第十話「まるで不穏な夜の訪れを告げるかのように。」
廃校の門の前に到着した二人は、夏の夜風を浴びながら立ち止まる。錆びた門扉の向こうには、闇夜に溶け込むように静まり返った校舎が広がっている。夜空には無数の星が瞬き、虫の声が涼やかに響いていた。
「明日も来てくれる?」
美晴がふいに言う。その声は明るかったが、どこか期待を込めた響きがあった。
「それなんだけど……」
日陰はポケットからスマホを取り出し、画面を見つめる。
「夏休みの課題がいくつかあってさ」
そう言いながら、日陰は肩をすくめた。
「あ、夏休みの宿題か!大変だな〜」
美晴が小さく頷くと、日陰のスマホが通知音を鳴らした。画面に目をやると、亮たちとのグループチャットからのメッセージが表示される。
『みんな課題終わってる?みんなで勉強会しない?俺数学とかわけわかんなくて教えてほしいー!』
元気な声が聞こえてきそうなほど勢いのある亮のメッセージだった。
まるでタイミングを図っていたかのようなその内容に驚く日陰。
美晴は日陰の肩越しにスマホを覗き込み、ふふっと笑みを漏らした。
「しばらく、難しそうかな?」
彼女の声は明るいが、少し寂しそうに聞こえる。
「ああ、正直、ほとんど手つけてこなかったから」
日陰は苦笑いを浮かべて答える。
「そっか……宿題なら仕方ないよね」
美晴は一瞬目を伏せて、それから無理に作ったような笑顔を見せる。その表情に、日陰は胸の奥に小さな痛みを感じた。
「待って」
日陰は急に口を開くと、スマホを手にしたまま何かを打ち始めた。
「え?」
美晴が驚いたように目を丸くする。その表情をよそに、日陰はメッセージを打ち終わると、美晴に画面を見せた。
『いいよ。ただ、勉強会するならここに来てほしい。どうかな?』
その下には廃校の位置を示すマップのリンクが添えられている。
「勉強会はここでしようよ」
日陰が廃校を指差して言うと、美晴はさらに驚いた顔を見せた。
「それって……」
言いかけたその瞬間、日陰のスマホが再び通知音を鳴らす。亮からだ。
『いいねー!決まり決まりー!』
続いて、星奈からもメッセージが届く。
『いいよ〜!私は殆ど終わってるから全然教えるよ〜。それにしても、日陰くんがメッセージ返してくれるの珍しいね!提案までしてくれるなんて♪』
翔子からも短いメッセージが送られてきた。
『行きたい…。』
日陰は自分がしたことの大胆さに少し戸惑いながらも、美晴の顔をちらりと伺う。彼女の驚きと、どこか嬉しそうな表情が見て取れた。
「ありがとう、日陰!」
美晴はぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「じゃあ私は透明になってその様子を見ておくね!青春みたいで楽しそう!」
そう言って無邪気に笑う美晴に、日陰は思わず首を振った。
「いや、美晴も一緒にやろうよ」
その言葉に、美晴は再び驚いたように目を見開いた。日陰はスマホをもう一度操作し、画面を彼女に見せた。
『友達も呼んでいい?』
日陰が送信したメッセージに対し、亮たちからは即座に『もちろん!』『いいよ!』『楽しそう…』と返信が届いている。
「日陰……変わったね!」
美晴は少し恥ずかしそうにしながら、でも満面の笑みでそう言った。
夜の廃校の門前に立つ二人の間には、言葉にはできない温かさが流れていた。星明かりが降り注ぎ、廃校の古びた校舎を柔らかく照らしている。遠くから響く虫の声と夜風が、静寂に優しいリズムを刻んでいた。
美晴は一歩門に近づき、そっと錆びた門扉に手を触れる。
「明日、楽しみだね」
その声は小さかったが、夜空に向かって静かに響いていった。
日陰はそんな美晴の横顔を見つめ、自然と小さく頷いた。
「……ああ、俺も楽しみだよ」
こうして、夜の静けさに包まれた廃校の門の前で、二人の夏の新しい約束が交わされた。
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廃校の教室には、夜の静けさが満ちていた。外から聞こえるのは、かすかに鳴く虫の声と、遠くで風が木々を揺らす音だけ。月明かりが窓から差し込み、机と椅子の影を長く伸ばしている。どこか冷え冷えとした空気が漂い、普段の美晴の無邪気な笑顔を思い出すには少し似つかわしくない雰囲気だった。
そんな中、美晴は一人でほうきを持ち、教室を掃いていた。浮かんでいるのは明日のこと。
「みんなで宿題するんだよね……どんな感じになるのかな?」
ニコニコと笑いながら、机の埃を払ったり、隅のゴミを集めたりと楽しそうに動き回る。彼女の心には、日陰と日陰の友達と過ごす明日の時間への期待がいっぱいだった。
だが、ふと机の上に手を置いた瞬間、何かがおかしいことに気づいた。自分の手が、月明かりに透けるように淡く光って見える。最初は気のせいだと思った。だが、よく見ると、その手は確かに半透明になりつつあった。
「……え……?」
思わず呟いた声には、微かに震えが混じっていた。彼女は慌ててもう片方の手でその手を触ろうとする。だが、触れた感覚はどこか薄く、頼りない。力を込めようとするが、その感覚さえもどこか遠のいていくようだった。
「……いや……まだ……」
言葉は掠れ、空気に溶けていく。胸に静かな絶望が広がる中、彼女は必死に手を握りしめようとした。だが、指先が震えるだけで、何も変わらない。まるで、自分の存在そのものがこの世界から薄れつつあるような感覚だった。
「もう少しだけ……お願い……」
美晴は震える声で呟く。だが、その言葉は誰にも届かない。教室は静寂に包まれたまま、ただ月明かりが冷たく机や椅子を照らしていた。床に置かれたほうきの影は、窓から差し込む光に揺らぎ、どこか歪んで見える。
夜風が一瞬窓を揺らすと、部屋全体が小さく軋む音を立てた。その音に美晴の肩がピクリと反応する。だが、彼女は何も言わず、ただ机の上に手を置いたまま立ち尽くしていた。目を伏せ、その手をじっと見つめる。その瞳には、明日を思う希望と、消えかけていく恐れが入り混じっていた。
月の光が強くなったかと思うと、教室全体が薄く白い光に包まれる。そして、その光の中で立ち尽くす美晴の姿もまた、どこか儚く見える。冷たい静けさが、彼女をさらに孤独に感じさせた。
「……お願い……」
かすれた声が教室に溶け込む。彼女の願いとは裏腹に、薄れゆく存在は夜の静けさに染み込んでいくようだった。ほうきが彼女の足元に転がり、机の上には、彼女が払ったばかりの埃がうっすらと戻りつつある。
夜の廃校は、ただ静寂を保つだけだった。窓の外、広がる漆黒の闇と月の光が交差し、夏の終わりの冷たさが風に乗って教室へと忍び込んでいた──まるで不穏な夜の訪れを告げるかのように。