98話 ルシアナの訪問
それから何日かブレスは眠った。
食事や、身体のリハビリのためにネモに起こされることはあったが、そのほかの時間はずっと眠っていた。
妖精のもたらす癒しの眠りは、ブレスを着実に回復さていった。
そして今日、死んで蘇ってからひと月が経過したいま、ブレスはようやく再び自力で立ち上がっている。
「ああ……ここまでくれば、もう大丈夫でしょう」
「う、生まれたての羊みたいに脚、ガクガクですけど、ね……っ」
壁に手を突きながらぶるぶると震えているブレスを見、ネモは苦笑する。
意識のなかった二十日、目が覚めてから十日。
外傷を負い、内臓が潰れ、毒のために体中で血管や内臓から内出血を起こしていたあの状態から、ここまで回復したのだ。
記憶も正常に保存されているし、食事もとれるようになった。
筋力が落ちて運動機能が落ちている程度で済んでいるのなら、もうなんの心配もない。
「ひと月も寝たきりだったのですから、それは仕方ありません。これから毎日、衰えた筋力と体力の回復に努めて下さい」
「ネモ様」
医療道具を片づけて船室を出て行こうとするネモを、ブレスは呼び止める。
ぼんやりとした疲れのにじむ顔で振り向いたネモを見つめて、ブレスは頭を下げた。
「ありがとうございました。このひと月、ずっと」
「いいえ。私はただ……あなたが命を落とせば、冬の君が報われませんから」
「わかっています。それでも、助けてくれたことには代わりありません」
「あー……では、これでおあいこですね」
ネモの言葉にブレスは困惑した。覚えがない、という顔のブレスに向かって、ネモは己の胃のあたりを撫でる。
「私が倒れた時、あなたは刻印の魔術で私を延命して下さったでしょう。私はその借りを、あなたに返した。貸し借りなしです。そういうことにしておきましょう。魔術師ですから」
「ああ……そうですね。魔術師は借りを作らない」
「ええぇ。仰るとおり」
おどけるネモと苦笑を交わす。
船室を出て行くネモの痩せた背を見送りながら、ブレスは決意を固めた。
──カナンの神格を取り戻さなければならない。
友であるネモのためにも。
その夜、いつものように取り留めのない夢を見ていると、目の前を金色の蝶が横切った。
ブレスは首を傾げる。あれは、ブレスの夢の扉のドアノブに止まっているはずの、夢の回廊の案内人だ。
蝶がブレスの夢の内側にいるということは、扉が開いたということ。
エルが訪ねてきたのだろうか。行くと約束したのに、なかなか訪れないブレスに怒って?
あの妹を怒らせるとあとが怖い。
「エル? こっちだよ」
なかなか現れない訪問者に声をかけると、周囲の風景がかわり始めた。
いつもエルがいる、あの夜の中庭ではない。
森林だ。それも原生林である。
人の領域ではない、獣と生霊と夜の生き物の住処。
神聖な森だ。頭上を見上げてほう、と息を吐くブレスの前に、やがてひとりの女が現れた。
白い薄絹のドレスを纏った彼女は、裸足で木々の根をそっと踏んで歩み寄ってくる。
黒髪の巻き毛。白い顔。ブレスと同じ、若緑色の目。
「……母様?」
予言の魔女ルシアナは、ブレスを見下ろして月のように微笑んだ。
正面に立ったルシアナは、白魚のような指先でそっとブレスの頬を撫でる。されるに任せながら、ブレスは久しぶりに会った母の顔を見つめた。
きれいな人だ、と他人事のように感じるのは、ブレスが彼女との思い出を殆ど失っているためだろうか。
「会いたかったわ。あなたの灯が消えるのを感じたの」
ルシアナの微笑には、悲しみが混じっている。
「……そうですね。いろいろあって……でも、今はこの通り、戻ってきました」
「そうみたいね」
吐息まじりに彼女は目を伏せる。
ブレスは黙って、母の言葉を待つ。
「あなたの灯が消えたのを感じたあの日、わたくしは後悔した。あなたのために出来ることが、たくさんあったのではないかと思って」
どうだろう。ルシアナがなにをしてくれていたとしても、あの状況では生き残ることなど出来なかったのではないだろうか。
困って眉を下げるブレスを見つめ、ルシアナは呟く。
「これまでも、幾度か機会はあった。あなたが、あの子……フェインと出会った時。それから、エルシェマアリアと絆を結んだ時。刻印の魔術で、都市の城壁を壊した時。誇らしかったわ」
母の言葉を聞きながら、ブレスは彼女からもらったペリドットの指輪を撫でる。
この指輪の絆を通して、ルシアナはブレスを見守ってくれていたのだ。
「あなたは驚くほどの早さで成長していった。だからこそ、わたくしは恐ろしかったのです。力を持つことによって幸福を失うこともあり得ると知っていたから。けれど、そうしてわたくしが迷っている間に、あなたは逝ってしまった」
「母様……」
「わたくしはもう迷わない」
そう言ったルシアナは、己の胸に両手を当てて目を閉じる。淡い金色の光が彼女の指の隙間からあふれ出ている。
言葉を失うブレスの前で、ルシアナはそっと手を開いた。水を掬うようにたわめたその手の中には、ぱちぱちと火花を散らして燃える、金色の星があった。
ルシアナは告げる。
「あなたに真名を返します」
星はその言葉を待っていたかのように盛大に喜びの光をまき散らし、一直線にブレスの胸に飛び込んできた。
欠けていたブレスの魂が満月を取り戻す。胸の奥の星の光が全身を駆けめぐってあらゆる淀みを洗い流した。
ブレスは天を見上げる。世界が輝いている。光のみなもとが心臓とともに脈動し、絶えず力を生み出している。
ルシアナが眩しそうにブレスを見つめていた。若緑色の目を見つめ返し、ブレスは笑った。
思い出した。母と過ごした、故郷での日々を。
「ずっとお会いしたかった。母上」
「わたくしの可愛い子」
抱擁する母の柔らかな声が、大切そうにブレスの真名を囁いた。
目覚めると、船室にはフェインがいた。
目を瞬くブレスに気づいたフェインは、心配そうにブレスをのぞき込んで目を伏せる。
「ネモ殿から面会の許可がおりたので、見舞いにきた。当然、監視付きだけれどね」
苦笑いを浮かべるフェインの背後には、壁際で腕を組むネモの姿があった。
友好的とは言えない視線を向けるネモは、フェインの台詞を聞いてつまらなそうに肩を竦める。
「私はただ、謝罪を……君に謝らなければと、思って。イルダの裏切りに気づけなかったのは、私の責任だから」
苦しそうに懺悔の言葉を連ねるフェインの顔を、ブレスは不思議そうに見上げる。
見つめるばかりで口を開かないブレスの様子に、ネモが怪訝に眉を潜めた。
「……青年? 貴方、大丈夫ですか?」
「まさか後遺症が?」
深刻に表情を歪める兄。ブレスはゆるゆると首を振り、呟く。
「いえ……なんだか記憶と違いすぎて、一致しなくて」
上体を起こし、壁に凭れながら、ブレスは首を傾げる。
頭でも打ったのかという顔のネモを尻目に、躊躇いながら、己の言葉を確かめるようにゆっくりとブレスは問った。
「ええと、本当にレグルス兄さんですよね? 剣術の授業が好きで、レイダ先生を散々困らせていた、あの……?」
フェインは目を見張った。表情がみるみるうちに変わっていく。
自信なさげなブレスの目をのぞき込み、沈黙して、やがて泣き出しそうに眉を下げて彼は苦笑した。
「……ああ、やっぱり君はシリウスだった」
答えを聞いたブレスの顔がほころぶ。
肩を抱き合って再会を喜ぶ兄弟を前に、ひとり置いてきぼりを食らったネモはぽかんと口を開けて目を瞬いている。
笑いあう声を聞いたマリーやエチカが船室をのぞき込み、理解の表情を浮かべると顔を見合わせて微笑みあった。
「あー……私を仲間外れにしないで頂けると有り難いのですが」
「すみません、ネモ様。実は──……」
途方に暮れたネモの声に顔を上げて、ブレスは己の出生と過去を語った。
話を聞き終えたネモは、些か疲れた顔で眉間を揉んだ。
なるほど、とため息まじりに呟き、船室のドアを開けて「お茶をください」と言いつけ、再び閉める。
「皆さんの様子から察するに、知らなかったのは私だけだったようですね」
「ネ、ネモ様、怒っていらっしゃいます……?」
「いいえ。疎外感を覚えただけです」
それは申し訳なかった、とブレスは目をそらす。
しかし、軽はずみに口に出来るようなことでもなければ、それを証明する手だてもなかったのだ。
仕方がない。
「私も確信があったわけではなかった」
そう述べたのは、フェインである。
「似ているとは思っていたが……以前君に名前を訊ねたときに、君は答えなかっただろう。真名を奪われていたと知って納得したよ」
「そういえば、そんなこともありましたね。あの時は聞き取れなかったんです。兄さんが言っていた名前が」
思えば、アスラシオンがフェインに処刑を命じた地下室で、フェインはブレスの真名を口にしたのだろう。
フェインはあの時「君の名前はシリウスか?」と訊ねたに違いない。
ドアがノックされ、使用人がハーブティーを持ってやってくる。
スティクス候のネモが乗るこの船には、なんと薬草の鉢植えが大量に積んである。
アナクサゴラスは人使いは荒いが、有能なネモのためならば手間も出費も惜しまない。
彼はこの戦から、ネモに生きて帰ってきて欲しいのだ。
どうも、と素っ気なくハーブティーの盆を受け取り、ネモはそれぞれに茶を配りながら述べる。
「なんと言いますか……そうですね。事情をお伺いして、いろいろと納得しました」
「納得、ですか」
「ええ。貴方がフェイン殿に協力する理由。フェイン殿が死体の──失礼、倒れていた貴方を前にした反応。私はずっと疑問に思っていたのですが、ご兄弟であったのならば説明がつく」
気を落ち着かせるように茶を啜りながら、ネモはふたりの赤毛の青年を見やる。
「……たしかにこう並べて見ると、よく似ておられる」
そうだろうか、と顔を見合わせる兄弟を前に、マリーが組んだ脚に頬杖をついて微笑む。
「フィー、よかったね」
「はい、本当に。皆さんのおかげです」
「しかし……ふう、やれやれ。青年が王族だったとは思いもしませんでしたよ。殿下とでもお呼びした方がよろしいですかね」
「やめてくださいよ。兄さんはともかく……」
ブレスは王族として生きていくつもりなど無いのだ。
真名のありかは重要だけれど、だからといってウォルグランドに定住することはない。
「俺は魔術師ですから。世界を見て回って、いろいろな経験を積まないと」
「……そうか」
フェインがやや寂しげに苦笑する。その表情を見、ブレスの胸には迷いが生じた。
多くの同胞が死に、例え国の再建を成し遂げたとしても王政を立て直すことは困難を極める。
身内の助力が少しでも欲しいフェインにとって、ブレスの言葉は身勝手だったかもしれない。
「……兄さん。もちろん国が安定するまでは、しばらく留まるつもりです。国を発っても危機には駆けつけますし、なにもなくったって呼んでくだされば向かいます。夢の回廊で会うことだって出来ます」
家族ですから、と呟くと、フェインは苦笑を深めて頷いた。
マリーが物憂げに目を伏せる。彼女の家族であるカナンのことを、思いやっているのだろう。
「マリー様。いまここにこうしていられるのは、すべて先生のおかげなんです」
カナンはブレスを町から連れ出してくれた。
カナンとの旅の思い出は、ひとかけらも忘れられないほど大切な宝となっている。
「先生と出会わなかったら俺は未だに呪いに縛られたまま、祖国や家族のことを忘れて生きていたでしょう。町にいては得られなかった尊い出会いの数々も無く、虚しく生きていたことでしょう」
「フィー……」
「すべて先生が変えてくれたんです。先生が俺を導いてくれたんです。だから俺は、今度は俺が先生を助けます。なにがあっても、どんなに困難でも、必ず先生の心を救って見せます。だって魔術師は、借りを作らないから。そうでしょう?」
「……うん」
金色の目が涙を湛えて揺れている。エチカがそっとマリーの手を取った。
彼女はもう、秋の娘サハナドールに怯えてはいないのだ。
大きく目を見開いたマリーは、エチカを抱きしめて微笑んだ。
絶望がある。けれど光もある。
闇に立つ者が、諦めない限り。
「カナンを助けて、フェインの国を取り戻そう」
マリーの言葉に、一同は決意も新たに頷いた。




