無邪気な笑顔と彼女の言葉、どちらも自然なはずなのに、どこか噛み合わない。


「おい、日陰!そんな険しい顔してどうしたよ!」


亮の陽気な声に、日陰ははっと顔を上げた。

美晴もその声に反応し、日陰の方へと顔を向ける。


「ほらほら!日陰!花火大会に向けて課題終わらせるんだよー!!」


日陰に向かって下敷きを勢いよく振る美晴。

相変わらずの笑顔を見せている。


「……ああ、そうだな」


日陰は小さく頷き、なんでもないふりをしながら机に視線を戻した。

教室には明るい声が飛び交い、笑顔が溢れている。

けれど、日陰の胸の奥では、消えない違和感と掴みきれない感情が静かに揺れていた。


——そのとき。


「あ、そうだ!じゃあ勉強会1日目の記録として写真撮ろうよ!」


美晴がポンと手を叩き、日陰のトートバッグに入れられた一眼レフカメラを指差した。


「おー!!いいねー!撮ろう!」


亮が明るい声で賛成し、星奈と翔子も目を合わせて微笑む。

日陰は腑に落ちない表情を浮かべつつも、トートバッグの中からカメラを取り出した。


「じゃあ俺が撮るよ」


そう言ってカメラを構えようとすると——


「なーに言ってるの!私がカメラマンを担当させていただきます!」


美晴が勢いよく日陰の手からカメラを取り、ニコッと微笑む。

あまりに自然な動作だったせいで、日陰は思わず一歩下がった。


「は?美晴も写るだろ?」


「いやいや!私はいいの!!」


美晴は明るく笑いながら、軽く手を振る。


「課題は全部終わったし、勉強会はあくまで応援担当だから!頑張ってるみんなの姿を密着観察する役割なのです!」


「えー!せっかくだし美晴さんも一緒に撮ろうよ!」


亮が提案するが、美晴は首を振る。


「応援担当は一緒に写ったりしないよ〜!それに私、撮るの結構上手いんだ〜!プロ級だから、カメラマンやらせて!」


美晴はいつも通りの明るい声で、そう言い切った。


「そーなのかー???」


亮は首を傾げながらも、興味津々といった様子でカメラに視線を向ける。


すると、美晴はカメラを胸元で抱えながら、ふわりと笑みを浮かべた。


「だってね……撮る側って、すごく楽しいんだよ? みんなの“今”を残せるんだから!ほら、みんなの青春を、いっぱい残さなきゃ!」


軽やかな調子だったが、その言葉にはほんの僅かに熱がこもっていた。


「えー、じゃあ美晴さんもあとで撮ろうよ!」


亮が屈託のない声で言う。

だが美晴は首を横に振り、笑顔を崩さぬまま続けた。


「私はいいの!日陰たちみんなの輝きを残しちゃうよ〜。私はもう、ちょっと掠れてるからね」


「いやいや、俺が言うのもなんだけど!美晴さん、めちゃくちゃ明るいぞ?十分輝いてるけど??」


亮がすかさずツッコミを入れる。

けれど美晴は、軽く笑って再びカメラを構えた。

ファインダーを覗く仕草は自然だったが


——その瞳は、どこか遠くを見つめているようにも見えた。


日陰は、違和感を覚えた。


確かに、美晴の笑顔はいつもと変わらない。けれど、その言葉と仕草の端々に、なにか、うっすらとした“距離”を感じた。


(まるで……自分は“写る側じゃない”って、言っているような…)


胸の奥に、小さな疑問が波紋のように広がっていく。


「じゃあ……お願いしようかな」


亮がまだどこか納得しきれない様子で呟き、照れ笑いを浮かべた。


一方で、星奈は少し戸惑った表情を浮かべたまま、美晴の言葉を反芻するように黙っていた。

そして何かに自分を納得させるように、小さく首を振り、隣にいた翔子へと視線を移す。


「みっちゃんありがとう!ほら、翔子!撮ってもらお!」


「あ、…うん」


星奈が立ち上がると、翔子もそれに続いた。

教壇の前の黒板の方へ移動し、亮も続く。

日陰も渋々といった様子で移動し、美晴が構えるカメラの方に視線を向けた。


「翔子真ん中ね!」


星奈が翔子の手を引き、真ん中に立たせる。


「え、…ちょっと」


戸惑いながらも流されるようにその位置に着く翔子。

右に視線をやると、すぐ隣に日陰がいた。


「…ッ!」


翔子は自分でも顔が赤くなってしまっているのが分かる。

先のやり取りを思い出し、いざ隣に並ぶと妙に緊張してしまう。

しかし、日陰は特に気にする様子もなく、じっと美晴が構えるカメラを見ていた。

その横顔に少しだけ寂しさを覚えながら、翔子もカメラの方に視線を向ける。


「はーい!じゃあ撮るよ〜!」


美晴の元気な声が教室に響く。

4人は少しだけ体を寄せ、並んだ。


——だが。


「日陰ーー!!!何その顔はーー!!!」


美晴がファインダーを覗き込みながら、ぷくーと頬を膨らませる。


日陰はハッとしてから、ぎこちない苦笑いを浮かべた。


「うわー!!へんな顔だー!もっと自然に笑えないかなー!」


「うるさいな。早く撮ってくれよ」


日陰が少し不機嫌そうに言うと、美晴がわざとらしくジェスチャーを交えて「なんですかその態度は!」と大げさに怒ったふりをする。


その様子に、亮、星奈、翔子が思わず笑った。

その様子を見て美晴は満足げにしてから


「ほら!日陰も笑ってよ!」


美晴は優しい微笑みを浮かべる。

その声はどこか儚く、なんとも言えない響きを帯びていた。


日陰は短くため息を吐き、少しだけ口角を上げる。


それを確認して、美晴はニコッと笑う。

そして、再びファインダーを覗き込んだ。


「じゃあ行くよー!3、2、1——」


——カシャ。


夏休みの終わりが、静かに近づいていた。

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