第85話 冷たい刃
「…新島ぁ。私は一体、何時間寝ていたんだ?それにここはどこだ?」
ゆっくりと目を覚ます麻木に対し、華月が声をかけた。
「まったく、やっと目を覚ましたか。おそらく一般的な睡眠時間よりは長く眠っていたとみるよ」
独房の中は陽が射さない。正確な時刻すらも把握できないというのは、どうにも悩ましい。
「ああ、つまり全くわからないんだな」
「そう言ってるだろうに。とはいえ、状況は最悪なのは確かだ。色々とややこしい状況になってはいるだろうが、単刀直入に言おう。捕まって人質にされた」
「…そんなことになっていたのか」
「向こうの計画通りに行けば僕たちは今日中に殺されるらしい。そんなこと御免だがな」
華月はそれでも、いつも通りの余裕を崩さないように振る舞った。
もっとも、人を見る目のある麻木には、もうその余裕が『ない』ことはバレているかもしれないが、と内心考えてはいたのだが。
「それにしても、どれだけゆすっても起きないとは、よほど深く眠ってたらしいな麻木先輩」
「歳を取るとなかなか起き上がるのが億劫になってしまってね」
「それは今関係なくないか?」
などと話をして時間を潰しても、いずれにせよここで拘束されているままということに変わりはない。
「(流石に、精神が摩耗してきた気がするな……)」
景色も変わらず、時間もわからず。先ほど気を失ってしまっていたからなのか、眠ることすらも出来ず。
華月は、そんな状態が長く続くことにすっかり疲弊してしまっていた。
人間は何もない空間に72時間閉じ込められると、精神に異常をきたすという。もう起きてから実際の時間が何時間なのかもわからないが、確かにこれが72時間続けば、発狂してしまうだろうという程の重大なストレスが、華月の心を蝕んでいた。
「脱出出来たりは……」
「無理だな。手が使えないんじゃ、脱出も何もあったもんじゃない」
ガッチリと固定されている手は、まるで自分のものではないかのようにいう事を聞かず。
「漫画のように拘束されてる手を動かして脱出、とは行かないものだなぁ」
「当たり前だろう。現実逃避をするには早すぎるぞ先輩」
「それよりも、その”先輩”っていうの、勘弁してくれないか?私がお前の先輩だったのは、もう30年も前の話なんだぞ?」
「悪いな、ずっとそう呼んでいたらついしみついてしまってな」
「半分からかってるようにしか聞こえないんだが?」
そんな風に会話をしていたが、華月はある異変に気付く。
外が何やら騒がしいのだ。
「…なんだ?こんな時に」
しかも、外に聞こえるのは阿鼻叫喚の声。その様子すら、確認できないのが何とももどかしい。
「一体何が起きてるというんだ……」
「いやー、俺達も楽な仕事したもんだよ」
「だなぁ。時給6万っていうからなんか怪しいバイトかと思ったら、ただこの廃ビル前で見張ってるだけとかなぁ、ツイてるツイてる」
神楽坂町で、かつて学習塾があったという廃ビル前。
そんないかにも怪しい場所に、2人の若い男が、呑気にも談笑していた。
時給6万円のアルバイトとして誘われた彼らは、廃ビル前で人質が逃げ出さないか、それを監視するだけの仕事に就いていた。
途中、私語をしていようが、何も言われない。ただ、見張っていればそれだけでいい。もっとも、監禁されている人質が一体どんな人物なのかすら、彼らには把握出来ていなかったのだ。
詳細は明かされないものの、給料だけは良い仕事。
見る人が見れば、これは明らかに怪しいアルバイトでしかないが、男たちは呑気なものだった。
「夕方には帰れるんだろ?オレ帰ってゲームしてぇ」
「おいおいまだ昼だっての。気が早いぜまったく……ん?」
故に、男たちはその侵入者の影に気づくことが出来なかった。
「……っ、あああああああああああああ!!!!!!!」
それどころか、その侵入者によって、自分の腹をナイフで刺されたことにすら、痛みが走るまで気づけなかった。
「だ、誰だ、お前はぁ!!!」
男が冷や汗を浮かべながら、侵入者の顔を見る。
侵入者はこの場には似つかわしくない、茶色の髪を二つ結びにした、平凡そうな印象の少女だった。
しかし、彼女は何も言わず、刺さったナイフを男の腹から抜いた。
湿った廃ビルの中に、赤黒い鮮血が撒き散らされる。
「……ここを通せ。通さなきゃそっちの奴も刺す」
顔に似合わないトーンの低い声で脅しながら、少女はもう一人の警備の男にナイフを突きつける。
その眼は何よりも冷たかった。
眼前にいる男に、何の感情も向けず、ただ機械的にその冷たい刃を向ける。
男はそれが、恐ろしくてたまらなかった。
殺される。
そんな原始的、根源的な死の恐怖。
「ひぃぃぃぃぃぃわかった。通す!通すから!!だから殺さないでくれ!頼むよ!」
「……それでいい」
そう言って、彼女は突きつけていたナイフをひっそりと下げた。
紬たちと、雪を含めた5人は、小春が先ほど歩いて行った方向に向かって歩いていた。
未だに雪の存在は怪しいと思っていた紬だったが、もう疑う余裕すら彼女にはなかった。
「それにしても、まさか小春と知り合いだったなんてなぁ。色々、小春と似てるから、ちょっとびっくりしちゃったよ」
「そうかなぁ…私には、ちょっとよくわかんないです」
「正直。久遠寺さんが白川さんへの想い拗らせすぎて、変なこと言いだしたのかと思ってたけど。これは似てるなって思ったよ」
それもそのはず。
まだ歩いて数十分しか経っていないというのに、あろうことか雪は既に道の側溝に三度も落ちそうになっていたのだ。
それだけではない。
少し目を離せばどこかにはぐれたのを二度も繰り返したので、優芽が手を繋いでしっかりと監視しなければ、目的地に辿り着くのすら困難だと思わせる程だった。
不幸体質。
非常に厄介なその性質は、どうやら小春だけではなく、この天羽雪という少女にまで備わってしまっていたようなのだ。
「雪ちゃん、ほんと、大変だね…」
「はい…私、昔っからこういう体質で……」
そう言った雪は、折れた電柱に頭をぶつけそうになり、それを避けた先で頭に木の枝が落ち、せっかくの白い髪を木の葉まみれにしていた。
「思っていた以上にヤバいな」
「そういえば、小春もそういう不幸体質で、昔っから苦労してたって言ってたね」
「わぁ…ほんとに似ているんですね……!」
似ているというより、もう見た目を除けばほぼ同一人物なのではないか?というくらい、雪と小春は色々と似ている部分が多かった。
おそらくは数十年分程の不運を雪が襲ったのではないかという道中。
紬は気づけば、指定の場所だったという旧学習塾の廃墟まで来ていた。
「ここって……」
そして、今までずっと会いたかった人物は、そこにいた。
たったの数日ぶりだというのに、まるで久々に会ったかのような。
やや低い背丈に、少し幼い顔立ち。二つ結びにしていたた髪こそは、結び目がほどけていたが、間違いない。白川小春だ。
だが、問題はそこに『白川小春がいたことではなかった』。
「小春……何でそこに……?それに……」
「あれ、紬さんどうしたんですか?」
そこにいた白川小春は、衣服を鮮血にまみれさせ、同じように赤黒い血のついたナイフを持って、紬に微笑みかけていたのだから。




