「プロローグ」
桜が満開の春の昼下がり。淡く透き通る陽光が、廃校になった高等学校へと続く坂道に薄紅の影を落とし、風に乗って花びらが舞い降りていた。
その坂をゆっくりと上る男がひとり。三十代前半だろうか。首から重厚なカメラを下げ、指先でレンズにそっと触れながら進む姿からは、カメラへの深い愛着が感じられる。職業か趣味かは定かではないが、カメラは彼の存在にしっくりと馴染んでいるように見えた。
桜並木の終わりにある、静まり返った廃校の校門前で、男は立ち止まる。かつての賑わいは今や色褪せ、時間が止まったかのような佇まいが広がっている。男はしばし無言でその風景を見つめ、手に持っていた小さな花束を校門の脇にそっと置いた。それが誰に宛てたものかは、彼にしかわからない。
視線を一度校舎から外し、ふと桜並木に向けてカメラを構える。満開の花々が枝から溢れ、風に揺れて淡い花びらがはらはらと舞い落ちる様子は、シャッターを押せば永遠に残したいと思えるほど美しい。だが、彼は結局、指を動かすことができなかった。
静かにため息をつくと、男はかすかに呟いた。
「あの夏に囚われている……」
桜の影の中、その表情には言葉にできない寂しさが一瞬、浮かんでいた。