第108話 憎悪
「私はもう、憎悪を抑えられないのです」
「この国へも、この国の異能者へも」
久遠寺奏は、眼前にいる青年の胸倉を掴みながらそう言い放った。
彼を見る目つきは、激しい憎悪に染まっていた。
「おいおい……そんな怖い顔しないでくれよ、美人が台無しだぞ?」
青年……広夢は、あくまでも冗談めかした口調で、そう返した。
久遠寺奏という人物は、よく怒ったような態度を取るが、実のところそれは大したことがないことの方が多かった。
だから、今回もそんな調子なのかと思っていた。
だが、違った。あくまで彼女は『本気』だった。
「ぐっ……ああああああああっ……」
突如、広夢に激しい痛みが走る。それが首を絞められていると気づいた時にはもう、首に酸素が回らなくなったのか、意識が朦朧としかけていた。
「な、何、すんだよ……っ!!」
「まだ状況がわかりませんか?私があなたを殺そうとしているということに」
「………!」
殺す。
その単語が彼女から出たことに、遂に本当の意味で彼は状況を理解する。
「……相変わらず、暴力に走る癖は直ってねーようで……それとも誰かの命令かい?誰に操られてんだ?」
朦朧とする意識を何とか手繰り寄せながら、広夢は言葉を紡ぐ。
もう、自分でも何を言っているのかわからなかった。命の危機が迫っている中、出てくる言葉はもう単なる意味のない信号に近いものなのだろう。
「これは私の意思ですよ」
「だったら…それを伝える相手が他にいるんじゃねえのか?たとえば……可愛い妹とかさ」
首を絞める力が更に激しくなる。
ギリギリと首の骨が軋む音は、まるで命が尽きるまでの秒針を刻んでいるかのように聞こえた。
「貴方の方こそ、悪い冗談ではぐらかす癖は直っていないようですね。遺言がそれでいいんでしょうか?相良広夢さん」
これは本当に死んだかもしれない。
何度も危険な能力者にも遭遇した広夢だったが、まさか仲間に殺されるとは本当についていないなと、その頭の中に走馬灯まで浮かぼうとしてきた、その時。
何かが広夢の眼前を掠めた。
それに驚いたのか、奏が彼の首から手を離し、ようやく彼は解放された。
広夢は、まるで息が出来ない水中から、陸上へと引き上げられたような感覚がした。
「………やっべ、何とか助かったわ……」
眼前を掠めた何かが飛んできた方向を見ると、そこには広夢にとっても見覚えのある人物の姿があった。
茶色の髪を二つ結びにした、活発そうな印象の目の大きな少女だ。
白川小春……と呼ばれていたはずの少女が、何故そこにいるのだろうか。広夢は目を丸くする。
何せ、先ほど会ったはずの彼女は、どういうわけなのか銀髪碧眼の容姿をしていたのだから。
何かあって入れ替わりでもしているのだろうか?気になることは山ほどあるが、それを気にしている余裕は、広夢にはなかった。
「今は説明してる場合じゃない。それよりもあんたは逃げた方がいい」
「……悪ぃ、さっき首絞められてたばっかで、今動けねんだわ」
すっかり腰が引け、立てなくなっていた広夢は、肩を貸すつもりで自分の右肩を指さした。
「…動けないのかよお前。くそっ、面倒だな」
改めて少女は、奏の方に向けて向き直る。
「あなた…白川小春。ではないのでしょう?私の邪魔をするなら、あなたとて切りますよ」
激しく少女を睨みつける奏。市街地の中に、二人の少女が対峙する。
久遠寺紬は、少し肌寒い路地の中を歩いていた。
なるべく単独行動は避けるようにと言われていたが、もう身体ともに疲弊しきっていた彼女は、一人になりたいと一時的に単独行動をとっていたのだ。
単独の行動といっても、用と言えば晩御飯を買いに行くくらい。
あの後、華月と小春を泊めることにした彼女は、3人分の食事を買いに、スーパーへと向かっていたのだった。
「…はぁ。と言っても、もうこの街の中でも安全な所なんてなさそうだけど」
元々、神楽坂町は治安が良い方というわけではない。
だが、謎の能力の影響で誰もが気が立っているのか、ただでさえよくない治安が更に悪化しており、往来で堂々と絶叫しながら殴り合いをしていた人たちを目撃してしまった時には、もう勘弁してくれと叫びたくなってしまった程だった。
せめて人通りの少ない裏路地は避けて通ろうと歩いていた紬だったが、それでも知っているスーパーへの道筋は、どうしても人通りの少ない場所を通る必要があり、その事実もなお、紬の心の余裕を更に削っていった。
比較的人通りの多い開けた場所へと来たところで、紬は自分の右腕を見る。
人の意識を刈り取る程度の電撃なら出すことが出来る、自分の異能力。
それなりに危険な殺傷力もある能力だが、彼女はそれに何度も助けられてきた。
だが、今はどういうわけなのか、その能力に対して忌避感のようなものを抱くようになっていた。
「これを使ってはいけない」という意識が、彼女の中に不意に芽生えてくる。
一昔前の人類は、才能<ギフト>などというものは持っていなかった。
だから、それは不自然な力であり、持ってはいけないものなのだと。
「やっぱり疲れてるのかなぁ……」
そんなつぶやきも、あちこちで聞こえる人の声の中に溶けていく。
「あんまり遅いと、小春も華月さんも心配するからなぁ……」
どこを通っても家、家、家。
住宅街というのは、どうも景色が変わらなさすぎて気が滅入っていく。
この道はこんなに長かっただろうか?それとも、ただ単に細かいことにイラついているだけだろうか?
「とりあえず、早い所行って……!」
思わず走り出してしまっていた。感情が妙に逸って、心臓の鼓動が早くなる。
もう自分の精神がどういう方向へと向かっているのか、紬自身にすら全く把握できない。
やがてもうすぐ住宅街を抜けるであろうというところで、紬は思わず足を止める。
「何、で……?小春が……!?」
そこには自分の良く知る姿の二つ結びの少女が、全身に切り傷を作りながら倒れ込んでいたのだった。