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第91話 平穏

『蟷螂』を名乗る男と、『イカロスの翼』の面々を巻き込んだ盛大な騒動から1週間。

失ったものもあったが、各々今までの平和な日常が戻り始めてきた。

9月の下旬。気温も下がり始め、秋の足音が聞こえてくる時季。


ジリリリリリリリリリリリリリ。

目覚まし時計のけたたましいアラームに叩き起こされ、白川小春はまだ眠い眼を擦りながら、ゆっくりと目を覚ます。

まだ意識がぼんやりとしていて、頭は半分夢の世界にいる。

そういえばどんな夢を見たのだろうか。紬と一緒に、探偵事務所の書類と格闘する夢だったような気がする。

見覚えしかない景色に少し苦笑しながら、眠い頭を少しでも醒まそうと、彼女は洗面台へと向かった。


「…………」

絹のような白い髪に、長い睫毛に縁どられた宝石のような青い眼。

寝ぼけ眼でまだ少し隈が残る顔ですら、思わず見とれてしまいそうな顔がそこには映っていた。

…それが『自分の顔』でなければ、なのだが。

「やっぱりまだ慣れない……」

1週間前。六条鳴海が自分を逃走させるため、顔と名前を変えて別人に成り代わらせる、という計画を発動していた。

…もっとも、自分はその意図を察せなかったのか、あるいは予知で見えた不幸な結果が許せなかったのか、一体何が自分を突き動かしたのかすら、眠たい頭では思い出せないが。

結果的に戦場へと足を運ぶことになり、六条鳴海の計画は失敗した。


そして残ったのが、右腕を切り落とされ能力を失った六条鳴海と、

顔が別人に変わったまま元に戻れなくなった自分だった。

あの後の1週間は大変だった。何せ顔が違うせいで近所の人間には知らない人だと間違われ、挨拶もどこかよそよそしくなり、アパートに住んでいる中学生の少年は、顔を合わせば目を逸らす始末。

身分証明書なども一部作り直す羽目になり、この1週間その対応に追われた。

…だが、それもまた。もしかしたら鳴海の意図を結果的に無視してしまった自分への、罰のようなものなのかもしれない。

むしろ、そう思っていないとやっていられなかったというのが、少し本音ではあるのだが。


「そういえば、今日はちょっと涼しいなぁ」

そろそろ衣替えの季節にもなってきただろうか。そして、今まで着ていた服は果たして『この顔』に似合うだろうか。

もし似合わなかったら、また買い直さなきゃいけないだろうか。

少し憂鬱な気分になっていると、右手のデバイスへとある人物から通信が入った。

久遠寺紬からだ。

「もしもしー、紬さん?どうしたの?」

「おはよう。いや、調子どうかな、って思ってさ」

電話の向こうから聞こえる声は、いつも聞き慣れている声。生活の景色の一部が慣れないものへと変わってしまった小春にとって、その声は何よりも安心するものだった。


「うーん、だいぶ戻ってきた。そういえばやっと銃の免許証作り終わってさ。来週になったら家に届くらしいんだけど…」

「あー、あれ顔写真いるもんね。役所の人にはどうやって説明したの?」

「正直に全部伝えたよ。整形でどうにかなるレベルじゃないくらい変わってるし……もう、ほんとこの1週間大変で……」

「ほんと、とんでもない置き土産残してきたよね、あの人」

そういえば六条鳴海はどこに行ったのだろう。連絡先すら持っていない自分に、それを確かめる術はないはずなのだが、どうしても気になってしまう。

「今、何してるんだろうね」

「わかんないや。無事でいてくれるといいけど……」

経緯はどうあれ、彼は自分のことを守ってくれた。それは事実だ。


だからこそ、六条鳴海には生きていて欲しい。

「もし生きてたら、文句の一つでも言おうかな、って思っちゃって」

「小春は…うん。文句言う権利あるよ。勝手に色々巻き込まれたわけだし……」

電話の向こうで、紬の苦笑する顔が見えたような気がした。

「それじゃ、明日。事務所でね」

紬にそう言われて、小春はようやく気付く。今日は久々に、平穏に過ごせる一日だということに。

今日のご飯は何にしようか。そういったことが考えられるような日は、もしかしたら貴重なものなのかもしれない。

小春はそんなことを考えながら、家の冷蔵庫の扉を開けた。


新島華月は、事務所のデスクの中で1人、2枚の履歴書を睨みつけていた。

「…麻木夏生。藍原優芽。僕が言うのもなんだが、まさかここまで来るとか、正気か?」

元々少し怪しい名前の、しかも探偵事務所などという職業なのだ。

2枚も履歴書が送られてきたという珍しいことがあったと思えば、そこに書かれていたのは、見覚えのある名前。

「しかしあの青年。まさか坂巻夏生って名乗ってたの、まさか麻木先輩の苗字を名乗りたくないだけだったとはな」

食事代わりのゼリー飲料を口に含みながら、華月はそんなことを呟く。

「事務仕事は僕がいない時は一哉に任せていたし、彼ら2人は仕事出来るのに期待でもするか?もっとも、くだらん理由で志望してきたら落とすつもりだが」

口ではこう言った華月だが、2人の採用は真剣に考えていた。


まず、自分はほぼ監禁状態でちゃんと確認してはいなかったが、先の騒動では、特に夏生がかなり活躍していたとらしいという事。

そして、麻木夏生が例の組織にかなり因縁のようなものがあるらしいという事。

もしかすれば、麻木栄次郎が狙われたのは、夏生自身にも何かあるからなのではないだろうか?

「…いずれにせよ、忙しくなりそうだな」

そこでふと、彼女はある人物の顔を脳裏に浮かべる。

新島由良。

自分の妹であり、今は警察を裏切り放火犯として数々の犯罪を行っていた人物。


一体、由良は何を考えてあのような行為に及んだのか?

『姉』である自分が、何かその異常に気付くためのサインを、発していたのではないか?

そして、騒動の渦中にいる、未来視の能力を持つ少女。

自分にとって、間違いなく何かの救いになるであろう存在だと、捉えていたが……。


「ダメだな、頭が痛くなる。少し寝ようか」

新島華月は、少し疲れた頭を休めるため、短い眠りにつくことにした。

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