第112話 忌々しい名
「白川、秋人って……!」
そう、言うまでもない。紬も華月も、その名前を聞いたことがある。
そして、小春にとっては、なじみのあるどころではない人物。
「私の、お父さんが……?」
「本当に驚いたよ。…君を『Avalon』を追うために雇ったのは、白川という苗字に覚えがあったからでもあったのだからね」
あくまでも華月は涼しい顔をしていた。まるでそんなこと前から周知の事実であるかのように。
「でも、小春のお父さんって。華月さんの妹さん…新島由良に殺されたんじゃ?」
「由良のやつはそう言っているが。本当のところはどうなのかはわからない。もしかしたら何か偽装工作でもしたのかもしれないしな。…丁度そこにそれが出来そうなやつがいるだろ?」
紬と小春は、部屋の近くで待機していた人物の顔を見る。
「信用できないかもしれないが、僕はそこには関わってないぜ。10年前の出来事だ。当時僕はまだ幼い子供だった。関われるはずがない」
「…そもそもあなたの年齢、私達は知らないんだけどね。その能力なら、いくらでも年齢なんて誤魔化せるでしょ。それに、六条鳴海って名前だって本名じゃないかも……」
紬はまだ、六条鳴海を信頼できないでいた。
小春を勝手な理由で放り出したのもそうだが、何より身分も年齢も、何もかもが謎な人物など、信用できるはずがない。
自分のことを何も明かさない人物が、何をするかなんてわからない。
それは何よりも華月に教えられた教訓の一つなのだから。
「…ああ。わかったよ。くそっ、というか。こんな所でまさかあの忌々しい本名を明かすことになるなんてね。これだから言いたくなかったんだ。ただでさえいつもよりなんだかイライラするってのに」
わざわざ大仰な仕草を取り、もったいぶる鳴海に対して、紬は苛立ちを募らせる。
「悪いけど、変な冗談だったらここから追い出すから」
「冗談なんかじゃない。というか、ここで忌々しい本名がどうたらなんて言い出したら、大体どういう内容かは想像つくだろ」
「……白川四季。それが俺の本名。いや、俺の生まれた時の名前だ」
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「僕がしたいのはビジネスの話だ。麻木栄次郎さん。僕のやっているプロジェクトに協力するつもりはありませんか?」
そう恭しく対応した男の名刺には、『異能力研究機関 日比野秋人』と記してあった。
「日比野秋人さん、ですか。そういえばどこかでお会いしましたっけ?」
「お会いしたことはないけれど、最近街で偶然あなたの顔を見ましてね。流石に知っているよ。何せ昔はニュースでしきりに名前が報道されてただろ?」
「ああ…苦い記憶ですが。それで、それがどうかしたんです?」
「失脚して寂しい生活を送っていると聞きまして。僕としてはあなたのような人がこのまま寂しく一生を終えると思うと本当に心苦しくてならない。もし、興味があればこちらの番号にまで通話をかけてください」
栄次郎は送られた名刺をまじまじと見つめながら、日比野なる人物から言われた言葉を反芻する。
もしこのままフリーターとしての生活を続けるのであれば、あの時のように麻木先生と慕われるような日常は送れないだろう。
一度転落を味わった栄次郎はむしろ、表舞台という華々しい場所を避けるようになっていた。
だが、本当にそれでいいのだろうか?自分だけじゃない。妻や息子も養わなければならないというのに、今の稼ぎではつつましい暮らししかさせてやれない。
栄次郎の政治家としての能力は、所属していた団体の中でもかなり評価されていた。
もし、それを生かせる機会があるならば、チャンスを掴める機会があるのならば。
栄次郎の心は、大いに揺れていた。
「ちょっと待ってくれ」
栄次郎が振り向けば、そこには夏生がいた。
「夏生、どうした?」
夏生は不安げに、栄次郎の方を見ていた。もしや、あの日比野秋人という人物に対して、何か疑念のようなものでも抱いているのだろうか。
「いやぁ、いい人そうじゃないか夏生。これで私もようやく、安定した職を得られることになる。もしかして、私と離れるのがそんなに寂しいかい?」
「あの子、夏生くんなんです?いやぁ、息子さんも随分大きくなりましたね」
夏生はその台詞に、どこかうすら寒いものを覚えていた。
父が表舞台において、自分の存在を話したことなどないのに、まさか自分の名前を知っているばかりか、まるで旧知の仲であるかのように話してきたのだ。
「僕は忙しいので、ここで退散しますよ。…それと最後に、夏生くん。ちょっといいかい?」
そう言って、日比野は夏生を玄関の方まで呼び寄せた。
恐る恐る、夏生は男の方まで足を進める。いつも通っているはずの玄関までの道が、今日はやけに遠く感じた。
「僕の娘がお世話になっているようでね。色々と危なっかしい子みたいだけれど、優しくしてやってくれないかい」
そのまま、日比野は踵を返して玄関を去っていった。
「夏生?」
日比野を見送ることもなく、立ち尽くす夏生を、栄次郎は訝しみながら見ていた。
だが、今の夏生にそれに反応する余裕すらなかった。
「…なあ、一つだけ。警告みたいなもの、してもいいか」
「わかったけれど、どうしたんだ?なんだか、さっきから様子がおかしかったが」
「おそらく貴方は今後も命を狙われる。そして、狙われるのはオレもだ。……オレたち、もうどこか遠い町に引越しでもしないと、平穏には過ごせないかもな……大学も危ないかもしれない。新しいバイト先、探さないとな」
「…どうした、夏生?さっきから様子がおかしいぞ」
「あの日比野って人、おそらく最近まであんたの命を狙ってきたやつの仲間だ。それに、わざわざ接触をしてきたって事は、これから何かしでかすつもりなんだろう。オレはもう嫌だ。友達が死にそうになるのも……」
「『父さん』が、死にそうになるのもだ……!!」
同時刻。家に帰るついでに買い物でもしようかと道を歩いていた青年…相良広夢の、肩を叩く人物がいた。
「ね、お兄さん。警察の人でしょ?ちょっと頼みがあるんだけど」
「オレのこと見てすぐそっちの人ってわかるの、すごいね?つーか、オレ。そんな頼りにならないよ?頼むならもっと良い人いるんじゃ……」
振り返ってみれば、そこにいたのは意外な顔だった。
「ちょっと私のこと保護してくれない?色々とやばくてさ。ね、いいでしょ?」
広夢よりは少し背が高い、中性的な顔立ちをした、10代後半ほどの女性。
「高橋樹里、っつったっけ?何でそんなとこにいるワケ?」