第93話 自分というもの
『蟷螂』と戦った事件から、早くも2ヶ月が過ぎた。
暑かった気温はすっかり下がり、季節はすっかり秋へと移ろい、冬の足音も聞こえつつある時季に差し掛かっていた。
あの事件が嘘だったかのように、神楽坂町の人々は穏やかな日常を送っていた。
そして白川小春もまた、自らの不幸体質とは戦いながらも、すっかり平和な日々を送っていた。
気づけば『CRONUS』に顔を出しても受ける依頼は単なる犬探しや浮気調査といった平凡なものばかりとなっていて、少しだけ退屈さまで覚える程になっていた。
「いやーありがとうございます。ケンタロウは私の大切な家族ですから、見つけていただいて本当に感謝です」
「大切な家族なら逃げ出さないように見守っててくださいよ」
「こら一哉。そういうこと言わない。今後も何か困ったことがあったら、この『CRONUS』をよろしくお願いします」
嫌味を言う一哉を軽く小突いて、紬が客の男性に営業スマイルを向ける。
一方、ケンタロウと呼ばれた猫は依頼主に抱き着かれながら、「フニャアアアアアアア」と抵抗こそしていたのだが、依頼主は満足したのか、そのまま帰っていった。
「あの猫、めっちゃ暴れる猫だったよね~」
「…いや、あれはあの猫が暴れるっていうより……」
時に数10分前。猫探しに人員を割いた調査員たちは、特徴が一致する猫がどこかにいないかと町中を駆けまわっていたのだが……。
「もしかして小春ちゃんて、めちゃくちゃ動物に嫌われる人?」
「…あはは、そーなんだよねー」
傷だらけの顔に絆創膏を貼りながら、苦笑する小春。それもそのはず。
先刻、走り回っていた紬と一哉が見たのは、件のケンタロウと呼ばれた猫に、激しく吼えられながら顔を執拗に引っかかれた小春の姿だったのだから……。
「あの時は本当にびっくりした。あそこまで動物に嫌われる人いるんだって」
「帰って来た時の小春ちゃん、すごいことになってたもんね」
「不幸なオーラでも身体から出てんじゃないの?」
白川小春は動物に凄まじく嫌われる体質である。
何故か人懐っこい犬ですら、小春を見ると激しく吼え始めるし、依頼人のペットの小鳥を事務所に持ち帰ったら、小春を見るなりピーピーと鳴き始め大騒ぎになったり、というようなこともあった。
「やっぱ動物探しの依頼に小春連れてくのやめた方がいいよ。そのうち怪我どころじゃ済まなくなるよ?」
「…でも、調査員として何もしない、っていうわけにはいかないし…」
「いや身の安全優先してよ!今の顔中傷だらけの小春ちゃんすら、あたし見てるの辛いんだからね!?」
うるうると目を潤ませながら自分の方を見る優芽に、小春はだんだん罪悪感が沸いてきたのか、そっと目を逸らした。
元々不幸体質で怪我が多いだけに、ここまで心配されると思っていなかったのだ。
「…もっとも、今回は未来予知で猫に襲われる予知見えたから、猫を見つけられたっていうのもあるんだけどね」
未来予知。それは小春が持つ才能<ギフト>であり、百発百中で未来を当てるというもの。
その未来予知は自動で作動し、自分や周りの者の危機を察知することが出来る。
…つまり、今回は小春自身が猫に顔を引っかかれるという「危機」を察知するという結果で、猫の居場所を割り当てたのだが……。
「白川さん、ほんと随分と捨て身だよね」
「年頃の女の子が顔に傷なんてつけてると痛々しいから、流石に今回のような囮作戦は次回以降はなしだ。僕としても心が痛む。それにしても…」
華月は小春の方へと視線を寄せる。
「君、前以上に捨て身になってないか?その、僕が言うのもなんだか、大丈夫か?」
「なんでだろうね…なんだか、私。今、自分が自分じゃないみたいな、変な感覚がしてるんだよね」
「自分が自分じゃない?」
「ほら、顔も変わっちゃったし、この前の戦いの時にも、言われてたよね。私の能力は、未来を見るんじゃなくて、見た未来を変えるものだって」
「…まあ、確かに未来を見て何とかするというだけじゃ説明つかないものもあるけど。それと自分が自分じゃないみたいっていうのはどういうこと?」
一哉が呈した疑問に、小春は恐る恐るながらも答える。
「ほら、何だか今自分の意識が、どこか遠い世界にあるみたいな…そんな変な感じがする。上手く言葉に出来ないけど……」
小春の外見は、ある人物の計画によって大きく変えられてしまった。
絹のような白い髪に、同じ色をした長い睫毛。そして人形のように整った顔立ちは、道行く人も振り返るようなもので。
だが、それは元来小春の持っている容姿でも何でもなく、いわば与えられたようなものだ。
…それも、自分を助ける為にくれたもの。
小春自身は結果的にその好意を蹴る形にはなったものの、しかし残ったものとして今のこの顔があるのだ。
その結果、自分の顔なのに自分のものではないというような、妙な感覚だけが残った。
「……なるほどな。まあ、その感覚は僕も理解できないものではないよ」
「華月さんもですか?」
「ああ。気づいたら由良に背を追い越されて、伸びないままあいつだけ大人になった時にな。自分は化け物なんじゃないかとか、自分だけが取り残されてしまうんじゃないかとか、凄まじい不安に襲われたものだよ」
華月の体質は、いわば自分の時間を止めてしまうようなものだ。周囲がどんどん年を取っていくのに、自分だけが若いままでいる。
今の小春と状態は違えど、自分が自分でなくなっていくような感覚は、確かにあるのかもしれない。
「流石にそんな目を引く見た目じゃあすぐには慣れないだろうが…人間思ったより早く適応するものでな。鳴海のやつもお前ならすぐに適応してくれると期待してたんじゃないか?」
「そうは言ってもですね……私達も慣れないんですよね」
「そー。今の小春ちゃんすっごいきれいだけど、あたしは前の小春ちゃんの方が好きだったっていうか~」
紬も優芽も、華月のその言葉には、どうも納得しかねるものがあったようだ。
華月もそれを察したのか、2人に視線を移してから、もう一度小春の方に向き直る。
「ただ、何も僕もすぐに慣れろって言ってるんじゃない。1年経っても、2年経っても慣れないままかもしれない。だがな、どうしても精神的に辛いというのであれば…その時は僕に言ってくれたまえ。最悪仕事を休んでもいい」
「…はい。あ、すみません。さっきから、絆創膏がいくつか破れてしまって……」
華月が小春の方に目をやれば、破れて使い物にならなくなった絆創膏が、何枚も指に引っ付き、取れなくなってしまっていた。
「……紬」
「はい」
「小春の処置、頼む。自分でやらせると絆創膏が何枚おシャカになるかわからん」
その場にいた全員が、どこか呆れたような、遠くを見ているような顔をしていた。




