99話 イルダの清算
その日の昼、乗船して初めてブレスは船室を出た。
まだ揺れる船の上で自力で歩くことは出来ないけれど、風の力を纏い重力を軽減すれば動くことは出来る。
ネモが教えてくれたやり方だ。
こうして海風に当たっていると、身体を動かせることの自由を実感する。
「ああ、本当に海だ」
手すりに寄りかかり、海と空の境界を彼方に見つめ、まぶしさに目を細めた。
イルカの群が水面で戯れながら通りすぎていく。海鳥は船の上空を飛び交い、帆は風をはらんで順風満帆だ。
「あまり身を乗り出すと落ちるよ」
「……兄さん」
「時折おおきく揺れる。波にとられて」
背後からかかった声に振り向くと、長髪をなびかせてフェインが立っている。
目にかかる前髪をかきあげて、フェインはブレスと並んだ。
レグルス・フェイン・ウォルグリス。
シリウス・オリビア・ウォルグリス。
ウォルグランドの王家の男児は、父親と母親からそれぞれ名を授かる。
ブレスにとってシリウスは父王から貰った名であり、オリヴィアは母ルシアナから貰った名だ。
幼い頃に生き別れ、再会し、記憶を取り戻して再び兄弟に戻ったふたりは、共に水平線を見つめながら語らう。
「ふたりで話をしたかった」
「私もですよ」
答えながら、ちらりと横目を走らせると、視界の端に癖の強いネモの黒髪が見えた。
きっとネモは、カナンのためにブレスの護衛をしてくれているのだろう。
ふたりで海を眺めながら、しばし沈黙した。
「君が生きてくれていてよかった」
フェインは遠くを見つめながら呟く。兄の横顔は穏やかに凪いでいる。
「次々と同胞が命を落としていくなかで、弟が生き延びていたことを知った。君の存在がどれほど私を救ってくれたことか」
「……私も、ずっと打ち明けたかった。兄と知って以来ずっと」
兄がいることを知ったのは、フェインがカナンを探して訪ねてきた時だった。目の前に兄が現れ、カナンが教えてくれるまで、ブレスはなにも知らなかった。
「真名を取り戻すまでなにも思い出せなかったのに、それでも力にならなければと思えたのは、きっと絆があったからだと今では思います」
「君は幼いころ、泣き虫だったね」
「兄さんは行儀が悪かった」
「そうだった。懐かしい、遠い思い出だ。あの頃はとても、幸福だった」
「……また戻れます。すぐには難しいだろうけれど、いつかきっと」
フェインは答えない。辛酸を舐めてきた彼は、幸福な未来を信じられないのだろう。
それでも中央三大国を巻き込んだ以上、もはや止まることは許されない。
国を取り戻すか、さもなければ死か。
運命は、ふたつにひとつだ。
「私はうまくいくと信じていますが、例えそうならなくとも、最後まで兄さんの側にいます」
ブレスの迷いのない言葉に、フェインは目を閉じ儚く笑う。
「ありがとう。だが、君は生きてくれ。私のぶんまで」
それが兄の答えだった。ブレスは目を伏せる。
それからふたりは思い出を語った。
幼い頃の幸せな思い出だ。
引っ込み思案だったブレスが、初めて兄と引き合わされた日。
当時のフェインは勝ち気でやんちゃで、人を怖がって外に出てこない弟を庭に連れ出してはよく泣かせていた。
幼いブレスは駆けっこで転んでは泣き、剣術の練習の相手をさせられては泣き、木に登って落っこちたフェインを見ては泣いていた。
はじめの一年は泣かされてばかりだった気がする。
それでも兄の明るさと強さに憧れて、徐々にフェインを慕うようになっていった。
大好きな自慢の兄だった。
正妻の子がいなかったからこそ、兄弟として離宮で育つことを許されていた。
王とふたりの母と限られた側近のみが知る、秘密の兄弟ではあったけれど。
「そのうちレシャに会ってやってくれ。もちろんネモ殿の許可がおりればの話だが」
フェインはそう言って風を呼び、彼の船に戻っていった。海の上を軽やかに飛んでゆく兄の背を見送り、ブレスは手すりに顔を伏せる。
「青年。大丈夫ですか」
「……平気です。ただ一度にいろんな事を思い出して……皆、ほとんどの人が亡くなったのかと思うと」
過去は変えられない。十二年前に失ったものを今嘆いても仕方がないのかもしれない。
それでも、言葉にできない喪失感がどうしようもなく苦しかった。
「すみません。今は悲しんでいる場合じゃないことは、解っているのですが」
「いいえ。泣ける時に泣いておきなさい。そのうち、そんな暇も無くなりますから」
淡々とした、乾いたネモの答えに苦笑する。魔術師として百年を生きている彼の言葉は正しい。
深呼吸をして顔を上げ、ブレスは切り替えた。
フェインはレシャに会ってほしいと言っていたが、ブレスには彼よりも先に会わなければならない人物がいる。
「ネモ様。イルダと面会させてください。同行させているのでしょう?」
「それは許可しかねますね。彼はあなたのお人好しが通用する相手ではありませんよ」
「憎まれていることはわかっています。でも、今でなければ駄目なんだ」
イルダは泣けなかったのだ。父親を失って傷ついた時に、泣くことが出来なかった。
そのために悲しみが憎しみにすり替わり、闇に落ちてしまった。
「今でなければ、私の言葉はイルダに届かない。ネモ様、お願いします。イルダの居場所を教えてください」
根負けしたネモがものすごく渋りながら教えてくれたことによると、イルダは別船で厳重な監視のもと監禁されているらしい。
「面会は百歩譲って許しますが、ふたりだけにはさせませんよ。私が見張りにつきます。異論は認めません」
「……では申し訳ないのですが、〈遮断の腕輪〉で気配を絶っていて頂けますか。人目があると、彼は取り合ってくれないと思うので」
己の腕から腕輪を外し、ブレスは刻印する。〈遮断〉と〈目眩まし〉の印が浮き上がったその腕輪を、ネモへ渡した。
「印に血を登録すれば、ネモ様が魔力を込めた時のみ発動します」
「はい。魔力痛はすっかり治ったようですね」
「ああ、そういえば魔力を流してももうどこも痛まないや」
それどころか、以前よりも魔力の流れがなめらかになっているような気がする。
不純物が取り除かれて純度が高くなった、とでも言うべきか。
これも真名を取り戻した効果だろうか。
「──絶対に見つからない」
ふと思いついて言葉を吹き込むと、刻印が淡く光を放って金色に染まった。
ネモは三白眼を見開き、腕輪とブレスを交互に見つめる。
「あなた……いま、言霊を?」
「子供の頃に呪いを受けて魔力を縛られた事が原因で、少しだけ使えるんです。怪我の功名です」
苦笑いを浮かべながら答えると、末恐ろしいですね、とネモは呟いた。
ブレスは「それほど便利でもありませんよ」と首をふる。
言葉に出さなければ言霊は発動しない。
水中や、声の出せない状況では言霊は使いようがないのだ。
アスラシオンとイルダに襲撃された時も、喉をせり上がる血のせいで息も絶え絶えで、まったく用をなさなかった。
「ネモ様、明るいうちに行きましょう。夜には人魚が出るかもしれないし。海豹妖精だったらいいですけど」
「ああ……はい。では、先導しますのでついておいでなさい」
「お願いします」
ネモが魔力を纏い風を呼んで、帆船の手すりを乗り越えて飛び立つ。
「風よ」
潮の香りを胸一杯に吸い込んで風に呼びかけ、ブレスは前方にはためく黒ローブを追った。
何隻かの船とすれ違いネモが降り立ったのは、最後尾の船だった。
アナクサゴラスの名代であるネモの姿を見、乗員たちが踵を揃えて敬礼する。
彼らの前を突っ切って歩き、甲板の下へ降り、さらに下部層へ降りる。
倉庫となっているその場所まで降りると、ネモは腕輪に魔力を流して印を発動させた。
ランタンに明かりをともし、ブレスに渡すと、ネモは骨ばった指先で奥を示す。
檻があった。珍しい獣でも閉じこめて見せ物にするような、全面鉄格子の四角い檻だ。
「……誰だ」
獣のように囚われている男が唸る。
目隠しをされ、腕を枷で繋がれたイルダが、傷痕も痛々しい姿で横たわっていた。
目を背けたくなるようなひどい姿だった。
ブレスは俯き、目を閉じ、唇を噛む。
沈黙になにを思ったのか、イルダは息を吐いて脱力した。
「私を処分しに来たのか、フェイン」
「……私はフェインではないですよ」
声を聞くなりイルダは鋭く息を呑んだ。ブレスは鉄格子に触れ、魔力を流す。
檻を伝って流れた魔力が、イルダの目隠しを解いた。
「何故……何故だ! あり得ない、お前は確かに殺した! 殺したはずなのに……!」
苦笑いが浮かぶ。
昔、エチカに似たようなことを言われたっけ。
「ご存じの通り、刻印の魔術師はしぶといんです。でも、今日はそんな話をしに来たわけじゃない。イルダ」
得体の知れないものを前にした恐れと衝撃にひきつったイルダの前に座り、ブレスは鉄格子ごしに話しかける。
「レイダ先生のことを覚えている。正確には思い出した。それを君に伝えたかった」
「……アスラシオンの戯れ言は当たっていたのだな」
「ああ。この赤毛のこと?」
「ウォルグランドでは、精霊の祝福を受けた者はみな赤毛で産まれる」
「レイダ先生もそうだった、とあの男は言っていた」
「そうだ」
鉄格子に背を押し付けながら、ずるずるとイルダは起き上がった。
ブレスを睨みながら、彼のくすんだ青色の目には諦念が滲みはじめている。
「結局、私も王族にはかなわなかったということだ。父と同じように」
「君の復讐の邪魔をする気はなかった。ただ私は、自分の家族に生きていて欲しかっただけで」
「そう……同じだ。私も、同じだった。それだけだった」
イルダの声が歪む。やがて彼は頑是ない子供のように、どうして、と喉を震わせてブレスを見上げた。
「……どうして、父上はもっと自分のために……家族のために、私たちのために、生きてくれなかったんだ……?」
その理由はブレスにだって解らない。
ただひとつ知っていることがあるとすれば、幼い記憶のなかのレイダは、息子を顧みないような薄情な人物ではなかったということだけだ。
「……一緒に考えよう、イルダ。君の父上がなにを思って生きたのか。私には、姿を消すと決めたレイダ先生が、君たちを想い葛藤して苦しまなかったとは思えないんです」
「どうせもう遅い、なにもかも」
「遅くなんかない。だって君の家族はまだ残っているじゃないですか。レイダ先生が守ろうとしたものは、まだ失われていない」
力なく首を振るイルダに、ブレスは言葉を重ねる。
「君もまだちゃんと生きている。それが一番大切なことだということは、誰よりも知っているはずだ。イルダ、君は君のために生きていいんです。君はレイダ先生に、そうして欲しかったのでしょう?」
イルダはもう答えてはくれなかった。
うつむくイルダに「明日、また来ます」と言い残し、ブレスは彼に背を向ける。
ドアを閉める間際、鉄格子に身体を打ち付ける音と共に振り絞るような彼の慟哭が漏れ聞こえてきた。
悲痛なその響きに胸を抉られながら、扉にもたれてイルダの叫びを聞いていると、ネモが「もう止しなさい」と低く呟く。
「あなたが彼のぶんまで痛みを背負い込む必要はないでしょう」
「……うーん……でもほら、一応私も王族らしいですから。彼の父親は、私と兄の家庭教師だったんです。子供の頃に受けた恩と、彼がウォルグランドの為に身を捧げた恩を返す相手がいるとしたら、イルダとレシャです。そうでしょう」
ふう、とため息を吐いたネモは、呆れ顔で黒髪に指を突っ込んで掻いた。
「あなた、もっとご自身を大切になさったほうが良いですよ」
「それ、ネモ様だけには言われたくありませんね」
ブレスの半笑いの反論を聞いたネモが、図星を刺されぎょっとして閉口する。
それを指摘されては、普段から己の事を後回しにしがちなネモは何も言い返せない。
ふたりは再び海上を海鳥と共に飛び、もといた帆船に戻った。
前方には微かに、島影が現れていた。
補足:名付けについて
母親と父親からそれぞれ名前を貰うのは、この世界のよくある慣習です。
「3 ヘロデーの見えざる目」でヘロデーがサンドラ(家名サンジェルマン、母名ドロテーアから半分)と名乗っていたのも、この慣習があったからです。